03-12:悪名高き狼
「ッ……」
能力を使いながら瞳の痛みを感じ、涼二は若干顔を顰める。
本来己のものではない両の瞳に刻まれた始祖ルーンを、涼二は一点に絞って高い出力で使う事が出来ない。
普段ならば、四つのルーンの力全てを掛け合わせて使用している為、それほど問題はないのだが―――
(コレは、ちょっとしんどいな……)
しかし、その鈍い痛みを隠すようにしながら、涼二はじっと双雅の首元に集中してゆく。
そこに嵌められた首輪―――彼の力を封じるそれを、己の力で塗り潰してゆくように。
以前ガルムを拘束していた『グレイプニル』を外す時には、これほど苦労する事はなかった。
あれは神話級の能力者によって作られたものではなかったからだ。
「氷室さん、急がないと―――」
「分かってる……!」
白貴の声に、涼二は若干の苛立ちを交えてそう声を上げる。
『グレイプニル』の上書きは確実に進んでいる。しかし、彼らを追う美汐達の反応が近付いてきているのは確かだった。
この枷を外し切る前に見つかってしまえば、涼二はその姿のまま戦わなくてはならなくなる。
そのリスクは、何としても避けねばならないものであった。
仲間想いな美汐に見つかれば、自分の正体に気付かれてしまうかもしれない―――そんな不安が、涼二を急かす。
と―――
「落ち着けよ、涼二」
「双雅……」
そんな切迫した状況の中でさえ、双雅は変わらぬ調子のまま声を上げた。
口元に浮かんでいるのは相変わらずの余裕ぶった笑み。
そんないつもと変わらぬ彼の在り方に、涼二は若干の落ち着きを取り戻していた。
(そういえば、昔から全員を引っ張ってきてたのはコイツだったか―――)
悪ガキで、いつもいつも孤児院の先生達に注意されてばかりいた双雅―――けれど、涼二も桜花も、彼と共にいる事を止めようとはしなかった。
その理由を具体的に言葉にする事は出来ないが、けれど確かに、二人は安息を感じていたのだ。
それと同じものを味わい、涼二の表情は和らいでゆく。
「力みすぎんな、ってトコだ。落ち着いたか?」
「ああ」
苦笑し―――涼二は、さらにプラーナの出力を高めた。
『グレイプニル』のみを狙い、その他にプラーナが漏れ出さないよう精密に操作しながらも、さらに出力を高める―――それは、涼二の制御能力をもってしても難易度の高い行為だった。
目に響く痛みに耐えながらも、涼二はひたすら集中して『グレイプニル』を侵食してゆく。
背後に美汐の気配を感じ取る余裕すらなくなり、痛みに意識を朦朧とさせながら、それでも―――
「ぐ、く……ッ! な、めるなッ!」
―――涼二は、その力で『グレイプニル』を埋め尽くした。
それを確認すると共に涼二の力は霧散し、同時に双雅の首から大仰な首輪が独りでに外れて転がり落ちる。
―――その首には、傷痕のような二つのルーンが刻まれていた。
「ッ……サンキュー、涼二」
僅かに、双雅の体が震える。
けれどそれは、恐怖や痛みといったものでは無い。
彼の表情に浮かんでいるのはあくまでも歓喜、そして武者震いとでも呼ぶべきもの。
右目を押さえながら息を整えていた涼二は、そのプラーナの高まりに残る左目を大きく見開いていた。
そして何より、その二つのルーンに対して。
「双雅、お前……!」
「これが俺って訳だ……恩に着る、借りは必ず返すぜ」
「ああ、それは存分にな……で、何するつもりだ?」
「いやなに、目の前にちょうどいい相手がいるんでな。ちっと肩慣らししてこようと思って」
その言葉に、涼二は絶句する事も無くただ大きな嘆息を吐き出していた。
一応ながら、その言葉は予想していたものであったからだ。
相手はユグドラシルの災害級と神話級の能力者。
普通ならば、たった一人の能力者が叶う相手ではない。
だが―――
(……まあ、コイツだしな)
たった一つだけ確かなのは、氷室涼二という人間が上狼塚双雅という人物を信頼していると言う事だ。
涼二は、彼と幾度か若者らしいケンカを共にした事もある。
もしも危険になれば、彼はさっさと戦線を離脱する。勝敗になどこだわらない―――涼二はそれを、十分に理解していたのだ。
そして何よりも、彼の首筋に刻まれたルーンが、彼の生存を後押ししてくれている。
それ故に、彼が双雅を止めるような事は無かった。
「……大丈夫、なんですか?」
「まあな。お前はとっとと涼二と一緒に逃げときな……ッと、そうだ。忘れてたぜ」
そう呟き、双雅は懐から携帯電話を取り出す。
僅かな操作の後に彼はそれを耳元へと当て―――その数秒後、口元に笑みを浮かべながら声を上げ始めた。
「おう、スヴィティ。こっちは終わったぜ?」
『……その様子じゃ、怪我は無いみたいね』
「今の所はなァ。今からそっちに俺のダチが行くんで、先にそいつ等を連れ帰って保護してくれや」
『は? アンタ、何言って―――』
「場所は予め指定した所だ。じゃ、頼んだぜ」
『ちょ―――』
それだけ一方的に言い放ち、双雅は通話を打ち切る。
呆れた表情の涼二は白貴の表情を受けながらも、彼は変わらぬシニカルな様子で声を上げる。
「ま、そういう事だ。お前ももうきついだろ、涼二。先にこの坊主を連れて脱出しといてくれ」
「……言っても聞かないんだろ?」
「よォく分かってらっしゃる」
ただいつも通りに笑う双雅に、涼二は嘆息を零す。
言っても無駄だと言う事は、十分に理解していたのだ。
それなりにプラーナも使っており、さらに出来るだけ力を晒したくない涼二としても、さっさと逃げる手段がある事は渡りに船である。
手を伸ばして白貴の腕を掴みながら、涼二は右目を閉じつつ声を上げた。
「それで、その指定の場所とやらは?」
「ああ、この劇場の脇、一つ離れた路地の所だ。方角的には……向こうだな」
「―――スリス」
『あー、確認したよ。確かに方角的にも合ってるみたい』
周辺の情報を把握しているスリスの言葉に、涼二は小さく頷く。
この部屋には窓もあり、逃げ出す事は難しくない。
涼二としても、ここで戦線を離脱する事に異を唱えるつもりは無かった。
だが……一つだけ、やる事がある。
「双雅」
「おう、何だァ?」
「お前が戦う事になりそうな能力者……その能力を伝えとく。怪我をされても困るからな」
「へェ、そいつは助かるぜ」
勝負の対等さ等にはこだわらない双雅に、涼二は小さく肩を竦める。
双雅は己の思うが侭に行動する獣のような存在だ。
故に、その思考回路を把握する事は難しい。
気を取り直しつつ、涼二は声を上げた。
「先ほど追いかけてきていたのは、《光輝なる英雄譚》大神美汐と、確か《戦乙女》把桐羽衣だ。そして、後からでも追ってきそうなのは、《災いの枝》たる磨戸緋織」
「どいつもこいつも、大層な名前だねェ」
「お前が言うか、お前が」
《悪名高き狼》なる名前をつけられている双雅へと突っ込みを入れ、涼二は嘆息する。
けれど、その言葉を止める事はなかった。
「《災いの枝》は単純だ。あいつはKの始祖ルーン能力者で、Jで作り出した剣を媒介に炎を操る。Tで身体能力も強化してるがな」
「割と一般的な戦闘系能力者だな」
「《戦乙女》はよく知らん。以前戦った事はあるが、少なくともJとHの能力者である事は確かだな。九本の剣を作り出して、それを翼のようにしながら斬りかかってきた」
「何だァ、また女の子に恨まれるような真似をしたってか?」
「人聞きの悪い事を言うな、このバカ」
涼二は再び嘆息する。
実の所、涼二はこの二人に関してはあまり警戒していると言う訳ではなかった。
問題なのは、最後の一人なのだから。
「そして、最後の一人。《光輝なる英雄譚》は―――」
一度唾を飲み込み、涼二はゆっくりと語り始めた。
大神美汐が次期ユグドラシル総帥たる、その所以を―――
* * * * *
「こっち……!」
「……思うんですが、どうやって探知してるんですか?」
ドレス姿と言う、あまりにも動きづらそうな服装のまま走り回る美汐へと、羽衣は半ば呆れを交えた表情で声を上げた。
彼女達はこの広い建物の中、連れ去られた白貴を追って走り回っていたのだ。
上手い事プラーナを抑えている為か、二人の探知能力では逃げた者達の力を感じ取る事は出来なかったのだが―――
(ホント、この人はどうやって探し出してるのかしら?)
先行する美汐を追いながら、羽衣は胸中でそう独りごちる。
彼女としても認めざるを得ない。大神白貴、そして先程の男へと声をかけていた女性は、明らかに高位の能力者であると。
あれだけの技量を持つ存在ならば、己の持つプラーナを完全に抑え込み、追跡を撒く事はそれほど難しい事ではないのだ。
けれど、そんな中でさえ、美汐は迷う気配すら無く廊下を駆け抜けて行く。
ドレスのせいでその速度は若干遅いが、それでも驚くべきスピードであった。
(あの男の方のプラーナを感知してる? いえ、でもあの男の力はそれほど強力ではなかった。なら……本当に、勘?)
それこそまさかだ、と羽衣は胸中で嘆息する。
勘で居場所が分かるのならば、誰だって苦労はしない。
神話級か、或いは始祖ルーン能力者に許された超感覚だとでも言うのだろうか。
そんな事を考えていた羽衣は、僅かに冷気を感じ取って立ち止まった。
そんな羽衣の様子に気づき、美汐もまた足を止める。
「羽衣ちゃん、どうしたの?」
「ちゃん付けは止めてくださいと何度も……ええと、どこかから冷たい空気が流れてきている気がするのですが」
「え……あ、本当だ!」
先程、あの男が逃げ出した時に、床に氷が張っていた事を思い返す。
盛大に転んで尻を打った屈辱を思い出しつつも、羽衣は冷静に周囲へと視線を向けていた。
あの時、あの男が能力を発動させた様子は無かった。となれば、あの女の声こそがその能力者であったと言う事になる。
(恐らくはI―――ああ、胸糞悪いあの能力。あれの使い手が背後についていた。となれば、この近くの何処かにいる筈)
頷き、羽衣は感じた冷気をたどってゆっくりと歩き出す。
敵が近づいている事を感じ、静かに能力を発動させながら。
「J、H―――《戦乙女》」
その言葉と共に現れるのは、背中に広がる九つの長剣。
その内の一振りを右手に持ち、羽衣は静かに意識を研ぎ澄ませながら進んだ。
制服の上からわずかに覗く素肌が、刺すような冷たさを感じ取る。
いかに冬とは言え、室内でそんなものを感じ取るような事はありえない―――能力以外は。
「羽衣ちゃん」
「……はい。恐らく、あの扉です」
美汐の言葉に頷き―――呼び方はもう諦めた―――羽衣は刃の切っ先で扉の一つを示す。
扉の下の床が僅かに凍り付き、若干白く霜が降りているそれ。
氷結の能力で封じられたのであろうそれを見つめ、羽衣は静かに刃を構えた。
「扉を破ります。既に逃げられている可能性もありますが、敵がまだ存在している可能性は十分にありますので、美汐様も能力の準備を」
「うん、ありがとう、羽衣ちゃん」
言って、美汐は始祖ルーン―――光を操るDの力を発動する。
それと共に彼女の手の中には光の片刃剣が形成され、彼女はそれを軽く振って感触を確かめた。
その一振りに、羽衣は戦慄する。
(……凄いプラーナの密度)
自分が形成した剣を容易く寸断するほどの切れ味を持つであろうそれに、羽衣は覚えた嫉妬を抑え込む。
彼女は才能という言葉を嫌っていたが、それを感じずにはいられないほどの力であった。
認める他無いのだ―――美汐は、緋織が言う通り強力な能力者であると。
―――かぶり振る。
(下らない、下らない嫉妬。そんなものは私に要らない。私はただ……お姉さまを、追いかけていればいい)
他の能力者などどうでもいいのだ。
自分が、そして自分のあこがれた能力者だけが強くなれれば。
故に、羽衣が許せないと思う者はたった一人しか存在しない。
「……行きます」
その憎き相手に刃を叩き付けるつもりで、羽衣は刃を振り上げた。
―――その、刹那。内部から、極大のプラーナが膨れ上がった。
「―――ッ!?」
半ば反射的に、羽衣は全ての刃を防御に回して美汐を庇う。
そして次の瞬間、その刃達の内半分以上が叩き付けられた何かに寄って砕け散っていた。
「な……ッ!?」
いくら数を揃えているとは言っても、災害級の能力者である羽衣の力で形成されたその剣は、決して強度が低いと言えるものではない。
それを―――
(ただの拳で、砕くなんてッ!?)
羽衣は、内心で悲鳴を上げる。
砕け散り、プラーナに返され消滅してゆく剣の中。
見えていたのは、何の変哲もないただの拳だったのだから。
羽衣は美汐と共に後方へと跳躍し、再び剣を形成しながら強い視線を前方へと向ける。
―――そこに立っていた、大神白貴を連れ去った男に対し。
「貴方は……ッ!」
「おーおー、胸までぶち抜くつもりだったんだが、意外と硬かったなァ」
その言葉に若干の戦慄を覚えつつも、羽衣は歯を食いしばって怒りの視線を向ける。
一体何が起こったのか、彼女にはまったく理解できていなかった。
先程話していた時、この男の力はそれほど強力な物ではなかった。
感じるプラーナは、精々の所で巨人級と言った程度。
全力を出すまでも無く制圧できると、ただあの余裕な態度だけが不気味だと、羽衣はそう思っていたのだ。
そうだと、言うのに―――
「何よ、この力は!?」
「さァな? これは元々俺の力だぜ?」
「ふざけるな! 一体何をしたら、こんなに能力が強化される!?」
―――今、目の前の男から感じる力は、美汐と比べでも遜色が無いほどの巨大さだった。
間違いなく神話級。その力は、他を隔絶するほどに強大な物。
しかしそんな変化の中でも、男は一切態度を変えることなく、軽薄な笑みのまま声を上げる。
「言ってんだろ、これは元から俺の力だってな。ただ、今まで強制的に力が抑えられてたってだけだ」
「力を抑えられて……?」
「まァな。ま、そんな事より……諦めの悪いもんだなァ、お嬢さんよ」
「……白君は、何処ですか」
荒れ狂うプラーナの中、進み出た美汐は様子を変える事も無くそう口にする。
しかし、そこに浮かべられている表情は、先程までよりも遥かに緊迫したもの。
それを受け、男はただただ皮肉った笑みを浮かべる。
「オイオイ、過保護すぎるってのは育てる上でよろしくないぜェ、お嬢さん。もうちょっと自由意思を尊重させてやらなきゃな」
「自由意思を認めるって言うのは、決して悪い人とつるむのを見逃すと言う事ではないと思いますが?」
「クハハッ、いや確かに、それはその通りだわ」
愉快そうに―――ただ愉快そうに、彼は笑い声を上げる。
しかし、二人の強大な能力者から放たれ続ける力は、留まる事なく高まり続けていた。
そんな力の奔流に息を飲みながら、羽衣はごくりと喉を鳴らす。
「つってもまァ、選んだのは俺じゃないし? 勝手に付いて来る奴の責任まで持てって言われても困るんでな。戻らないのはお宅らに責任があるんじゃね?」
「それはその通りかもしれない。だからこそ、白君とは話し合わなきゃいけない。嫌われてるならそれだっていい……それでも、互いが抱いている想いを知る事すらできないのは、悲しい事だから」
「ハッ……成程成程、こいつは出来たお嬢さんだ。が―――生憎と、お願いは聞けないね」
―――刹那、方向性を定められず放たれていたプラーナが、男の首筋に集中する。
その高まってゆく力の中で、愉悦と戦意に燃えた笑みを浮かべながら、男は―――獣のような男は、ただただ歓喜の咆哮を上げた。
「俺の憂さ晴らしに、付き合って貰わなきゃならねェからな! T、R、J―――!」
彼の首筋に刻まれていたルーンに、羽衣はこれ以上無いほどの驚愕を覚えていた。
そこにあったのは、二つのルーン。傷跡のように、直接身体に溝として刻まれた、原初のルーン。
―――TとRの始祖ルーンだった。
男の咆哮と共に、その体の表面を黒ずんだ銀が多い始める。
腕も、足も、胴も―――その頭すらも、Jによって発生した金属によって覆い尽くされて行く。
鉤爪のように尖った指先、肘から伸びる刃のような杭、背中に二本曲線を描いて伸びている翅のような刃。
そしてその頭部すら、鋭く尖った狼の頭部のような兜に覆い尽くされ、その獣は完成する。
「―――《悪名高き狼》」
鎧の奥で表情を歓喜に染め、男はそう宣言する。
かつて、滅びの始まりとなると予言された、最悪のルーン能力者―――それが今日、この地上に復活した。