05-19:薄氷の魂
「―――これは」
吹き付ける白い風。
空を覆う灰色の雲より吹き付ける粉雪は、涼二の視界を白く染め上げていた。
否、その雪は空からのものだけではない。地面に降り積もったそれは、半ばきりのように風に煽られ舞い上がっていたのだ。
けれど涼二は、すぐさまそれがおかしいと言う事に気付く。
そう、その目は、もう光を失っている筈なのだから。
「俺は……どうして。一体、あの後何が―――」
白く染め上げられている視界―――不意に、それを生み出していた風が凪ぐ。
そんな消えてゆく風の中に感じる事が出来たものは、己自身のプラーナ。それに対し、涼二は思わず目を見開いていた。
力を使った覚えは無いし、そもそも両の瞳に刻まれた力が発動している気配すら無い為だ。
ならば、その力は一体何処から発したと言うのか。
「俺は、大神槍悟と戦って、あの力を使って……それで、路野沢に」
「思い出した、涼二?」
ふと響いた声に、涼二は思わず目を見開く。
その声は涼二にとって、例えどれほどの時間が経っていようとも、決して消える事のない大切なもの。
消える訳が無い、忘れる訳が無い。それは、涼二にとって何よりも愛しいものだったから。
「姉さん……ッ!」
そう、そこに立っていたのは、涼二の姉である氷室静奈だった。
二つの始祖ルーンを使用した時に現れる涼二の姿と何ら変わりはない、その佇まい。
見紛う事なき姉の姿に、涼二は思わず彼女の方へと駆け寄ってゆく。
それと共に周囲を覆っていた雪煙は徐々に収まって行き、周囲に広がる氷の庭園を露にしていた。
その中心で、静奈は静かに微笑を浮かべる。
「さっき会ったけど……話をするのは久しぶりだね、涼二」
「本当に……本物の、姉さんなのか?」
「うう、一目で分かって貰えないなんて……姉さん悲しい」
「え? い、いや、その……うん、分かってるけど、こんな事は初めてだったし……」
わざとらしい静奈の態度に、どう返したものか分からず、涼二はしどろもどろに答える。
そんな彼の様子に対し、静奈はクスクスと笑い声を漏らしていた。
そしてそれに気付き、涼二もまた半眼で彼女を見つめる。
「……姉さん」
「あはは、ごめんごめん。なんだか懐かしくて。涼二ってば全然私に気付いてくれなかったし」
「う……ご、ごめん」
「あー、いやいや。責めてる訳じゃないよ。気付かなくて当然だもん、涼二に罪は無い。はい、判決無罪」
「……相変わらずだな、姉さん」
静奈の言動に嘆息し―――けれど、涼二は懐かしさに頬を緩ませる。
彼女の言葉は、十五年前と何ら変わらないものであったからだ。
それゆえ、涼二はまるでかつての日々に戻ったかのような安らぎを覚えていた。
何も起きず、ただ平凡な日々が続くものだと信じていたあの頃のように。
けれど、それでも涼二には、この現状を無視し続ける事はできなかった。
「……姉さん、これは一体どういう事なんだ? それに、姉さんは―――」
本物なのか、という言葉を涼二は飲み込む。
涼二は目の前の静奈が確かに本物であるという確信を得ると同時に、それがありえないという事も理解していたのだ。
氷室静奈は死んだ、どこにもいない。その僅かな残滓が、始祖ルーンを使用した時に変化する姿として現れている。
それが、涼二にとっての認識だったのだ。
けれど、目の前にいる静奈は確かに本物で、そう確信しているからこそ涼二は混乱している。
そんな彼に対し、静奈は再び苦笑じみた表情を浮かべて見せた。
「うん、そうだねー……涼二。涼二はさ、十五年前のあの日の事、夢に見る事があったよね」
「ああ、それは確かにそうだけど―――」
「それって、どうして?」
「え?」
静奈の質問に対し、涼二は言葉を失う。
その問いかけに対し、どう答えていいかが咄嗟に浮かばなかった為だ。
しかしそんな涼二の様子を知りつつも、静奈は一人で先に声を上げる。
「涼二はあの時、目が見えていなかった。それなのに、周囲の状況をきっちりと覚えてる筈がないんだよ。街がどう燃えてたとか、私が何処を貫かれたとか……そんな事を正確に覚えてるはずが無い」
「それは……!」
反論出来ず、涼二は口を噤む。
そう、覚えているはずが無いのだ。あの日、涼二の両目は怪我によって潰されていたのだから。
なのに、時折見る夢は、不気味なほど正確にその様子を覚えていた。
その異常さを涼二が再認識した事を確認し―――静奈は、答え合わせのように笑みを浮かべる。
「ま、それも当然。アレはね、涼二。私が視ていた光景なんだよ」
「姉さんが……?」
「そう、アレは私の記憶。私が視ていた最後の光景。あの時……私の意識は、私の魂は、始祖ルーンの中に溶けたんだ」
静奈の言葉に、涼二は大きく目を見開く。
ルーンは魂の力を元として力を発揮する。それ故、その魂がルーンの中に溶け込む事も、言葉の上では理解できない事ではない。
そしてそれと同時、静奈の言葉が事実であるならば―――
「やっぱり、本物の……」
「うん、そうだね。私は本物と言えば本物の氷室静奈。まあ、完全とは言いがたいんだけど」
「完全とは言いがたい?」
静奈の言葉に、涼二は眉根を寄せる。
ニュアンスが曖昧であり、理解が及ばなかったのだ。
疑問符を浮かべる涼二の様子に、パタパタと手を振りながら、静奈は苦笑交じりに声を上げる。
「ここにいる私はね、氷室静奈の分かたれた魂の片割れ。無数のプラーナが集う始祖ルーンの中に溶けて消えようとしていた、『氷室静奈』という意識の最後の残骸。私の残り滓……って言うとまあ、聞こえ悪いけど」
「消えようとって……どういう事だよ!?」
「あ、そっちに反応するんだ」
声を荒げる涼二に対し、静奈は小さく嘆息を零す。
しかしそれは、涼二にとって何よりも重要な事。
彼にとっては、姉である静奈がいかなるものよりも大切なものだったからだ。
「静奈は死んだ人間で、もう何処にもいない……って言うのは、涼二も分かってた事だと思うんだけど?」
「それは、そうだけど……でも、ここにいたじゃないか! なのに―――」
「聞き分けなさい、涼二。私が何処にもいないって言うのは事実なんだから。ここにいる私は、もう『氷室静奈』じゃない。静奈にこだわるなとは言わないけど、私に執着しちゃ駄目。
どうしたって私はもうすぐ消える。それでも、涼二の力の中で、涼二の魂の中に溶けていけるならこれ以上無い幸せなの。
愛しい弟に喰らわれて消えるなら、私は幸せ……だから私の幸せを奪わないで、涼二」
「……卑怯だよ、その言い方」
拗ねたように、涼二は声を細める。けれど静奈は相変わらずの笑みのまま、近くに咲いていた白薔薇へと手を伸ばした。
大きく開いているとは言いがたいが、それでも十分に美しいそれ。
しかしその花は、いずれ自らの力に晒されて折れてしまう運命にあった。
「折れてしまう白薔薇……私の事、凄く思ってくれてたんだね。こんな、歪んだ世界を作ってしまうほどに」
「姉さん?」
「折れた白薔薇の花言葉は、『純潔を失い死を望む』。涼二は……私と一緒に死にたかったんだね」
「ッ……!」
思わず、涼二は息を飲む。
路野沢の提案を蹴った事に対する真実が、そこにあった。
氷室涼二は永遠など望まない。虚像を抱いていた所で、その魂は満たされないから。
もしも永遠を望むのならば、そこに本物がなくてはならないのだ。
二度と得られないものに焦がれ続ける。故にこそ、氷室涼二の渇望は唯一つ。
―――美しい姉の氷像を抱いて、共に朽ち果てて行きたい―――
それこそが、涼二の創り上げた世界の持つ、《自壊》という性質の根本。
誰よりも自らが終焉を望むが故の破滅願望。
そんな涼二の心の内を理解して、静奈は小さく苦笑を浮かべた。
「どうせ白い花なら、私の好きだった花にしてくれればよかったのに」
「……ごめん」
「いいよ。どうせもう、最後の一歩は踏み出してしまった後なんだから。もう後戻りは出来ない。だからこそ、進む道の最後の選択は、涼二に任せる」
白薔薇から手を離し、静奈は笑う。
その中に何処までも優しい、家族に対する愛情を浮かべながら。
家族を愛する事一番最初に抱いた願いは、涼二も静奈も全く同じものだったのだ。
故にこそ、その言葉は決して無視できるものではない。
「ねえ、涼二。あの頃は、幸せだったよね。お父さんがいて、お母さんがいて……当たり前の幸せがあった」
「ああ……うん、そうだよな」
灼熱の憎悪の中で記憶は薄れてしまったが―――それでも、涼二の中にはかつて受けていた両親の愛が残っている。
自分と姉を救うために身を投げ打った、誰よりも優しかった二人の事を覚えている。
そんな当たり前すら、奪われてしまったけれども。
静奈はゆっくりと近付き、その両手を涼二の頬に当てた。
冷たく凍えたその手は、けれどその内に、確かな温もりを秘めて。
涼二はそれに、上からやさしく手を重ねていた。
「……だからこそ、私にも赦せない。当たり前の幸せの中で、生きていたかったから。だからね、涼二―――」
静奈は笑う。
誰よりも愛した家族に向けて、その愛の全てをぶつけるように。
最早行き着く所まで行き着いてしまった。だからこそ、出来る事はその背中を押す事だけ。
氷室静奈は―――誰よりも、氷室涼二を信じていた。
「―――あんな奴、ぶっ飛ばしてやりなさいな。作り出された願いだって言うなら、熨斗付けて叩き返してやりなさい!」
「……はは、ははははっ! ああ、そうだな。やっぱり姉さんだ。うん、分かった……やるよ、やってやる。姉さんの願いなら、俺が叶えない筈がないだろう?」
「うん! それでこそ、私の自慢の弟だ!」
満面の笑顔で、静奈は大きく頷いてみせる。
そしてその笑顔を悪戯っぽく変えると―――自らの唇を、目の前にある涼二のそれに押し付けていた。
思わぬ行動に涼二は驚愕し、そして自らの中に流れ込んできたプラーナを知覚して大きく目を見開く。
それは間違いなく、静奈の一部であったから。
「さ、行ってきなさい。涼二が私を選ぶか、それとも私のもう一つの片割れを選ぶか……それは、涼二が決める事。けど、どっちにしたって、氷室静奈は氷室涼二を愛してるよ」
「姉さん……ああ、分かった、行ってくる。俺も、姉さんの事を愛してるよ」
「あはははっ! あの時、盛大に伝えてくれたじゃない。ちゃんと聞いてたよ、私はずっと涼二の事を見てるから」
静奈の身体は徐々に薄れてゆく。
それは始祖ルーン―――即ち、涼二の魂そのものに溶けて行っているのだ。
だからこそ、涼二はそれを、悲しいとは思わなかった。
何処とも分からぬ所に消えてしまうよりは、自らの一部になってくれた方がよほど嬉しい。
例え自身がもうじき消えてしまうとしても、その温もりを忘れずにいられるから。
「頑張れ、涼二」
「うん。ありがとう、姉さん」
そして―――純白に包まれた世界は、静かな輝きと共に姿を消した。
* * * * *
燃える城砦。
その場所より現れる無数の影を打ち払いながら、徹はただひたすらに走り続けていた。
彼の様相は既に満身創痍。雨音の力によって受けた癒しも、最早意味を成さぬほどのダメージを受けていた。
「っ、はぁっ、はぁっ」
「どうしたトール? 逃げてばかりでは意味を成さないぞ?」
「ッ……変な発音で呼ぶんじゃねえよ!」
悪態と共に、徹は空を見上げる。
そこに浮いていたのは、いつもとは異なる指揮者のような黒衣を纏った路野沢。
その力を中心に作り上げられた世界、《燃え堕ちよ神々の栄華》。
発せられた理は、徹へと向けて容赦なく襲い掛かってきていたのだ。
「おや、時間稼ぎに付き合って欲しいようだったから、態々遊んでいるのだが……不服かね?」
「あぁ、テメェをぶん殴れねぇ事がとことんまで不服だよ!」
襲いかかってきた影―――Jを初めとした能力を操るそれを打ち払い、徹は咆哮する。
そう、周囲に現れている影は全て、何らかの能力を操っていたのだ。
その力の使い手が誰であったのか、その影からでは判別する事はできない。
唯一つ言える事は、これが死者への冒涜であると言う事だけだった。
その中心に立ちながら、路野沢は歪んだ笑みを浮かべて声を上げる。
「ふむ……では、少し趣向を凝らすとしようか」
宣言と共に、その手の中には一振りの折れた刀が現れた。
それを掲げ、路野沢は静かに宣言する。
「―――《模倣宇宙・災いの枝》」
刹那、刀より現れた三つの光が弾け、世界に溶ける。
そしてそれと共に、炎に包まれた庭の中には一つの影が出現していた。
実態を成さず、けれど徹にとっては見覚えのあるその影―――しかし、それが誰であるかなど、悩むまでもなく明白だった。
何故なら、その手には一振りの長剣が携えられていたのだから。
「《災いの枝》……バカな、こんな事が」
信じられないという思いと共に呟き―――そして、徹は理解する。
この世界の性質がいかなるものなのか、それを前にした自分が、どれほど絶望的な状況にあるのか。
路野沢の展開した世界の性質は、取り込んだルーンを自在に操る事。
友の力、それも全て始祖ルーンによって形成され、力の総量のみで言えばオリジナルと比べ物にならぬほどに高いそれを前にして、徹は咄嗟に槌を使って防御する。
そしてそこに緋色の刃は叩きつけられ―――徹は、その爆圧に一撃で吹き飛ばされていた。
「ぐああああああああッ!?」
何とか直撃は避けたものの、槌は砕かれ、地面に叩き付けられる。
それでも震える手を地面に付いた徹は、再び振って来た路野沢の声を聞いていた。
「トール、君の定めは、ヨルムンガルドとの闘いで相討ちになる事だったのだが……やれやれ、フェンリルも邪魔をしてくれたものだ。まあ、今ここでそれを再現すればよい話なのだが、どうやら相討ちは無理なようだね」
「ぐ、ぁ……」
「まあよい―――君も、終焉を迎えるがいい」
路野沢が指を鳴らすと共に、《災いの枝》を構える影は消える。
そして、次の瞬間―――徹は、地面より突き上がるように現れた巨大な蛇の口によって、その身体を飲み込まれていた。