01-4:ニヴルヘイム
「最近の乗り物は凄いのですね、水の上を走れるなんて」
「……いや、これは俺が特殊なだけだからな、どう見ても」
氷面スリップ防止加工をしたバイクで、涼二は海面を凍結させて作った氷の道の上を駆け抜けていた。
両脇は海面である為、下手をすればすぐに海へと落下してしまうが、その辺りは慣れたものである。
バイザーはそのまま風除けにし、纏っていたコートはやたら目立つ格好をしている雨音に預け、涼二は自分達が本拠地としている場所へと向かっていた。
(しかし……)
自分の腰に回された腕を見て、涼二は視線を細める。
何を考えているのか分からないほどに天然さを発揮する雨音は、それでも誰かに触れると言う行為だけは忌避しているようだったのだ。
着物なのでバイクに横座りしか出来ず、しっかり掴まっているようにと説明したのだが、従順であるはずの彼女は何故かそれだけは中々聞き入れようとしなかった。一度乗せた後では、それほど気にせずやっているようではあったが。
(一体何なんだろうな、コイツは)
あまりにも厳重なセキュリティに、ルーン能力を持った二人の護衛。
手練と言うほどではなかったが、それでも一般人相手なら比較にならぬほどの力を持った二人―――アレを雇うには、それなりの金が必要となる。
それだけの価値がこの少女にあるのだろうか、と涼二はただただ疑問を反芻していた。
果たして彼女は何者なのか、と。
「……っと」
バイザーの暗視機能で道筋を確認し、やがて見えてきた水没都市へと向かう。
海面上昇により水没した東京―――そここそが、涼二達が本拠地としている場所だった。
水没したビルとビルの合間を抜け、静謐なコンクリートの木々の間にエンジン音を響かせてゆく。
消音設計とは言え、何も音が存在しない場所では、十分に響き渡ってしまうものなのだ。
無論、人がいる訳では無いので、それも大した問題では無いが。
やがて見えてきたビル―――そこの壁に開いた穴へと、涼二は凍らせた道を繋いで内部へと入り込んだ。
浅く水の溜まった床に降り立ち、バイクを適当に停める。
「ここが目的地なのですか?」
「いや……もう少しだ。付いて来い」
「あら、そうでしたか」
何の疑問も抱かずに付いて来る雨音―――その姿に、涼二の方が疑問を覚えつつも、目的地へと向かって歩き出す。
向かう先は、この建物の階段……その、下りの方面だ。
そちらへと歩いてゆく涼二の姿に、雨音は首を傾げる。
「泳ぎの練習ですか?」
「皮肉じゃなくて素で言ってる所が恐ろしいな、お前……えーと、とにかく見れば分かる。L―――」
嘆息しつつ、涼二は左肩に刻まれているルーンを発動させた。
そしてそれと同時、階段を埋め尽くしていた大量の水が渦を巻き、それが奥へ奥へと押し出されてゆく。
すっかりと水の引いた階段―――それを見て、雨音が感嘆の声を上げた。
「凄いですね……ルーン能力、という魔法ですか?」
「いや、だから魔法ではないと……後で説明するから、ちょっと黙っててくれ」
「はい、楽しみにしておりますね」
すっかりとペースを崩されつつも、涼二は雨音を連れ立って階段を下りてゆく。
必要な道筋のみ水が押し退けられ、滝の裏側にでも入り込んだかのように続いてゆく通路。
そんな道を進み、海底と化した東京の道路へと足を踏み入れる。
「わぁ……綺麗ですね」
「……まあ、確かにな」
天に昇る満月の光が、海底まで僅かに差し込んでくる。
十五年放置されたこの場所は、汚れを海水に洗い流され、さらに海水浄化計画などの後押しもあり、すっかりと透き通った水を湛えている。
昼間だったら、透き通った海と泳ぐ魚達を見る事が出来ただろう。
ともあれ、この場所で空を見上げていても意味は無い。小さく肩を竦め、涼二は再び歩き出した。
光があまり入ってこないこの場所は、夜では殆ど闇に包まれているが、バイザーを装着した涼二にはしっかりと見通す事が出来る。
彼は雨音の手を引き、この空気のトンネルと化した海底を進んで行った。
―――そして、一つの建物へと辿り着く。
「ここだ、入るぞ」
「はい」
開きっぱなしになった二重の自動ドアを潜り抜ければ、ロビーのようにも見える広い空間。
涼二はその右奥にある階段へと空気の道を繋ぎ、そちらへと向かって進んでゆく。
ここは、大災害の直前に完成した高級マンション。
涼二とスリス、そしてもう一人―――たった三人だけのグループ、『ニヴルヘイム』はここを本拠地としていたのだ。
階段をいくつか登り、進んで行けば―――そこは、今までの暗闇が嘘であったかのように明るく照らし出されていた。
「あら、電気が……」
「スリスの奴、わざわざ出迎えとはな」
本来ならばやる必要のない演出に、涼二は小さく苦笑を漏らす。
派手好きのスリスの事、わざわざ待ち構えていたのだろう。
まあ、雨音がいる以上はエレベータを使う必要があるのだし、電気を通す必要があったのは確かだが。
それにしても、廊下の照明全開はやりすぎだろう、と涼二は頭を掻きつつ廊下を進む。
と―――エレベータホールとなっているその場所に、彼はある見知った姿を発見した。
そこにいたのは、金色の毛並みを持つ狼―――
「ガルム! もう戻ってきていたのか」
「わぁ……綺麗なわんちゃんですね。ここで飼っているのですか」
『……知らない以上は仕方ないとは思うが、私をただの犬と思うのも中々豪胆な少女だな』
「……え?」
突如として響いた声に、雨音はきょとんと目を見開き、左右へと視線を巡らせた。
そんな様子に、涼二は思わず笑みを零す。
「今のはそこの狼だ、雨音」
「え……このわんちゃんが?」
『だから犬ではないと……いや、いい。元の姿に戻ろう―――Eh』
嘆息が狼の口から漏れ、そしてそれと共に、その胸元に刻まれたルーンが輝く。
Ehは、馬と変化を表すルーン。その力は、己の姿を獣へと変化させると言うもの。
つまり―――
「これでよろしいかな、お嬢さん」
「あら……わんちゃんが人間に。最近の動物は変わってるんですね」
「……涼二よ」
「こういう奴なんだ、これは」
人間の姿になった狼―――否、今まで狼へと変化していた人間であるガルムは、雨音の物言いに眉根を寄せて涼二へと視線を向ける。
筋骨隆々とした偉丈夫であり、肥大した上半身の筋肉は惜しげもなく晒されている。
下半身はちゃんと黒いズボンを纏っていたが、その下にも大量の筋肉が詰まっている事は傍目からにも明らかだった。
短く刈り込んだ金髪に、彫りの深い精悍な顔つき。口周りを覆う髭も、その締まった顔つきをさらに印象深くする効果があった。
「やれやれ……私はガルム・グレイスフィーン。元々人間で、ルーン能力で獣の姿へと変化していただけだ。
君に危害を与えるつもりは無いので、安心して貰いたい」
「はい、ガルム様ですね。私は静崎雨音と申します……以後、お見知り置きを」
「成程……中々に、肝の据わったお嬢さんだ」
「状況を理解していないだけだと思うがな」
感心した様子のガルムに、涼二は小さく嘆息を漏らす。
彼には、未だに彼女が自分の置かれた状況を理解しているのか、さっぱり分からなかったのだ。
どちらにしろ、大人しくしてくれていると言うのであれば助かるのだし、無理に理解してもらう必要もない……とは思っているのだが。
「それで、貴方は?」
「ん……ああ、そういえば名乗っていなかったか」
「涼二よ……お前は少し、女性の扱いを覚えたほうがいいぞ?」
「標的に対して何言ってんだ……ったく。俺の名は氷室涼二だ。状況を理解してるのかは知らんが、しばらくは俺達と共に居て貰うぞ?」
「はい、涼二様」
従順すぎて何を考えているのかさっぱり分からない……と、涼二は胸中で呻く。
ニコニコとした笑顔で頷いてくる雨音に対してどう反応したものかと悩みつつ、彼は一度息を吐き出してから声を上げた。
「……とりあえず、上に行くぞ。スリスを待たせると何を言い出すか」
「ふむ、そうだな。私も上着を取って来たい所だ」
「惜しげもなく見せびらかしといて何言ってやがる」
ぺしんとガルムの大胸筋をはたき、涼二は小さく嘆息する。
出会う前までは様々な格闘技で肉体を磨き、果てはボディービルダーまでやっていたと言うガルム。
その為、何かにつけて筋肉を見せびらかしたがるその性癖は、涼二も少々辟易するものであった。
基本的に害は無いので、あまり気にしないようにはしているのだが。
と―――
『こら、そこの二人! いい加減昇ってきてよ! わざわざスタンバってるのに!』
「やっぱりやってやがったかこのバカは……仕方ない、行くぞ」
建物内の放送機器を使って声を上げたスリスに対して嘆息し―――涼二は、ようやくエレベータのボタンを押したのだった。
* * * * *
最上階より、三つ下の階。
その中途半端な場所に居を構えたのは、出来るだけ目立たない位置にしたかったと言うのがある。
この場所を発見した頃の事を思い出し、涼二は小さく苦笑を浮かべていた。
僅か数ヶ月でここが居住可能なレベルになったのは、偏に無駄と言うレベルのスリスによる努力があったからだろう。
この場所は、涼二、ガルム、スリスの三人が本拠地とする場所―――
「―――俺達、ニヴルヘイムの本拠地……の、一つだな」
「放棄可能な場所ではあるが……居心地はいいな」
「そうなのですか……」
目を輝かせる雨音に、涼二は見えないように肩を竦めていた。
誘拐してきた人物を連れ込んだ以上、解放した後はここを放棄しなくてはならないだろう。
けれど、それでも少し惜しいと思ってしまう程度には、ここは涼二たちにとって憩いの場所となっていたのだ。
そんな高層マンションの最上階付近、放棄され、誰にも使われなかった筈の部屋。
廊下の奥にあるその部屋へと続いていた暗闇は、一つ一つ点灯する電球によって払われて行く。
「……わざわざ演出しやがって、あのバカ」
嘆息しつつも、涼二は二人を連れてその部屋へと歩いてゆく。
そしてあと数メートルと言う位置まで近づいたその時、目的の部屋の扉は勝手に開いた。
その様子を見た雨音が、ぽつりと呟く。
「ところで、何で銀が速いのでしょうか?」
「は……?」
「……クイックシルバーと言いたいのか?」
「いえ、ポルターガイストさんですか?」
「お前の思考回路が分からん……」
出会ってからわずか数時間ではあるが、涼二はこの少女の扱い方を徐々に心得始めていた。
要するに、なるたけ話は聞き流すようにする、という事である。
生来の性質から、ついつい突っ込んでしまうのだが。
と―――開いた扉の奥から、唐突に声が響き渡った。
「はいはーい! お待ちしてたよ、静崎雨音ちゃん」
「あら、普通に声が……妖怪さんだったのですね」
「いやいやいや、人間だから。って言うかポルターガイストからどうしてそこに飛んだのさ」
苦笑の混じる声と共に、ぱちんと指を鳴らす音が響き渡る。
そしてそれと共に、真っ暗だった部屋の中へ、順々に光が灯って行った。
その奥にあるのは小さな机と、そこに乗っている複数のノートパソコン。
そして―――そこに腰かける、一人の少女の姿だった。
だぼついたパーカーとジャージのズボンと言う何ともやる気のない格好をした小柄な少女は、赤の混じった明るいブラウンの髪と碧玉の瞳を持つ整った容姿に笑みを浮かべ、声を上げる。
「こんにちは、雨音さん。ボクは降霧スリス。ニヴルヘイムの情報担当だよ。よろしく」
「まあ、よろしくお願いしますスリス様」
「様って言うのはちょっとなぁ……せめて『さん』ぐらいで」
「そうですか? では、そのように……あら?」
深々と礼をしていた雨音は、そんなスリスの言葉に顔を上げ―――小さく、眉根を寄せた。
スリスの視線、その若干外れた焦点に、彼女は違和感を感じていたのだ。
スリスが向けている視線は少しだけ外れた場所へと収束しており、正面からでは少し違和感を感じてしまう。
そんな疑問の表情に気付き、スリスは小さく苦笑を浮かべて見せた。
「あはは。おかしいって気づかれちゃうか」
「え、ええ……その、もしかして―――」
「うん、ボクは目が見えてないよ」
冗談めかして、スリスは笑う。
その言葉は決して軽い物ではなく―――けれど、まるで血液型の話でもするかのようにあっさりと、スリスはその言葉を告げていた。
しかし、そんな言葉に、雨音は再び首を傾げる。
「でも……私の事を、しっかりと見ているように思えますけど」
「ああ、それはあれだ」
言って、バイザーを外していた涼二が部屋の中へと入ってゆき、スリスの横顔を示す。
正確には、その眼の下に張られた逆三角形のシールを。
まだ若干薄暗い為にあまり見えなかったのか、雨音は部屋の中に入ってきて、スリスに少し近づいて観察した。
「……ただの、貼物に見えますけれど?」
「あー。これね、警察とかが調査用に使うシール型カメラなんだ。ボクはHのルーンで電気や電波を操って、これの映像を脳で直接見てるのさ。だからまあ、視線の焦点が合わないのは勘弁して欲しいかな」
「成程……凄いのですね、ルーン能力と言う魔法は」
そんな雨音の言葉に、ぴくりとスリスの頬が引き攣った。
二人のそんな様子に対し、涼二は小さく嘆息を漏らす。
―――どうやら、スリスは二人の会話音声までは拾っていなかったらしい。
「えーと……涼二?」
「スリス、お前説明してやれ」
「えー!? ちょっと、こんな異世界に飛ばされてきたレベルの世間知らずだったなんて、ボク知らないよ!?」
「何だその訳の分からん例えは……」
スリスの言葉に嘆息しつつ、涼二は適当なソファに座る。
部屋の奥のほうでは、ガルムがその上半身にワイシャツを纏っている所だった。
何かにつけて上着を破る彼は、いくつも上着を常備していたりするのだが―――閑話休題。
呻きながら頭を掻いていたスリスは、ふと思い出したように顔を上げ、雨音へ―――否、全員へと向かって言い放った。
「って言うか、そもそも雨音ちゃんもルーン能力は持ってる筈でしょ。記録では能力を持ってるっている風に書かれてたよ?
雨音ちゃんも、何か特殊な力持ってるんじゃないの?」
「何……?」
「力、ですか」
そんなスリスの言葉に、ソファへと身体を沈ませていた涼二が身体を起き上がらせる。
対し、雨音は少々悩むような仕草と共に周囲を見回し―――花瓶に差してあった一輪の薔薇の方へと視線を向けた。
そして、彼女は静かに声を上げる。
「……確かに、あります。けど……皆さんのように、美しくて綺麗な力ではありません」
「種類は同じはずだろう……何故そうも己の力を卑下しているのだ、雨音君?」
「この力は……おぞましい力だから、です」
呟き、雨音は視線を向けていた花瓶へと近付いた。
そして、その白い手袋を外し、白魚のように華奢な指を一輪の花へと触れさせる―――その、刹那。
「……!」
「これは……っ!」
愕然とした様子で涼二は立ち上がり、ガルムも驚きの声を上げる。
雨音が触れた、その手の中で……その花は、唐突に瑞々しさを失い、枯れ落ちてしまったのだ。
まるで、命を喰らい尽くされたかのように―――
「……私の力は、素肌で触れたものの命を吸い取ってしまう力です。貴方達のように綺麗な力では……ありません」
「……いや、同じだよ、雨音ちゃん。その力は多分だけど、Sの逆位置の力だ」
スリスの言い放った言葉に納得を抱きつつ、涼二は同時に戦慄を覚えていた。
雨音を連れ去ってからここに至るまで、肌が触れ合ってしまうような場面はいくつもあった。
彼女は、ずっと直接触れないように気をつけていたのだろう。
もしも、彼女に害意があったならば―――
「ッ……迂闊だった、か」
Sとは、太陽と生命を表すルーン。
癒しの力という、ルーンの中でも最も優しい力を持つが……逆位置と呼ばれる効果を反転させたルーンでは、相手の力を奪ってしまうライフドレイン能力と化す。
下調べが足りなかった―――ここにいる三人、全員がそれを痛感していた。
最も気にしているのはスリスだろう。が、それでも彼女は、無理矢理己を納得させるように頷くと、手袋を嵌める雨音へと向かって声を上げた。
「でも、おかしい……Sに逆位置は存在しない筈なのに。どこに痣があるの?」
「痣、ですか?」
「そうそう。ある筈だよ。ルーン能力を持ってるなら、皆何処かしらに痣を持ってる筈だから」
「いえ、あの……心当たりがありません。傷痕のようなものならありますけど……」
―――そしてその言葉に、三人は今度こそ絶句していた。
信じられない、といった三人分の視線を受け、雨音はうろたえながら胸元に手を寄せる。
「え、ええと……どうかしましたか?」
「ちょ……ちょっと、見せてもらっていい? 隣の部屋でやるから」
「あ、はい。分かりました」
雨音に直接触れないように気をつけながら、スリスは雨音の背中を押して隣の部屋へと向かってゆく。
その二人の姿を見送り、ドアの閉まる音が響き渡った後、涼二とガルムは二人してその硬直した視線をぶつけ合った。
「―――始祖ルーン」
どちらが呟いた言葉だったかは、二人にも判別が付けられなかった。
ただ、そこには―――深い畏怖のようなものが、込められていたのだ。