03-6:気づかれない為には?
―――かつて、これほどの恥辱を味わった事があっただろうか。
広い部屋の中、しかしカーテンの閉じられたそこは、人工的な光にのみ照らされている。
その場所で、ぶるぶると拳を震わせながら、涼二は己を苛む怒りを抑えていた。
ここで取り乱せば、相手の思う壺なのだ。冷静に対処しなければならない。冷静に―――
「出来るかあああああああッ! おい、これは一体どういう事だ!?」
「どういうと言われましても……まあ、見ての通りですわね」
涼二の叫びに対し、シアはただただ冷淡に声を上げる。
彼女が見つめるのは、地団太を踏む涼二の姿。
ただし彼―――と言うべきかは微妙だが―――の姿は普段のそれとは全く異なるものへと変化してしまっていた。
長く伸びた、何処となく紫の混じる黒い髪、全体的に丸みを帯びた体の輪郭。
少々小柄な青年から、すらりと背の伸びた女性へと―――涼二の体は、全てのルーンを起動した際に現れる女性の姿へと変化していたのだ。
「ああ、ようやく分かったよ、こういう意味か畜生……」
「ユグドラシルの連中も、涼二のその姿は知らないからねー。っていうか、今になってようやく気付いたんだ」
「この姿の事は出来るだけ意識しないようにしてるんだよ!」
頭の後ろで手を組んだスリスが、あっけらかんと言い放つ。
そんな彼女に対する言葉は非常に苛立ちに満ちたものであったが。
今の涼二の姿は、全てのルーンを起動する事によって女性へと変化し、その上でシアの持ってきた女物のスーツを纏っている。
むしろ、スーツだからこそ纏っていると言っても過言ではもいだろう。
もしもこれでドレスか何かだった場合、涼二は全力で暴れ出していたかもしれない。
「……ああそうだな、コレなら確かに気付かれないだろうさ。ああ気付かれないだろうさ」
「何かヤケクソだねぇ、涼二」
「喜々として着せやがったお前が言うか!?」
先ほど、スリスは不意打ちで電撃を打ち込んで涼二を痺れさせ、さらに能力による干渉によってその身体を操って、強制的にHとThを発動させたのだ。
いかな神話級のスリスと言えど、他人の体から能力までを完全に制御するのは難しい。
しかし、ルーンを通してプラーナを放出させるだけならば、他人に幻覚を見せる事すら可能な彼女にとってはそれほど難しい話ではなかった。
結果、涼二は痺れた身体のまま女物の服に着替えさせられ、現在に至ると言う訳である。
「ったく……って言うかだな、鉄森。わざわざこんな事せねばならんほど危険な場所なのか? 俺が出て来なきゃ護衛が間に合わないって訳じゃないだろ」
「ええ、まあそうですけど」
「……つまり、どー言う訳で俺をここまでして連れ出そうとしてるんだ?」
「言うまでもないですわね」
呆れたように、シアは肩を竦めて嘆息する。
彼女はその瞳を半眼にし、息を吐き出しながら声を上げた。
「ガス抜きですわよ、貴方のね」
「ガス抜き、だ? むしろ余計にストレスが溜まってるぞ、オイ」
頬を引き攣らせ、涼二は呻く。
いくら女性の姿になれるとは言っても、涼二に女装趣味など存在していない。
むしろ女性の姿に変化する事はストレスでしかなく、さらには姉の姿に変化する事で、かつての事件を思い出して憂鬱になってしまうのだ。
しかし、シアはそんな涼二の主張に対し首を横に振る。
「わたくしを舐めているのではないでしょうね? 貴方とユグドラシルの次期トップ達との関係、知らないとでもお思いで?」
「……だが、それとこれに何の関係がある」
「はぁ……悪いですけど、契約中の世話は私が見るようにと路野沢さんに言われているんです。あんまり溜め込まれては、こっちが迷惑ですわ」
そんな彼女の言葉に、涼二は聞こえないように小さく舌打ちする。
自分が上手く利用されていると言う事―――そこに路野沢が関わっている以上、油断していればあっさりと利用されてしまう。
涼二の半ば睨むような視線を受けつつも、シアは同じように顔を顰めつつ声を上げた。
「あの方は、恐いですわね。貴方達を上手く使えと、そう言っているのですから」
「……本当に、な」
その実力に対する信頼はあるものの、信用する事は決して出来ない。
路野沢一樹とは、そういう男なのだ。
大仰な様子で肩を落としつつも、シアは続ける。
「とにかく、気になるのでしょう? 復讐を決めたくせに、貴方には切り捨てられないものが多過ぎる。元より、貴方は己の思いを溜め込んでしまう性質があるようですしね」
「……随分、断言するんだな」
「そりゃ当たり前でしょ、涼二。大企業のお偉いさんなんだよ、彼女は」
それぐらい出来なきゃやってられない―――と、言外にそんな意志を込めながら、スリスが隣で声を上げる。
その言葉に、涼二は納得しつつシアの姿を眺めていた。
年若い、少女と言う形容しか当てはまらない彼女。その素の姿を幾度も目撃している涼二にとっては、それこそが彼女本来の姿であると印象付けられていた。
けれど、それは正確ではない。少女らしい姿のシアは、あくまでも彼女の一面に過ぎないのだ。
「とにかく、私としては、貴方は彼女達に会った方がいい……そう思っています。それが貴方にとっても、私にとっても利益となりますからね」
「効率主義な事だな」
「ええ、それこそがこの世界で勝ち残るコツですもの」
どこか誇るように、シアはそう口にする。
それを見て小さく苦笑を浮かべ―――涼二は、長く伸びた髪を掻き上げてから声を上げた。
「はぁ……分かった、アンタに従うよ。ただ、直接接触はしない」
「ええ。それは、わたくしもリスクが高いと思っておりますから」
「別に正面に立っても気付かれやしないと思うけどねー。普通、変化系のルーンも持ってない奴が変身とかすると思わないでしょ」
「まあ、それはそうなんだがな……」
親友にして幼馴染の、やたらと勘が鋭い青年の姿を思い浮かべ、涼二は嘆息交じりの息を吐き出す。
ああいった人種には、僅かな癖や仕草などで気づかれてしまいかねない。
無論、気をつけていればバレはしない自信が涼二にはあるのだが―――流石に、そんなリスクを冒す価値のある話ではない。
と、そこで、並んでいる衣装を漁っていたスリスが声を上げた。
「でもさー、涼二。それとは別に声かけられそうだよねぇ」
「あ? どういう意味だ?」
「だってその格好、護衛には見えないじゃん。私服SPって訳でもなし。雨音ちゃんと並べば、何処に出しても恥ずかしくない美人姉妹―――あ痛たたった!?」
「妙な事を抜かすなこの阿呆」
小さく縮んだ手でスリスの頭を掴み、掌全体で押さえつけるように圧迫する。
その圧力によって響く痛みに悲鳴を上げるスリス。
そんな彼女の頭を掴んでいる涼二は、口元を嗜虐的に歪めながら声を上げた。
「ははははは。おいスリス、何か妙な言葉が聞こえたような気がしたんだが?」
「いやぁ、だってその姿雨音ちゃんにそっくり―――痛い、痛いってば!」
「誰が姉妹だ、誰が! 俺は男だ!」
「その姿で言ってもまるで説得力は無いですけどね」
「余計なお世話だ」
スリスの頭を離し、涼二は吐き捨てる。
ころんと地面に転がったスリスは、頭を抱えながら呻いている。
涼二は嘆息しながら視線を外し、自分自身の体へと視線を向けた。
この姿は、涼二の姉である氷室静奈の肉体に似せて構成されている。
H、Thの始祖ルーンが記憶している元々の主の姿を、Lのルーンが受け皿として受け取っているのだ。
この二つの始祖ルーンを扱う為には氷室静奈の肉体が最も効率が良いからだろう、というのが路野沢の見解である。
そして、雨音は静奈の生き写しであると言えるほどに似通った容姿を持っている。
つまり―――
(並んだら、冗談じゃなく姉妹に見えるよなぁ、コレ)
自分でもそう思ってしまい、涼二は苦笑を漏らす。
流石に、姉と呼ばれるのは勘弁して貰いたかったが。
と―――
「とりゃあっ!」
「っ……!? お、おい、何してやがる!?」
一人で考えて油断していたのがいけなかったのだろう。
涼二は、背後から飛び掛ってきた存在を回避する事ができなかった。
その存在―――スリスは、その両手を涼二の胸へと回し、その二つの果実を揉みしだいている。
「何が女じゃないだよぅ! この大きさ、普通に女の子より大きいじゃないか! 納得行かない!」
「はぁ!? お前、何言って―――」
「ああ、それに関してはわたくしも同意しますわ」
「おい!?」
助け舟を求めようとした涼二は、思いがけずじとっとした半眼を向けられて硬直する。
シアは腕を組むようにしながら己の胸元―――スリスほどでは無いが、若干控えめ―――を押さえ、涼二の姿を恨めしそうに睨んでいた。
涼二からしてみれば、言いがかりもいい所である。
この姿は、決して意識しているものではないのだから。
「お前らな……」
「女の子にも色々あるんだよー。それなのに、不都合な部分だけ完全無視で、いい部分だけ女残してるなんてズルイじゃんか」
「……まあ確かに、生理だの何だのは無いがな」
この姿が作り上げているのは、あくまでも始祖ルーンが必要とする氷室静奈の模倣である。
ルーン達にしてみれば、プラーナの放出方法さえ近ければ問題は無い。
それ故、この女性体は見せかけのようなものでしかないのだ。
生理などは存在しないし、基本的に体の内部は男性の時のそれと変わっていない。
一応ながら、一部は女性特有の臓器なども形成されているが、それも本物とは言い難いものである。
「全く、女になれるのに女心が分からないんだから」
「ああ、それに関しちゃ分かってる事が一つだけある」
「ん? 何?」
「男には絶対に分からん代物だって事だ」
嘆息しつつ手を後ろにまわし、スリスの身体を引っ張り上げるようにして引き剥がす。
猫の子供のようにぶら下がったスリスを降ろし、涼二は小さく嘆息した。
女心などと言うものが理解できれば、ユグドラシル時代に苦労しなかった―――と、そこまで考えて、涼二は再びかつての事を考えてしまっていた事を自覚した。
思わず自嘲し、頭を抱える。
(……成程、言われるだけの事はあるか)
思った以上に重症だった事に涼二は苦笑した。
幼馴染と戦友だけが心の支えだった時代―――そんなモノは、当の昔に過ぎ去ったものだと思っていたというのに。
姉を失い、穏やかな生活を手に入れて、けれどそこから離れてただ我武者羅に戦おうとして、結局誰かに縋る事でしか立つ事が出来なかった。
そんな中、始めて自分を縋ってきた存在―――緋織は、涼二の心の中で大きなスペースを占めていたのだ。
彼が気付いたのは、つい最近ではあったが。
(……あんな物、見ちまったからな)
かつて、ユグドラシルから抜けた日の事。
追ってきた緋織を打ち倒し、己の心とも決別しようとしたあの瞬間。
涼二は、緋織の首にかかる銀の鎖を見てしまったのだ。
あれは、緋織を初めて部下として任務に連れて行った日の帰り、成功の褒美として買い与えた安物のペンダント。
露天で売っている程度の銀細工であり、とっくの昔に捨てたものだと思っていたそれ。
(あれさえ無ければ、少なくともここまで意識を引っ張られる事も無かっただろうに……上手く行かないもんだな、本当に)
嘆息と共に視線を戻し―――涼二は、何やら相談を行っている二人の姿を発見した。
こそこそと話し合うスリスとシアに、嫌な予感を覚えて半眼を作る。
しかし、涼二が二人に問いただそうと口を開いたその瞬間、部屋の扉がそれを遮るように開いた。
出鼻を挫かれ、鼻白みながら涼二は振り返る。そこには、扉を開けた雨音の姿があった。
「失礼します、涼二様……あら、凛々しいお姿ですね」
「出来れば男の時に聞きたい台詞だな、それは」
乾いた笑みを浮かべ、涼二はそう口にする。
女の時に凛々しいと言われても―――まあ、その言葉は女性を形容するものかと聞かれれば少々微妙な所ではあるのだが。
とにかく、と涼二は口を開こうとし―――
「ほら、雨音ちゃん、お姉ちゃんだよー」
「ええ。名前は静崎涼子と言うのはどうでしょう?」
「そのまんま過ぎない? 静崎涼音なんてどうだろう?」
「……おい、お前ら」
低く、地の底から響くような声で―――声質が変わっているので言葉のあやだが―――涼二は、二人に対して呻く。
先ほど相談していたのはこの事か、と頬を引き攣らせながら半眼を向ける。
そして嘆息し、涼二は雨音の方へと視線を向けた。
「おい雨音、こいつ等の言う事は無視して―――」
「私に、生き別れの姉が……!?」
「ぅおい!? 思いっきり騙されてんじゃねーよッ!」
口元に手を当てて目を見開き、肩を震わせている雨音に、涼二は反射的にツッコミを入れていた。
元々この姿の涼二を見た事があった筈なのだが、彼女の声は完全に信じているそれだ。
このままでは厄介な事になりかねない、と涼二は半ばヤケクソ気味に声を上げる。
「俺だ、俺! 氷室涼二だ! この姿は前にも見ただろ!」
「そんな男性らしい名前だったのですか……」
「違うだろうが!?」
雨音の様子は変わらず、本気で言っているのか冗談なのかの判別がつけづらい。
葛藤と共に頭を抱え、涼二は感じ始めた頭痛に呻き声を上げていた。
彼はもうオペラを見に行く事を認めてはいるし、雨音の姉の役をやることも別にやぶさかではないと考えている。
けれど、本当に姉にされるのは認めがたい所であった。
とりあえずどうやって全員の頭を冷やしてやろうかと考えながら、涼二はガルムの助け舟がやってくるのをひたすら待っていたのだった。