02-10:駆ける狼
仲間達が出動し、シアも会議で席を外した部屋の中。
一人部屋に残ってパソコンの画面と向かい合っていたスリスは、そこに映し出される情報に対して深々と嘆息を吐き出していた。
「ここまで来るともう呆れるよ……ホント、性根の腐った奴ってどこにでもいるもんだね」
その画面に映し出されているのは、技藤が強固なプロテクトを掛けてまで隠していた研究所、その内部のデータだった。
《ドヴェルク》時代に作られた資料―――その時に作られた『グレイプニル』に関する報告。
最初の頃は刻印獣のルーンを使って作られていた筈の『グレイプニル』が、何処で足を踏み外したのか、人体を使った実験を行うようになってしまった事に関して。
そして、それがついに禁止されてしまった事。
その原因は―――
「あの時は派手にやったからなぁ……あはは」
降霧スリスが実験施設を出奔する時に、最後に行ったクラッキングである。
《ドヴェルク》に蓄積されていた無数のデータを各所へと送信し、その違法な研究を白昼の下に曝そうとした事。
最終的には全ての情報が流れ切る前に遮断されてしまったのだが、それでも《ドヴェルク》には捜査のメスが入る事となった。
『グレイプニル』を初めとした違法研究は断念を余儀なくされ、結果として技藤はユグドラシルから放逐されたのだろう。
尤も、ユグドラシルは失墜しない程度に危険な研究を隠蔽してしまったので、組織を潰すほどにダメージを与える事はできなかったのだが。
そして、《ドヴェルク》の断罪をユグドラシルのトップである大神槍悟が行ったのも、周囲の心象を良くしてしまったのだ。
「トカゲの尻尾切りだ……《ドヴェルク》のトップは追及を免れてる。そいつを探し出す事が出来れば―――」
―――それが、スリスとガルムにとっての復讐の対象となる。
実験と言う名の下に二人の全てを奪った存在。その全てを取りまとめていた人物こそ、二人が強く憎む相手だった。
しかし今までその存在の足取りを掴む事は出来ず、巧妙に隠された情報はその尻尾の陰すらも見る事は叶わなかった。
けれど―――
「『グレイプニル』……違法研究に直接関わっていた人物なら、何かの情報を持っている可能性は十分にある。これ以上無いチャンス……逃す訳にはいかないよ、おっちゃん」
口元に小さく笑みを浮かべ、スリスはそう口にする。
降って湧いた好機―――これを逃す訳には行かないと。
その相手を探し出して殺す―――それこそが、ニヴルヘイムの存在意義なのだから。
「しっかし、今回は思わぬ展開だね……しっかりした準備が出来なかったのが本当に惜しい。変身してると、おっちゃんには通信が届かないからなぁ」
画面の中に映るモニターの一つには、高速で街を駆け抜けるガルムのマークが映し出されていた。
道を違える事無く一直線に進んで行く彼は、もう数分のうちに目的地へと到着する事だろう。
そんな彼へと通信を行えない事を歯がゆく感じながら―――バイザーを装備していない涼二ともリアルタイム通信は出来ないのだが―――スリスは小さく嘆息を零していた。
一応涼二にはこのことを伝えているし、聡明なガルムならば言わずとも気づく事が出来るだろう。
だが、怒り狂う獣と化した彼に、果たして自制が効くのかどうかはスリスとしても疑問な所ではあった。
その為、出来れば話しておきたかったのだが、生憎と今はデータを探る程度しか出来る事がないのだ。
「はぁ……ままならないなぁ、どうにも……ん?」
と、データの中にふと見慣れない単語を発見し、スリスは思わず首を傾げていた。
それはどこか走り書きのようなテキストデータ。
拾い上げた単語は『グレイプニル』、『逆手に取った』、『隠蔽』、そして―――
「《悪名高き狼》……?」
物々しいその名称―――まるでユグドラシルで与えられるコードネームのような名前に、スリスは眉根を寄せる。
何やら危険視するような形で記されているその名前は、スリスでも聞いた事の無いものだったのだ。
危険視されるほどに高位の能力者に関しては、スリスがその情報を集めている―――《災いの枝》磨戸緋織、《雷神の槌》大神徹、《光輝なる英雄譚》大神美汐などもその一例だ。
しかし、その《悪名高き狼》と言う名に関しては、情報に特化したスリスでさえ今まで耳にした事のない単語だった。
「ユグドラシルの人間が危険視する能力者……『グレイプニル』の資料の中で出てくるって事は、それを使わなければならないほど危険な相手だったって事?
なら、その能力者を味方にする事が出来れば―――」
貴重な戦力になるのかもしれない、と―――獲らぬ狸の皮算用と言う言葉を脳裏に浮かべつつも、スリスは小さく呟いていた。
その名前に関し、更なる検索を開始する―――そんなスリスの《並列思考》の一角が、画面の端に映る地図、そこに映るガルムが目的地へと到達した瞬間を捉えていた。
「さあ……始まりだよ」
不敵な笑みは己へと向けてか、或いは戦場に立つガルムへのものか。
何処までも自信に満ち溢れた笑みを浮かべながら、スリスは自分自身の戦場へと繰り出して行った。
* * * * *
金色の毛並みが夜の街に光の軌跡を描き、その巨体は人の目に止まる間もなく通り過ぎてゆく。
強く地を蹴り、一つの跳躍で一軒家を跳び越え、ガルムはただただ真っ直ぐに目的の場所へと向かっていた。
その視線は余計なものを映さず、その先にいるであろう敵を見つめている。
怒りに毛を逆立てながら、溶ける周囲の景色には目もくれず、ガルムはさらに速度を上げた。
『『グレイプニル』……!』
その名には、確かに聞き覚えがあった。
かつて、ガルム・グレイスフィーンが愛する家族を失った日の事。
住み辛くなった祖国を捨てて日本へと渡り、慌しいながらも平穏な日々を送っていたあの頃の事。
彼の家族は、唐突に奪われてしまった。
『許さん……永遠に、許しはしない……ッ!』
娘のハティはそのルーンを奪われ、妻のイアールは娘と共にプラーナを奪われた。
傷付き、絶望の内に死んでゆく筈だったガルム―――そんな彼を救ったのは、他でもない涼二と路野沢の二人だったのだ。
涼二はいずれユグドラシルから離れて復讐の道に走る事をガルムへと告げ、ガルムもまたそれに賛同した。
全てを奪われた者が身を寄せ合い、足りない力を補って復讐へと走る―――それが、ニヴルヘイムの始まり。
その復讐心こそが、彼等にとって何よりの燃料なのだ。
故に―――例え暴走している事を自覚していたとしても、ガルムはその歩みを止める事ができなかった。
『もう少し、もう少しだ……!』
強く足元をけり、ガルムはビルの上から跳躍する。
例えどれほどの高さから飛び降りようと、ガルムの強靭な肉体は小揺るぎもしない。
その怒りを燃料として燃やしながら走る暴走特急―――その憎悪は全て、家族を奪った者達へと向けられていた。
生きたままルーンを剥がされ、苦痛の内に死んで行った娘の最期も。
娘を奪われ、絶望に泣き叫びながらプラーナを奪われてしまった妻の最期も。
全てを奪われたあの光景は、今も変わらずその脳裏に焼きついている。
『Eh、T、R―――!』
見えてきたのは、建築資材を置く為に建てられた倉庫のような場所。
その前方に、人狼の姿へと変化したガルムが地響きを上げながら降り立った。
鋭く細められた彼の瞳は、ただただ一直線に目の前の扉―――厳重に閉ざされた合金製のそれを見据える。
人の気配など皆無なこの場所ではあったが、しかしガルムの持つ強靭な感覚はそれを確かに捉えていた。
『人間の臭い……少なくとも、誰かがいるのは確かなようだな』
ならば、とガルムは拳を構え―――握り締めたその拳を、硬く閉ざされた金属の扉へと向けて一直線に突き出した。
空を斬り、甲高い音すら立てて突き出されたその一撃は、その威力を余す事無く対象へと伝え―――頑丈極まりないそれを、飴細工か何かのように折り曲げて吹き飛ばす。
無論の事、そのあまりの破壊力に巨大な轟音が響き渡るが、ガルムには最早姿を隠す意思など微塵も存在していなかった。
ガルムは消し飛んだ扉の奥へとその足を踏み入れ―――同時に、悪寒を感じて身をよじる。
刹那、一瞬前までガルムの体があった場所に、一筋の熱線が閃いていた。
背後にあった木材をその熱量で焼き斬ったそれは、入り口から見えない位置に隠された装置から発射されている。
暗闇に隠れてはいるが、獣化して夜目が利くようになったガルムにはその姿がはっきりと見える。
そしてそれを確認した直後、ガルムの姿は一瞬でぶれて消えていた。
同時、鋭い爪が空を裂く音と、仕掛けられていた装置が破壊される音が響き渡る。
(当たりだな―――!)
湧き上がる暗い歓喜に、ガルムは獰猛に牙を剥いた。
それは威嚇のようであり、笑みを浮かべたようでもあり―――ガルムも、その感情を抑える心算は欠片として存在していなかった。
そして、ガルムは暗闇の中を駆け始める。
途端に動き始める無数のセキュリティ。以前の静崎製薬と違い、こちらでは攻撃目的に作られた装置や警備ロボットなどが多数配置されていた。
サイレンサー機構のついた銃撃装置から放たれる弾丸を躱し、振り抜いた爪の一閃が離れた場所の装置を破壊する。
Rによる超高速の攻撃によるカマイタチの発生。これもまた、一つのファンクションであった。
『ォォオオオッ!』
隣から突撃してきた四つ足の警備ロボットの攻撃を躱し、打ち下ろすような拳の一撃がそのボディを粉々に打ち砕く。
砕け散った部品は、打ち据えられたガルムの拳によって一直線に飛び、その正面にあった機械と共に粉砕した。
強靭な肉体と精神を手に入れるT、獣のごとき強大な性能を得るEh、そして何者にも捉えられない速さを手に入れるR。
純粋な戦闘の為のルーン三種。それらを持つ神話級の能力者とは、即ち神話に名を残す英雄と等しい。
例えどんな数の機械が襲ってこようとも―――
(邪魔だ、木偶が!)
ただの、障害物でしかない。
振り払う腕が当たったものは弾けとび、その破片も弾丸と化して周囲を破壊してゆく。
それはまさに暴風。触れたものを飲み込み、破壊する竜巻のような存在。
怪物と化したガルムがたったの数秒暴れただけ―――それだけで、廃倉庫に偽装されたこの場所は本物の廃墟と化していた。
そして―――
『見つけたぞ……ッ!』
その強力無比な拳が、地面へと向かって振り下ろされる。
岩盤すら貫き砕くその拳は、土で覆って隠されていた隠し扉を暴き、それを容赦なく貫いていた。
そして内側からその扉を掴み、力ずくで引っこ抜くように扉を外す。
ぶちぶちと千切れる金属には目も向けず、ガルムはただその下に続く長い階段を見下ろしていた。
暗い洞のような地下への道―――ガルムはそこへ、躊躇う事無く飛び込んでいった。
身体を覆う浮遊感と、吐き気を催すような墜落感。
落下する夢を見ているようで、酷く気分の悪い感覚を味わいながら、ガルムはその最深部に着地した。
『ここ、か……』
湧き上がる怒りに身を任せる。
止まるつもりなどない―――ギリギリの所で目的を忘れぬよう自制しながらも、ガルムは目の前にある扉へと拳を放っていた。
* * * * *
物の少ない執務室。
整然と並べられた本にはあまり手をつけられた気配はなく、どこか現実味のない空間を作り出している。
そんな場所で、窓の外へと視線を向けていた路野沢一樹は、ふとかかってきた通信に右の眉を跳ねさせた。
その相手は、彼にとって少々珍しい相手だったのだ。
「……変わった事もあったものだ。君の方から連絡をしてくるとはね」
『まァ、俺としても変わったモンだとは思うけどなぁ』
どこか自分自身に呆れたような声が、携帯電話の向こう側から響く。
そんな声にくつくつと笑みを浮かべ、路野沢は愉快そうに声を上げた。
「いやはや、僕としては頼られる事は好ましいものなのだよ。もっと頼ってくれても構わないのだがね」
『見返りが恐いからなぁ。遠慮しとくさ。それに、アンタは俺の性分は知ってるんだろぉ?』
「ははは、一匹狼とは何とも皮肉な事だ」
その言葉に込められていたのは皮肉か、或いは単なる事実を淡々と述べているだけなのか。
どちらにしろ、その通話相手はその言葉を軽く流す程度にしか受け止めていなかったようだったが。
しかしそれにもまるで堪えた様子を見せず、路野沢は変わらぬ調子で声を上げる。
「さて……君がかけてきたと言う事は、やはり『グレイプニル』の話かね?」
『まぁな』
「充電期間はもう十分だと、そういう事かな?」
『いいだろォよ、いい加減飽きてきた所なんだ』
「ふむ……成程」
『彼』の気質を理解しているからこそ、路野沢は愉快そうに笑みを浮かべる。
何処までも楽しそうにしている―――しかし、それすらもどこか芝居じみたものに見える、現実感の無い表情だった。
部屋の中の生活感のなさ、そして彼自身。全てが、作り物じみた違和感を空間に投影する。
―――けれど、それを見咎める者は何処にもいない。
「安心するといい。そう待たずして、枷を解き放つ者は現れるよ」
『へぇ、ソイツは重畳』
「その時が来たら、追って連絡するとしよう……君の望みも、叶えられるかもしれないからね」
『……言うじゃねぇか』
路野沢は嗤う。
誰もいないその場所で、人形じみた笑みを浮かべながら。
それは美しく、それ故に醜い。無貌に等しいそのカタチは、酷くイビツだった。
「望みは叶えよう。戦う限り、機会は与えるさ。それが、僕の仕事だからね」
『ソイツはまた、大層なこって』
カキン、と電話の向こうで小さな音が鳴る。
何か、金属同士がぶつかるような音―――或いは、爪で金属を弾いたような音だった。
その響きは、どこか呪わしい。鎖に繋がれた獣が、外の世界を望んで唸るように。
解き放たれ、血肉を貪る事を願うかのように。
『さて、それじゃあそろそろ行くとしようかね』
「ふむ。君も行くのかい?」
『まぁ、な。お礼参りはしておきたいところだろォよ』
カキン、と再び音が鳴る。
その音はどこか、歯と歯がぶつかり合う音にも似ていた。
繋がれた獣は、静かに息を潜める。繋いだ相手が油断するのを待ち、その喉笛を喰い千切る為に。
その音を心地良さそうに聞きながら―――路野沢は、ただただ楽しそうに声を上げた。
「君の行動には意志がない。ただ、己の本能のままに生きる獣―――故に道理は通じず、力ずくで叩き潰す他ない。一応の理由はあるが、それも口実に過ぎぬのだろう?」
『よォく分かってるこって……ま、そーゆー事だ』
「ああ、全く……君達に対する興味は尽きないよ」
それは皮肉だろうか。それとも、純粋なる賞賛だろうか。
その声から判別する事が出来るものは、この世の何処にも存在しないだろう。
そして、路野沢は告げる。電話の向こうにいる、その獣へと向けて。
「では、僕から言う事は何も無い……本能に従いたまえ、《悪名高き狼》」
―――その言葉は、どこか言霊のように響き渡っていた。