05-16:決着と真実
崩壊の音が響く。
純白に包まれた氷の庭園は、その端から徐々に崩壊を始めていた。
それはまるで、己の力に犯されて自壊して行くかのように。
凍て付いた花が、自らの重みに耐えかねて崩壊して行くかのように。
「……見事だ、氷室涼二」
「っ……は、ぁ」
目は光を映さず、身体は地面の感触すら認識しない。
それでも涼二は、僅かに残った聴覚で、大神槍悟の死を聞き届けていた。
彼の体もまた、涼二の放つ自壊の力によって崩壊を始めていたのだ。
涼二の触れた場所から凍て付き、自壊してゆくその体。
耐えがたい痛みに苛まれているにもかかわらず、その声はどこまでも穏やかだった―――いや、愉快さまでも感じているようであった。
「よもや、コレほどの力を操ろうとは……ふ、ハハハッ、やはり世界は広い。出来れば勝者を祝福したい所であったが……道連れか、痛み分けか―――どうやら、冥府への道を共にする事になりそうだな」
「ゴメン、だな……どの、道……俺は、もうす、ぐ……消滅する、だろ」
「成程……やはり、惜しいと思ってしまうものだな」
そう言い放つ槍悟の言葉は、どこか諦観に満ちたものでもあった。
《予言の巫女》と■のルーンによって告げられていた、己の死の予言。
結局は不可避であったそれがあったからこそ、覚悟は決まっていたのだ。
「嗚呼―――貴公は、このような気分であったと言う事か。成程、悔しいものだ」
「貴様は……まだマシ、だろ……やれるだけの、事を……やって、来たんじゃないか」
「そうか……そうだな。私は、やれるだけの事をしてきたのだったな」
己の死期を知っていたからこそ、大神槍悟は出来る限りの事を積み重ねてきた。
愛する家族が失われぬように、その後の世界が彼女達にとって優しいもので在るように。
だからこそ、槍悟が抱いているのは諦観であり―――涼二が抱いていたような、底知れぬほどに深い怨嗟ではなかったのだ。
結末も、抱いていた願いも同じだったが、それでも二人の間には理解できぬ溝がある。
「だが、貴公に顔向けできなくとも、懺悔などは口にせぬよ。この結末こそが、我等にとって唯一の真実。私が奪い、そして今度は貴公が奪った。ただ、それだけの事だ」
「ああ……そう、だな」
世界が崩れてゆく。
白い庭園も、静奈の氷像も、大神槍悟の肉体も。
何もかもが崩れ、自壊し、消滅して行く。
何も残らない、何もかもが消えてゆく―――けれど、涼二はそれに満足していた。
(これで、終われる―――)
ならばもう、未練も何も無いと―――このまま愛した姉の氷像と共に消えてゆきたいと、そう願う。
何も映さず、何も感じない。そんな感覚の中、最後に残った聴覚を閉じようとして―――
「素晴らしい―――ああ、実に見事だ。祝福せねばなるまい」
一つの、声が響いた。
酷く軽薄で、感情の篭らないそれ。
その声は、涼二にとっても、槍悟にとっても聞き覚えのあるものであった。
「一つ予想外ではあったが、よくこの領域まで力を練り上げたものだ。そしてその世界に込められた願いも、そこから発せられる力も素晴らしい。ああ、ここまでお膳立てした甲斐があったというものだよ。この領域への到達を祝福しよう。君は、天へと反逆する為の鍵となったのだから」
「一樹……」
「ああ、槍悟。君は実によく働いてくれた。よい茶番劇だったよ。喝采しよう。だが、ここまで―――君はもう用済みなのだよ。さあ、その力を返して貰おう。そして力と共に、我が世界で眠るがいい」
言って、現れた人物―――路野沢はその手を振るう。
全貌の掴めぬその力は、槍悟の体の崩壊を早め、その身を速やかに破壊してゆく。
その様を僅かながらに残った世界で感知し、涼二は信じられぬ思いで言葉を失っていた。
そんな彼の聴覚に、大神槍悟の最期の言葉が響く。
「私の行いも、結局は全て貴公の掌の上……私は宿命から逃れられなかったと言う事か―――」
そして―――槍悟は、この世から完全に消滅していた。
最強と名高い能力者の、呆気無い終焉。けれど、涼二はそれよりも、彼の言い放った最期の言葉に耳を奪われていた。
今、彼は何と言ったのか―――
「全て……アンタの、掌の上……?」
「ああ、その通りだよ《氷獄》―――槍悟に予言を与えていたのは、この僕だ。ああ、彼も気付いてはいたが、それでも従わざるを得なかったのだろう。それが、彼の渇望なのだから」
涼二は耳を疑う。けれど、路野沢一樹と言うその存在こそが、何よりもその言葉を真実だと告げていた。
同じ領域に立ったからこそ、涼二にも知覚することが出来てしまったのだ。
路野沢が、一体どのような存在であるかと言う事が。
人の理を超越した、遥か上の領域の存在である事が―――
「―――涼二様っ!」
「そんな、お父様……!」
完全に崩れ去った氷の世界は、日の光が包む花畑によって侵食される。
そしてそれと共に、涼二の元へと仲間達が駆け寄ってきた。
それまで戦ってきた敵も味方も、全てが同じ場所へと。
大将が倒れて、彼らが戦う意味を失ったのは確かではあるが、それ以上にこの状況は異常だった。
崩れ去った槍悟と、その身体より現れた三つの光球を引き寄せる路野沢―――彼の手には、一振りの折れた刀が握られていた。
路野沢を警戒しながらも、雨音は崩れ落ちた涼二の元へと駆け寄る。
あらゆる傷を癒すその力―――しかし、涼二の身を癒す事は出来ていなかった。
その魂には最早、存在を存続するのが精一杯のプラーナしか残されていなかったのだ。
それでも己の力を分け与えながら、雨音は視線を上げて路野沢を見つめる。
自身と同じ、その超越者を。
「ふむ……君がそこに辿り着くのは予想外だったのだがね。しかし好機であるとも言える。その力もまた、返してもらうとしようか」
「路野沢さんッ! これはどういう事ですか!?」
路野沢の言葉を遮るように、美汐が声を上げる。
そんな彼女を守るように、緋織が寄り添って立っていたが―――彼女の視線は、雨音に抱き起こされている涼二へと向いていた。
五感の大半を失い、何も反応せずにいる涼二が、それに気づく事はなかったが。
そんな彼女達の姿に対し―――路野沢は今気付いたとでも言うかのように視線を向け、声を上げた。
「ああ、バルドル……君はホズのヤドリギによって死する運命にあった筈だが……やれやれ、オーディンは足掻いてくれたものだ。まあ良い……君達の力も練度は低いが、元はこの中にあったものだ―――あるべきものはあるべき場所へ、返して貰うとしよう」
「何を―――なっ!?」
言って、路野沢は剣を掲げる―――瞬間、その場にいた能力者たちから、いくつかの光の玉が浮かび上がった。
緋織は一つ、美汐は二つ。この場にいる能力者―――否、始祖ルーンを持つ能力者達から、持っている始祖ルーンの数だけ光が生まれる。
その場に立つ聡明なものと、そしてその力を持っていたものは気付いている……それこそが、始祖ルーンそのものであるという事に。
力を奪われた事で始祖ルーンは通常のルーンへと戻り、緋織の掲げていた《災いの枝》は吹き上げる炎を弱める。
驚愕の表情を浮かべる彼らに対し、路野沢はただ嘲笑を浮かべていた。
「所詮君達はは天より生まれた木偶人形。与えられた力を振り翳して粋がっていただけの子供に過ぎぬ。自らの願いでその世界を歪める事が出来ていない……その領域に辿り着く事自体が稀なのだが、ね」
「どういう事、ですか。与えられた……? それじゃあまるで、貴方が―――」
―――その力をこの世界に振り撒いたようではないか、と。
ルーンを奪おうとする力に抗いながら、雨音は声を上げる。
皆がルーンを奪われてゆく中、己の世界を作り上げた涼二と雨音だけは、その力に抗い続ける事が出来たのだ。
対し、路野沢は若干ながら興味を抱いたように、その視線を上げた。
「その通りだ―――十五年前、この星にあの隕石を呼び寄せ、全ての始祖ルーンが宿っていたこの刀を砕いたのはこの僕だ」
「な……ッ、バカな、そんな事出来るはず―――」
「可能なのだよ、スルト。全宇宙に存在する魂を物質として固定し、この星に叩き付けた……この、ルーンと呼ばれる力の燃料とする為に。
元々、この力は強い魂を持つものにしか操れぬ物だったのだがね。強い魂を大量に吸収した世の者達は、ルーン能力を操れるようになったという訳だ」
「貴方は、何者なんですか……ッ!」
力を弱められ、それでも決して引く様子を見せない美汐は、路野沢に対してそう声を上げる。
しかし、それでもその内に込められた恐れは、流石に隠しきれてはいなかった。
そんな彼女に対し、路野沢は視線を向ける―――まるで、路傍の石を見ているかのようなそれを。
「百五十年前―――この世界の生誕より、この世界を見守り続けてきた守護者。君達の言葉にするならば……“神”と言った所ではないのかね」
「か、神!?」
「何言ってやがる! それに、百五十年前ってのは何だ、今は2168年だぞ!?」
徹の言い放った言葉に対し、路野沢は嘲笑を浮かべる。
先ほど、路野沢は彼らの事を『木偶人形』と呼んだ。その視線は、正にそれを見る目つきだ。
何も知らず踊り続ける憐れな人形を、哀れむかのように。
「君達は、北欧神話というものを知っているかね?」
「……知りません。けれど、それが何だって―――」
「そう、知らなくて当然だ。この世界がオリジナルの世界よりコピーされる時、歴史から排除されたのだから」
路野沢の視線は、そこに立つ者たちへと順々に向けられる。
その言葉はどこまでも荒唐無稽ではあったが、それを戯言と断じるには、彼の力はあまりにも異質だった。
理解できない、ありえない力。その圧倒的なスペックは、美汐たちにとっては酷く遠いもの。
故にその言葉もまた、理解とは遠い場所にあった。
けれど、路野沢は言葉を続ける。それは相手に理解させようとしている訳ではなく―――何かに対する怨嗟を、延々と零し続けているようなものだった。
「この世界は元々、天主―――創造主の住んでいた世界を元に模造するような形で創造された。己と同じ領域へと辿り着くような超越者を育て上げる箱庭として。そして僕は、それを見守る管理者であったと言う訳だ」
路野沢は独白する。
それは創造主―――彼が天主と呼んだその存在への恨み言であった。
長い間溜め込まれ、凝縮された憎しみ。それは、涼二が募らせていた怨嗟に近いものでもあった。
「元々、神と呼ばれるものに意思など存在しない―――ただのシステムだ。しかし天主はそれを歪めた。この百五十年間、まるで汚泥に浸かっているような気分だったよ」
「……ッ!」
深い殺意に、空気が震える。
力の桁が違う、その意思に晒されるだけで、膝を折りそうになってしまう。
しかし、そんな存在を前にしても、美汐は一言一句聞き逃さぬよう路野沢に集中していた。
まるで、この世界の真実を知る事が使命であると言うかのように。
「そして、この世界に超越者となる才覚を持つ者が生まれた。霞之宮星菜―――天主の盟友の遠縁に当たる女だ。そして天主は、すぐさまそれに目を付け、力の欠片を与えたのだ。即ち、この始祖ルーンと呼ばれる力を。
分かるかね……それは即ち、この世界において価値があるのは、あの女以外に存在しないと言っているようなものなのだよ」
「この世界は……星菜様と言う方を、この超越者の領域へと押し上げる為の箱庭……私達は全て、その糧となる為だけに存在していた―――」
「その通りだ、静崎雨音。僕達の存在に価値など無いと、天主はそう告げていたのだ……それが、赦せるか?」
同じ領域に立つが故に理解する事ができた雨音―――そんな彼女の言葉に、路野沢はそう告げる。
対し、雨音は言葉を返す事が出来ずにいた。
だがそれは、その言葉に賛同した為ではない―――その天主の意志が、未だにどこにあるか判断できなかったからだ。
雨音にとっての渇望は、家族が傷つかない事を前提としている。
故に、家族に累が及ぶのであればそれを許すつもりは無い。だが、そこに繋がるのかどうかまでを判断することが出来なかったのだ。
しかし路野沢は沈黙を肯定と取ったのか、はたまた答えなど最初からどうでも良かったのか、雨音の答えを待つ事無く言葉を続ける。
「故にこそ、僕はこの宇宙の魂を収束させ、始祖ルーンの刻まれたこの刀を砕いた。砕けたルーンは周囲に散らばり、僕の思うように世界を塗り替えてくれた……ああ、愉快だったよ。例え小さなものだったとしても、天主の目論見を一つ破壊したのだから」
「そんな事の、ために……そのためだけに、世界をこんな……ッ!」
「その通りだが、それがどうかしたかね、バルドル?」
路野沢の言葉に対し、美汐は唇を噛む。
信じがたい言葉ではあったが、それが確かであるならば、全ての元凶は彼なのだ。
多くの人が命を落としたのも、涼二が狂ったのも、槍悟が多くを犠牲にしなくてはならなかったのも―――しかし路野沢は、そんな美汐の様子を意に介さず、涼二たちの方へと向けて声を上げる。
「そしてその力を使い、僕は育て上げた……世界を侵食する世界、その渇望を抱く存在を。その意志によって歪められたルーンがあれば、天主の世界を侵食し、自壊させることも不可能ではない。
さあ、手を伸ばせ、ヘル。そうすれば、君は君の渇望を満たす事が出来る」
「な、に……」
「涼二様……っ」
そこで初めて、涼二が反応を見せる。
渇望を、願いを満たす事が出来るという路野沢の言葉。
それは悪魔との取引だろう―――手を取れば、決して戻ることは出来ないものだ。
それでも反応せざるを得ないのは、そういう言葉を選んでいるから。
「そうだ……君が望むのであれば、君は僕の世界で、君の姉と永劫共に在る事ができる。君の渇望は、『美しき姉の氷像を永遠に抱いていたい』と言うものだろう……僕の世界ならば、それを満たせるのだ。さあ―――」
路野沢は手を伸ばす。
涼二の瞳に宿る二つの力―――そこに込められた、侵食と自壊の世界を奪い取ろうとするかのように。
「……な」
ポツリと、涼二が声を上げる。
それは、彼の体を抱き起こしていた雨音にしか聞こえないほどに小さなものであったが―――それでも、強い渇望の混じるものだった。
世界を歪めるほどに強い願い。それは―――
「姉さんに、触るなあああああああああッ!!」
「―――!?」
刹那、強大な嵐が路野沢へと襲い掛かった。
吹き上がった力は自壊の呪いを纏うもの―――しかしそれは、至近距離にいた雨音に影響を与える事無く、路野沢を破壊しようと荒れ狂う。
対し、路野沢は驚愕に表情を歪めつつも背後へと飛び退った。
と―――そこに、巨大な鉄槌が叩き付けられる。
「お兄様っ!?」
「Rを持ってる連中! 全員、そいつ等連れてここから逃げろォッ!!」
その言葉に対し、該当していた能力者たちは即座に反応していた。
彼らは即座に近場にいた者を抱え、その場から離脱してゆく。
―――路野沢へと武器を向ける、徹を残して。
「お兄様ッ! 待って、お兄様も―――」
「いいから行けぇッ!!」
新森に抱えられた美汐は、急速に離れてゆく背中に手を伸ばす。
しかしそれは一瞬で遠ざかり―――凍りついた街の中へと、消えて行った。