04-3:ニヴルヘイムの動き
突き出されてくる巨大な拳を、雨音は臆する事無くじっと見つめる。
下から掬い上げるようなその一撃は、躱さなければ一直線に鳩尾へと埋没するだろう。
その一撃を放ったのはガルム―――身体強化こそ行っていないものの、鍛え上げられた肉体より放たれる攻撃は、十分な脅威となりえる。
加減が無ければ、一発で骨を砕き、内蔵を串刺しにするだけの破壊力を持っているだろう。
けれど雨音は、それを目前にしながらも大袈裟に躱すような真似はしなかった。
「―――っ!」
極限の集中力。
それと共に、下段で上向きに構えられていた雨音の右手が振り上げられ、ガルムの拳に合流した。
彼女の細腕から発せられる膂力では、砲弾のような彼の拳を止める事など叶わない。それは、雨音とて分かり切っている事である。
故に、彼女が狙うのはそれとは全く別の事。
(合流して、僅かに逸らす―――)
手が合流した瞬間に掛けられた、雨音の僅かな力。
それはガルムの膂力からすれば、大河に合流する支流のようなものだ。
しかしその僅かな力は、ガルムの攻撃のベクトルを僅かながら上向きに変化させる。
そしてそれと共に、雨音の身体は拳の圧力に乗るようにしながら半歩ほど後退する―――結果、ガルムの拳は雨音の鼻先ギリギリを掠めて上へと通り抜けて行った。
結果、ガルムの腕は大きく伸び上がり、上方へと振り上げられる。
それと共に、雨音はがら空きになった胴へと左の拳を打ち込む―――瞬間、雨音の身体はぐるりと回転していた。
「あわっ!?」
「ははは、『流す』のは上手くなったな、雨音君」
バランスを崩してたたらを踏む雨音に、ガルムはそう上機嫌な様子で声を上げる。
何とか転ばないように体勢を立て直した雨音は、自分の左手を見ながらきょとんと首を傾げていた。
何が起こったのか、彼女にはさっぱり理解できなかったのだ。
「ええと……今のも私がやったのと同じなのですよね?」
「うむ、その通りだ。まあ、君の力に私の力を合流させると、元が小さい分かなりのスピードになってしまうようだがね」
「はぁ……」
理屈は分かるもののイメージを掴む事ができず、雨音は再び首を傾げる。
元々、彼女の力ではガルムの攻撃を受け流す事は出来ても、彼のバランスを崩させる事は出来ない。
それ故に、ガルムはすぐさま体勢を立て直して雨音の攻撃を受け流したのだが―――彼女には、そこまで知覚する事ができなかったのだ。
「しかし、流石と言う他無いか。まさか、これほど早く『流し』をマスターするとは」
「ガルム様の指導の賜物です」
「そう言って貰えるのはありがたいが、やはり君の才能に依存する部分が大きいからな……これほど教え甲斐のある生徒もそういまい」
言って、ガルムは苦笑する。
元々、雨音はかなり要領の良い人間である。ガルムとしても、それは十分に理解していた。
しかしながら、合気道における基本にして極意の力をこれほど容易く習得して見せたのは、彼としても驚愕せざるを得なかったのだ。
相手の力に合流し、それを操る―――雨音ではまだ逸らす程度しか出来ていないが、それでも格上の相手に成功させる事は非常に難しい。
元々、彼女の護身術および能力に対する理解を深める為に始めた事ではあったが、予想以上の成果であったと言えるだろう。
「ともあれ、その感覚を忘れないようにする事だ、雨音君。それこそが、Sにおける癒しの力の真髄なのだから」
「Sの、ですか?」
「うむ。Sの力は、他の力と一部違う点が存在する。それが分かるかな?」
その言葉に、雨音は口元に手を当てつつ視線を伏せる。
能力に関する参考書はかなりの量を読んでいる為、今の雨音にはそれなりに能力に関する知識があるのだ。
数ある能力の中で、Sに特筆すべき点とは、やはり癒しの力だろう。
しかしそれだけならば、他の能力にもそれぞれにしか不可能な事は存在する。
そんな中で特別な点とは―――
「……他者に、プラーナを分け与える事でしょうか」
「うむ、その通りだ。効果として相手のプラーナに干渉を掛ける物は存在するが、他者の体内に能力を帯びたプラーナを流し込むのはSだけだ」
雨音の聡明さに、ガルムは上機嫌になりながら深く頷く。
NgやWのように、他者に効果を発揮するルーンは確かに存在する。
しかし、Sには、相手の体内に直接プラーナを流し込んで作用させる使い方もあるのだ。
「これはかなりの高等技術ではあるが、これを使用した際の治癒能力は破格のものとなる。欠損してプラーナの流れが断絶した場所に、全体の流れから能力を伸ばせば、千切れ落ちた腕すら繋げる事が出来るとされているからな」
「……その理論ならば、魂が抜け切る前ならば、人を蘇生させる事すら可能なのでは?」
「うむ、その通りだ。無論の事、体全体のプラーナの流れを操れるほどの干渉力を持つ者など、まず存在しないが……」
言いつつ、ガルムはちらりとその視線を雨音へと向ける。
彼女は、その最上至る力を持つSの始祖ルーン能力者。
彼女の力ならば、或いは―――そう考え、ガルムは苦笑と共に思考を中断した。
実際に試す事もできない以上、考えただけでは詮無い事だ。
「ともあれ、そんな力であるからこそ、全体の流れに合流し、それを操る感覚と言うのは非常に重要になるのだ」
「その人が持つプラーナの流れに合流し、それを操って体全体に効率的な癒しの力を分散、或いは一点に集中させる……確か、そんな技術でしたよね?」
「うむ、その通りだ。尤も、初心者には感覚が難しくそうそう上手く行かない技術ではあるが……今の雨音君ならば、可能かも知れぬな」
純粋に賞賛を交えたガルムの言葉に、雨音は少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせる。
家族の愛というものを知らぬ彼女にとって、父親のように見守ってくれるガルムの存在は、新鮮であり暖かいものであった。
それを彼自身理解しているからこそ、言葉には決して虚偽を混ぜる事は無い。
笑みは消さないながらも、若干厳しさを交えた声音で、ガルムは声を上げる。
「だが、今日は少々集中できていなかったようだな」
「あ……はい、済みませんでした」
「ふむ。まあ、一瞬の油断が重大な怪我に繋がる事もある。それを理解してくれているのであれば構わんよ。しかし―――」
言って、ガルムはその視線を部屋の片隅へと向ける。
そこには、三台のノートパソコンを開いてそれぞれ別個に能力で操っているスリスの姿があった。
絶技といっても過言ではないその制御能力。彼女がそれを用いて集めているのは、恐らく―――
「気になるかな、ニーズホッグの事が」
「……はい。苦しんでいる方が沢山いるのだと思うと……少し」
「君の優しさは美徳ではあるが、あまり気にしすぎても仕方あるまい」
今、世界のどこかで苦しんでいる不特定多数の人間を想った所で、現状が変わるような事は無い。
ガルム・グレイスフィーンは現実主義者だ。雨音の優しさは評価するものの、それまでである。
悲しみ、哀れんだとしても、それを救う力が無ければ意味が無い。
ともあれ、雨音の様子に苦笑しながらも、ガルムはスリスの方へと向けて歩き始める。
追従する雨音を引き連れつつ、彼はスリスの傍へと歩み寄った。
「スリス、どうだ?」
「あー……うん、やっぱりユグドラシルの情報は集めづらいかなぁ」
「あの、黒い龍の事ですよね?」
「そうそう。まあ、アジアコロニーの方の情報は結構手に入るんだけどね。でもまぁ……おっちゃんの懸念は、どうやら大当たりみたいだよ」
口の端を笑みに歪め、スリスはそう口にする。
その言葉に、ガルムは苦笑とも嘆息ともつかない吐息を吐き出していた。
雨音はそれに対し首を傾げるが、スリスは気にせずに続ける。
「一応、ニーズホッグの出現に関しては一昨日ぐらいから情報は仕入れてたんだけど……これはまた、厄介なもんだよ」
「厄介、ですか」
「そ。恐らく、コイツぐらいじゃないかな? 始祖ルーンを持つ刻印獣なんてさ」
「……!」
スリスの言葉に、雨音は大きく目を見開く。
そんな彼女の手は、知らず己の腹部へと触れていた。
―――そこに刻まれた、Sの始祖ルーンへと。
「ニーズホッグは、Oの始祖ルーンを持つ刻印獣だよ。他にも、HとUを持ってるらしいね。
攻守共に優れたバケモノって所かな……まあ、今のところファンクションを使った気配は無いみたいだけど」
「知性の無い獣でなければ、もっと危険な事になっていただろう。不幸中の幸いと言えるだろうな」
「だね……正直、神話級に輪をかけて危険な事になってるし」
肩を竦め、スリスはデータを呼び出す。
そこには、無数のミサイルを撃ち込まれてなお無傷の黒龍の姿が映像で映し出されていた。
全ての弾頭はニーズホッグに触れる前に地面へと落下し、巨大な爆炎を吹き上げているが、強靭な龍の鱗を貫通する事は決してなかったのだ。
その様子を眺め、ガルムは小さく呟き声を上げる。
「……ふむ、Oの重力操作か。常人では近付く事すら叶わんだろうな」
「これで、ファンクションを使っていないんですか……?」
「まあ、それを組み上げる知性が無いだろうからねぇ。正直、単品でも洒落にならないけど」
雨音に気を使ってか、スリスは決してショッキングな映像を出そうとはしなかった。
が、彼女が集めたデータの中には、ニーズホッグの強大な能力が振るわれている様子を映し出したものも存在していた。
その能力圏内に入り込んだ者たちは、その強靭な肉体によって薙ぎ払われるか、激しい嵐に吹き飛ばされるか、強大な重力波に押し潰される。
並みの能力者では―――否、災害級ですら、まともに近付く事も叶わないだろう。
スリスは、肩を竦めつつ再び映像を出現させる。
そこに映し出されたのは先程と似ているが、少々状況の違う映像だった。
「個人的に、気になるのはこれなんだよねぇ」
「この映像ですか……?」
椅子に座っているスリスに合わせ、雨音はしゃがみ込みながらパソコンの画面へと視線を向ける。
そこに映し出されていた光景は、無数の能力がニーズホッグへと向けられている映像だった。
どれも災害級以上、並みの能力者ならばたった一つだけでも防ぎきれる威力ではないそれ。
しかしそれらの力は、全て黒き龍に辿り着く前に空気に解けて消滅してしまっていた。
通常では有り得ないその光景に、雨音は大きく目を見開く。
「これは……?」
「能力の阻害、か? スリス、詳しい事は分からんか?」
「流石に、ちょっとね。もう少し時間があれば調べられると思うけど」
「ふむ……まあ、無理は言わんさ」
今すぐ分からなければならない情報という訳ではない。
苦笑しつつ、ガルムはスリスの言葉に首を横に振った。
この怪物と戦闘する予定があるわけではないのだ。確かにあったからといって役に立つと言う訳では無いが、あって無駄と言う事も無い。
それを誰よりも心得ているスリスは、口元に小さな笑みを浮かべ、声をあげる。
「まあ、集められるだけ集めとくよ。いつ必要になるか分からない事には変わりないしね」
「必要になるか分からない……ですか?」
そんな彼女の言葉に、雨音は首を傾げる。
雨音にとっては心を痛める出来事ではあったものの、それはあくまで遥か遠く離れた場所で起こった出来事。
とても、そんな情報が必要になるとは思えなかったのだ。
しかし、スリスは小さく苦笑しながら首を振る。
「ちょっとした懸念があってね。まあ、ボクだっておっちゃんがいなければそんな事気付きもしなかったけど」
「懸念ですか……何か、起ころうとしているんですか?」
「まぁ、起ころうって言うか起こってるんだけど……いや怒ってるのかな? とにかく、あの馬鹿でかいバケモノは、今まさに日本へ向かってきてるみたいなんだよ」
その言葉に、雨音は大きく目を見開いた。
無論、雨音とてその可能性を考えなかった訳ではない。
だが、昨日今日遠く離れた場所で起こった出来事に対し、『明日は我が身』などという実感が湧かなかったのだ。
そんな雨音の様子に、ガルムは小さく肩を竦める。
そしてぼんやりと虚空を見上げ、彼はポツリと呟くような声音で声を上げた。
「私が日本に来た原因の一つに、あのニーズホッグの事があるのだ」
「え……?」
「もう十四年も昔の事ではあるがね……現場のすぐ傍にいたと言う訳ではないが、それでも、アレが撃退される姿は遠くから目撃していた」
ガルムの瞳が映すのは天井ではなく、記憶の中にあるかつての映像。
あまりにも禍々しく、それでいてあまりにも幻想的なその光景。
「炎に燃えた街と、その中心で暴れまわる巨体。そして、その場所へと打ち込まれた黄金の槍。たった一人で、あの魔獣を退けた男―――大神槍悟」
「その方は、確か涼二様の」
「そう……あの黒龍をたった一人で退けた人物こそ、涼二が復讐を誓った人物だ」
ユグドラシル総帥、《必滅の槍》大神槍悟。
稀代のルーン能力者にして、かつてニーズホッグを退けた人物。
それに挑む事に対し、ガルムは無謀であるとの感想を否定す事は出来なかった。
しかし、それでもチャンスが無い訳ではない。相手は、人間なのだから。
「此度現れたニーズホッグが、何故この日本に向かってきているのか」
「……あの龍が、一体何を目的に動いているのか、という事でしょうか?」
「元々知性なんて無いんだろうし、そんなのただの偶然だよー……って、言いたい所なんだけどさ。実際、否定する材料は存在しないんだよね」
スリスは、パソコンの画面に衛星で捉えたニーズホッグの飛行ルートを映し出す。
その動きは間違いなく日本―――しかも、この密都こと新東京島へと向かってきていた。
恐るべき正確さで、真っ直ぐと。
「これは……!」
「あの龍がかつての事を覚えていて……そして、大神槍悟に復讐しようとしているのだとしたら」
「……涼二様とお友達に?」
「いや、流石にそれは無理だと思うけど」
真顔で言った雨音に突っ込みを入れつつ、スリスは嘆息する。
いつも通りの様子は崩さぬ雨音にガルムも苦笑はしつつ、しかしその視線はパソコンの画面に向けたまま声を上げた。
その声音の中に、真剣な色を宿して。
「あの龍は、間違いなくここに向かってくるだろう。無論、内陸に入られる前に迎撃はするだろうがね」
「ユグドラシルの方々が、ですよね?」
「間違いなくな。そして、流石にその場に大神槍悟が出てくるとは思えない……が」
ガルムは、一つの懸念を抱いた。
ユグドラシルの戦力を考えれば有り得ないと言わざるを得ない事。
彼らは能力と言う点に関してはまず間違いなく世界最強の組織であり、あらゆる兵器に狙われた所で意に介さないほどの戦力も持っている。
それでも、ガルムは一つの懸念を抱いたのだ。
本当に―――本当にあの大上槍悟以外の人間が、ニーズホッグを退ける事が出来るのか、と。
「もしも防衛線が破られれば、最早ニーズホッグに相対する事が可能な存在は大神槍悟しか存在しないだろう。
そして……その時こそが、涼二にとって最初で最後のチャンスとなる」
「え……?」
「大神槍悟を前線に引きずり出し、尚且つ可能な限りの邪魔が存在しないタイミング―――それこそが、涼二が待ち続けてきた機なのだ」
故に、このニーズホッグの襲来は、涼二にとっての追い風となる可能性がある。
無論、根拠の無い可能性の話ではあるが、それでもこれ以上の機会など存在しないだろう。
「果たしてこれが追い風となるのかは分からんが……注目する必要があるだろうな」
そう締めくくり、ガルムは静かに息を吐き出す。
そこには―――どこか、武者震いのような震えが混じっていた。