04-7:戦端
遠く広がる海原と、足元に広がる砂浜。
それを眺め、緋織が思うのは、『踏み込み辛そう』などという少女らしからぬ感想だった。
彼女はその瞳でじっと海の向こうを睨むようにしつつ、沈黙を続けている。
と―――そこに、後ろから声を掛ける存在があった。
「緋織ちゃん、体冷えるよ」
「美汐様……一人で出歩かないようにと申しているでしょう」
「今は緋織ちゃんがいるもん」
嘆息と共に、緋織は振り返る。
そこに立っていたのは響いた声の通り、黄金の髪を風に揺らす大神美汐だった。
冬の海に吹き荒れる寒風に少しだけ身を震わせるようにしながら、彼女は笑う。
これから先に待つ凄惨な戦いを、微塵も気負う様子も無く。
(いや―――)
脳裏に浮かんだ言葉を、緋織は即座に否定する。
気にしていない筈が無い。彼女は、人の上に立つ教育を受けてはいるが、それでも根本は心優しい少女なのだ。
誰もが生き残れる保証など無い。むしろ、誰かが命を落とす可能性の方が遥かに高いだろう。
そんな戦場に立つ事は、彼女にとって苦痛にしかならない筈だ。
だというのに、何故美汐は笑っている事が出来るのか―――それが、緋織には分からなかった。
「ここが、戦場になるんだよね」
「え……?」
「夏なら綺麗なんだろうな、ってね。半年後には、しっかり直ってるようにしないと」
まるで呼吸するかのように、美汐は他者を思いやる。
例え裏切られようと、罵られようと、ただ真っ直ぐ立つ事を止めない少女。
愚かであると笑う者もいるだろう。けれど、それこそが彼女の覇道。
他者の心を惹き付け、他者と共に立つ者―――それ故に、緋織はその魂に魅入られたのだ。
緋織は口元に小さく笑みを浮かべ、声を上げる。
「……ええ、その為にも、貴方は生き残らなくては」
「皆が、だよ。私は、皆が一緒にいるからやって行けるんだから」
「ええ……そう、その通りですね」
それが叶わないであろう事は、緋織も美汐も分かっている。
確かに、ここに集っている人間達は最上位の能力者ばかりだ。
緋織を始めとした、ムスペルヘイムに所属している災害級以上の能力者。
同じく、総帥の護衛のために残った徹以外の、フギンの上位能力者たち。
後方支援として、通信で指示を出すミーミル。
この過剰ともいえる戦力は、例え軍隊が相手だったとしても敗北する事は無いであろうほどの力を有している。
が、それでもあのニーズホッグに対して無傷で勝利を収めるのは不可能であると、緋織は確信していた。
けれども―――美汐は、決して諦めるような事はしない。そうであるからこそ、緋織もそれに応えようと思うのだ。
「災害級の者達は後方に下がっている筈です。ですので、私達の戦い方次第で、被害はかなり減少させる事が出来るでしょう。そして、その戦い方は―――」
「悠君が伝えてくれる、だよね?」
「はい。彼ならば、必ず私達に行くべき道を示してくれる筈です」
若干の無茶振りをしつつ、緋織は小さく苦笑する。
悠は今、本部に残りミーミルで情報の編纂をしているのだ。
彼の記憶だけでは間に合わない情報を集め、そこからニーズホッグの攻略法を組み立てようとしている。
「災害級の皆は一発限りの大技を、私の領域の中から放って貰う。出来る事なら、それで落ちて欲しい所だけど……」
「悠の話を聞く以上、おそらく不可能でしょう」
「だね……でも、足止めにはなる。その後は、私達の仕事だよ」
本来、美汐の仕事はその稀有なファンクションである《光輝なる英雄譚》を展開する事。
その力によって強化された災害級の能力者、そして彼らの放つ乾坤一擲の一撃は、神話級の能力者に勝るとも劣らない威力となって放たれる事となる。
一撃で都市一つを壊滅させられるような力―――しかしながら、それの集中を受けて尚ニーズホッグが落ちる事は無いと言う。
実際に相対した訳ではない為に半ば信じる事は出来ないその言葉。
そう思いながらも、緋織は決して悠の言葉を疑ってはいなかった。
「私の力は、その後も必要になるからね。ちゃんと頑張るから……だから、私がもう一度《光輝なる英雄譚》を展開するまで、何とか持たせて」
「ええ、分かっています」
《光輝なる英雄譚》はその強大すぎる力ゆえ、あまり広い範囲に展開する事はできない。
ニーズホッグとの戦闘の際には、一度展開した領域を消してから、もう一度展開し直さなくてはならないのだ。
その間、緋織達は美汐の援護無しに戦う事になる。
普段よりも力が弱体化してしまうニーズホッグの能力領域内では、致命的になりかねない時間だ。
更に、美汐の能力がニーズホッグの能力に押し勝てるのか、という懸念もある。
(……どうなってしまうんだろう)
僅かながらに、美汐は胸中でそう呟く。
能力が押し合った結果、どうなってしまうのか―――それは、実際にやってみなければ分からない事だった。
ニーズホッグの能力領域を押し退けて、《光輝なる英雄譚》が展開されるのか。
はたまた、その力に抑え込まれ、能力領域を展開する事が出来なくなるのか。
もしくは、互いに相殺し合って能力が発動されないのか。
どちらの定める法が適応されるのか、力の使い手である美汐ですら判断する事は叶わない。
けれど―――
「気持ちで負けたら、押し負けちゃうもんね」
「美汐様? どうかなさいましたか?」
「ううん、何でもない。ただ、頑張ろうって思っただけだよ」
吹きすさぶ風の中に消えた声に、緋織が首を傾げる。
そんな彼女の様子に、美汐は小さく笑みを浮かべていた。
言葉は純粋に真実のみを述べたもの。彼女は、ただ覚悟を決めていた。
『皆の為に』―――それこそが、彼女の行動原理であり渇望なのだから。
そんな美汐の表情に、緋織も頷く。
「はい、美汐様。私が、貴女を護ります」
「……うん。領域の展開に集中して、私自身の動きは疎かになるかもしれないから……お願いね」
「ええ、分かっています。あなたを失う訳には行きませんから」
普段ならば、美汐は是が非でも戦線に加わろうとする。
しかし、今回ばかりはその限りではなかった。
ニーズホッグには、中途半端な能力は通用しない―――例えそれが、神話級の能力だったとしても。
《光輝なる英雄譚》を展開している美汐は、その維持に意識を取られてしまう。
その状態ではニーズホッグに対してダメージを与えられないと、彼女は理解していたのだ。
美汐は、小さく笑う。
「私が、次期総帥だから?」
「……友達だから、です」
「うふふ、分かってるよ、緋織ちゃん」
「もう……からかわないで下さい、美汐様」
困ったように笑い、緋織はそう呟く。
例え、立場と言う枠に嵌められていたとしても、その友情に変化は無い。
かつて友と一緒に戦っていた時代―――二人は、決してあの頃を忘れる事は出来ないから。
僅かながらに、かつての日々の事を懐かしく思いながら―――ふと、二人は近付いてくる気配に気付いた。
対し、反応した緋織がそちらへと視線を向ける。姿を見せたのは、ムスペルヘイムの隊員の一人だった。
「隊長! ―――と、美汐様!?」
「ああ、私の事は気にしなくていいよ。それで、どうかしたの?」
「は、はぁ……」
青年は美汐の姿を見て目を剥き、視線を右往左往させる。
そんな彼の様子に、緋織は小さく嘆息を零していた。
流石に、予想もしなかった場所に次期総帥がいればこのような反応をしてしまうのも無理は無い。
「……少し、この後の話をしていただけ。それで、何があったの?」
「は、はい……実は、市民を発見いたしまして」
「え?」
「……住民の避難は優先的に行った筈では? 残っている可能性も確かにあったけれど……」
ニーズホッグが向かってきていると分かった時点で、ユグドラシルは既に進行ルート上の住民の避難を開始していた。
未だ奥地は完全とは言いがたいが、それでもこの海岸付近は完全に閉鎖されている。
だと言うのに、何処に人が残っていたと言うのか―――そんな疑問と共に、緋織は首を傾げていた。
が、そんな彼女の言葉に対し、隊員は首を横に振る。
「いえ、それが……避難の遅れた住民ではないようで」
「は? それじゃあ……外から入ってきた、と?」
「ええ、本人はそのように申しております」
そんな彼の言葉に、緋織は思わずきょとんと目を見開いていた。
理解が出来なかったのだ。これからこの場所は危険な戦闘区域となる。
そんな場所に好き好んで入り込んできそうなものがいるとは、到底思えなかったのだ
「……とりあえず、今はどうしているの?」
「こちらで保護しております。流石に、連れ出すのに割ける人員も居らず、大人しくしていて貰うしか……」
「そう、分かった。案内して」
「よろしいのですか?」
「もし危険な能力者だったら、私以外の誰が対処すればいいと?」
小さく笑み、緋織はそう口にする。
そして青年に対して案内するようにと告げ、彼の後ろについて歩き出した。
―――美汐も一緒に。
「……美汐様」
「一人になるなって言ったのは緋織ちゃんでしょ?」
「はぁ……直接会うような事はしないで下さいね」
嘆息と共に追求を諦め、緋織は美汐の方に気を配りながらも歩いてゆく。
尤も、周囲の警戒など殆ど必要ない事は分かっていたが。
この周囲の安全は既に確保されている。視界も広い為、危険は殆ど存在しないのだ。
懸念と言うならば、先ほど報告された謎の人物について程度である。
「……何なんだろう、一体」
そんな緋織の小さな呟きは、吹き荒ぶ風の中に白い吐息となって消えていった。
* * * * *
朽ちたビルの合間に渦巻く風が、甲高い音を立てて吹き抜けてゆく。
一際高いビルの上に立ち、大神槍悟はただ静かに瞑目していた。
一見すれば、ただ瞑想しているだけにしか見えないその姿。
しかしながら、その体内で練り上げられるプラーナは、常人からすれば信じられないほどの密度となっていた。
(いや―――)
己の考えていた内容を、大神徹は傍らに立ちながら否定する。
常人程度では、槍悟の力は決して測る事は出来ないのだ。
巨大すぎる。始祖ルーンを持つ能力者である徹ですら、その全貌を掴む事ができない。
ましてや、普通の能力者程度では、到底彼の力を感じ取る事など出来ないだろう。
(俺は、この領域に辿り着く事が出来るのか……?)
徹は、様々な能力者の存在を知っている。
彼の義妹であり、ユグドラシルの次期総帥の美汐。ある種完成された能力であると言える、《光輝なる英雄譚》。
ムスペルヘイムの隊長たる、緋織。放出系の始祖ルーンが持つ圧倒的な火力を一点に凝縮した武器、《災いの枝》。
そして彼女の先任である、涼二。他の追随を許さないほどに効率化されたエンチャント技能によって放たれる技、《氷雨》。
どれもこれも、非常に強力な能力であると言う事の出来るそれらの力。
しかし、槍悟の力はそれらすら児戯であると言わんばかりに完成されたものだった。
―――《必滅の槍》。
いかなるルーンの組み合わせによって放たれるのか、それすら全く知覚出来ない強大な能力。
唯一判明しているのは、その素体となる槍がJの始祖ルーンによって生成されている事だけだった。
その槍が一度槍悟の手によって放たれれば、それはRの加速よりも速く宙を駆け、Hの暴風すらも吹き散らし、Eの防御すらも易々と貫いて標的に命中する。
例え一度躱す事が出来たとしても、その一撃は一瞬で方向転換し、命中するまで敵を追い続ける。
決して外れない槍―――そしてその強大なプラーナの込められた槍は、命中した相手の内部で弾け、一撃で敵を撃滅する。
一対多に向いた能力とは決して言えない。決して届かない筈が無い。
だと言うのに、大神槍悟という男は未だに王者として、最強として君臨していた。
「どうかしたのか、徹」
「……親父」
ぼんやりと思考していた徹は、その声に意識を戻した。
槍悟は一度瞑想を止め、彼の方へと向き直っている。
普段と変わらぬ厳格な表情。巌のような佇まいに息を詰まらせながら、徹は遥か遠方へと視線を向けつつ声を上げた。
「……本当に良かったのか、美汐を行かせちまって」
「心配か、徹」
「そりゃ、な。親父だって、五分だって思ってんだろ?」
その言葉に、槍悟はわずかに表情を崩す。
口元に浮かんでいたのは、どこか苦笑めいたものだった。
彼は一度視線を元向けていた方へと戻し、声を上げる。
「そうだな。更なるプラーナを喰らい、強大化したニーズホッグが相手では、あれだけの戦力でも五分と言った所だろう」
「だったら!」
「だが、あの娘達は死なん。私が、やらせない」
その言葉に、徹は驚愕を隠せぬまま沈黙していた。
一瞬だが、彼の言葉の意味が理解できなかった―――否、むしろ、一瞬だけ理解出来てしまったのだ。
他の可能性を考えるのが普通だと言うのに、こう思ってしまったのだ。
「ここから……当てられるってのか?」
「ああ、そうだ」
何だそれは、と。徹は、今度こそ完全に言葉を失う。
一体どれほどの距離があると言うのだろうか。
領域外などという言葉では生温い。知覚する事すら出来ない筈の距離。
大神槍悟という男は、それを一撃で踏破する事が出来ると―――
「流石に難しいが、大規模な戦闘が起これば流石に知覚する事はできる。私の槍を受ければ、奴はすぐにでもこちらに向かってくるだろう」
「……」
バカな、という声すら上げられず、徹は瞠目しながら沈黙する。
そんな彼の胸中を察しているのかいないのか、槍悟は再び前方を向いて、静かに意識を集中し始めていた。
―――開戦の瞬間は、近い。