03-1:プロローグ
「オペラ、ですか?」
「そうだよ、羽衣」
ユグドラシル最強の実働部隊、ムスペルヘイム。
その任務の危険度は他の部署とは比べ物にならないほど高く、その分だけ隊員の扱いは優遇されたものであった。
個人で家を保有していない場合は一人ひとりに個室が与えられ、家賃を払う必要もない。
無論、それに納得できないものも往々にして存在してはいるのだが、ムスペルヘイムが当たる任務は常に死の危険と隣り合わせなものであり、その実態を知る者は決して文句を言えるような代物ではなかった。
そんな己の暮らす環境と、今回の任務で関連してくる相手の居住環境を思い浮かべ、緋織は小さく肩を竦める。
ここはムスペルヘイムの隊長に与えられる執務室。そのデスクに着いた緋織は、己の副官である羽衣に対して声を上げた。
「私がオーケストラの指揮者をやってる事は知ってるでしょう?」
「はい、お姉さまの事なら何だって!」
力みながら断言する羽衣に、緋織は思わず苦笑を漏らす。
自分を慕ってくれているのは確かだが、その好意には若干隔意を感じてしまうのは事実だった。
しかしその感情は表に出さないようにし―――気付かれたらどんな反応を示すか分かったものではない―――緋織は、書類に目を通しながら嘆息交じりの声を上げる。
「元々、私はオペラ指揮者としてやっていた。オペラ歌手である、美汐様と一緒に。最近はあまりそちらの活動はしていなかったのだけれどね」
「美汐様って……もしかして、総帥の娘さんの?」
「そう。大神美汐……ユグドラシルの次期総帥としても名高い能力者」
その姿を思い浮かべ、緋織は己の紅の髪を掻き上げた。
頭の中で思い浮かべる人物は、緋織と同じような長い髪を持つ少女。
ただし、その姿は光輝と言う単語がこれ以上ないほどに似合う存在だった。
光を反射するプラチナブロンドと、その中で輝く黄金の瞳。
高い才能とそれに驕らない精神、そして多くの人を惹きつけるその在り方。
選ばれた人間であると言うその評価も頷ける―――そう胸中で呟き、緋織は視線を上げた。
「私は彼女と古くからの友人で、共に活動していた事もあったから。あの世代の能力者は皆凄かったけど」
幼い頃から能力に触れていた人間達が、ようやく社会で活動できるまで成長した時期。
それまでは表舞台に姿を現す事が殆ど無かった始祖ルーン能力者達が、その姿を見せ始めた頃だ。
Aの始祖ルーン能力者、詩樹悠。
Kの始祖ルーン能力者、磨戸緋織。
Uの始祖ルーン能力者、大神徹。
そして、DとGの始祖ルーン能力者、大神美汐。
さらに怜や、それらの能力者に勝るとも劣らない実力を持つ氷室涼二。
天才と呼んでも過言ではない者達が軒を連ねていた時代の事を思い出し、緋織は懐かしさに目を細める。
「美汐様は私達のように厳しい訓練は受けていない。けれど、それでも私と互角に渡り合えるだけの実力を持っている」
「……凄いんですね、その人」
羽衣の声に硬さが混じるのを感じ取り、緋織は胸中で苦笑を漏らす。
彼女は元々、プラーナ量こそあるもののルーンの大きさは巨人級ほどであったために、それほど高い判定を受けられない存在だったのだ。
ルーン能力は天性の才能に依存する。プラーナ量などは特にそうだ。
けれど羽衣は、その不足を努力で補った。能力の強度を上げられないのならば、使い方で、戦略で勝利を勝ち取る。
結果として、今の彼女は災害級の判定を得る事が出来た。
たゆまぬ努力の末に得る事が出来た、ムスペルヘイムの隊長補佐と言う役目―――故に彼女は、努力せず高い力を持つ者を好かないのだ。
(……美汐は、努力不足って訳じゃないけど)
心の中では敬称を付けず、緋織はそう呟く。
大神美汐は、むしろ人並み以上の努力を積み重ねているような存在だった。
彼女の能力は直接戦闘と言うより、むしろ将としての在り方に重点を置いている。
味方に指示を出し、味方を奮い立たせる―――それこそが、大神美汐と言う能力者の真髄だ。
いかな緋織とて、彼女に対し集団戦で勝てるとは思っていなかった。
無論、負けるとも思っていないが。
「まあ、とにかく―――」
とまれ、と思考を切り替える。
今考えるべき事は大神美汐本人の事と言うよりも、このオペラについてなのだ。
「このオペラコンサートの目的は、どちらかと言えば対外へのアピールにある」
「アピール、ですか?」
「今でも、能力者は恐怖の対象とされる事があるから……私や美汐様をアイドル扱いして、能力者全体のイメージアップを図りたいんだと思う」
「そんな事にお姉さまを使うと!?」
「必要な事、だからね」
憤慨した様子の羽衣に、緋織は苦笑を見せる。
能力と言うものは戦闘の為の力であるという意識の強い羽衣にとっては、能力者をそのように使う事それ自体が信じられなかったのだろう。
無論の事、能力とは戦闘ばかりではなく、悠のように補助にも使えるものではあるのだが。
けれど、そればかりでいられる訳が無い。能力は、管理しなければ破滅を呼ぶものなのだから。
「崩壊した……いや、中途半端に崩壊した今の日本を纏め上げるには、能力の力が要る。
けれど、その秩序を乱しているのもまた能力。だからこそ、ユグドラシルは能力者を集めなければならない」
「分かってます。その為の『スクール』ですし、奨学金制度だって……」
「けれど、能力者は恐怖の対象である事に変わりはない」
人の身で超常の力を操る能力者。
才能さえあれば子供でも家一つ破壊する事が可能で、しかもそれを抑え込む事は非常に難しい。
能力者を集めた『スクール』は、能力者の育成と倫理教育を行う場所と言う面の他に、能力者を隔離する場所と言う役割も持っているのだ。
一般の世の中に能力者がいれば、人々は怯えて暮らすことになる。
だからこそ、『スクール』―――或いは、ユグドラシルという隔離所が必要となってしまうのだ。
「そして、そんな能力者達を集めているユグドラシルは、一般人からしてみれば得体の知れない存在でしょう」
「それはっ……そうかも、しれませんけど……」
「『自分の事を人間だと思っていても、化け物にならない為に生きていたとしても、周りの人間はそう見てくれるとは限らない』……結局、世の中はまだまだ本当の秩序には届かないままだ」
先任―――涼二の言葉を口にしながら、緋織は自嘲気味にそう呟く。
それが彼女自身の言葉ではない事を羽衣は気づかなかったようだ。無論、気付けば騒ぎ出すので気付かれなくて正解ではあったのだが。
そんな事を考えながら息を吐き出し、緋織は肩を竦めつつ続ける。
「だからこそ、一般人の恐怖を和らげる事は私達にとっても必要な事。その為の偶像として選んだのが、私と美汐様だったという事」
「偶像って……」
「アイドルなんてそんなモノだと思うけど」
頬を引き攣らせる羽衣に緋織はそう告げる。
広告塔とするには、美汐は最適な人選であると言えるのだ。
何故なら、彼女の持つルーンはG。それは、『人に好かれる』力を持つ、ある意味人心掌握のルーンなのだ。
始祖ルーンとしてその力を持つのならば、例え映像越しだったとしても、人の心を集めるには十分すぎる。
「能力者に対する隔意の軽減、そしてユグドラシルのイメージアップ……今回の話の目的は、こんなところかな。
まあ、本来ならそれに私が加わる理由は無いのだけど、美汐様の護衛は要る訳だから」
「……いえ、お姉さまに関してもお姉さまの言った通りの目的はあると思いますけど」
「それは無いよ。私には、美汐様に並び立つほどの魅力は無い」
断言する緋織の言葉に、羽衣は気付かれぬように小さく嘆息を漏らした。
彼女は以前からこのように、自分自身の魅力に気付かない節があるのだ。
誰が見ても変わることは無い、掛け値なしの美少女である磨戸緋織―――彼女には、自分が女であるという自覚が薄かった。
幾度も苦労をさせられた事があり、羽衣はその一つ一つを思い浮かべて疲れたように肩を落とす。
そんな様子に首を傾げながらも、緋織は続けた。
「まあとにかく、そういうことだから。多分ムスペルヘイムからも何人か護衛として付くことになるかもしれないから、一応皆にそう伝えておいて」
「はい、分かりました。人員としてはどれぐらい?」
「一応、私が一番近い場所で護衛をしている事になるし、それほど人数は多くしなくても大丈夫だと思う」
「まあ確かに、お姉様が護衛についている以上、私達の警備はそれほど必要にはならないでしょう」
実働部隊ムスペルヘイム、その隊長にして最強の能力者である磨戸緋織。
彼女がすぐ傍についている以上、これ以上の警備など高望みと言うべきものだった。
尤も、万が一と言う可能性がある以上は、そのまま誰も動かさないと言う訳には行かないのだが。
「はい、それじゃあ羽衣、当日の予定を預けるから人員の配置をお願い」
「分かりました、お姉さま。お姉さまの手を煩わせる事の無いよう、努力します」
「期待してるよ」
頷き、退室してゆく羽衣の背中を見送り―――緋織は、執務室の椅子に背中を預けて深く息を吐いた。
気配の中に混じるのは、若干の疲労。
それは肉体的な疲労というよりも、精神的な疲労という面が強かった。
そして彼女の視線は、再び机の上に置かれたパンフレットへと向けられる。
「……題目は、『ニーベルングの指輪』か……確かに、美汐の好きな話だけど」
緋織は、かつて共に切磋琢磨していた時代を思い出す。
その時には美汐はもっと近い場所におり、悠達とも毎日のように話をしていた。
そして何より、涼二がそこにいたのだ。
彼は常に、自分達を導き続けてくれていた―――その時にかけてもらった言葉を、笑顔を思い出し、緋織は再び溜め息を吐く。
「涼二は……見に来て、くれるかな」
ありえないであろう可能性を口にした己自身に、緋織は苦笑を漏らす。
否―――それは最早、自嘲を孕む物でもあった。
涼二はユグドラシルを裏切った―――尤も、脱退自体は正式な手順であった為、敵と言う認識は殆どされていないが―――そうである以上、彼が緋織の前に姿を現す事などある筈がない。
(ある筈、ないんだ)
緋織は、そう小さく己に言い聞かせる。
涼二はもう戻ってこない。力ずくでも連れ戻す事が出来なかった以上、彼が自分から戻ってくると言う事は無いだろう。
けれど―――
(私は、弱いのかな)
美汐は、未だに諦めていない。
必ず涼二をユグドラシルに連れ戻すと―――その為に力を付けるのだと、彼女はそう息巻いていた。
彼が居やすい場所にする事が出来れば、彼が帰ってきたいと思うような場所に出来れば、きっと戻ってきてくれるのだと……美汐は、そう信じて疑わなかったのだ。
「……強いな、美汐は」
緋織はかつて友人達と一緒に戦っていた頃を思い出す。
未だ秩序を取り戻したとは言えず、治安は決してよくなかったあの頃。
命を削るような日々で、来る日も来る日も戦いに明け暮れていたあの頃。
しかし、それでも―――緋織は、満足していたのだ。
いつか平和になった時に一緒に笑い合う事ができると、そう信じていたのだから。
椅子から身を離し、立ち上がる。
パンフレットを持つ手をだらりと下げ、緋織はゆっくりと窓の傍へと近づいた。
ブラインドの下りたそれを少しだけずらし、外の景色へと視線を向ける。
「涼二……どうして、何も話してくれなかったの?」
ポツリと、緋織の唇からそんな言葉が零れ落ちる。
それは責めるようであり、悔いるようでもある言葉。
どうして話してくれなかったのか、どうして気づく事が出来なかったのか―――そんな言葉が、あの日から変わらず緋織の中で響き続けている。
それは、紛れもなく後悔だった。
「……はぁ」
自嘲気味に息を吐き出し、緋織は窓から身を離す。
そして、しばしぼんやりと虚空を見上げ―――ゆっくりと、その身を翻す。
そんな彼女の足は、自然と部屋の扉の方へと向いていた。
かつて涼二が使っていた執務室―――この場所は、居るだけで彼の姿を思い出してしまうのだ。
だからここにはいたくないと、そう胸中で呟きながら、緋織は部屋の扉を押し開ける。
「久しぶりに、美汐と話をしようかな」
悠、怜、美汐、緋織、涼二。
それが、かつて友としての絆を結び合った者達の輪。
欠けたのはたった一つであったというのに、滑稽なほど形を失ってしまったそれ。
けれど、その輪を必死に修復しようとしている美汐を、決して滑稽だと思う事は出来なかった。
緋織の手は、そっと己の胸元に触れる。
服越しに押し付けられる固い感触―――それは、首にかけられたシルバーのペンダント。
それは、かつて涼二によって贈られた、緋織にとってたった一つの宝物だった。
「結局私も……」
―――この絆を捨てる事は、出来ないのだ。
小さな呟きは音にならず、空気の中に溶けてゆく。
そんな僅かな、しかし万感の思いの溶けた空気は、閉じた部屋の中でいつまでも漂い続けていた。