02-9:怒れる獣
周囲の警戒を続けながら、涼二は路地裏で静かに仲間の到着を待ち続けていた。
地面に横たわる嵐山の身体に左手を触れさせ、涼二は己の左肩に刻まれたルーンを発動し続ける。
水を操るルーンであるL、その力を使って、嵐山から流れ出る血を塞き止めていたのだ。
氷を使った止血と言う手段もあったのだが、血を失い体力を消耗した状態では危険を伴ってしまう。
「……はぁ」
小さく、息を吐き出す。
前回の事件からプラーナは回復し切っている為、特に問題なく能力を発動する事は出来ているが、どのような能力でも長時間発動し続けると言うのは中々に難易度の高い行為なのだ。
スリスはそれ専用に能力を鍛えているからこそ簡単に能力を使えるものの、涼二はそう簡単には行かない。
目を閉じ、周囲の気配に気を配りながらも能力を使ってこれ以上の出血を防ぐ。
(ま、コレも練習か……)
嵐山の様子を確かめても、すぐさま命を落としてしまうような状態ではない。
自分自身にも施した事のある血流操作ではあるが、ここまで深手を負う事も少ないので、あまり使う機会の無い能力を鍛える事が出来る絶好のチャンスとも言える。
いずれ、自分が使うかもしれないこの技の―――
(……いや、今はいい)
軽く頭を振り、涼二は思考を切り替える。
その思考の中に浮かべているのは、先ほどから得ていた『グレイプニル』という道具に関する情報だ。
曰く、能力を抑制する事の出来る拘束具。
曰く、人間のルーンとプラーナを用いて作り出される禁忌の道具。
この嵐山と言う男が襲われていた理由は、その道具に関係している事なのだろう。
技藤翔という研究者は、嵐山の妹を連れ去って、それを出汁に彼の事を呼び出した。
そしてそのプラーナを奪い、グレイプニルを完成させるつもりだったのだろう。
(嵐山佳奈美……生きてるか生きてないかは微妙な所だな)
ある程度の資料を手に入れることが出来たとはいえ、具体的な作成手順まで判明した訳ではない。
現時点で彼女が生存しているか否かは、例え涼二でも分からない事だった。
可能な限り助けたい所ではあるが、どちらにしても今ここを離れる訳には行かない。
能力によって嵐山の出血を止めていなければ、あまり長くは持たないような状況なのだ。
とは言え、もうそろそろ―――
「―――涼二様!」
『涼二、ここにいたか!』
「! ああ、二人とも早く!」
響いた声に顔を上げ、涼二はそう声を発する。
それと共に、路地の奥から金色の獣がその姿を表した。
獣―――ルーンの力によってその姿を変えたガルムは、背中に雨音を乗せながら出来るだけ揺らさないようにしつつ涼二の方へと駆け寄ってくる。
「雨音、仕事だ……出来るな?」
「はい、涼二様。この方を癒せばよいのですね?」
「ああ。今の出力だとしても、お前の力なら癒す事は可能なはずだ」
「……はい」
ガルムの背中から降りつつ、雨音はゆっくりとその手袋を外しながら意識を集中させる。
その後ろで、Ehの力を使って元の姿に戻ったガルムは、何かあった時の為にかいつでも動けるようにじっと待機していた。
―――そして、雨音の着物の下、腹部の辺りが淡い光を放ち始める。
出力こそ落ちてはいるものの、その身に宿す強大なプラーナは変わらず。以前戦った時の重い圧迫感を思い出し、涼二は思わずぴくりと肩を跳ねさせていた。
雨音は静かに目を閉じ、大きく深呼吸をする。
それは己の体内―――否、魂から放たれるプラーナを強く認識する為の集中法。
体内を循環するプラーナの流れを理解し、それを己の持つルーンへと集中させる。
そして、ゆっくりとその手を前へ。掲げられた二つの掌は交差するように重なり、その手には柔らかな青紫の輝きが宿り始める。
「―――S」
その言葉と共に、雨音の両手に宿っていた光は粒子となって嵐山へと降り注ぎ始めた。
それと同時に彼の体も同じ輝きに包まれ始め、彼の体に刻まれていた銃痕が内側からゆっくりと癒されてゆく。
その体内に残っていた銃弾は押し出されるように零れ落ち、まるで逆再生するかのごとく傷は消え去って行く。
僅か数秒―――その間に、嵐山の傷は完全に消え去っていた。
しっかりとした手応えを感じたのか、安堵したように息を吐き出すと、雨音はゆっくりとその目を開く。
「ふぅ……これで、どうでしょうか?」
「ああ、大丈夫そうだ。流石だな、雨音」
「力の扱いにも慣れてきたようだね、雨音君」
「はい、皆様のご指導と、涼二様に買っていただいた本のおかげです」
「あれからずっと読んでたのか?」
買ってからあまり時間は経っていない筈なのだが、と涼二は小さく肩を竦める。
しかし彼女の力のおかげで嵐山が助かった事に変わりはなく、特に何かを言うつもりはなかった。
とりあえず、涼二は一応ながら倒れている嵐山の傷を確認し、完全に傷が癒えている事を確かめて小さく頷く。
出力が落ちていてもこれだけの傷を短時間で癒せるその力は、流石と言うべきなのだろう。
「大丈夫そうだ。さっさと起こして情報を手に入れたい所だが……」
ちらりと、涼二はガルムの方へと視線を向ける。
プラーナを流し込む事による気付けという方法があるので、傷が癒えた今ならば起こす事は難しくない。
が、今完全には現状を把握していないガルムに、突然あの話しを聞かせるのは危険ではないか、と涼二は危惧しているのだ。
涼二の視線に気付いたガルムが小さく目を細め、真意を問うように首を傾げる―――その姿に、涼二は小さく嘆息していた。
話さない訳には、行かないだろう。
「……ガルム、この人を起こす前に一ついいか?」
「何だ、涼二?」
「今回の件、路野沢さんにも確認したが……どうやら、アンタに関係のある事らしい」
その言葉に―――ガルムは、大きく目を見開いた。
そしてそれと共に、思わず総毛立つ程の強い感情がプラーナの波動となってガルムの体から放たれる。
直接目を見なかったとは言え、その強い感情を受けた雨音がふらりと身体を揺らすのを見て、涼二はガルムへと向けて強く言葉を発した。
「ガルム、落ち着け!」
「ッ……済まない、取り乱してしまった。雨音君も、大丈夫か?」
「は、はい」
傾ぎそうになる身体を何とか支え、雨音は小さく頷く。
二人の様子に小さく安堵の息を吐き、涼二はガルムへと声をかけた。
その視線は先程よりも強く、咎めるような色が含まれている。
「ガルム、アンタの気持ちも分からない訳じゃない……俺達は全員、同じ穴の狢だからな。けど、だからこそあまり取り乱さないでくれ。アンタに暴走されたら、どうしようもない」
「ああ……済まない、分かっている。が……何処まで抑えられるかは、私にも分からないな」
どこか苦笑じみた表情を見せ、ガルムは告げる。
その感情を理解できてしまうからこそ、涼二は小さく嘆息を零していた。
彼自身、もしも仇を目の前にしたとすれば、自制出来る自信が無かったのだ。
「……戦うなとは言わないさ。だが、せめて俺達がフォローできる範囲にしてくれよ?」
「ああ、分かっている。苦労をかけるな」
「お互い様だ……よし、起こすぞ。雨音、手伝ってくれ」
「はい、分かりました」
雨音を呼び寄せ、重い嵐山の上半身をゆっくりと起こす。
そして涼二はその両肩へと手を当て、自分自身のプラーナをゆっくり彼の体へと流し込んでいった。
涼二のプラーナに刺激される形で嵐山のプラーナの巡りが高まり、彼の意識、身体を急速に覚醒させてゆく。
そして―――嵐山は、びくりと身体を震わせると共に目を覚ました。
「ッ、く……ここ、は」
「気が付いたか。どこか身体に異常は―――」
「ッ! 佳奈美、佳奈美は!? 奴はどこに―――」
「おい、落ち着け!」
目を覚ますなり狼狽を始めた嵐山に対して眉根を寄せ、涼二はプラーナを発しながらそう強く語りかける。
今は取り乱しているとは言え、元々は冷静で思慮深い人物。
己を取り戻す事さえ出来れば、冷静な判断をする事も可能だ。
そんな涼二の読みどおり、強いプラーナの波動に縛り付けられた嵐山は、焦りに支配されていたその瞳に理性の光を取り戻していた。
「き、君たちは……」
「アンタの主の依頼で、アンタの事を探しに来た。どこか身体に異常は無いか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
嵐山の言葉に頷き、涼二は彼の肩から手を離す。
雨音の力は寸分の狂いなく発動していたようで、嵐山の身体は完全な状態にまで修復されていた。
とは言え、流れた血が戻った訳では無いので、若干貧血気味となってしまっているのだが。
それを理解しているからこそあまり無理に動かすような真似はせず、涼二はその座り込んだ姿勢を維持させたまま声を上げた。
「状況は理解しているか?」
「……ああ。私の力が及ばなかったばかりに……!」
「そう思うんだったら、最初から俺達に声をかけて欲しかった所なんだがな。そうすりゃ、こんな面倒事にはならなかっただろうに」
スリスが敵の居場所を探り出し、涼二とガルムが突入して人質を連れ戻し、敵を捕縛する。
ニヴルヘイムからしてみれば、たったそれだけの仕事でしかないのだ。
今回涼二達がここまで走り回る事となったのは、偏にこの執事の独断専行が原因である。
が―――
「君達の扱いは会長の私兵……私の独断で動かす事も、会長の手を借りる訳にも行かぬからな」
「融通が利かない男だな……まあ、いい。それで状況は……アンタの妹が、『グレイプニル』の材料にだか何だかの為に連れ去られ、アンタはそれを取り戻しに動いていた訳だ」
「ッ……!」
涼二の言葉に、ガルムはぴくりと肩を震わせる。
そんな様子を視界の端に捉えながら、涼二は頭の中で現在の状況を整理していた。
攫われたのは嵐山の妹。そして、その犯人は元ユグドラシルの研究者。その研究は―――
「涼二、現在の状況を詳しく説明して貰っても構わないか?」
「……ああ、だが、さっきも言ったが暴走しないでくれよ?」
「分かっている」
大きく深呼吸しながら、ガルムは涼二へと向けて問いかける。
そんな彼がきっちり冷静さを保っている事を確かめて、涼二は首を縦に振った。
携帯電話を取り出してスリスへ連絡する準備をしながら、現在の状況を説明し始める。
「今回、この執事の妹―――嵐山佳奈美が何者かによって誘拐された。犯人は技藤翔という名の研究者。コイツは元ユグドラシル、《ドヴェルク》に所属していた人間だ」
「……あの研究機関に、か」
ガルムの声音が、低く唸るようなものに変化する。
纏う空気が猛獣のそれへと変化しつつある中、しかしその激情を制御しつつ、ガルムはその言葉を吟味する。
彼とスリスにとって、《ドヴェルク》と言う名は鬼門と言っても過言では無い。
スリスに関して言えば、物心ついた頃からその研究施設で実験体として扱われてきており、ガルムに関しては別の研究によって妻子を奪われてしまった。
今回の相手が既にユグドラシルから離れているとは言っても―――否、手の届きやすい範囲に出てきているからこそ、二人の自制が効くかどうかが分からない。
けれど、ここまで来て話さない訳にも行かない。
「技藤の作ろうとしているものは、『グレイプニル』と呼ばれる拘束具。これは、拘束した者のルーンを弱体化させる力を持つベルト状の道具だそうだ。そして……これを作るには、人間のルーンとプラーナが必要になる」
「それは……ッ!」
「奴の目的は、嵐山佳奈美のルーンと嵐山果須のプラーナを使って『グレイプニル』を作り上げる事……間違い無いか?」
「……ああ、その通りだ。しかし、良くこの短時間にそれだけの事を……」
「伊達に少数精鋭はやってない。さて―――」
立ち上がり、涼二は携帯電話を操作した。
繋ぐのはスリス。彼女はあらかじめこちらの様子を監視していたのか、2コールもしないうちに通話は繋がった。
相変わらず心配性な様子の彼女に対し小さく苦笑しつつ、涼二は声を上げる。
「スリス、ガルムの端末にデータの転送を頼む」
『それは大丈夫だけど……いいの?』
「ああ。ここまで来て、行くなとは言わないさ……ガルム」
「ああ……私に先に行けと、そういう事かな?」
涼二の言葉に顔を上げ、ガルムは頷きながらそう口にする。
表情は冷静さを保ってはいるものの、やはりその中の激情を隠しきれてはいない。
故に―――これ以上、隠させる事は危険だと、そう判断したのだ。
涼二はガルムの言葉に頷き、声を上げる。
「俺達の目標は、嵐山佳奈美の確保、および技藤の拘束。そして、奴の研究資料の完全破棄だ」
「了解した……が、二つ目は保障出来ぬな」
「分かってるさ。俺だって、目の前にして抑え切れるかどうか分からないからな」
そう―――だからこそ、生死は問わない。
それを言外に確認し、二人は互いに頷き合った。
流石に、このような会話を雨音の前で堂々と行う事は憚られたのだ。
ガルムの持つ携帯が鳴り響き、そこにスリスの送ったデータが届く。
それを確認し、ガルムは踵を返した。
「では、先に行く」
「ああ、頼んだぞガルム。こちらも、後から行く」
「ガルム殿……妹を、頼みます」
「どうか、お気をつけて」
三人の言葉を受け、ガルムは背中越しに首を縦に振る。
その背中に込められた強い思いを隠すようにしながら、彼はゆっくりと目的地へと向かって歩き出した。
―――その姿が、金色のプラーナによって覆い尽くされる。
「Eh―――!」
そのルーンによって変化するのは黄金の狼。
獣の姿へと変化したガルムは、さらにRのルーンを使って加速し、瞬く間に狭い路地裏を駆け抜け、高いビルの壁を駆け上って姿を消していった。
その背中を見送り、涼二は嵐山へと視線を向ける。
「では、俺もガルムを追いかける。雨音の事を任せても?」
「ああ……その位はやらせてくれ。私では、何の役にも立てないからな」
その言葉には頷くだけに留め、涼二はガルムが去っていった方向へと向けて左手を向ける。
そこから現れるのは、Lのルーンによって精製された水のロープ。
それは一直線にビルの屋上まで伸びると、涼二の体を撃ち出すかのごとく引き上げていった。
空高く飛び上がった涼二は、目的の方向へと向けて再び水のロープを撃ち出す。
勢い良く空を駆けながら、涼二は雨音たちの元から去って行った。
「へぇ……こいつぁ、面白い事になってんな」
―――獣のように気配を殺し、その様子を眺めていた一人の男の存在に気付かずに。
彼は首筋を掻きつつ、雨音たちから離れるようにしながら路地裏を進んでゆく。
その目の中に、面白がるような色と、隠された深い憎しみを宿しつつ。
「さぁて、と。何もかも終わらせられちまう前に……俺も、動かねぇといけねぇな」
ポツリと、そう呟き―――男は、夜の闇へと姿を消していった。