04-2:広まる噂
―――冷たい雨が、降り注いでいた。
冬の日の、凍えるほどに冷たい雨。
災害以来世界の気温は全体的に上がってはいたものの、それでも日本の冬の寒さは変わらずに存在していた。
雪が殆ど降らない程度になったそれは、彼にとっては逆に辛いものであったが。
(……)
思考の中にすら言葉も浮かばず、彼は凍える身体を丸める。
普段ならば、こんな事は思わなかっただろう。こんな事を考える必要など無かっただろう。
けれど、今彼は、考えている。
何がどうなったのか、何故こうなってしまったのか―――しかし、その行為自体が不自然である事を、彼自身気付いていなかった。
ともあれ―――
(……寒い)
暖を取る方法などいくらでもあっただろう。
普段どおりにすれば良い、思うが侭に行動すればよい。その筈だった。
けれど彼には、その当たり前が無くなってしまっていたのだ。
故に、彼からは従うべき何かが失われてしまっている。
故に、生きる為の方法すら、彼の中には微塵も残らず消し去られてしまったのだ。
あの『欠片』を飲み込んだ日から―――
(死ぬのか……?)
そんな思いが、彼の中に発生する。
病は気から、という言葉があるが―――実際に死なないような病気であったとしても、気の持ちよう次第ではそれに至ってしまった事例もある。
今の彼は、完全に死の影に抱かれてしまっていた。
―――けれど。
「―――どうしたの?」
そこに、掛けられた声があった。
彼はゆっくりと、その瞳を声のあった方向へと向ける。
それは―――たった一人の、幼い少女だった。
子供らしい動物の耳のような飾りのついたフードの下からは赤茶色の髪が覗き、その大きなこげ茶色の瞳を丸く見開いて少女は声を上げる。
「どうしたの、寒いの?」
寒さに赤くした顔で、白く広がる息を吐きながら、彼女はゆっくりと彼の元へと近付いてゆく。
子供らしい傘は若干傾いてしまい、彼女の肩を雨が濡らしていた。
「ひとりぼっちなの……?」
何故彼女は、己の事を気に掛けようとするのだろう。
彼は、ぼんやりとそんな事を考える。
少女は動かぬ彼の方へと躊躇する事無く近付き、恐れる事無くその手を伸ばしていた。
そして―――ふと彼の体に、暖かな感覚が灯る。
(これは……?)
彼女の手を伝って伝わってくる暖かな感覚。
そして、それと共に流れ込んでくる不思議な力。
己の中の何かを書き換えられているようでありながら、不思議と不快感の無いそれに、彼はゆっくりと身体を起こす。
改めて彼の視界に入った少女は、どこか泣きそうに歪んだ顔で、ポツリと呟いた。
「あたしも、ひとりぼっちなんだ……」
不意に、彼は胸を打たれる感覚を覚える。
尤も、そんな感覚などは今までの彼には無縁なものではあったのだが―――表現するならば、そんな言葉しか有り得なかっただろう。
彼女の事が愛おしいと、この差し伸べられた手に報いたいと、彼は心の底からそう思ったのだ。
「……一緒に、行く?」
彼は、ただ静かに首肯する。
それが、燃え落ち壊れた世界で―――唯一つだけ確かなものを、彼が手に入れた瞬間だった。
* * * * *
その日、氷室涼二はほぼいつも通りの起床を迎えていた。
いつもと違う点は、彼が目を覚ます前に、既にいつも通りの光景が展開されていた事だ。
「……おい、お前ら」
「あ、おはよー涼二」
「何だ、鈍ってんのかァ? 俺達が部屋の中に入り込んできても気付かねェなんてよ」
「そもそも入り込んでくるなこのアホ共が」
目覚めてすぐ彼の目に飛び込んできたのは、何故か置いてある自分用のエプロンを身に付け料理をしている桜花と、リラックスした姿勢でテレビを見ている双雅の姿だった。
特に双雅には厳しい視線を向けつつも、涼二は眉根を寄せつつ声を上げる。
「お前らが勝手に入ってくるから、反射的に攻撃しないようにしてるんだよ。寝てる最中にお前らの見分けなんか付くか」
「あはは。涼二それ、双雅なら遠慮なく攻撃するって言ってる?」
「ああ、コイツなら死なん」
最近双雅の実力を知っただけあり、涼二も本気でそれを確信していた。
そしてその対象とされた双雅もまた、いつも通りの笑みに彩られた表情で、『こえーこえー』と冗談交じりの声を上げている。
そんな二人の様子に嘆息し、起き上がった涼二は洗面所の方へと足を向けていた。
桜花がこの部屋を訪れるのは、半ば日課となってしまっている。
と言うのも、ここの所あまり自宅に帰ってきていなかったからか―――戻ってきた日の翌日、涼二は桜花によって叩き起こされる事となってしまったのだ。
いなくなるならちゃんと連絡をしろ、戸締りとかしっかりしていなかった、そもそも何してたんだなどなど、怒り心頭となった彼女に朝っぱらから説教を受けていた涼二である。
近所迷惑になるからとある程度ボリュームを抑えられてはいたが、それでも小一時間ほどその話は続いていた。
結果、しばらく部屋を空ける時は、しっかりと連絡するようにと約束を取り付けられた次第である。
ふと、顔を洗いながら涼二はぼんやりと考える。
(そういや桜花の奴、どうやって俺が帰って来た事に気付いたんだ……?)
涼二は知らない。彼が留守にしている間、桜花は毎日のようにこの部屋を訪れていたと言う事を。
それに気付いていた双雅に桜花はひたすらからかわれる事となったが―――閑話休題。
顔を洗い、歯を磨いて涼二が戻ってきた頃には、桜花の作っていた朝食はほぼ完成しているような状態だった。
勝手に入り込んでいた事に文句を言いつつも、食事を作ってくれる事に対するありがたさを感じながら、涼二は己の席に腰を下ろす。
そして彼は向けた視線の先―――双雅に対し、小さく嘆息交じりに声を上げる。
「……おい双雅、何勝手に出て来てやがる」
「問題ねェって。ちゃんと、目に付かないような場所を通ってきたさ。それに―――」
言って、本来あまり人に見られてはならない筈の双雅は、その視線をテレビ画面の方へと向ける。
つられて涼二もそちらへと視線を向け―――思わず、目を見開いた。
そこに映し出されていたニュースは、あまりにも突飛であまりにも荒唐無稽な内容だったからだ。
「アジアコロニーが壊滅……? 一体何があったんだ?」
「ああ、とんでもなく強ェ刻印獣が出現したらしいぜ。何の前触れも無く、唐突にな」
その言葉に追従するように、テレビには一枚の写真が映し出される。
衛星からの映像記録も存在している筈だが、あまりにも不適切な映像であったために放映させられなかったのだろう。
ともあれ、そこに映っていたのは―――
「こいつは……あの、十四年前の化け物じゃねーか」
「ああ。ニーズホッグとか呼ばれてたんだよな? 何で今になって出てきたのかは知らねェが、とにかくコイツのおかげでユグドラシルも大忙し、俺の事を追っかけてる暇も無くなったって訳だ」
「ユグドラシルの動きが縛られても、司法局まで麻痺する訳じゃないだろ……気をつけてるんならいいが、もうちょっと慎重に動け」
「心配性だねェ」
「お前が大雑把すぎるだけだ」
嘆息しつつ、涼二は再びテレビの方へと視線を向ける。
映っているその姿―――黒い巨体と三対の翼、七つの瞳。
揺らめく炎によってかなり画質は悪いものの、伝えられているその姿を想像する事は十分に可能だった。
涼二は、この存在についてそれほど詳しく知っていると言う訳ではない。
十四年前には生きる為に必死であったし、あまりそういった事を気にかけている余裕も無かったのだ。
それでも、一応ながら記憶には残っているのだが。
「しかし、たった一匹でコロニーを壊滅させるか……神話級ってだけじゃない、かなり強力な化け物だな」
「まあ、確かになァ」
涼二や双雅も神話級ではあるが、強力な能力者や兵器が存在しているそこにたった一人で攻め込み、壊滅させられるかと聞かれれば簡単に頷く事は出来ない。
それでも、出来るかもしれない可能性が存在しているのだから、神話級の―――それも始祖ルーン能力者と言うモノの規格外さが窺える。
そんな中、たった一人だけ常識的に語れる範囲内の能力者は、出来上がった料理を運びながらテレビの方へと視線を向けつつ声を上げた。
「また、凄い事になってるわね……」
その声の中には、あまりショックを受けた様子などは無い。
ただ僅かに寄っているその眉根は、襲われ死した者達を偲ぶものではなく、かつて十五年前に自分達も味わった地獄を思い起こしてしまっているに過ぎないものだ。
あの頃は、他者を思う余裕など存在しなかった。
そして一人で生きている者達は、未だに対岸の火事ごときを気にしている余裕は無い。
故に、彼らが気にするのは己の事だけだった。
「アレって、こっち来るの?」
「周辺各国は厳戒態勢だわな。あのドラゴンがどんな基準で人襲ってんのかしらねェけどよ」
それぞれの皿に焼き鮭とご飯と味噌汁をおきながら、桜花は『へぇ』と気の無い返事を零す。
涼二としても、どう転ぶか分からないと言う双雅の言葉には同意していた。
悠から話を聞いたわけでもないので、あの刻印獣の事については全く情報が無い。
唯一つだけ知っているのは、十四年前に現れた時、ニーズホッグは大神槍悟によって撃退されたと言う事だけだった。
それ以外では一般の広まっている噂―――人間を主食にしていて、とにかく視界に人間がいる限り襲い続けるという程度の話だけ。
故に、今だ人口では最大の数値を誇るアジアコロニーに出現したのであろうが―――
「もしも同じ個体なら……いやまあ、あんな化け物が二匹もいるとは思いたくないが、とにかくこっちに来る可能性もあるんじゃないのか?」
「え、あれってこっち来んの?」
「いや、確証なんて何もないし、単なる予想……って言うか思いつきに過ぎないけどな。前に現れた時、あいつを撃退したのはユグドラシルの総帥だろ?」
「あのトカゲ野郎がそれを覚えてて、その復讐に来るってか?」
「だから思い付きだって言ってるだろ」
言い方面であろうと悪い方面であろうと、龍の生態など誰にも想像できるものではない。
誰にも分からないものは、想像する他ないのだ。
涼二は肩を竦め、嘆息交じりに声を上げる。
「襲ってこようとこまいと、どうにした所で日本は動かざるを得なくなる。戦う事が確定している以上、迎撃戦の方が楽になるのは当たり前の事だ。
幸い、場所さえセットできれば、アレを迎撃できるだけの能力者はいくらでもいる国だからな……おびき寄せる戦法も有り得なくはないだろう。まあ―――」
軽く手を合わせつつ料理に手を伸ばし、味噌汁を啜りながら方目をテレビへと向ける。
そのニュース番組では、万が一の時のために避難の準備を進めておくよう放送が成されていた。
この時点でそんな話が出ていると言う事は―――
「……こっちに向かってきてる可能性は十分にあるな。避難時に人が押し寄せてきた時の為に、ある程度の混乱を避ける為に予め言っておいた感じだ。
恐らく、少しでも避難者を減少させ、更に避難時の脱出方法を増やしているような段階だろうな」
「あー、船でも用意してんのか?」
「ここは海の上だからな……逃げようとした所で、自然と方法は限られる。今の内に出来るだけ大きな船でも準備してる所だろうよ」
旧東京―――関東地方の水没した地域ならば、神話級が全力で戦闘を行う事も可能だ。
その場合、ニヴルヘイムが拠点として使っていたあの建物が消滅する可能性もあるが。
貯蔵していた品物を持ち出す余裕があるかどうか等と考え、涼二は小さく苦笑する。
恐らく、大量に保管してあるエロゲの持ち出しのためにスリスが泡を食っている事だろう、と。
そんな時、映像を見ていた桜花が、ふと思いついたかのように声を上げた。
「ねえねえ二人とも、アレってあたしの能力で大人しくさせられないかな?」
「おい、バカがまた何か言い始めたぞ?」
「バカはせめて休み休み言え、このバカ」
「ちょッ、何よ!?」
にべも無く切り捨てられ、桜花は憤慨した様子で声を上げる。
そんな彼女へと、涼二は半眼、双雅は苦笑を向けつつ声を上げた。
「あのな、桜花。お前の能力、精々『動物に好かれる』程度だろうが」
「まァ、確かに常時発動系の能力ってのは結構珍しいけどよ、自分より強大なプラーナ持ってる刻印獣に通用すると思ってんのかァ?」
実際の所ちらりと彼女の事を見た事があるガルムが、ロクに話してもいないのに好印象を持っていた辺り、格上の存在にも効果が有る可能性はあるが―――と胸中で呟き、涼二は苦笑する。
相手は人間を餌としているような存在。果たして、そんなものに対して好印象を抱かせたからといって、効果があるのかどうか。
「……精々、『美味そうな餌』に見えるのが限界なんじゃねェの?」
「と言うかお前、あんなバケモノ使役できるようになったからって、どうするつもりなんだ。困るだけだろ」
「言いたい放題言って……! うー、カッコいいのになぁ」
恨めしげな視線でテレビに映る姿を見つめる桜花。
生憎と、常人の感性から言えば、ニーズホッグは『恐ろしい』や『おぞましい』といった感想しか得られない姿をしているのだが。
もそもそと食事を続ける桜花の様子を横目に見つつ、涼二は嘆息する。
(相変わらずの爬虫類好きだな……って言うか、ドラゴンは爬虫類に含めていいのか?)
元々、何らかの生物にルーンが発生し、その為に変異した生物が刻印獣だ。
ドラゴンの姿をしているのであれば、元が爬虫類であった可能性は十分にあるだろう。
どうにした所で、原形を留めていないのは確かだが。
(しかし―――)
―――涼二は、視線を細める。
そこに宿るのは僅かな殺気、その奥に押し留めた燃え盛る憎しみを、彼は窓の外へと向ける。
分かっているのだ。これは、チャンスなのだと。
(もしも、あのバケモノと戦うために大神槍悟が出てくるのであれば、それはこれ以上無いチャンスになる)
あの男が戦って仕留めきれなかった存在―――それと戦う事となれば、いかな大神槍悟とは言え、消耗は免れないだろう。
例え消耗していたとしても、相手を簡単に討ち取れるとは思えない。
けれど、消耗していない状況の相手と戦うよりは遥かに可能性があるだろう、と。
その千載一遇の機会が訪れるのであれば、あのバケモノの飛来も涼二にとっては歓迎出来るものであった。
故に―――
(あまり悠長にしている暇は無い……時間が無いんだ。決して、チャンスを逃すな)
氷室涼二は、覚悟を決める。
決めるのは必殺と滅殺の誓い―――もしも願い通りの展開が訪れたのであれば、命を懸けてその場に臨む事を。
そんな涼二の様子、僅かに滲み出ているさっきに気づいているのは双雅だけであった。
そう。それ故に―――二人は、思い出せなかったのだ。
幼い頃から付き合ってきたこの少女が、有言実行を絵に描いたような人物であった事を。