05-15:凍て付いた庭園
凍えるほどに凍て付いた風が、周囲を満たす。
I、L、H、Th―――全ての力を内包したその風は、二つの始祖ルーンより放たれた光を纏い、周囲の世界を塗り替えていった。
薄暗く曇る空と、舞い散る雪。風に煽られ空気を白く染めるそれは、さながら霧であるかのように。
そして地面を包むのは石畳と、それを包むように地面を這う氷の茨。
合間合間に咲き誇る白い薔薇は、それ自体が雪で出来ているかのごとく、穢れなき純白を見せていた。
―――現れたのは、凍て付く白に包まれた、氷の庭園。
そしてその中心に立つ主へと、黄金の影が疾走する。
「ふ……ッ!」
肺すら凍て付かせようとするかのごとく、その冷気は影―――大神槍悟へと襲い掛かる。
けれど、この大気を満たす莫大なプラーナですら、彼の身を包む黄金の輝きを突き破る事はできなかった。
停止と束縛の概念たる氷の茨すらも、そんな彼の歩みを止める事は出来ていない。
僅かながらに鈍らせているのが限界だった。
いや―――
(全力を身に纏って尚、完全に防ぐ事は出来ないほどの侵略か……!)
全力でプラーナを放出していながらも、その能力による干渉を完全には防ぎきれていない。
それは即ち、最強の能力者たる大神槍悟であろうとも、この空間にいつまでも立ち続ける事は出来ないという事を示していた。
故にこそ、槍悟は一撃必殺を決意する。
可能な限りのプラーナをその槍に込め、決殺の意志を込めて―――
「―――貫け」
―――《必滅の槍》は、一切の容赦なくその力を解き放たれた。
黄金の輝きは大気を灼き、神速の一閃はその余波だけで白い霧を真っ二つに斬り裂く。
穂先は真っ直ぐと、狙い違える事無く涼二の胸へと吸い込まれ―――容赦なく、その心臓を貫いた。
「―――」
無言のまま涼二の体は揺れ、その一瞬後、背中へと突き抜けた衝撃が、背後の庭園へとその破壊力を刻む。
そして彼は何も告げぬままに、身体に突き刺さった《必滅の槍》を支えとしながらその身を弛緩させた。
力の抜けた手は投げ出され、何も無い中空で揺れる。
そしてその様を見つめ、槍を突き出した姿勢のまま、槍悟は小さく息を吐き出していた。
「……見事だ、氷室涼二。貴公は、私が全力を発揮するに足る男だった」
それでも、その姿には一片の油断すら無い。
未だに、周囲の世界は朽ちた都市ではなく、凍て付いた白き庭園のままだったのだ。
故に大神槍悟の視線は、確かに今でも氷室涼二を強敵として認識していた。
だからこそ―――と、彼はその槍に残るプラーナを込める。
氷室涼二を完全に撃滅する為。その身の一欠片すらも残さないと、そう決意するかのように。
「手向けだ―――私は最後まで全力であった事を、ここに示そう」
槍は輝き、涼二の胸の中でその破滅的な力を解放しようと荒れ狂う。
そして、それが解放されようとする僅かな刹那―――ぴくりと動いた涼二の手が、その槍の刃を掴み取った。
「―――っ!?」
その動きに、油断していなかったとはいえ、槍悟は思わず息を飲む。
槍の穂先は確かに心臓を貫いており、その傷は確実に致命傷である筈だったからだ。
この状態で動ける人間など存在しない。例えSの能力者であったとしても、この状態から再生する事など叶わない。
だと言うのに、何故この男は動けるのか―――その一瞬の動揺は、槍悟にとっての好機を潰してしまっていた。
ぴしり、と音が響く。
「そう、か……思い出した、赦せなかったんだ」
そんな声と共に、涼二は槍を掴んだその手に力を込める。
刃はその指に食い込むが、それでも血が流れ出るような事は無い。
変わりにその傷から流れ出ていたのは、白く揺れる霧のような冷気であった。
それを間近に見て、槍悟は悟る。
―――これは人間ではない、と。
「時間は全てを奪う……最後には何もかも壊され、殺され、何も残らない」
ぴしぴしと、再び音が響く。
瞬く間に広がってゆく崩壊音。それは、《必滅の槍》が凍て付き、自壊してゆく音だった。
―――それを握る、槍悟の右腕と共に。
「な―――ッ!?」
咄嗟に槍悟はその手を離し、それでも広がってゆく氷結を認め、咄嗟に左手に形成した槍によって、その腕を半ばから切断していた。
血と凍て付いた右腕が宙を舞い、そしてガラスが砕けるような呆気ない音と共に自壊する。
プラーナを傷へと集中させて止血をしつつも、槍悟は涼二の放った理不尽な力に戦慄を隠せずにいた。
彼に突き刺さっていた《必滅の槍》は凍て付き、自ら崩壊してゆく。
そしてそれが突き刺さっていたはずの傷痕は、ただ貫通した穴のみが残っていた。
それは人間の身体に開いたものとは思えない、白い傷痕―――否、それはただの氷に開いた穴であった。
「肉体を氷へと変化させた……? それに、その力は」
槍悟の分析の声に、涼二は答えない。
ただ、その掌と胸についていた傷は、何事も無かったかのように塞がり始めていた。
そして目の前の仇敵の存在にすら気付かないように、涼二は声を上げる。
「いずれ失われてしまうんだ。美しかったものも、何もかも。ああ、認められない、赦せない。俺はただ、永遠に美しい氷像を抱いていたいだけなんだ。それが、叶わないなら―――」
そこから先は、氷のひび割れるような音に掻き消される。
それを立てていたのは広げられた涼二の左腕。それは肥大し、異形の如く形を変えてその身を包み込み―――やがて、一つの形を形成する。
それはまるで、巨大な卵のようであった。
人間一人がすっぽりと入れるほどの大きさのそれ。歪み、内側は見えないものの、その強大なプラーナは漏れ出るように周囲を凍て付かせている。
(卵か―――成程、彼の力はそういうものか)
そしてその力の胎動に対し、槍悟は涼二の力の本質を理解し始めていた。
《必滅の槍》と共に凍て付いて砕け散った腕、そして排他するかのように己を包み込む卵。
触れる事を赦さないと、内側に何かを護るかのように構えるその在り方は―――
「触れて欲しく無いと、己以外は要らないと……そういう事か」
「違う―――」
響いたのは、氷の卵の内側より放たれた声。
それは抑揚が無く、酷く機械的なものではあったが―――その裏側に、燃え滾るような憎しみを湛えたものでもあった。
ひび割れ、崩壊してゆく卵の殻。
それは己の殻を破った訳ではなく、その外側に出てまでも、触れようとする相手を撃滅する意思そのものだった。
「―――姉さん以外に、何も要らない」
そして、卵の内側より現れたのは―――二人の人影。
黒いコートを纏う青紫の瞳の青年、氷室涼二。そして彼と並ぶように立つのは、先ほどの彼と同じ姿の少女。
長い黒髪と、静かで静謐な美貌を持つ人物―――すなわち、氷室静奈であった。
傍らに立つ彼女を守るように、涼二はその腕を広げながら視線を上げる。
「姉さんに、触れるな。もう二度と失うものか。姉さんを傷つけるな、俺の全てなんだ」
それは拒絶、それは排他。
ただ、美しい姉の姿を抱き続けたいと言う願い。
故に、それを傷つけるものを赦さない。他者に触れられないように殻を作り、護り続ける。
その殻に触れたものに待つのは、凍て付き自壊すると言う破滅だけだ。
それこそが、この世界―――凍て付いた白き庭園の理。
「……それが偽りだと知りながら、それでも尚その身を懸けると、そう言うのか」
「ああ、そうだ。失ってはならないものだった。失われることを認める訳にはいかなかった。けれど、それでも奪われてしまったから―――だからこそ、この姿だけは傷つけさせない。
偽りだよ、二度と戻らない。それでも、たったそれだけが、俺に遺された全てだから―――」
槍悟の言葉に対し、涼二は告げる。
その言葉の中に含まれるのは、様々な感情が凝縮された激情。
怒りも、憎しみも、悲しみも―――全てが混ざり合い、ただ純粋に強い決意へと。
彼にとってたった一つの答えを貫く為、それに負けないだけの強さを手に入れるために。
他者の言葉など届かない。そこに在るべき事実は、愛したものが失われてしまった事と、その僅かな残滓が己の中に残っている事。
「だから、他の誰にも奪わせはしない! どんな心も、どんな力も赦すものか! 俺は、姉さんを愛しているんだ!」
「……だが、その身に残された力はもう多くはあるまい。文字通り、決死と言う訳か?」
「そんなもの……とっくの昔に、十五年前のあの日から決まっていたんだよ! 穴の開いた風船だ、壊れた器に力は残らない! それでも―――貴様だけは、認められないんだ!」
叫び―――涼二と静奈は、同時に駆けた。
対し、隻腕となった槍悟もまた、形成した槍をその手に構える。
周囲には複数の槍が形成され、二人へと向けて射出される。
対し、涼二はその腕を振るう―――その手が触れた槍は、脆い氷であるかのように凍て付き、砕け散る。
触れた力や物体、そしてそれに連なる術者を凍て付かせ、自壊させる能力。
それこそが、涼二の作り上げた■■の理。
「凍て付けッ!」
「■―――汝の終焉はここでは無い、宿命は未だ遠く先に」
涼二の放つ氷の杭―――自壊の理を持つそれに触れれば、その瞬間にあらゆる存在は崩壊する事となるだろう。
けれど、それに対して振るわれた槍悟の《必滅の槍》は、決して砕ける事無く氷の杭を打ち落とした。
宿命を操る■の力。それによって崩壊の運命を引き剥がされた槍は、涼二の力とてそうそう破壊できるものではなかった。
更に、氷の刃を叩き付けようとして来た静奈を弾き飛ばしながら、槍悟は大きく跳躍して距離を開ける。
「互いにプラーナは限界。いや―――」
涼二の姿を凝視しつつ、槍悟は小さく声をあげる。
強大な力を放ち続ける涼二―――そのプラーナの出力は、未だ衰えてはいない。
それは、異常以外の何物でもなかった。当の昔に、そのプラーナの総量など越えてしまっているのだから。
そこから先に在るのは、己の魂を削り取りながら力を行使する、文字通り捨て身の戦い。
涼二の力は、例え元の総量が多かったとしても、始祖ルーンを全力で運用できるほどのものではない。
そして本来ありえなかったルーンを埋め込まれているその身は、安全弁が外れてしまっている状態に他ならない。
「貴公はその身も、魂すらも限界であろう。それ以上力を行使すれば、魂すらも残らず消滅するぞ?」
「承知の上だ―――この力を手に入れたときから、分かっていたさ!」
氷室涼二の魂は既に、長年プラーナを余分に放出し続けた事によって限界に達している。
事実、氷と化した彼の身体には、徐々にヒビが走り始めていたのだから。
これ以上力を使えば、己の身すら崩壊する事になる―――それを知りつつ、涼二は戦いを止めようとはしていなかった。
そして、対する槍悟もまた、完全に防ぐ事が難しくなった力の中で槍を振るう。
―――決着は、近い。
(分かっているか、氷室涼二)
茨に覆われた地面には触れぬように、空中に足場を作り上げながら、槍悟は立ち止まって槍を構える。
その槍の中に込められるのは■の力。強大な力を纏うそれは、凍て付く庭園の中でも尚燦然と輝きを放つ。
(貴公が《死の女王》を分離させた事で、隠されていた貴公の■も復活している。今ならば、私も十全に力を使う事が出来るぞ)
涼二の持つ■のルーンに狙いを定めながら、槍悟は油断せずに構える。
互いに、残された力はあと僅か。力を激突させるにも、これが最後となるだろう。
後は、どちらの理が相手の理を食い潰すか―――ただ、それだけの勝負となる。
自壊か、必滅か。そのどちらもが、この世に存在するいかなる能力よりも強大なもので。
「vulnerant omnes,ultima necat―――」
「《必滅の槍》―――」
互いに、必殺を誓う。
涼二は静奈と共にその力を収束させ、槍悟は深く槍を構える。
一瞬の静寂、そして―――
「―――ッ!!」
「おおおッ!!」
三つの影は、同時に爆ぜた。
触れたものを崩壊させようと組んだ拳を向ける姉弟と、印を貫こうと狙いをつけながら駆ける戦士。
その両極は刹那の内に肉薄し―――互いの一撃を、叩き付けた。
「はあああああああああッ!!」
「おおおおおおおおおおッ!!」
逆巻き、吹き荒ぶ二つの力。
それは互いの魂が悲鳴を上げても止まる事無く―――広がる崩壊の音を耳にしながらも、涼二は決して止まろうとしなかった。
プラーナが足りていない。色を失い始めていた視界は、全ての光を失ってゆく。
鈍ってきていた全身の感覚も遠く失せ、凍て付く寒さすら感じなくなってゆく。
料理の味などは、以前から殆ど感じなくなっていた。
それでも、僅かながらに残った聴覚が―――
『―――頑張れ、涼二』
―――たった一つの、幻聴を聞いた。
何も見えない、何も感じない。それでも、たった一つそれだけが、氷室涼二にとって確かなものだった。
そのたった一つが、抱いた渇望を涼二に再認識させる。
もう二度と失いたくないと、傷つく事を認められないと―――それこそが、世界を塗り潰すほどに焦がれた願いだったから。
「づ、ああああああああああああ―――ッ!!」
咆哮する。
たった一つ、求め続けたものを勝ち取る為に。
そして―――侵食と崩壊の理が、僅かながらに進み出る。
「な―――!」
「俺の……ッ!」
ばきん、と黄金の槍が砕け散る。
涼二には最早その様を見ることは叶わない。けれど―――相手の立つその場所だけは、決して見失ってはいなかった。
「勝ちだあああァ―――ッ!!」
そして、返す刃の如く振り翳されたその拳が、大神槍悟へと突き刺さる。
奇しくもそこは―――かつて、《必滅の槍》が氷室静奈を貫いた、その傷と全く同じ場所であった。