03-9:始まりと異変
開演十分前となり、周辺地理の把握を終えた涼二は、速足で己の座席へと向かっていた。
一応予想はしていたものの、シアが用意していた座席は、劇場内でもトップクラスにいい場所のもの。
一体どれほどの値段なのかと半眼を浮かべていた涼二だったが、彼の持つ資産から考えれば手の届かない値段と言う訳ではなかった。
(我ながら、微妙な金銭感覚だな……)
金の使い道が無く、そのくせ高い報酬を受け取るような仕事をしている。
一応ガルムやスリスと山分けする事になっているが、ガルムも浪費癖は無いので、彼らは金に困ったような事は無かった。
―――スリスのみ、ゲームに金をかけていたりするのだが。
それでも、使いきれないほどの金が溜まっている当たり、自分達にも需要がある物だ―――等と、涼二は嘆息交じりに肩を竦める。
パンフレットにある城内の扉の位置、そして座席番号の対応関係を確認しつつ、涼二は最も近い扉を探して行く。
時間ぎりぎりではあるが、それに関して文句を言うような人間は今日この場に来ていない。
その人物はと言えば―――
「……スリス、どうだ?」
『んー……今回はちょっと無理くさいかなぁ』
通信機の向こうから、どこか苛立ちの混じった声が聞こえてくる。
彼女自身はそれを抑えているつもりなのだろうが、と込み上げてくる苦笑を押さえつつ、涼二はマイクへと向かって囁くように声を上げた。
「明文化はされていないと?」
『うん、そうだと思う。特別な理由に関してはデータで存在しない……多分だけど、上位の幹部から直接ムスペルヘイムの隊長に伝えられたんじゃないかな?
一応、次期総帥の護衛って言う理由がある訳だし、ある程度の人員増強は適当な理由をつければ何とかなると思う』
「確かに……余計な騒ぎになる事を避けたか。となると、流石に理由を探す事は無理そうだが……」
口元に手を当て、涼二はスリスの言葉を吟味する。
データとして存在しない以上、スリスがどのような手を使った所でそれを調べる事は叶わない。
データ方面に無類の強さを誇ろうとも、限界と言うものは存在してしまうのだ。
それに関しては皆仕方ないと割り切っているため、特に言及するような事は無い。
「……スリス」
『分かってるよ。一応、システムは掌握しながら通常運用させてる。いざとなったら、館内全てを制御する事が出来るよ』
「流石だな。一応、ユグドラシルの連中も監視してるだろうに」
『舐めないでって。これに関して、ボクに勝てる能力者なんていないよ』
大げさなまでの自信と取れるかもしれないが、それは純然たる事実であると言える。
彼女の技能は、H、A、Pという三つのルーンと神話級というポテンシャル、更に比類なき制御力の下に運用されているのだ。
普通の人間ならば、この領域に達する事などありえない。
何故なら、スリスはその能力が必要だからこそ使っているからだ。
全盲である彼女は、能力による補助が無ければ周囲の様子を見る事は出来ない。
故に、彼女は常に能力を使い、能力を制御している―――それが無ければ、人間の体内信号を操るなど、絶対に不可能だ。
とまれ―――と、涼二は思考を切り替える。
何が起こるにしろ、打てる手は打った。後は、スリスに任せて自分は仲間達の所に戻るだけだ。
「とにかく、任せたぞ、スリス」
『うん、了解したよ、涼二』
誇らしげに頷く様子を想像し、涼二は苦笑交じりに通信を切った。
気付けば探していた入口も近く、涼二はそちらへと向けて歩いてゆく。
―――ふと、黒髪の少年とすれ違った。
「―――氷室さん?」
「ッ……!?」
刹那、耳に届いた声に対して涼二は己の耳を疑っていた。
即座に動揺を抑え、その声を上げた少年の方へと振り返る。
そこに立っていたのは、黒い髪に学校の制服のような服を纏った少年だった。
見覚えのあるその姿に、涼二は内心の焦りを表面化しないように声を上げる。
「いえ、人違いですが……貴方は?」
「あれ、女性の方……? 確かに氷室さんだと思ったんだけど、人違いか……ごめんなさい、間違えました」
言って、少年はぺこりと頭を下げる。
それに対し、涼二は見覚えのあるその少年―――大神白貴に対し、愛想笑いを浮かべながら声を上げる。
「ええと、何か御用でもありましたでしょうか?」
「はは……ごめんなさい、呼び止めてしまって」
力なく、白貴は笑う。
彼の経歴、事情……美汐の弟が全盲であった事を思い出し、涼二は内心で舌打ちをしていた。
彼は目が見えない代わりに、プラーナに対する感応度が高いのだ。
その為、彼は他人のプラーナを感じ取り、その波動で人を識別している。
涼二も、姿は変われどプラーナが変わる訳ではないので、もしも親しい間柄であったならば一発で気付かれていただろう。
じわりと冷や汗をかきつつも、プラーナを波立てないように意識しながら、涼二は声を上げる。
「もう行っても大丈夫でしょうか?」
「あ、はい。お手数おかけして済みません」
「いえ、お気になさらず……」
軽く礼をし、そそくさと退散する。
そしてその姿が見えなくなった所で、涼二は壁にもたれかかりながら深々と息を吐いていた。
―――本当に、心臓に悪い。
「あんまり知らない相手で良かった……」
不意打ちにもほどがある、と胸中で呟き、涼二は再び姿勢を戻す。
こんな場所で気付かれれば、美汐や緋織の耳に入ってしまう可能性もあったのだ。
そうなれば、オペラどころの話ではない。
「しかし……大神の人間が、護衛の一人も無しとはな」
一度背後を振り返り、少年の消えて行った廊下を一度だけ見つめ、涼二は目を閉じてかぶり振る。
近付かないように気をつけなければと決意を新たにし、涼二は会場内へと足を踏み入れた。
そして、彼は素早く周囲へと視線を走らせる。
ある程度の座席の場所は分かっているのだ。後は―――
(あのバカデカい筋肉の塊が二人も居れば、居場所もすぐに分かるってもんだ)
肩を竦め、涼二はそう一人ごちる。
傍目から見て目立ちすぎる二人がいる場所へ向かうのは、少々勇気のいる行為であったが。
とはいえボーっと立っている訳にも行かず、涼二は覚悟を決めてそちらへと向かってゆく。
席に付こうとする人々が多く、進んでゆくのには少々難儀するが、良い席はそれだけスペースも広く取られていたらしい。
涼二は比較的楽にその中へと入って行く事が出来た。
「お待たせ」
「遅かったですわね」
「お姉様、こちらです」
腕組みをして瞳を閉じていたシアは、その右目だけを開いて嘆息しながらそう告げ、雨音は自分の隣に開けた席をぽんぽんと叩きながらアピールする。
若干非難の気が混じったシアの視線は躱しつつ、涼二は邪魔にならぬようすぐさま席の方へと足を勧めた。
涼二が隣に座ったのを見て、雨音は満足そうに頷く。
「もうすぐ始まるのに来ないから、迷子になってしまったのかと思いました」
「そうだったら傑作でしたのにね」
「そこまで方向音痴じゃないさ」
肩を竦め、涼二はそう口にする。
と言うよりも、むしろ涼二は既にこの建物内の地理をほぼ完全に把握しているような状態だった。
出口の数や通路の広さなど、普通は注目しないような場所も把握していたのは癖としか言いようが無いが。
(脱出時のルートやらいざと言う時に立てこもれそうな部屋とかを確かめちまうのは、職業病と言うか何と言うか。まあ、その職業はもう辞めてる訳だが)
胸中でそう呟き、椅子に身を沈めながら嘆息する。
座席そのものも高級なもので、涼二は先ほど感じていた緊張が解れてゆくのを体感していた。
我ながら動揺しすぎていた―――と、涼二は苦笑する。
この姿でバレる事など全く想定していなかったのだから、その動揺も当然と言えば当然なのだが。
先ほどの醜態を思い起こし、若干憂鬱な気分を味わっていた涼二は、ふと隣から袖を引っ張る気配に気付き、そちらへと視線を向ける。
「あの、お姉様」
「ん、どうかした?」
「どうかしたのか?」と言いそうになる所を何とか耐え、涼二は首を傾げる。
相変わらずごく自然に妹と言うスタイルで話しかけてくる雨音には疑問を覚えつつも、彼はその視線をパンフレットの方へと向ける。
それと共に、雨音は問いかけの声を上げた。
「『ニーベルングの指輪』、と言うんですよね? これは、どういう話なんですか?」
「どういう、と言っても……そこにあらすじが書いてあるんじゃ?」
「確かにありますけど……」
ぺらりと捲った所に書いてあったのは、紙の関係上あまり長くは書けなかったと思われる全体のあらすじ。
それを見て、成程―――と涼二は胸中で納得しながら苦笑した。
コレでは、今回の話を理解するのは少々難しいだろう。
「……今日のこれは、第二幕の『ワルキューレ』。昨日やったが、序章的な役割の話である『ラインの黄金』だった」
「随分と長いお話なんですね」
「小説にすればそれなりに纏められそうだけど、歌と音楽で表現だから―――」
と―――話し始めようとしたその瞬間、周囲の明かりが弱まり始めた。
それに気付き、二人は視線を正面へと向ける。
そこではちょうど幕が開き、舞台がその姿を現した所だった。
オーケストラピットの中では楽団がそれぞれの楽器を構え―――そこに、紅の髪を持つ少女が立つ。
「……緋織」
「あの方が……?」
目を見開き、雨音は小さくそう呟く。
そんな彼女の小さな声は、緋織が礼をした事により起こった拍手によって掻き消された。
そしてそれも、緋織が指揮棒を掲げると共に収まって行く。
しんと静まり返る、静謐な劇場内。
そして―――音楽が奏でられ始める。
嵐のような前奏曲は、全ての人々を震わせるように劇場内に響き渡った。
そんな中、雨音が小声で涼二へと話し掛ける。
「……お姉様、美汐様と言う方は?」
「ああ、まだ舞台には出ていない。ブリュンヒルデ……美汐の役に出番が出来るのは、もうしばらく後だから」
今舞台に上がっているのは一組の男女で、そのどちらも美汐ではない。
ニーベルングの指輪における主役級―――ジークフリートとブリュンヒルデの役割はまだ来ない。
今あそこに立っているのは、ジークムントとジークリンデの二人の役だろう。
神々によって生み出された人間の双子―――皮肉にも感じるその存在に、涼二は小さく苦笑する。
『Wes Herd dies auch sei, hier muss ich rasten―――』
男性―――ジークムント役が歌い始める。
傷付き疲れた戦士が迷い込んだ先は、己の知らぬ妹が嫁いだ先。
そして、そんな男と戦っていたのは、ジークリンデの夫。
最初に聞いたときには、大した偶然だ、などと考えた涼二であったが。
『Ein fremder Mann? Ihn muss ich fragen―――』
続くように、ジークリンデ役の歌が響き始める。
かつて緋織や美汐から幾度も教えられたその物語。
その終焉を思い出し―――涼二は、思わず小さな笑みを浮かべていた。
(望みと近いようで……遠いな)
大神槍悟の死を望めど、ユグドラシルの崩壊を望まない。
この物語を知っている涼二としては、己が望みの歪みに対して小さく苦笑を漏らす。
雨音は、じっと舞台に集中している。
歌の意味は分からないであろうが、響き渡る音楽と朗々とした歌は、彼女の心を惹き付けるに足る魅力を持っていた。
そんな彼女の様子を横目に眺めながら、涼二は口元に小さな笑みを浮かべていた。
そして彼は肘掛に頬杖を着き、ゆったりとリラックスして鑑賞を始める。
目当てである美汐の役、ブリュンヒルデが現れるのは第二幕から。
第一幕でも六十分ほど続く為、今はぼんやりとしていても問題は無い。
と―――ふと、小さな雑音が響く。どうやら、誰かがホールの扉を開けたらしい。
(始まったばっかりでトイレか?)
眉根を寄せながらそちらへと視線を向け―――そこに僅かに見えた姿に、涼二は思わず首を傾げていた。
そこに僅かに見えた姿が、どこか見知ったそれに見えてしまったからだ。
(気のせいか? ちょっと、あいつに似てたような気がしたが……)
気にはなったものの、そんな確証もない事を一々確かめる気にもなれず、涼二は肩を竦めながら視線を戻した。
そして前方にある劇へと意識を集中させ―――不意に、舞台袖からプラーナの高まりを感じた。
「……ッ!?」
驚愕と共に、背もたれに預けていた身体を起こす。
感じ取れたのは僅かなもの―――訓練を受けていなければ気付けないであろうそれ。
涼二達の中でも、それを感じ取る事が出来たのは彼とガルムだけであった。
そして舞台の上にいる緋織もぴくりと肩を震わせたが、指揮を乱す訳には行かず、そのままオーケストラへと集中している。
けれど―――
(おいおいおいおい……ッ!?)
舞台袖の奥で、美汐のプラーナが移動しているのを感じ取り、涼二は思わず頬を引き攣らせていた。
その後ろを護衛役と思わしき能力者が付いて行っていたが、まともな状況であるとは思えない。
何故なら、彼女のプラーナは、戦闘時であるかのように高まっていたからだ。
「ガルム……!」
「ああ、行って来い」
自分達に何かあったときしか動かない―――そんな自分の言葉を忘れ、涼二はガルムへと視線を向ける。
そんな彼の内心を理解したのか、ガルムはどこか苦笑を交えて首肯した。
胸中で礼を言い、涼二は席を立って素早く出口へと向かってゆく。
その扉は、先ほど開いたものと同じ場所。
「緋織が傍にいるならまだしも、あのバカ……!」
音楽に紛れる程度の小声でそう毒づき、涼二はホールの外へと飛び出して行ったのだった。