01-6:失ったものへの想い
高級マンションの最上階―――ここには、広いスパのような施設が備えられていた。
無論、管理する人間はいない為、正式に稼動している訳ではない。だが、水泳用のプールだけはその役目を果たしていた。
尤も、水道管もガス管も働いていない為、ここに水を満たす方法は一つしかないのだが。
「L、っと」
涼二の左肩、そこに刻まれたルーンが蒼い輝きを放ち、それと共に生まれた大量の水が広いプールを一気に満たした。
彼の力ならば水温も50℃までならば調節できる為、大体35℃程度の温度で生成している。
満たされた頃には、競泳用プールと同じ程度の温度になっていることだろう。
そんな滝のような水の流れをぼんやりと眺めつつ、涼二は準備運動を開始する。
そんな背中へと向けて、背後から近付いた彼は声をかけた。
「精が出るな、涼二」
「ガルム……まあ、鍛錬を欠かす訳には行かないだろ」
「お前も熱心なものだ、感心するよ」
そんな言葉に苦笑を浮かべ、涼二は声の方へと振り返る。
そこには、涼二と同じように水着姿になったガルムの姿―――盛り上がった大胸筋や見事に割れた腹筋、丸太のような大腿筋など、耐性がなければ眩暈を覚えそうな筋肉の塊ではあるが、涼二も慣れたものだろう。
「そういうアンタだって、トレーニングは欠かさないだろ? まあ、アンタのやってるトレーニングと、俺がやってるのは随分とタイプが違うが」
「うむ。お前もやってみるか?」
「勘弁してくれ、俺は筋肉ダルマになるつもりは無い」
アキレス腱を伸ばしつつ手をヒラヒラと振り、涼二は苦笑する。
ガルムはボディービルダーをやっていた性質上、筋肥大を起こすようなトレーニングをするのが基本だ。
純粋にパワーとタフネスが高まる為、狼への変身という能力を持つガルムにとっては、バランスよりもパワーを求めた方が効率的となる。
対し、涼二のルーン能力は遠距離型であり、積極的に近付いて戦闘するような理由は存在しない。
無論、様々な格闘技を修めるガルムの教えもあり、涼二は接近戦が出来ないという訳ではないのだが―――どちらかと言えば、受け流して攻撃するような戦闘パターンを好む。
その為、必要以上のパワーを求める事無く、バランスのいいトレーニングを行っているのだ。
「さてと……んじゃ、行くか」
キャップとゴーグルを着け、涼二は水の中へと飛び込んだ。
そうして泳ぎ出すと共に、彼は水を操って自分に対して負荷となるように流れを作り始める。
これは能力の制御訓練と体力作りを同時に行うと言う名目で始めたものだったのだが、これが中々に難易度の高いものだったのだ。
どちらかが疎かになるような事があれば、すぐにガルムからの叱責が飛んで来る。
故に、涼二はひたすら集中してこの訓練を行っていた。
そんな彼の様子をじっと見つめつつ、ガルムは持ってきていたダンベルを持ち上げる。
(大した向上心だ……この出所が復讐心でなければ、どれほど良い青年になっていた事か)
惜しいと、ガルムは心からそう思う。
氷室涼二と言う青年は、人を惹き付ける魅力も、そして己の才能に奢らず仲間と共に切磋琢磨するだけの真摯さも持っている。
しかしその思いの大部分は、己の大切なものを奪ったユグドラシルへの復讐心に埋め尽くされているのだ。
尤も―――
「人の事は言えんが、な」
呟き、ガルムは小さく苦笑する。
このニヴルヘイムと言うグループは、そういう集まりなのだ。
混乱し、荒廃した日本に秩序をもたらす組織、ユグドラシル。
その平和をもたらす為に行われてきた行為は、最終的に言えば正義だったのだろう。
理性では理解できる。だが、感情では納得できない。
涼二も、ガルムも、スリスも―――それが、赦せなかったのだ。
『―――ならば俺は、悪となろう』
あの日、涼二はそう言った。
何の因果か出会った、同じ怒りを抱える二人に対して。
『確かに、世界は平和になったのかもしれない。少数の犠牲があったおかげで、今こうやって平和を享受出来ているのだろう。
けれど、俺はその平和を赦す訳には行かない。俺の、俺達の大切なものを犠牲にした上での平和など、認めない』
一致した。一致してしまった。
何処までも深い怒りと憎しみ―――その感情に、ガルムとスリスは共感してしまったのだ。
故に、彼らは共に歩み始めた。向かう先の決まった、破滅の道筋を。
『人は俺達を憎むだろう。俺達の選択を愚かと嘲笑うだろう―――俺達を知る人間ならば、俺達を止めようとするだろう。
けれど、そんな言葉に意味は無い。俺達に在るのは、ただ奪われたと言う事実だけだ』
氷室涼二は、姉を。
ガルム・グレイスフィーンは、妻子を。
降霧スリスは、全ての光を。
ただ、奪われたのだ。本当に救い無く、慈悲も無く―――奪われてしまったのだ。
だからこそ、相手を無残に殺さなくては気が済まない。
『余計な人間を狙う必要は無い。だが、余計にならないのだったらいくらでも犠牲にしよう。
悪と罵られようとも、外道と断じられようとも、決して止まりはしない。
全てを奪い、そして果てるまで……共に、歩もう』
ガルムは、あの時差し伸べられた手を思い出す。
アレが無ければ、一体どうなっていたのだろうか……そう思わずには、いられなかったのだ。
彼は思わず苦笑し―――ふと感じた気配に、視線を背後へと向けた。
「やっほー、おっちゃん。今日もマッスルだねぇ」
「ははは、スリスか。今日は早起きだな」
「雨音ちゃんに起こされちゃったからねー。涼二は今日も頑張ってるみたいで、感心感心」
うんうんと頷くスリスの視線は、やはり焦点の合わないもの。
視力を完全に失っている彼女には、本来見えない光景―――それを、愛おしそうに眺めてる。
殆ど乾いているプールサイドに腰を下ろした彼女の視線には、本来無いはずの色が存在していた。
「見ているだけでも楽しそうだな、スリス」
「うん、楽しいよ。涼二が頑張ってる姿、ボクは大好きだから」
「それを言うなら、どんな姿でも、ではないのか?」
「あはは、それもそうだねぇ」
―――降霧スリスは、己を助け出してくれた氷室涼二に強く依存している。
それは最早、恋や愛といった感情を通り越して、『信仰』と言ってもいいほどに。
ユグドラシルで実験体として利用され、家族も居らず光すらも奪われたスリスにとっては、涼二の存在だけが全てだったのだ。
故に、彼女は常に涼二から目を離す事は無い。
あらゆる電子システムに干渉し、常に涼二の周囲を警備している。
本当なら、この場所に来る事無く、いつもの部屋からでも監視することは出来ただろう。
「……そのあたりは、人間らしさも残っていると言う事か」
「んー? おっちゃん、何か言った?」
「いいや、何でも無いさ。ところで、食事の方は大丈夫かな?」
「うん、自動調理器に方には電気を流しといたし、すぐにでも使える筈だよ」
水やガスは外から持ち込んだものではあるが、電力だけはその限りではない。
スリスが配線などを弄り、そのHのルーンによって電力を制御しているのだ。
人知を超えた緻密さと制御力ではあるが、Aのルーンを持つ神話級能力者の名は伊達ではない。
「ふむ……それでは、朝は遠泳程度で十分か。ある程度したら戻るとしよう。ところで、あのお嬢さんはどうしたのだ?」
「雨音ちゃん? あの子なら、ルーン能力の制御に関する本を貸してあげたところだよ。常時展開であの威力だと、普通の制御程度じゃどうにもならないかもしれないけど……」
「確かに、焼け石に水だったとしても、やらぬよりはマシだろうな」
二人は涼二の姿を見つめつつ、あの時見た雨音の力を思い出す。
触れただけで命を枯れ果てさせる、神話級からしても異様としか思えない能力の強度。
「あれで意図して能力を発動したら、常時エナジードレインとかになりそうで怖いよ」
「ふむ……いくら始祖ルーンの持ち主とはいえ、やはりあの威力は不自然だな。逆位置という点では言うまでもないが」
「そうだね……一応、思いつく限りの事は調べておく。これは勘だけど……すごく、厄介な事になりそうな気がするんだ」
彼女に、視線を鋭くするなどの、目を使った感情表現というものは存在しない。
けれどその声は、見えない何かを警戒するように鋭く変質していた。
(涼二の敵になったら、という事か―――)
ガルムは、小さく苦笑する。
涼二の事を案ずるその姿だけは、どこにでもいるごく普通の少女に思えたのだ。
こんな時でしかそんな姿を見る事ができないのは残念ではあるが、それでも彼は願わざるを得ない。
自分達が幸せを望む事など、間違っているとは分かっているのに―――
「さて、っと。それじゃ、ボクは一度戻ってるよ」
「うむ。私も、涼二が運動を終えたら行こう」
「はいはーい」
一転、普段通りの明るい表情でスリスはプールを去ってゆく。
その姿も、年齢相応だと見る事ができるだろう。けれど、それはどこか取り繕ったもののようにも思える。
涼二に言わせてみれば、『普通を目指して斜め上に吹っ飛んでいった』という事だったが。
「やれやれ……私に、父親役は無理という事か」
ガルムは視線を戻し―――ここにはいない相手に対し、小さく呟いていた。
* * * * *
「あのな、スリス……」
「いいじゃん、遊んでいこうよ。暇なんだってば」
そう言うスリスの目の前にあるのは、四人プレイ用の家庭用ゲーム機である。
食事を終え、戻ろうとしていた涼二を引き止めたのは、とにかく暇そうにしているスリスのそんな言葉だったのだ。
壁にある超大画面のテレビ、そこに映っている映像は、かなり有名な四人同時対戦可能の大乱闘ゲームである。
どうやらスリスは暇さえあればこれをやっていたらしく、腕はかなりのものだったりする。
「ったく、一回だけだぞ」
「よっしゃー!」
ひたすら引きとめようとしてくるその言葉に嘆息し、涼二は諦めて腰を下ろした。
恐らく一回で済む事は有り得ないだろうが、適当に何度か相手をしてやれば満足するだろう、と。
「って言うか、お前もやるのか?」
「あ、はい。誘われましたので」
「……出来るのか?」
「説明書は読みました。あ、ちょっとした小技も、一通りスリスさんに教えて頂きましたよ」
ニコニコと笑う雨音に毒気を抜かれ、涼二は小さく肩を竦める。
どうやら、何だかんだで彼女も随分と楽しんでいるようだった。
ちなみに、最後の一人であるガルムもしっかりと参加するらしい。
が―――
「……おっちゃん、付き合ってくれるのは嬉しいんだけど、スクワットやりながらプレイするの止めてくれない?」
「むぅ」
上下運動を繰り返すその姿にうんざりとした様子を見せるスリスに、涼二は小さく苦笑する。
まあ、無理もない反応ではあるのだが。
「さて、とにかくやるよー」
「はいはい」
やる気に満ち溢れたスリスは、さっさと自分の使うキャラクターを選んでしまう。
彼女の場合、その気になればコントローラーを握らずにゲームをプレイできるのだが、対戦ゲームの時は対等な立場でプレイするのがポリシーのようだ。
ともあれ、涼二も適当にキャラクターを選んでゆく。
炎の剣を使うキャラクターに、一瞬懐かしさを覚えたが、スリスが不機嫌そうな顔をしたので止めることにし、涼二はそれと同じような動きをするキャラクターを選択した。
スリスは電撃を使う小型のキャラクター、ガルムは大型のモンスター、そして雨音は魔法を駆使して戦う姫となっている。
「よーし、じゃあスタート!」
スリスがステージセレクトでランダムを選び、ゲームが開始される。
とりあえず全員暗黙の了解として、ゲームに慣れるまでは雨音を狙わないと言う事で一致していた。
ゲームでは、普段の練習によって腕を高めたスリス、卓越した反射神経を持つ涼二が先行、防御などを得意とするガルムがそれに続く形となっている。
とりあえずある程度戦い、このまま最初の戦いは雨音を無視した形で戦い、最後に残ったプレイヤーが実戦代わりに付き合うような形になる―――と、思われたのだが。
「分かりました!」
「ぅおっ!?」
唐突に歓声を上げた雨音に、涼二は思わず肩を跳ねさせる。
その隙にスリスから攻撃を受けそうになるが、それは何とかガードして凌いだ。
何事かと思い、雨音の操作するキャラクターを探そうとして―――次の瞬間、涼二のキャラクターは画面外へと吹き飛ばされていた。
「は?」
「え?」
涼二とスリスの呆然とした声が重なる。
何の事は無い、ガードした涼二のキャラクターを投げ技で上に飛ばし、空中で二回コンボを決めただけだ。
が―――高威力の範囲が極端に小さい空中技を見事に当てるのは、非常に難しい事である。
そんな二人の様子に堅実なガルムが距離を取る中、雨音はスリスのキャラクターに接近して投げのモーションに入る。
「つまり……空戦エネルギーです!」
「何一つ関係ないっ!?」
「ふむ。反射神経、リズム感覚、どれを取っても一級品だ……格闘技を覚えれば大成するだろう」
「おっちゃんも冷静に分析しないでっ!?」
そんなツッコミを入れている間にも、スリスのキャラクターは空の彼方へと吹き飛ばされる。
その後、雨音のキャラクターは一機たりとも削られる事なく、三人をしっかりと殲滅したのだった。
予想外の敗北に、スリスがぐったりと地面に転がる。
「こ、こんなはずは……」
「舐めてたお前が悪い……つってもまぁ、俺も舐めてたんだが。お前、こういうのやった事あったのか?」
「いえ、今日が初めてです」
「初めてでこれって……」
どんよりと黒い雲を背負っているスリスに苦笑しつつも、涼二は雨音の意外な才能に驚愕を隠せずにいた。
どうやら雨音は、思っていた以上に頭や要領がいいようだ。
「しかし凄いな、雨音君。このような才能があったとは」
「ふふ、ありがとうございますガルム様。でも、これはきっと、とっても楽しいから頑張れるんだと思いますよ」
雨音の解答は、通じているようでやはりどこかがズレている。
けれど、純粋に現状を楽しんでいるその笑顔に、涼二は思わず息を飲んでいた。
「私はずっと一人で、友達もいませんでした……日によって変わる家庭教師の方と勉強して、自分で本を読んで、適度に運動をして……そんな生活だけを送って参りました。
ですから、本当に嬉しいんです。同じ目線で、一緒に遊んでくださる方がいるのが……だから、ありがとうございます」
何処までも純粋に、晴れやかな笑顔で、雨音はそう口にする。
その言葉に三人は視線を合わせ―――同時に、笑顔を零していた。
やはり彼女は憎めない存在だと、そんな風に再確認しながら。
* * * * *
元々の道筋とは少々違う場所、人気の少ない場所を通って新東京へと戻ってきた涼二は、能力使用による疲労を癒す為に目に付いた公園のベンチで腰掛けていた。
と言いつつも、海を渡る程度の能力使用で、彼がそれほど疲労を感じるような事は無い。
精々、軽いジョギングを行った程度の体力しか消費していなかった。
「……静崎雨音、か」
虚空を見上げ、その脳裏に思い浮かべるのは、しばし預かる事となった少女の姿。
そして、そんな彼女とあらゆる特徴が似通っている涼二の姉―――氷室静奈の姿だった。
長い黒髪と、青紫色の瞳。少々世間知らずな所も、明るく優しい笑顔も、全てが似通っていた。
「……いや」
涼二は小さく苦笑する。
全て、というには少々語弊があるのだ。姉が持っていたルーンは、雨音のようなSのルーンではない。
それよりも、もっと自分に似て、しかももっと強力な力。
姉が僅かだが見せてくれたその力を思い起こし、涼二は小さく息を吐き出していた。
―――そう、違うのだ。だから、静崎雨音が姉である筈が無い。
(そもそも、年齢も合わないしな……)
資料によれば、雨音の年齢は十六歳。
彼女は一応、十五年前の大災害は経験している。つまり、その時に存命だった涼二の姉が、彼女であるという筈が無いのだ。
そう、だから―――あの日、無残に殺された姉が、戻ってくる事など有り得ない。
「ッ……!」
奪われ、失われたのだ。あの優しい笑顔は、永遠に。
赦せない。一体姉さんが何をしたと言うのだ―――そんな怒りの感情ばかりが、涼二の思考を支配していた。
身を焦がすような怒りはその意識を静かに焼き、そしてそれと共に氷のように冷たく鋭いものへと変化させてゆく。
瞳が向かう先は、遥か彼方に見えるユグドラシルのビル―――そこにいるであろう、ある男に対して。
と―――次の瞬間、どこか苦笑のようなものの混じった声が涼二の背中へとかけられた。
「昼間から随分と猛っているようだね、涼二君」
「む……路野沢さん?」
涼二が振り返った先に立っていたのは、スーツを着込んだ一人の男性。
無造作に切ってある黒い髪に黒い瞳、薄っすらと浮かべられている笑顔。
二十台半ばほどに見えるその姿は、どこか印象と言うものに乏しく、見てもすぐに忘れ去られてしまうような外見をしていた。
彼はユグドラシルに所属する構成員であり―――そしてそんな身でありながら、ニヴルヘイムというグループを発足させた張本人。
つまり彼は組織の裏切り者……普段、涼二達に依頼を持ち込んでくる人物なのだ。
今回に限っては、彼以外からの依頼となっていたのだが―――
「中々、大変そうな仕事を請け負ったようだね」
「……お見通しですか」
思わず、涼二は苦笑する。
いつの間にかあらゆる物事を見破っている。彼は、そういう人物なのだ。
そして言葉巧みに近寄り、誘惑して来る―――涼二達は、彼が決して善人と呼べる人物ではないと言う事は初めから理解していた。
けれど、三人はそれを承知で利用されているのだ。
手段や方法、そして己の身の安全すらも問わない。それが、彼らの覚悟だった。
路野沢は小さく笑みを浮かべながら涼二の方へと近づき、許可を取ってからその隣へと腰を降ろした。
「今回の仕事、君はどう思うかな?」
「どう……とは?」
「今は少々眼を曇らせてしまっているようだが、それでも君は本質を見抜く眼を持っているだろう。
冷静に考えるまでも無く、君はいくつかの疑問を抱いている筈だ……違うかい?」
「……」
その言葉は、耳を通して頭の中に浸透するように広がってゆく。
そしてそれと共に、猛り狂っていた涼二の怒りも、またゆっくりと静まっていった。
そんな己の状態に驚きつつも、涼二は声を上げる。
「静崎雨音は、始祖ルーンの持ち主。だが、始祖ルーンに逆位置と言うものは存在しない筈」
「そう。それは、君も良く知っている事だ」
「……そして、彼女の体に刻まれていたルーンも、逆位置の記号にはなっていなかった」
「しかし、その力はまさしく逆位置のもの。それは、何故か?」
「路野沢さん―――静崎製薬ってのは、本当にただの製薬企業なんですか?」
あのビルに潜入した時から、涼二はいくつかの疑問を抱いていた。
いくら社長の一人娘で、始祖ルーンの持ち主だからと言って……あの警備の厳重さは異常だ。
そして、それほど厳重な警備をしなくてはならない相手を、態々リスクを冒して会社まで連れてくる理由は?
それらの疑問は口に出されること無く―――けれど、路野沢はそれら全てを理解しているかのように、口元に笑みを浮かべていた。
「あの企業が研究している内容は、確かに周囲に発表している通りの事だ。しかし、それだけではない」
「……と、言うと?」
「もうスリス君が掴んでいるとは思うが……あそこは、人工ルーンやルーン強化の研究を行っているのだよ」
「……!」
路野沢の言葉に、涼二は目を見開く。
どちらも、多くの期間で研究されている事柄ではある。
ルーン能力を持たない人間に対し、人工的にルーン能力を与える事が出来るかどうか。
そして、能力の位階を上げる為、ルーンの出力強化を行えるかどうか―――そういう研究だ。
危険を伴うのは確かだが、決して禁止されている研究と言う訳ではない……が。
「あの、始祖ルーンの逆位置と言う特異な能力は、人の手によって作り上げられたものだと?」
「可能性は高いのではないかな? 元々、自然に発生するものではないのだから、人によって手を加えられたと考えるのが自然だ」
「……」
自然物でないのならば人工物である―――その言葉は、涼二にとっても確かに納得できるものだった。
具体的な方法や、それを行った理由などは想像できないが、あの会社が何らかの実験を行っている事は予想できる。
ならば―――
「依頼主の知りたい事は、その実験……?」
「さて。僕では深い部分までは調べられないからね。ここから先は、スリス君に調べて貰うといいだろう」
「……はい、ありがとうございます」
既に十分深い所まで調べられているのではないか、と涼二は胸中で呟いたが、それを実際に態度に出す事は無くそう声を上げる。
しかし路野沢は、そんな内心すらも見透かしているような笑みを浮かべ―――その視線に、涼二は居心地悪そうに身を捩った。
涼二の様子に、路野沢は苦笑を見せる。
「ああ、そうだ涼二君」
「はい、何ですか?」
「前回の仕事の報酬を君の口座に振り込んでおいたから、確認しておいてくれ」
「あ……はい、分かりました」
この周辺の地図を脳内に描き、どの辺りに銀行があったかを思い返す。
二十代に達しない若者が持つにはあまりにも大きすぎる金額が入っているのだが、あり過ぎて困ると言うものでもない。
口座に入っている金額を思い返しつつ、涼二は路野沢へと向けて頭を下げた。
「いつも、ありがとうございます」
「いやいや。君達のように優秀な者達には、あの程度の金額では少な過ぎるくらいだ。あまり感謝されては申し訳なくなってしまうよ」
「……はい」
外見からは分かり辛いが、路野沢は決して善良な人間と言う訳ではない―――否、涼二たちと同じ、悪と断じられる人間だろう。。
それを分かっているからこそ、涼二は決して警戒心を解かぬまま頷いていた。
そして路野沢もまた、その態度に対し笑みを浮かべながら頷き、立ち上がる。
「では涼二君、次の仕事の時にでも」
「はい、分かりました」
「では」
軽く手を上げ、路野沢は踵を返して去ってゆく。
その背中を見詰め―――涼二は、深々と息を吐き出す。
「……どうにも、距離が掴みづらいんだよな、あの人は」
それが路野沢と言う男のやり口だと分かっているからこそ、涼二は苦い表情を浮かべていた。