05-3:戦船の上で
空を駆ける一隻の船。
木材と金属を組み合わせて作り上げられたそれは、言わずもがな能力によって作り上げられたものだ。
名を、《爪の戦船》。ムスペルヘイムに所属する能力者の力だ。
流れてゆく下界の様子を眺めつつ、小さく笑みを浮かべながら涼二は声を上げる。
「相変わらず、大した力だな、《爪の戦船》」
「はっはっは! アンタには負けるよ、大将! それと、もう忘れちまったのかい?」
「っと、そうだったな『船長』」
豪快な笑い声を上げたのは、舵を取る一人の女性。
降旗麦香。《爪の戦船》の名を持つムスペルヘイムの能力者。
大きな船を作り出し、高速で空を駆ける事が出来る彼女の能力は、大規模な運搬や移動などに重宝されていた。
それは涼二がムスペルヘイムに所属していた時代から変わらないことであり、涼二も彼女の事はよく知っている。
彼女が、能力を使っている間は『船長』と呼ばれたがっていると言う事もだ。
昔を懐かしむように、涼二は噛み締めるようにその呼び名をなぞる。
そんな涼二の様子に、麦香は口元を笑みにゆがめながら声をあげた。
「しかしまぁ、久しぶりじゃないか大将。あんまり変わってないようで何よりだよ」
「さあ、どうだろうな……」
小さく苦笑し、涼二は船の縁に背を預けながら、肩を竦めつつ声を上げる。
向かう視線は、若干日に焼けた麦香の顔へ。
既に二十台も後半の年齢であった筈だが、相変わらずの健康的な若々しさである。
「それで、どうだ? 緋織は上手い事やってるか?」
「ああ、勿論だよ。昔の初々しかったお嬢ちゃんは何処へやら……しっかり教育したじゃないか」
「そうか……ま、一応は安心か」
涼二は視線を僅かに傾け、周囲に指示を飛ばしている緋織へと向ける。
涼二が路野沢からの指示で彼女の世話を引きうけた時―――即ち、緋織がムスペルヘイムに配属された時から、涼二は彼女をこのムスペルヘイムの隊長にする心算であった。
彼女がKの始祖ルーン能力者である事を知り、誰にも全力を見せる事が出来ない己自身よりも、彼女の方が隊長に向いていると考えていたからだ。
本来ならば指揮官である隊長が前に出る事などは無いのだが、ムスペルヘイムでは純粋な実力から隊長が選ばれる。
故に、その他の仕事の補佐をする為の副官が付けられるのだ。
「俺の指導も捨てたモンじゃないって所かね」
「何言ってんだい、あんなにしっかりと教育してやってたくせに。ムスペルヘイムを辞めて、教職にでも就いたんじゃないかと思ってたよ」
「教職ねぇ……そんなガラじゃないと思うんだがな、俺は」
そう呟き、涼二は小さく苦笑する。
全くと言って良いほど、考えた事はなかったのだ。
姉の静菜を殺した人物を知ってから、常に頭の中に在ったのは復讐の事。
それ以外の自分は知らなかったし、それに己の全てを捧げるつもりでもあった。
故に、自分の生き方など、考えた事もなかったのだ。
「……」
「お? 何だい大将、遠い目ぇなんかしてさ?」
「いや……行き着く先まで行ってしまった、そんな感じがするんだよ」
それは、本来人間が永い年月を欠けて辿り着くべき場所。
永い年月を生きた老人が、人生の最後にその生を肯定されたかのような―――ある種、一つの境地。
生き急ぎ、駆け抜けてきた涼二だからこそ、僅かながらであろうともその片鱗を垣間見る事が出来たのだ。
己の辿り着くべき場所が、この船の向かう先に存在しているからこそ―――その先に何も無い事に、気付いてしまう。
けれども、立ち止まる選択肢などはありえななかった。
「……大将、アンタ」
「俺はもう、戻らない。戻れない。決定的に変わってしまったんだ。もう、その選択肢は何処にも存在してないんだよ、降旗。
だから、アンタ達は俺の事なんか気にしなくていい。緋織の事を見ててやって欲しいんだ」
「どうしても、かい?」
「ああ、どうしてもだ。俺はもう二度と、ユグドラシルには……ムスペルヘイムには戻らない。美汐の配下に加わる事も、一生無いだろう。
まあ、さっき断ったばっかりだけどな。どうにした所で、俺に選べる未来は少ないんだ」
「……そうかい。全く、いい若者が何生き急いでるんだか」
やれやれと―――嫌気が差したかのように、麦香はそう口にする。
彼女の視線は遥か先、空の彼方へと向けられていた。
その遠い目線は、どこか寂しさを覚えているかのように……引き返せない場所まで踏み込んでしまった若者を案じている。
そんな彼女の様子に、涼二はただ小さく苦笑を零していた。
「生き急いでしまった結果だよ……でもまぁ、最初から手遅れだった。もうずっと昔から、俺は引き返すと言う選択肢を失っていたんだ」
「へぇ……また随分と、嫌な人生だねぇ」
「……アンタだってまだ若いだろ。年寄りみたいな言い方するなよ」
「誰が年増だって!?」
「言ってないだろ!?」
互いに言って睨み合い―――そして、同時に相好を崩す。
愉快だと、ただただ愉快だとそう言うかのように。
事実、二人にとってはその通りであっただろう。それは、かつての二人と変わらぬやり取りだったのだから。
「ははははっ! アンタはやっぱり変わってないよ、大将。もしも変わったって言うんなら、それはきっと、あたしたちに出会う前からの話だ」
「そんなモンかね……」
「人間、そうそう簡単に変わったりするものじゃないってね」
そういって麦香は笑い、再び舵取りに集中し始める。
そんな様子を眺めながら、涼二は今告げられた言葉を一人ぼんやりと考えていた。
人間はそうそう簡単に変るものではない―――ならば、己が一番最初に抱いた願いは何だったのか、と。
あの日、燃え尽きた街の中で光を失った自分は、一体何を願っていたのか、と。
「俺は―――」
「涼二」
と、そこに凛とした声がかかる。
船の外へと向けられていた視線を戻せば、涼二の目には緋色の少女の姿が飛び込んできた。
磨戸緋織―――涼二が、己の立ち位置を譲った少女。
彼女はその瞳に強い覚悟の光を込め、その視線で真っ直ぐと涼二の目を射抜いてきている。
その力強い佇まいに、涼二は小さく苦笑を浮かべていた。
「やれやれ、気合入ってるな……どうしたんだよ、緋織?」
「え、と……聞かせて欲しい事がある。色々と……私は、知らない事が多すぎるから」
昔と変わらぬ様子で話しかけられたためか、緋織には若干の動揺が浮かぶ。
けれどそれをすぐさま消し、彼女は変わらぬ様子で声を上げた。
「涼二、貴方はどうして、ユグドラシルから抜けたの?」
「どうして、ね」
口元を僅かに苦く歪め、涼二は小さく反芻する。
涼二が彼女にそれを語らなかった理由―――それは、彼女が自身に依存している事に気付いていたからだ。
強大な能力から、幼いながらも―――涼二も人の事は言えないが―――最強の実働部隊に配属された緋織。
それはまだ経験の薄い少女にとって、どれほどの重圧となっただろうか。
そんな中で、年が近く親身に接してくれる者の存在とは、どれほど大きなものだっただろうか。
それを自覚していたからこそ、涼二は決して己の理由―――復讐を口にする事は無かったのだ。
告げてしまえば、彼女は必ず己に付いて来ると確信していたから。
「……やれやれ、こうなっちまうとはな」
「涼二!」
「分かってる、分かってるからちょっと待て」
逃げようにもここは空の上。無論、Hを使えば逃げる事は容易いが、わざわざそんな事の為に切り札を使う意義は無いし、それに逃げた所で意味は無い。
適当にはぐらかす事も不可能では無いが、涼二の中には、どこか諦めじみた感覚が芽生えていた。
もうじき戦いだから―――己の仇敵と戦う場面が来るから。
だからこそ、全てを隠す事に意味はないと、そう思えているのかもしれない。そんな自身の考えを自覚し、涼二は思わず苦笑していた。
そして―――ぽつりぽつりと、涼二は若干内容をぼかしながら話し始める。
「例えば……そうだな。お前は確か、嫌いな能力者がいたな」
「え? 一体何を―――」
「そんな奴と、ずっと同じ部屋の中にいなきゃいけない。それは、どんな気分だ?」
「それは……嫌に、決まっている」
「だろう? つまり、そういう事だよ」
大神槍悟と―――姉を殺した者と同じ場所にいる事が、堪らなく苦痛だった。
彼の者の下で戦っていると考えただけで、吐き気がする思いだった。
例え復讐を望まなかったとしても、己はユグドラシルから抜けていただろう、と涼二は小さく苦笑する。
緋織を置いていってしまうのは、結果としては変わらなかったのかもしれないのだ。
緋織は涼二の言葉を分かりかねたように首を傾げる。
意味は分かるのだろう。だが、緋織はユグドラシル内部での涼二の事を誰よりも知っている。
故に、涼二が言った存在が一体誰なのか、見当もつかない事が疑問だったのだ。
「それは、一体誰の……」
「言えない―――じゃ、さすがに納得しないだろうな」
そう呟き、涼二は再び苦笑する。
かつては、力で捻じ伏せた。しかし、今同じ事は出来ない。
故に、と―――涼二は、一つの言葉を切り出した。
「それじゃあ……そうだな。この戦いが終わったら、ニーズホッグを倒す事ができたら教えてやるよ」
「……本当?」
「ああ、約束する。知ってるだろ、俺は約束を破らないって」
「破らないのは、自分からした約束だけだったと思うけど。私が切り出した約束なんて、すぐに破ってた」
「そうだったか?」
おどけたように、涼二は笑う。
優しく親身で、時々意地悪な先輩の姿。それはかつて、涼二が演じ続けてきた姿だった。
しかし、決して偽りという訳では無い。涼二は確かに、緋織の事を気に入っていたのだ。
穏やかだった日々は、決して不快なものではなかったのだから。
故に―――涼二は忘れてしまっていた。
先ほど、己自身に対して感じていた違和感の正体を。
* * * * *
「あーまーねーちゃん」
「あ……こんにちは、桜花さん」
《爪の戦船》の上、ぼんやりとある方向を眺めていた雨音は、背後からかけられた声に振り返った。
そこにいたのは、漆黒の鱗に金色の瞳を持つ蛇―――ではなく、それを首に巻きつけた桜花の姿だった。
大人でも容易く絞め殺せそうな大蛇を巻き付けながらも、その表情の中には一部の恐怖心も存在していない。
そんな友への絶大なる信頼を垣間見て、雨音は小さく笑みを浮かべていた。
「どうかされましたか? また、誰か怪我を?」
「ううん、違う違う。ってか、雨音ちゃんは働き過ぎだって。力凄いからって、他の人の仕事まで取っちゃダメだよ」
「他の方、ですか?」
「ムスペルヘイムにだって、治癒能力者ぐらいいるでしょ。雨音ちゃんは、雨音ちゃんにしか治せないような人を助けてあげれば良いんじゃない?」
それは雨音を案じる言葉でありながら、同時に必要以上の事を誰かにする必要はないという彼女の考えでもあった。
否、彼女に限らず、それはかつての大災害を生き延びた者達に共通して存在する心理。
自分の事を考えなくては、他者の事ばかり気にしていては生き残れない時代があったのだ。
けれどそんな言葉に対し、雨音は僅かながらに目を細め、穏やかに微笑しながら声を上げる。
「いいんですよ、桜花さん。私は、涼二様のためにこれをしているのですから」
「涼二の、為?」
「はい。それと、ガルム様にスリスさん……私を受け入れてくれた、家族の為に」
雨音にとっての世界は、酷く狭いもの。
幼い頃から軟禁され続け、そこから抜け出した後もあまり世間に出たとは言いがたい。
けれど、そんな狭い世界の中にも、雨音にとっては確かに大切であると感じられる場所があった。
暖かな陽だまりのような、彼女にとっての『家族』の居場所。
「涼二様は、私を助けてくださいました。ですから、私は少しでも涼二様の助けになりたいのです」
「……雨音ちゃん。あいつがやろうとしてる事、分かってるんだよね?」
「はい、桜花様も?」
「んー……双雅から聞いたのはついさっきだけどさ、納得した感じだね」
納得した―――その言葉に、雨音は思わず首を傾げる。
桜花は誰よりも昔から涼二の事を知っている。それ故に感じる事があったのか。
そんな雨音の視線に、桜花は僅かに苦笑を零しながら声を上げた。
「まあ、あたしは昔からあいつの事を知ってて……あのままじゃいけないと思って、ちゃんと人付き合いが出来るように色々と引っ張り回してたんだけど。
でも、今の状況を考えると、そんな事はやらない方が良かったのかもしれないなぁ……ってさ。
きっと、涼二にとって『情』なんてのは邪魔でしかないだろうし」
「けれど、それがなければ、私は今ここにいないと思います」
「……そっか。うん、そう言ってくれると、あたしも嬉しいかな」
少々照れたように、桜花はぽりぽりと頬を掻く。
そんな彼女の様子を見つめつつ、雨音は小さく首を傾げた。
そしておずおずと、どこか怯えるように声を上げる。
「あの……聞かないのですか、私がした事を」
「ん? んー……ま、いいんじゃない? 雨音ちゃんが涼二を大切にしてるって事は、あたしも十分理解してるし」
優しき信頼、ある種重圧にもなるそれを向けられ、雨音は小さく息を飲む。
しかしながら、ムスペルヘイムの眼があるこの場で詳しく話す事を避けられたのは僥倖であり、雨音も元より詳しく語るつもりはなかった。
小さく安堵の息を吐き、雨音はその視線を僅かにずらして、先ほどの方向―――涼二と緋織が離している方へと向ける。
桜花もまたその視線を追い、小さく苦笑を零した。
「あいつ、ユグドラシルでの事なんか全然話さないから殆ど知らなかったけど……あんな可愛い子誑かしちゃってまぁ。あたしも、教育間違ったかなぁ」
「桜花さんが涼二様のお母様なのですか?」
「や、その感想はおかしい。ってか、せめて姉とか……まあ、年齢的には妹だけどさ、あたし。それにあいつ、『姉』は神聖視してそうだし」
げんなりと、どこか引き攣った笑みを浮かべ、桜花は嘆息する。
けれど、他者との関わりを完全に拒絶していた涼二を引っ張り出したのは、紛れもなく桜花と双雅だったのだ。
かつてを思い返すように目を細め―――桜花は、ゆっくりと声を上げる。
「あいつってさ……一番最初は、完全に自己完結してる人間だったんだよ」
「自己完結、ですか?」
「そ。あいつって、本当は他人の事なんかどうでもいいの。世界には自分とお姉さんだけがいればいい……お姉さんがいれば、あいつは満たされていた。
小さい頃さ、あいつって、一日中ずーっと鏡を見てたりした事があったんだけど……雨音ちゃんは、分かるよね?」
「……それは」
涼二の目の事は、仲間となった時に聞かされていた。
その眼球は姉のものであると、かつての目と姉を奪った存在に復讐するのだと。
姉―――氷室静奈を至上とする彼が、鏡を見続けていた理由など、考えるまでも無い。
「お姉さんがいない世界なんかに、価値は無い。ただ、自分の目だけがあいつにとっての価値だった。
例え一部分だけだったとしても、お姉さんの一部を傷つけたくなかったから、あいつは自殺なんてしなかったんだろうけど。
自分が死んだら、目だって朽ちちゃうんだからね」
「そこまで……気付いていらっしゃったのですか?」
「幼心にね。このままじゃいけないって、あたしは思ったんだよ。だから、連れ出した」
氷の鏡に包まれた彼の世界に、桜花と双雅は無理矢理に足を踏み入れた。
このままじゃいけないのだ、姉の命を受け継いだのならば、もっと精一杯生きねばならないのだ。
「お姉さんが見れなかったものを、もっと見せてあげようって。アンタが見たものは、お姉さんが見たものになるんだからって。
もっともっと、あんたが大切だと思えるものを見ていった方が良いんだって……あいつにとっての幸せを、あたしはすり替えた。
一人で、永遠に朽ちない氷像を抱いていた方が、きっと幸せだったんだろうけどね」
復讐も何も無い、戦いも何も無い。ただ、己だけで完結した世界。
それならば、少なくとも彼は傷つく事はなかっただろう、と。
けれど、それは変わってしまったのだ。それが例え、表面上だけだったとしても。
「あたしが中途半端な事をしたから、あいつも中途半端になってしまった。極端に言えばさ、手段を選ばなければどうとだって出来たんだよ、涼二は。
本当に復讐に走るなら、この国ごと滅ぼしてしまう選択肢だってあった筈だから」
「でも、それをしなかったのは……」
「大切だと思えるものを、その錯覚を、あたしがあいつに抱かせてしまったから。だから苦しんで、ボロボロになって、行き着くところまで行こうとしちゃってる」
深く、溜め息が零れ落ちる。
それとともに空を仰いだ桜花の表情は―――どこか、泣き笑いのように歪んでいた。
自分の生で、誰かが傷つく。その心境は、雨音には痛いほどに分かる。
彼女もかつては、望まぬ力で人を傷つけた存在だったのだから。
「だからさ……最後の最後になるけど、協力したいって思うんだ。もう手遅れかもしれないけど……少しでも、満足させてあげたいからね」
「……そう、ですね」
万感の想いで呟かれた言葉は冬の風に消える。
目的地へは―――もう間もなく、到着しようとしていた。