03-7:集う人々
―――落ち着かないものだ、と涼二は胸中で一人ごちる。
高級車の車内。所謂リムジンと呼ばれるこの車の内部は、家庭用の車の内部とは訳が違う造りをしていた。
高級な革が張られた座席、通常よりも広く取られたスペース、そして全く揺れる事のない車内。
涼二はそんな車内に雨音と並んで座りながら、ぼんやりと外の様子を眺めていた―――女性の姿で。
そんな彼の様子に、シアは呆れたような表情で声を上げる。
「いい加減往生際が悪いですわね……もう着くと言うのに」
「それとこれとは話が別だ。俺は女の格好をして喜ぶような性癖は無い」
「いっそ今から趣味にしてしまっては?」
「誰がするか」
半眼で吐き捨て、涼二は体を座席に沈める。
その姿は、先日着替えた女性用のスーツである。灰色の上下に、タイトスカートからは黒いストッキングに包まれた足が伸びている。
足がスースーして落ち着かなかったので、涼二としては生まれて初めてストッキングの存在をありがたく思った所であった。
「落ち着け、涼二……いや、今は涼音君と呼ぶべきか?」
「……まあ、人前ではな。俺だって、それ位はしっかり弁えてるさ」
助手席に座っているガルムの言葉に、涼二は肩を竦めながら嘆息する。
実際に、ユグドラシル時代にも潜入の任務が無かった訳ではない。
必要に駆られて、年相応の子供として振舞った事もあった―――流石に、女性に化けた事は無かったが。
ともあれ、必要さえあれば涼二はどんな役にもなりきる自信はあった。たぶん。恐らく。
「畜生……いいよな、お前は。普通の格好が出来て」
「その分仕事も多いがな。おかげで、スリスも付いてこなかったのだし」
スリスはオペラになど全く興味が無く、おまけにユグドラシルの人間への好印象など皆無なので、大人しく本拠地でオペレータ兼予備人員として待機している。
涼二としても、一緒にいるだけで散々からかわれそうだったので、そこは助かる所だったのだが。
結果として、このオペラへはスリスと佳奈美を除いた全員―――シア、涼二、雨音、ガルム、嵐山の五人が向かっていた。
あまり狭いとは言いがたい車内で己の現状に嘆息しながら、涼二はちらりと横目で二人の少女の様子を観察する。
いつも通り―――ただ、いつもよりも若干華やかな着物を纏った雨音。ただし、相変わらず色は青系の落ち着いたものである。
そして、対照的にドレスを纏ったシア。彼女のドレスは、色はともかくデザインはかなりスマートなものとなっている。
彼女も招待された側であり、少々緊張気味な様子ではあったが。
(まあ、変な意図を持って呼ばれたって事は無いだろう)
鉄森シアがユグドラシルに対し敵対にも似た行動をしている事は、今の所バレていない。
涼二が観察していた限り、むしろ彼女はユグドラシル自体への敵対行動と言うより、彼らが秘匿する情報を手に入れる事に集中しているようではあったが。
ともあれ、今回の招待は、それを追及されるような内容ではない。
情報の制御は、スリスの最も得意とする分野だ。
「会長、もうすぐ到着します」
「そう、分かりましたわ」
運転する嵐山の声がかかり、沈黙していたシアが口を開く。
緊張している為か、その声は普段よりも若干硬い。対し、あまり己が緊張していない事に気付き、涼二は小さく苦笑した。
むしろ、かなり落ち着いている。これからかつて決別―――しようと―――した相手を見に行くと言うのに。
やはり完全には吹っ切れていなかったのだと自覚し、その笑みはどこか自嘲じみたものへと変化する。
と―――
「涼二様……ではなく、お姉様。どうかなさいましたか?」
「うん、あー……まあ、向こうじゃ間違えないように」
出来るだけ男らしさが語尾に出ないように気をつけながら、涼二は雨音をそうたしなめる。
一人称と語尾さえ何とかすれば、多少の違和感があったとしても、カッコいい系の女性として見て貰えるだろう。
どちらにしろ、他人と話すような事はまず無いだろうから、あまり意味は無いのだが。
そう結論付け、涼二は小さく肩を竦める。
「で、どうかしたのか?」
「いえ、少し考え事をなさっていたようでしたから」
「ああ……まあ、少し感慨深くてな」
苦笑し、涼二は窓の外に見える劇場へと視線を向ける。
ユグドラシルから離れたのは、秋の始まりごろの話。
僅か数ヶ月程度しか経っていないと言うのに、涼二は随分と長い間顔を見ていなかったような感覚を覚えていたのだ。
「戦う事は、出来る。あいつ等が俺の事を恨んでくれるんなら、やりやすいさ」
「そうして、くれるでしょうか?」
「……俺の自惚れでなかったら、あいつ等はまだ俺を恨まないでくれているかもしれないな」
かつての日々を思い起こし、涼二はそう口にする。
決して、簡単に途切れる絆ではなかったと―――そう断言出来てしまうほどに、彼女達と通じ合っていた。
初めからユグドラシルを離れると分かっていれば、涼二がそんな絆を結ぶ事は無かっただろう。
けれど、その絆を後悔する事ができない自分がいる事を、涼二は自覚していた。
「まあ、直接対面するにはまだ早い。今の俺達じゃ、奴等には敵わないからな」
「それほど、強いのですか?」
「緋織だけなら……互角だろうが、経験の差で勝てる自信はある。けど、それだけじゃあ、真に討ちたい敵へと届かない。俺達に必要なのは強い仲間か、或いは必殺の機会だ」
真に討ちたいのはただ一人。
けれど、今の状態でそこに辿り着く事は到底不可能だ。
内部からの暗殺でも意味が無い。殺意を持ったまま近くにいれば、人を操る事に特化した彼の男はあっという間に気付き、そして逃げ道を塞いでしまう。
功を焦るな―――その言葉を伝えたのは、路野沢だったが。
「とにかく、今はまだその時じゃない。確実に届く瞬間も、敵の操る攻撃も、それを打ち破る手段も分からない。その瞬間を決して逃さない為に、今は力を蓄えるしかないんだ」
「……」
劇場が近付いてくる。
その光景を真っ直ぐと見つめ、涼二はただその魂の持つ鋭い殺意を研ぎ澄ませていた。
* * * * *
「たっのしいたっのしいオペラ~♪」
「……元気ですね、美汐様」
「もう、緋織ちゃんってば……二人っきりなんだから、呼び捨てでいいのに」
「いえ、あの」
周囲へと視線を向け、緋織は思わず口元を引き攣らせる。
確かに、周囲に見知った人間はいない。が、それとは別に、オペラの関係者が多数存在しているのだ。
別段、友人同士である事が知られたからと言って問題があるという訳ではないのだが。
「変に勘繰られてしまいます。自重して下さい、美汐様」
「全く、緋織ちゃんは真面目なんだから」
「美汐様が大雑把過ぎるだけです」
「あ、今のはいつもの緋織ちゃんみたいな感じだね」
クスクスと笑いながら告げる美汐に、緋織は小さく嘆息していた。
全く分かっていない。緋織とて、彼女の『皆と仲良くなりたい』という願い自体は理解しているが、今はそれに気を使っているほどの余裕は無いのだ。
緋織に課せられた任務は、あくまでも美汐の護衛。
彼女の身の安全の確保こそが第一であり、出来るだけ他の事に意識を割きたくなかったのだ。
「でも、緋織ちゃんのその格好、見るの久しぶりだね」
「あ……ええ、確かに」
腰を屈め、下から覗き込むようにしながら美汐が笑む。
そんな彼女に若干仰け反りつつも、緋織は首を縦に振っていた。
今の緋織が纏っているのは、黒いスーツのような衣装。オペラ指揮者として緋織が使っていたものだ。
腰の後ろは燕尾となっており、女性というよりは男性向けの服装―――タキシードにも見える。
対し、美汐が纏っているのは純白のドレス。これでヴェールが付いていれば、ウェディングドレスにも見えなくはない。
この格好を見た羽衣曰く、『そういう意図があったんじゃないでしょうか?』との事だった。
「美汐様は、緊張しておられないのですか?」
「緊張はしないよ。いつもやってた事だし、それに久々に歌えるのが楽しいんだから」
美汐が演じるのは、『ニーベルングの指輪』においてヒロインとも呼べるブリュンヒルデ。
花嫁と言うならば確かにその通りかもしれない―――と、緋織は胸中でそう呟く。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、相変わらず明るい調子を保ったまま、美汐は緋織へと向けて笑いかけた。
「緋織ちゃんは緊張気味かな?」
「ええ、久しぶりですから……その、少し」
「あはは。まあ、前日は大成功だったって聞いたし、私達も頑張らないとね」
「……余計にプレッシャーをかけないで下さい」
「大丈夫だよ、緋織ちゃんなら絶対に成功するから」
笑顔で、まるで疑う様子も無く、美汐はそう断言する。
根拠の無い自信であるとも言える。けれども、彼女のこれは絶対なる信頼を元に発せられた言葉だ。
仲間に対する全幅の信頼。決して恐れる事無く仲間の力を信じる心。
人を惹き付けるその性質と、惹き付けた人を信頼するその心。それ故、彼女の周りには人が集まるのだ。
心地よい陽だまりのようであり、同時に、迷い道に行く末を指し示す閃光のような存在。
だからこそ、周囲の人間も彼女の信頼に応えようとするのだ。
「……私も、か」
「ん? どうかしたの、緋織ちゃん?」
「いえ、何でもありません……必ず成功させましょう、美汐様。私が、貴方をお守りします」
「ふふ。緋織ちゃんがいるなら百人力だよ。でも、私だってちゃんと色々練習してるんだから、困った事があったら言ってね。私も、緋織ちゃんを助けるから」
「勿体無いお言葉です、美汐様」
笑顔と共に、緋織はそう口にした。
彼女の信頼、それに応えたいと。それだけの力をつけてきた己を信じるように。
今の緋織の立ち位置は、涼二によって明け渡されたものに過ぎない。
それが自身の実力によって勝ち取ったものであると言う実感が薄かったのだ。
けれど―――
(美汐に信じて貰えるなら……そして、そんな美汐を私の力で護り切れたなら)
改めて、今の己を誇る事が出来ると―――ようやく、涼二に対して胸を張る事が出来ると、緋織はそう決意する。
この任務を、確実に成功させるように、と。
周囲の人々が動き始める。
どうやら、準備を始めるようだ。
「美汐様、そろそろ」
「うん、分かってるよ。それじゃ、今日は一緒に頑張ろう」
「……はい、美汐様」
力強く頷き、緋織は美汐の後に続いて歩いて行った。
―――その様子を遠くから見つめる少年の姿に気付かずに。
* * * * *
「おーおーおー、盛り上がってんなァ」
普段では絶対に着ないような服装―――スーツを身に纏った双雅は、窮屈そうにネクタイを緩めながらそう呟いた。
いかに普段のファッションを気に入っている双雅と言えど、こんな場所であの服装をするほどトチ狂ってはいない。
出来るだけ目立たないように標的に近付き、交渉する。
それが、双雅が定める目標だ。
「さてさて? あのオンゾーシ君は何処にいるのかねェ、っと」
獣のように気配を殺し、双雅は広い会場内を進んでゆく。
その姿は堂々としていながら、決して人の印象に残らない―――まるで人々の視界の端だけを選んで進んでいるように。
それは、茂みの中で息を潜め、得物を狙う獣にも似ていた。
(しっかしまァ、随分と人が来てるこって)
半ば呆れを交え、双雅は胸中でそう呟く。
まだ劇場内に入らない人々が周囲に存在しており、彼らは何やら仕事上の話と思われる会話を続けている。
今回のオペラはユグドラシルが主催であり、その関係者には広く招待状が送られていると言う事は、予め調べていた双雅も知っている。
社交界にも近い印象を受けるこの場所に、双雅は居心地悪そうに眉根を寄せていた。
(どいつもこいつも……嫌だね、組織の人間って奴は)
基本的に自由を好む双雅である。
何かに縛られて何かを成すと言う事は、彼の性質に合わない行為であった。
けれど、そんな人間がいなければ国が動かないのもまた事実。
自分が生きてゆくだけならば何ら問題は無い―――双雅はそう思っているのだが。
と―――
「お?」
周囲のざわめきの声を聞き、双雅は周囲に視線を巡らせる。
そこに見えたのは、黒山の人だかりとなっている人々の姿。そんな彼らの隙間から、僅かに紅と金の色が揺れていた。
彼らの奥にいるであろう、見目麗しい二人の少女。
その二人の姿を思い浮かべ、双雅はそんな人々の横を迂回するようにしながら歩き出した。
(あいつらが、涼二がユグドラシル時代に友人だったとか言ってた連中か)
ある日突然様子が変わり始めた幼馴染の姿を思い浮かべ、双雅は小さく嘆息する。
ユグドラシルでやって行けるかどうかの不安やら、向こうで友人を得た事やらを話していたのは遠い昔。
双雅としては、涼二がユグドラシルを抜けたのはありがたい事ではあったのだが。
いずれ戦う事になってしまうかもしれなかったのだし、少なくとも敵にならないのであればやり易い。
「しかしまぁ、何があったのかね涼二の奴は―――ッ!?」
双雅がそう呟いた刹那―――不意に、人垣の中心にいた二人のプラーナが爆発的に高まった。
思わず息を飲み―――と言うよりも半ば絶句し―――双雅は反射的に近くにあった巨大な観葉植物の影へと隠れる。
そしてその数秒後、人垣を無理やり掻き分けて二人の少女が姿を現した。
彼女たちはきょろきょろと周囲を見回し、訝しげに眉根を寄せている。
「あれー? 確かに『涼二』って聞こえた気がしたんだけどなぁ……」
「聞き間違いだったのでしょうか?」
「二人で一緒に? うーん……」
首を傾げながら戻ってゆく二人の姿を隠れながら見つめ、戦々恐々と双雅は呟く。
その頬を、ひくひくと引き攣らせながら。
(……あのバカ、お嬢さん方に何しやがったんだ、オイ)
涼二から話を聞いただけでは、単なる異性の友達か、或いは部下と言う程度の認識だった。
それが蓋を開けてみれば、尋常ではないほどに執着している。
(名前が微かに聞こえただけでアレって……『涼二』ってのはそこまで珍しい名前じゃねェだろ)
人違いで同じ事をやらかしているのではないか、などと考えつつ、双雅は観葉植物の影から脱出する。
去ってゆく少女たちの背中を嘆息交じりに見送り、双雅は周囲へと視線を走らせた。
彼の手に入れた資料によれば、今回の目的―――能力キャンセルのファンクションを持つ少年は、あの大神美汐の弟であると言う。
今回のオペラとは関係ないが、仮にも姉の舞台。VIP待遇で招待されている可能性は十分にある。
この場にいる可能性も―――
「―――ビンゴ」
不敵に口の端を釣り上げ、双雅は呟く。
僅かに見えたその姿。学校の制服のような服装をした、黒い髪の少年。
先天性視覚障害を患っていると資料にあった筈の彼は、目を閉じているにもかかわらず、たった一人で危なげなく立っていた。
―――その閉じられた目の奥に、嫉妬と羨望の気配を隠して美汐の姿を見詰めながら。
「……へっ」
双雅は、ただただ愉快そうに笑みを浮かべる。
それは、普段浮かべている軽薄なものとはまた別―――嘲笑するようでもあり、そして心底賞賛しているようでもあるその表情。
彼はただ、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「いいね、さっきの希望に満ちたお嬢さんよりは遥かにマシだぜ、坊主」
そうがの獣じみた感覚は、その気配だけで少年の宿す思いを看破する。
そして同時に、彼は勝利の確信を得ていた。
あの少年を手玉に取る事は、酷く簡単である、と―――
「……さてと、後はチャンスだけって訳だ」
勝機を逃してはならない。
けれど、その緊張感すらも心地よいと言うかのように、双雅は人ごみの中へと姿を消して行った。