02-8:グレイプニル
「……『グレイプニル』、か」
データ送信終了のボタンを押し、涼二は小さくそう口にする。
聞かされた内容は何処までも不快で、それでいてスリスに対して申し訳なく感じるものでもあった。
かつての涼二はユグドラシルの行いを知らず、ただ利用されるがままに戦っているだけだった。
己の全てを奪ったのが、その組織の長である事を知らないままに。
「しかし、強大な能力者を押さえ込むための道具か……悠に聞けば何でも分かるんだろうが、贅沢は言ってられないか」
頭をかきながら独りごち、涼二は再び携帯電話を操作し始めた。
探し当てるのは、かつて涼二の命を救い、涼二に真実を教えた人物。
そして、涼二がリーダーを務めるニヴルヘイム設立の立役者―――路野沢一樹。
通話記録の中からその番号を呼び出し、涼二は発信を開始した。
(……しかし、人間の持つルーンとプラーナを使って作り上げる道具……まさかとは思うが、ガルムの言っていたアレは―――)
『―――ふむ、涼二君か? こんな時間に、私に何か用かな?』
思考を巡らせようとしたその瞬間、携帯電話から声が発せられた。
こんな時間と言っても、日が暮れるのが早くなり始めた為の暗さであり、まだまだ遅い時間と言う訳ではない。
周囲を見渡して小さく苦笑を浮かべながら、涼二は声を上げた。
「夜分遅くに申し訳ありません、路野沢さん。少し、お尋ねしたい事がありまして」
『ふむ。君の方から私に依頼とは、中々珍しい事もあったものだ。まあ、親心としては中々に嬉しい事だが』
何心にもない事を言ってるんだか、と胸中で呟き、涼二は再び苦笑する。
涼二は決して、この路野沢と言う男を信用していない。
その実力に対する信頼はあるものの、決して信用してはならないと言うのが、ニヴルヘイムの共通見解である。
そして、路野沢自身もまるで警告するかのように涼二達へと口にした言葉でもあった。
どういうつもりなのか、と疑問にも思ったものではあるが、結局はその言葉に従う事となっている。
「『グレイプニル』という道具の研究に関して、何か知っている事はありますか」
『ほう、あのベルトの事か……今更と言えば今更だが、あんなものを調べてどうするつもりかな?』
「今更……? 済みません、今はかなり情報が不足してまして。その道具が能力を押さえつける効果があるって事ぐらいしか分かっていないんです」
その他の情報も無い訳では無いが、今の所確実性に欠ける情報ばかりだ。
涼二は路野沢のもたらす情報も含めた上で総合的に判断し、それがどのようなものなのか見極めようと頷いた。
そして電話の向こう側にいる路野沢は、そんな涼二の様子に気付いているのかいないのか、いつも通りの調子を崩さぬまま声を上げる。
『ふむ……まあ良いだろう。しかし『グレイプニル』とは、また随分と前のものを持ち出してきたものだ』
「……そんなに昔の研究なんですか?」
『昔といえば昔だね。十年以上前からその研究は存在していたのだから』
そんな路野沢の言葉に、涼二は小さく目を細めた。
その頃は、涼二達が孤児院で世話になっていた時期である。
そんな昔から続けられている研究だとは思いもよらず、半ば呆れと感心を含め、涼二は肩を竦めた。
涼二の姿に気付いているのかいないのか、調子を変える事無く路野沢は続ける。
『対能力者用拘束具、通称『グレイプニル』。《ドヴェルク》にて研究、開発された道具だ』
「……あの研究所で」
『気に入りはしないだろうが、話は進めさせてもらっても良いかな?』
「あ、はい。済みません」
声の中に低い怒りの音が混じったのを聞き取り、路野沢は溜め息交じりにそう口にする。
その指摘に目を見開きつつ、涼二は深呼吸して荒ぶりかけていた感情を鎮めた。
涼二は己の未熟さを嫌う。故に、精神制御の方法もしっかりと心得ていた。
呼吸から涼二が落ち着いたのを感じ取ったのか、小さく笑いの混じった声音で路野沢は続ける。
『ふむ、では続けよう……『グレイプニル』が製作された元々の目的は、高位の能力者の力を封印する事。
敵ならばその力の通り、位階を二つほど減退させるほどの封印能力を持って相手の力を押し留めてしまう』
「……敵ならば?」
『その通り。アレは、味方に使う事も想定したものでもあったのだよ』
その言葉に、涼二は思わず眉根を寄せる。
力を封印する……一つ位階が違えばそこには圧倒的な差が存在するとまで言われる能力を、二位階分も減少させてしまうその道具―――それを、味方に使うというのは一体どういう事なのか、と。
そんな涼二の疑問を感じ取ったのか、路野沢はゆっくりとした声音を崩さずに声を上げる。
『力を抑える―――否、力を悟らせなくする。そのメリットは、君ならば十分に理解できると思うが?』
「……! 成程、そういう事か」
反射的に顔を左手で押さえ、涼二はそう呟く。
その目に宿しているのは、絶対に隠さなくてはならない二つのルーン。
かつて姉の持っていた、HとThの始祖ルーンだった。
ルーン能力者にとって、力を悟らせない事は非常に重要な要素となる。
ファンクションもそうではあるが、どのような力を持っているかどうか、それを知らない事は即ちどのような攻撃を受けるか分からない事にも等しい。
涼二が力を隠すのはそれ以外の理由もあるが、基本的にルーン能力は大っぴらにするべきものではないのだ。
それに対し、『グレイプニル』の持つ性質は―――
「能力を強制的に押さえ込み、プラーナ量からも相手に力量を悟らせないようにする……そして必要に応じて拘束を解除し、力を解放すれば―――」
『そう、これ以上ない奇襲になるだろう……まあ、そういった理論の元作られた訳なのだが、いささか問題があってね』
「問題?」
路野沢の言葉に、涼二は首を傾げる。
話を聞く限りでは、問題点と言うべきものは存在しないように思えたのだが―――
『―――この道具は、一度装着すると破壊するまで外れなくなってしまうのだよ』
「……拘束用なら、まだしも」
『そう、自身の能力抑制と言う点ではほぼ利用価値が無いものとなってしまった』
あまりといえばあまりな事実に、涼二は思わず呆れの篭った表情を浮かべる。
それでは、能力抑制と言う点に関する価値は全く存在しないものとなってしまうだろう。
路野沢も同じような考えなのか、苦笑のような吐息を吐きつつ声を上げる。
『いやはや、世の中上手くは行かないものだね。もしもその研究が成功していたら、君の能力を隠すのに役立っていただろうに』
「……仮にそうだとしても、人間を素材に作られた道具なんてゴメンですがね」
『おや、そうか』
路野沢の言葉に、何らかの感情を読む事は出来ない。
ただ単純に、事実を受け止めている―――それだけの様子しか見せない相手に、涼二は思わず顔を顰めていた。
けれどそれを声には出さず、続けて尋ねる。
「それで、『グレイプニル』の拘束を解除する方法はなかったんですか?」
『あるといえばあるのだが……実用には少々面倒でね』
「と言うと?」
『素体となった能力者以上の力を持つThの使い手が、能力を無効化する事……それが、『グレイプニル』の拘束を解く方法だ。つまり―――』
「……その道具では、俺を拘束する事は出来ないと」
己の右目を目蓋の上からそっと抑え、涼二はそう口にする。
その瞳に宿しているのはThの始祖ルーン。それは即ち、Thにおける最高位の力を持っている事に等しい。
つまりどのような能力者を使って『グレイプニル』を作り上げたとしても、涼二ならば確実にその拘束を解除できてしまうのだ。
その事実を認識した涼二の言葉に、路野沢は肯定の言葉を発する。
『そういう事だ。君にとっては、あまり価値のある物では無いだろう……それで、それがどうかしたのかね?』
「ああ、いや……ちょっとした事件で関係してきたもので。それと、もう一つ聞きたいのですが」
『ふむ、何かな?』
路野沢の言葉に、涼二は思わず顔を顰める。
彼は問い掛けようとしている事が一体何なのか、とっくの昔に気づいている事だろう。
それでもあえて聞いてくるのだから、やはり底意地の悪いところがある―――しかしそれをおくびにも出さず、涼二は声を上げた。
「その『グレイプニル』とか言う道具……まさかとは思いますが、ガルムの―――」
『君ならば確信を得ていると思っていたのだがね』
その言葉は、決してはっきりとしたものでは無い。
けれど、その言葉の中に込められた肯定の意味に否応無しに気付かされ、涼二は深々と溜め息を零していた。
意地の悪い言い方ではあるが、今はそんな事を気にしている場合では無い。
知ってしまったこの事実、それをガルムに伝えるか否か―――
(……あいつ相手じゃ、どうした所で気づかれちまうか)
ニヴルヘイムは構成人数が少なく、それだけ個人の秘密以外の話は筒抜けになってしまう事が多々あった。
そして今回、仕事と言う形で一緒に動いているガルムには、情報を隠す事などは不可能となってしまう。
だが、この話を聞けば、冷静沈着なガルム・グレイスフィーンとて、怒りを抑える事は不可能だろう。
何故なら、それこそがガルムの抱くユグドラシルに対する恨みなのだから。
―――深々と、涼二は嘆息を漏らす。
「……とりあえず、了解しました。解除できると言うのならば、問題はありません」
『そうか。まあ、そのルーンを使う所を見られる訳には行かないのだし、気をつけるに越した事は無いだろう』
「……はい、分かりました。それでは」
『ふふ。では、頑張る事だ』
通信が途絶え―――涼二は、深く息を吐き出す。
話しただけにも関わらず若干の疲労を感じ、涼二はゆっくりと背筋を伸ばしながら携帯を閉じる。
やはり路野沢への苦手意識を拭えない事に苦笑をもらし、涼二は近くにあった建物の壁へと背を預けた。
溜め息じみた吐息を漏らしつつも、閉じた携帯を見つめながらただゆっくりと待つ。
「あの時、声をかけとけば良かったな……思った以上に厄介な事になったもんだ」
ショッピングモールで見かけた姿を思い返し、苦笑を浮かべる。
あの時は知らなかったのだから仕方の無い話ではあるが、ここまで大事になるとは涼二も思っていなかったのだ。
今は行方の知れないあの執事の姿―――何をそこまで急いでいたのか、と涼二は胸中で呟く。
と―――その瞬間、涼二の携帯が鳴り響き始めた。
「っと」
一瞬通話かと思いボタンを押しかけるが、着信メロディの違いからメールである事に気づく。
妙に重いそのメールに、添付ファイルが付属されていることを確認し、涼二は納得したように肩を竦めた。
メールに添付されていたのは、先ほど路野沢と話した『グレイプニル』に関する詳細なデータと、それを研究していた技藤翔という人物について。
そして、電話番号からの逆探知プロテクトを破る事によって発見した技藤がいると思われる場所の地図。
それらの情報に一通り目を通した所で、今度は通話の着信音が鳴り響いた。
集中していた所に突然であった為、思わずびくりと反応して携帯を取り落としかけながらも、何とか涼二は通話ボタンをプッシュする。
相手をマトモにチェックしていなかったが、聞こえてきたのはスリスの声だった。
『涼二、資料は読んでくれた?』
「ああ、かなりの量をまとめてくれたな、感謝する」
『むしろ、それぐらいしかなかったんだけどね。とりあえず、さっさと向かったほうがいいかもしれない……あの執事さんが既に場所を把握しているんだとしたら、手遅れになる可能性もある』
「……そうだな」
頷きながらも、涼二はLを使って水のロープを作り出し、目の前に立っているビルの屋上へと巻きつける。
そのまま勢い良く上昇しつつも、電話越しにスリスへと語りかけていた。
「ガルムにも地図のデータは送っておいてくれ。ただし、『グレイプニル』の事はまだ伝えるな」
『うん、それは分かってる。おっちゃんなら大丈夫だとは思うんだけど……』
「それは俺もそう思うが、万が一の事があると困るからな。一応、同時に行動したい」
『ん、そうだね……了解』
頷く気配に頷き返し、じゃあな、と声をかけて涼二は通話を終了させる。
そして再び地図データを起動、自分自身の現在位置と、目的地となる技藤の研究所までの道のりを計算した。
場所は少々は慣れていて、普通に向かうにしてもバイクを使うにしても多少の時間はかかってしまう。
けれど、間の建物を無視して直線で移動できれば―――
「……かなり、短縮は出来るな。よし」
LかH、使用するルーンを考え、わざわざ移動の為だけにそんなリスクを冒す必要もないかと苦笑する。
そして涼二は左肩のルーンを発動させ、左腕から延びる水のロープを使って勢い良く空中へと飛び出した。
パチンコで放たれるパチンコ玉のように強く空中へと投げ出され、ゆったりとした滞空時間の後に落下しようとする身体を、再び引っ張りあげるように水のロープで打ち出す。
昔のリメイク映画にこんな動きをする外国ヒーローがいたような気がするが、あまり気にしないようにしながら涼二は集中を崩さぬように目的地への道を進んで行った。
(こういうとき、バイザーが無いのは不便だな……)
見通しの甘かった自分自身へと苦笑し、涼二はそう胸中で呟く。
出てくる前に考えていたのは単なる人探しであり、このような誘拐事件に繋がるとは露ほどにも思っていなかったのだ。
一度身軽な動作でビルの上へと着地しつつ、方向を確かめながら水を伸ばす―――刹那、涼二は“カシュン”という音と、何者かの呻き声のようなものを聞いた。
「―――!」
下手をすれば聞き逃してしまったであろう程の小さな音。
けれど、涼二はその炭酸飲料の缶を開けるような音に聞き覚えがあった。
(消音銃……!)
弾丸が発射される音を極限まで押さえ込む事を目的として作られた拳銃。
採算が合わず、サイレンサーのほうが性能が高いと言う事で殆ど出回ってはいなかったが、涼二はかつてムスペルヘイムに所属していた時代にこの音を聞いた事があった。
身を乗り出しながら音が聞こえた方向―――ビルの裏にある細い路地を見下ろす。
そこに、二人の男が対峙していた。
一人は筋骨隆々とした男で、もう一人は白衣を纏った学者風の男。
そして、その学者風の男の手には、一丁の拳銃が握られていた。
「I!」
咄嗟に作り上げた氷の弾丸で、男の持つ銃を弾き飛ばす。
そのまま涼二は男を捉えようと飛び降りたが、思った以上に相手は冷静だった。
武器を失ったと見るや、男はすぐさま踵を返して表通りへと逃げ込んでゆく。
その背中を舌打ちしながら見送りつつ、Lの力を使って安全に着地しながら、涼二はもう一人の男―――嵐山へと駆け寄った。
「おい、大丈夫か!?」
「君、は……ぐッ!」
「……拙いな」
嵐山の身体には、いくつかの弾痕が刻まれていた。
その位置はすぐさま死に至るようなものではないものの、出血量が多い。
舌打ちしながら、涼二は携帯を取り出し、すぐさまガルムへと向けて発信を開始した。
そして数コールのうちに、コール音が鳴り止む。
『涼二、何か―――』
「ガルム、急いで戻って雨音を連れて来い! 俺のいる位置はスリスから聞け!」
『雨音君? ……怪我人か!』
「ああ、急げ!」
『了解した!』
通話を切り、携帯をポケットの中に仕舞う。
出欠で意識が朦朧としているのか、呻き声を上げている嵐山を地面に寝かせ、涼二はすぐさま応急処置を開始した。
その顔に、しかめっ面を浮かべながら。
「面倒な事になってきたな、本当に……!」