04-13:破滅の三柱
びしびしと、氷の砕ける音が響く。
誰よりも会いたかった人物に目を奪われていた緋織は、その音によって我に返り、若干慌てつつその視線を音の方へと向けた。
そこにあるのは、巨大な氷山。
海面に立てば見上げるほどはあるであろう氷塊は、その内にニーズホッグを閉じ込めている。
三対の翼を持つ黒き龍。しかしその身体を包む氷は、内側から徐々にひび割れてきていた。
その周囲は先ほどまでよりも濃い靄に覆われており、全貌を掴む事を難しくしている。
「……頭が良いんだか悪いんだか。出てきた瞬間の総攻撃も微妙な所って訳だ」
ぼやくような涼二の声。
ニーズホッグに集中する周囲の者達はそれに答える事はなかったが、それでも僅かながらに意識を取られていた。
何故ここにいるのか、今まで何をしていたのか―――聞きたい事は、山ほどあるからだ。
けれど、それを優先するようなものはこの場には存在しない。
己のすべき事が何なのか、誰もがそれを自覚していたからだ。
(後で、ちゃんと話を聞こう)
胸中で、緋織はそう決心する。
聞きたかった事、聞けなかった事、かつて止め切れなかった事による未練はいくらでもある。
それでも、この場を疎かにする事はできないと―――涼二の部下であった自分が、そんな無様は晒せないと、そう誓うように。
(……ああ、そうだ)
すとん、と。
胸の中で、揺れていた何かがあるべき場所に納まったような錯覚。
何かが足りないと、何かがおかしいと、ずっと感じていたもの。
それが元通りの形になり、緋織は小さく安堵するように、穏やかな笑みを浮かべていた。
(私は、涼二の部下なんだ―――)
涼二の許で戦い、その力を振るう事こそが己の在り方なのだと―――それを理解しながら、緋織は刃を構える。
そしてそれとほぼ同時、ニーズホッグは、己を封じる氷を粉砕しながら空へと駆け上がった。
『GOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!』
響き渡る巨大な咆哮。そこに満ちる怒りは、周囲の者達に本能的な恐怖を覚えさせる。
相手は人知を超えた怪物であり、圧倒的な力の差を見せ付けられた存在。
その気後れとて、決して無理のあるものではない。
が―――
「皆、行くよっ!」
「攻撃は通じていたんだ、勝てない相手じゃない! ここで必ず討ち取るぞ!」
―――そこには、二人の英雄が存在していた。
恐れを知らず、仲間を信じ続ける強き少女。仲間を知り、敵を知り尽くした青年。
二人はそれぞれ異なる形で、自分達の勝利を信じていた。
そして、強大な敵を前にして尚曲がる事の無いその在り方は、周囲の者達に勇気を与える。
そんな信頼に、真っ先に応えたのは一人の青年。
「んじゃまァ、行きますかねッ!」
鈍色か、黒ずんだ銀か。
獣のような鎧を纏った双雅は、その身から余計な武装を増やす事無く、まだ人に近い姿のままに宙を駆ける。
対するは、ニーズホッグの放つ無数の風刃。
無尽蔵に溜め込まれたプラーナより放たれるそれは、緋織ですら相殺するのに苦労するほどの破壊力を持つものだ。
加速しながら瞬く間に向かってくる死の刃―――しかし、双雅はいつも通りの笑みを絶やす事は無かった。
「オオラァッ!」
放たれたのは、加速を得た拳の一撃。
互いの攻撃は真正面から激突し―――双雅の拳は、ニーズホッグの攻撃を吹き散らした。
しかしながら、それはほぼ相殺されるような形。双雅の動きは、一瞬だけ止まる。
そんな状態に彼に向けられたのは、ニーズホッグの持つ七つの瞳だった。
対象を一瞬で握り潰す強力な重力波。いかに強力な甲冑に身を包んだ双雅と言えど、それを受ければひとたまりも無い。
が―――そんなニーズホッグの眼前に、氷で形成された鏡が発生した。
『Gr……!?』
目標を見失い、ニーズホッグは狼狽したように視線を巡らせる。
ニーズホッグの放つ重力波は、決して鏡などで反射できるものではない。
が、その攻撃は必ず目視した相手に向かって放たれるものであった。
それは即ち、相手が視界の中に存在しなければ、きちんとした座標を定める事が出来ないという事。
「辺り構わずぶっ放しちまえばよかったんだよ。中途半端な知性が仇になったな、大トカゲ」
その掌を向けていた涼二は、僅かながらに皮肉った笑みを浮かべてそう告げる。
そんな言葉が届くが速いか、生成された鏡を砕き割り、双雅がニーズホッグの眼前へと身を躍らせた。
通常で考えるならば、それは死の領域。一度入り込めば、決して生きては出られないはずの場所。
しかし、双雅にはそこから離脱できるだけの速度に加え―――強力無比なパワーも兼ね備えていた。
「ぶっ飛びなァッ!」
『Gu―――gAahhhhhhッ!!』
身体強化の極致、Tの始祖ルーン。
究極の加速能力たるRの始祖ルーンの力を伴い放たれる拳の一撃は、人知を超えた怪物たるニーズホッグの反射速度ですら捉えきれない速さを持つ。
そしてその一撃は狙い違える事無くニーズホッグの顔面へと放たれ、その頑強な瞳の一つを確実に砕き潰していた。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!』
仰け反りながら、苦悶に身を捩るニーズホッグ。
それと共に、その周囲を覆っていた黒い靄は、僅かながら確実にその密度を減らしてゆく。
身体強化と物質形成―――ニーズホッグの能力減衰領域の影響を最も受けづらい双雅だからこその、その破壊力。
他の人間であればこうも簡単には行かない。しかしながら、初めてダメージと呼べるダメージを与える事が出来たその光景は、ムスペルヘイムの隊員たちを奮い立たせるには十分すぎるものだった。
「よし―――行くぞッ!」
「流れに乗るわよ!」
灼熱が猛る。
緋色の炎を纏う緋織と、黄金の炎を纏うフォルス。
二色の炎は、美汐の力の後押しを受けながら、その力を十全に解放した。
尾を引くように二色の輝きは宙を駆け、仰け反ったニーズホッグへと隕石のように突撃してゆく。
纏う灼熱は、超高熱を保ちながらも、周囲への放射熱は完全な形で押さえ込む。
故に、その熱量は際限の無いものへと押し上げられていた。
「《災いの枝》―――《黄金の頂を焼き尽くせ》ッ!」
「《真焔天体》ッ!」
灼熱が宙を駆ける。
交差するように、その二つの一撃は仰け反ったニーズホッグへとほぼ同時に激突した。
纏う炎は敵を害する為だけに振るわれ、その圧倒的な熱量を完全な形で相手へと伝える。
「はあああああああああああッ!」
「でええええええええええいっ!」
裂帛の咆哮は余す事無く存分にその力を発揮し、ニーズホッグの能力展開を許さぬままに通り抜けた。
正面から直撃した二つの炎は、黒龍の強固な鱗に覆われたその胸部を赤熱させ、融解させかかっている。
その強靭な筋肉にまではダメージを与える事は出来ていなかったが……一瞬とはいえ、その防御力を貫いたのだ。
そして、その僅かな好機を、最強の一撃を持つ剣士は見逃さない。
「今度こそ、斬る―――」
鋭い、研ぎ澄まされた刃のような殺気がニーズホッグを射抜く。
獣であるからだろうか、魔獣は反射的にそれに反応し、身を焦がす熱に苦しみながらも無数の風の刃を剣士―――四之宮正仁へと放つ。
が―――そこに立ちはだかる者があった。
「攻撃を通しはしない……!」
そこに立つのは、銀の領域を広げるエイシール。
ユグドラシル最強の防御能力は、単一能力しか発動できぬニーズホッグの攻撃を危なげなく受け止める。
その光景に、まるで苛立ったかのようにニーズホッグは唸り声を上げる。
目の前の相手を許さぬという強い意思―――故に、それは大きな隙となった。
「捕らえて、《八岐大蛇》!」
『Ga―――ッ!?』
ニーズホッグのは以後よりせり上がった海水は、八つの顎を持つ巨大な蛇の形を形成する。
水の蛇は黒龍の持つ頭と尻尾、そして六つの翼に喰らい付き、その動きを完全に止めていた。
重力と風を操る事で天を駆けるニーズホッグは翼を抑えられた程度で地に落ちる事は無いが、それでも僅かな時間拘束するには十分すぎる力。
『GuraaaaAAAAAAAッ!』
ならば、とでも言うつもりか―――ニーズホッグは、Hのルーンを輝かせる。
それに反応したのは、神速の能力を持つ二人の実力者だった。
相手の攻撃パターンは既にいくつも見ているのだ。ニーズホッグが相手を近づけさせない為にどうするのか―――それは、間近で相手の動きを見てきた彼らが最も良く分かっている。
「雷を纏うってか……やらせる訳ねぇだろうが!」
怒号と共に、新森は駆ける。
己の身を省みない威力で放たれた蹴りはニーズホッグの顎に突き刺さり、一瞬ながらにその意識を怯ませる。
そして、その仰け反った頭部へと駆ける影が存在していた。
「おりゃあああああああッ!」
氷の剣を逆手に持ち、真上から墜落するように駆ける青年、シャール。
彼の狙い定めたその場所は、新森の一撃によってずれた頭部へと確実に向かっていた。
そんな彼の攻撃は、強大な破壊力を秘めた一撃ではない。
彼はあくまでもスピード型の能力者、相手の防御を許さずに何よりも速く駆け抜ける事が仕事なのだ。
元より、今回の戦いで有効な打撃を与えられるなどとは考えていない。
だが―――今この瞬間だけは、例外だった。
「そこだあああああっ!」
まるで地面に突き立てるかのように、シャールは刃を振り下ろす。
その一撃は狙い過たず、砕け散ったニーズホッグの眼窩へと突き刺さっていた。
ただの一撃ではその鱗を貫けない、加速した一撃ですら、その瞳を斬り裂けない。
けれど、既に穿たれた傷に刃を突き込むだけならば、シャールの攻撃力とて十分な痛痒を与えられるのだ。
尤も、この魔獣を仕留められるほどに深く刃を突き入れる事は出来なかったが―――それでも、一撃の隙を作るだけならば、十分すぎる。
「正仁さんッ!」
「―――ああ、感謝する」
その声が響いたのは、ニーズホッグの胸の前。
十全な状態であれば飛行のための力すら維持が難しく、放たれる風や雷は到底防ぐ事もままならない死の領域。
その場所に立ち、四之宮正仁は刃を構えながら静かに笑む。
引き絞られたその姿は、限界まで張り詰めた弓の如く。
融解しかかった胸の前に構えられる《血吸いの魔剣》。それは最早、必殺の刃を突きつけられた事に等しい。
そして―――
「今度こそ―――堕ちよッ!」
―――破滅の一閃は、反応すら許す事無く放たれた。
僅かになるのは鯉口を切る音。否、それすらも置き去りにし、神速の居合いは振り抜かれる。
下ろされた刃は血振りをされ、そしてゆっくりと鞘に納められる。
刹那―――深く斬り裂かれたニーズホッグの胸より、銀色の体液が噴出した。
『Gu、Gga―――』
悲鳴すら上げられず、半ば呻き声のような音を立て、ニーズホッグの身体はぐらりと揺れる。
初めて与えた、深手と呼ぶ事が出来るであろうダメージ。
そして、それと共に完全に動きが止まったニーズホッグ。
この瞬間こそが、この敵を落とす千載一遇のチャンスだと、その場にいた誰もが理解した。
故に、全員がその力を解放しようと構える―――その、刹那。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――ッ!!』
咆哮と共に溢れた力―――それに、涼二は思わず目を見開いていた。
「拙い、これは……!」
風が流れる。
それはニーズホッグの放つHの力であったが、決して先ほどまでのように激しい嵐という訳ではなかった。
が、それの持つ力は、先ほどとは比べ物にならぬほどに厄介なもの。
何故なら―――その風に触れた途端、体が酷く重くなってしまったのだから。
墜落しそうになる身体を何とか持ち上げつつも、緋織は呻くように声をあげる。
「エンチャント……ッ!?」
Hの風に混ざるOの重力。
触れただけでその身に掛かる重力を増加させる効果―――それは決して、レベルの高い使い方という訳ではない。
事実、この風に触れただけで身体を潰されるような事はなかった。
だが、それでも決して軽い状況といえる訳ではない。
何故なら、ニーズホッグの持つ力の総量は、神話級の能力者から見ても尚巨大と言わざるを得ないほどに強大なものだったからだ。
そして何より、今まで使っていなかったはずの力を使った事。使っていなかったからこそ拮抗していたそのバランスを、崩されてしまったのだ。
「しま―――がッ!?」
誰もが驚愕と加重に動けずにいる中、最も近くにいた正仁が、強烈な尻尾の一閃によって薙ぎ払われる。
咄嗟に反応して刀を盾にするが、その圧倒的な質量は到底人間に受け止めきれるものでは無い。
呆気無く弾き飛ばされ、正仁は海面へと墜落してゆく。
誰もがそちらへと一瞬意識を奪われた、その刹那―――再び、周囲へと強烈な風が吹き荒れた。
「く……ッ!」
それは暴風と言う表現すら生温い。
壁のように迫ってきたそれは、最早爆風と言うべきものであっただろう。
咄嗟にプラーナで防御するも、面々はその風圧に弾き飛ばされ、ニーズホッグから距離を開ける事となる。
そしてそれと同時、ニーズホッグは拘束から逃れると、その巨体を動かし始めた。
―――海岸の、拠点の方へと向けて。
「しまった!」
「クソッ、双雅!」
「応よ!」
涼二の言葉に頷きながら、ニーズホッグを追って双雅は駆ける。
あの場所には桜花が居るのだ、行かせる訳にはいかない、と。
しかし、体が重い。未だに、加重の風はその効果を及ぼしていたのだ。
強靭な鎧を纏ったその身は、常人よりも遥かに重い。
故にこのままでは追いつけない―――それを悟った双雅は、即座に身に纏う鎧を手甲を残して破壊した。
それでも体が重い事に変わりはないが、Tの始祖ルーンを持つ双雅ならば、それを無視して活動する事も可能だ。
急ぎ宙を駆け抜け、双雅はその拳を叩きつけようとする。が―――
「ッ―――!?」
眼前に発生した風の刃に、双雅は咄嗟にその腕で顔面を庇っていた。
それとほぼ同時、鋭い風刃が叩き付けられる。
手甲の部分はまだしも、他は生身の体。Tによる極限の強化のおかげで深い傷には至らなかったものの、双雅はその一撃に血を吹き出しながら吹き飛ばされていた。
その光景に歯を食いしばり、涼二はThの力を発動しようとして、硬直する。
(今、ここで見せる訳には―――)
それは一瞬の躊躇。
使えば、いかなニーズホッグとてその動きを封じる事は出来ただろう。
しかし切り札を見せる訳には行かない―――その考えが、涼二を踏み止まらせてしまったのだ。
「みんなっ!」
「く……ッ!」
体勢を立て直し、飛び出して往く美汐と、それを追う緋織。
だが、間に合わない。神速を持つ二人の能力者はどちらもニーズホッグを止めうるだけの攻撃力を持ち合わせておらず、現状そのスピードすらも鈍っている状態なのだ。
舌打ちと共に、涼二もまた彼女達を追おうとし―――
「……え?」
―――突如として、漆黒の何かが膨れ上がったのだった。
* * * * *
「―――」
声を上げる事も出来ず、桜花は呆然とその光景を見上げる。
突如として海岸の方へと向かってきたニーズホッグ―――その状況を認識してからの出来事は、彼女の理解の範疇を大きく越えていたのだ。
まず、ニーズホッグが海岸へと到達した瞬間、それを押し留めようとしたムスペルヘイムの隊員達は易々と薙ぎ払われてしまった。
力を残していた災害級の能力者とて、黒翼の悪龍には到底届かない。
それを止める為、桜花は咄嗟に能力を発動していた。
が―――能力を減衰させる力を持つニーズホッグ相手では、到底彼女のプラーナ密度による力は届かない。
それどころか、桜花を標的として定め、襲いかかろうとしていたのだ。
だが、その攻撃が果たされる事は無かった。何故なら、それを遮るかのように黄金の閃光が割り込んでいたのだ。
『雨音君!』
「はいっ!」
それは、一人の少女を背に乗せた黄金の狼。
その狼の一撃は桜花の眼前まで迫っていたニーズホッグを弾き飛ばす。そしてその背に乗っていた少女の手が龍の背に触れた途端、圧倒的な力の流れは一瞬にして収まっていたのだ。
―――そして、最後に起こった事。
「……夜月、なの?」
見上げるほどに巨大な、夜色の蛇。
それは最早、蛇であると言う事すら知覚できないほどに巨大な姿をしていた。
体高だけで五メートルはあろうかと言う体躯、ニーズホッグすら丸呑みにせんとするほどに巨大な口。
桜花がそれを己の親友だと知覚出来たのは、その漆黒の鱗と黄金に輝く瞳の為だった。
夜空に浮かぶ月のような、美しい瞳。それこそが、己が親友の証であると、桜花はしっかりと認識していたのだ。
巨大化した夜月は、大きく牙を剥いてニーズホッグを締め上げる。
慌ててその場から退避する黄金の狼と少女を尻目に、夜月はその長大な体躯を生かしてニーズホッグの身体を完全に拘束していた。
強大な身体強化を持つが故に、ニーズホッグは何とかその締め付けに対抗している。が、到底そこから逃げ出す事は叶わない。
そして―――その数秒の拮抗は、ニーズホッグにとって致命的な隙となった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
天より降下してきたのは、緋色の刃を携える炎の少女。
彼女は一つの矢のように刃を突き出しながら飛翔し―――その切っ先を、砕け潰れたニーズホッグの瞳の中へと突き入れていた。
火花が散り、衝撃が駆け抜ける、一瞬の静寂。そして―――
「砕け、散れぇッ!!」
刃を伝って放たれた強大な爆焔が、ニーズホッグの頭部を内側から完全に打ち砕いていた。