02-4:ニヴルヘイムの現状
買い物を終え、涼二と雨音の二人は桜花や双雅と別れ、新たな拠点となった場所へと向かっていた。
それなりの時間をかけた為か、十時に集まったにもかかわらず、今はもう夕方となってしまっている。
夕日に照らされた密都の街並みを歩きながら、涼二はぼんやりと周囲の景色を眺めていた。
「日が落ちるのも早くなってきたな……」
「そうですね。もう冬も近いのでしょう」
少しだけ強く吹いた風に髪を押さえながら、涼二の言葉に雨音が同意する。
冷たさを孕む風は、しかしまだ肌に凍みるほどの強さは無く。
心地よい冷気は、室内で火照った身体に染み渡ってゆく。
「涼二様、それは私がお持ちいたしましょうか?」
「お前は自分の服を持ってるだろ。重い物は俺が持つ」
「しかし、私の買い物だった訳ですから……」
「いいから。女に荷物持たせて隣を歩くなんて、恥ずかしいだろうが」
桜花に聞かれれば『古風な考えだ』と笑われそうな内容だ、と涼二は胸中で小さく苦笑しつつ、何冊もの本や洗面器具などが入った袋を抱え直す。
その動作が重そうに見えたのか、雨音は気が気では無い様子を見せるが、気付かない振りをしつつ涼二は歩いていった。
雨音の方も、その男性を立てるという奥ゆかしい考え方からか、それ以上追求してくる事はなかったが。
彼女は小さく息を吐き出し―――そして、穏やかな笑みを浮かべる。
「涼二様、今日は私の為に、ありがとうございます」
「気にするな。どうせ、必要な事だったしな」
照れたようにそっぽを向きながら、涼二はそう口にする。
そんな様子に、雨音はクスクスと小さな笑みを零していた。
彼女が笑みの中で思い返すのは、今日という日に体験した様々な出来事。
「……本当に、楽しかったです。初めて見るもの、初めて口にしたもの……どれもこれも、新鮮な体験でした」
「ったく、大げさだな……当たり前のものばかりだろ?」
「私にとっては、それが当たり前ではありませんでしたから」
静かな声音に涼二は振り返る。
そこにあった雨音の表情は―――どこか寂しそうな、懐かしそうな笑顔だった。
いつも上品に笑う彼女の憂いの表情に、涼二は思わず息を詰まらせる。
「不幸は不幸であると自覚せよ……ガルム様には、そう諭されました。私は今まで、不幸と呼べる存在だったのでしょう」
「……まあ、な。確かにその通りだ」
雨音がこれまで受けてきた実験を思い返し、涼二は顔を顰めながらも頷く。
彼女が静崎義之によって引き取られる前の経歴については、今のところ明らかになっていない。
けれど、スリスが手に入れてきた資料では、彼女は物心つく前から実験体として使われてきた事が分かっている。
幸い、始祖ルーンを持つ存在として出来るだけ長生きさせようと言う魂胆があったのか、寿命に影響が出るような実験は行われていなかったのが唯一の救いと言った所だろう。
「ですが、今は幸せです」
「……雨音」
「当たり前の幸せを、知る事が出来ました。沢山の本があって、探すのがとても楽しかったり、他愛もない事で笑う事が出来たり、初めて食べた食べ物がとても美味しかったり……」
「ハンバーガーなんて、大したモンじゃないだろ」
「それでも、ですよ」
口元に手を当て、雨音は上品に笑う。
先ほどとは違う、心の底から嬉しそうな笑顔―――それに対してどこか安心している自分に、涼二は半ば呆れを覚えていた。
「……あんなので幸せになれるなら、安いもんだよ。お望みとあらばいくらでも連れて行ってやるさ。似たような店ならいくらでもあるからな」
周囲を示しつつ、涼二は苦笑交じりに告げる。
周囲にはハンバーガーの店を始め、牛丼やうどん、ドーナツの店など、様々なチェーン店が立ち並んでいる。
この辺りは食事関係の店が軒を連ねて値段競争を行っている為、それなりに安く食事が出来る事で有名だ。
そんな周囲の状況に気付いていなかったのか、雨音は改めて周囲へと視線を向け、その瞳を輝かせた。
視線を涼二のほうへと戻し、彼女は嬉しそうに声を上げる。
「本当ですか?」
「ああ、勿論。ま、ああいう食事は太り易いから、しっかりと運動してないとダメだがな」
「あら。それでは、ガルム様に運動をお教えいただきましょう」
本当に、心の底から楽しそうに雨音は笑う。
当たり前の事で悩めるのが、本当に嬉しいとでも言うかのように。
それは涼二にとって、幼馴染の二人と共に過ごす時間と等しい事だ。
非日常の世界を忘れ、僅かながらの平穏を得る事が出来る、あの場所と。
「やりたい事が沢山あります。知りたい事だって、山ほど。ですから―――」
雨音は笑う。
あの時、出会った頃に浮かべていた、静謐な笑みとも違う。
今の彼女の顔には、陽だまりのような穏やかさがあった。
「―――助けてくださってありがとうございます、涼二様」
「……ったく」
涼二は、その言葉に思わず視線をそらす。
何処までも純粋な好意、感謝の念に、照れを抑える事が出来なかったからだ。
悪意を向けられる事に関しては慣れているが、好意を向けられる事は得意ではない―――それが、涼二の特徴だった。
「改まって言うほどの事でもないっての……ほら、行くぞ。あんまり遅いと、スリスがまた五月蝿くなるからな」
「ふふ……はい、分かりました」
雨音は嬉しそうに笑う。
そんな表情を肩を竦めながら眺めつつ、涼二は新たな本拠地となった場所へと向けて歩いて行ったのだった。
* * * * *
鉄森グループ本社ビル。
ユグドラシルの発足以降に企業を立ち上げ、瞬く間に成長した鉄森グループの本社は、この密都に存在している。
繁華街を通り越し、オフィス街の地域まで足を踏み入れ、真っ先に目に入る巨大なビルがその建物だ。
グループの会長鉄森シアの私的な護衛という形で雇われたニヴルヘイムの面々は、この会社内に半ば顔パスではいる事が出来る。
求められればIDを提出する必要はあるのだが。
「しかしまぁ、結構な手腕だな」
強化ガラスによって外が見えるエレベーターから眼下を見下ろしつつ、社内の様子を思い浮かべて涼二はそう嘆息する。
社員は誰も彼も慌しく、しかし充実した表情で仕事をこなしていた。
無論、それはどうした所で難しい―――誰もがやりたい仕事に就けるとは限らないからだ。
しかし、この会社ではシアが直接面接を行い、それぞれの適正を見出した上で、その仕事の割り振りを行っている。
観察眼も優れているのだろう、その割り振りに過ちはほぼ存在せず、結果として非常に充実した職場となっているのだろう。
(一体、何のルーンを持っているんだか)
胸中でそう呟き、エレベーターで到着した会へと足を踏み入れる。
と―――ふと、涼二は違和感を覚えて足を止めた。
そして唐突に立ち止まった彼へと、後ろから付いて来ようとしていた雨音は首を傾げる。
「涼二様、どうかなさいましたか?」
「あ、いや……大した事じゃないんだ」
ここ数日、出入りする時には必ずあの筋肉質な執事の送り迎えがあったのだ。
しかし今日に限ってそれが存在していなかった為、それに対して涼二は若干の疑問を覚えていた。
尤も、昼間ショッピングモールで見かけたあの男が涼二の見間違えでなかったとしたら、特に不思議と言う事でもないのだが。
(……まあ、何か用事があったんだろ)
そろそろシアが戻ってきている時間であると言うのに姿を見せないのは気になったが、彼らの用事に口を出すつもりも無いので、涼二はその疑問を意識の隅へと追いやった。
そして立ち止まっていた足を進め、涼二はこの高い階層にあるフロアの一室へと向かってゆく。
そこは、鉄森グループによって雇われたニヴルヘイムの面々に宛がわれた部屋の内の一室。
その部屋では―――
「む、戻ったか二人とも」
「おー、おかえりー」
あまりにも予想通りと言えば予想通りな姿の二人が、それぞれ趣味の活動を行っていた。
巨大なダンベルを交互に上げ下げしているガルムは相変わらず上半身裸であり、そしてスリスの方はといえばスティック状のスナック菓子を口に加えながら携帯ゲーム機を弄っている。
そんな二人の姿に呆れを交えた嘆息を吐き出しつつ、涼二は雨音を連れて部屋の中へと入ってゆく。
「ぶれないな、お前らは」
「えー、何さそれー」
「ったく……ほら、お前が頼んでたゲームソフトだ。ただし、エロゲは無しだからな」
「ええ!?」
半ば悲鳴のような声を上げるスリスに、涼二は頭を抱えつつ近くにあった椅子へと腰を下ろす。
そしてそれと同時、跳ねるように起き上がってきたスリスが、袋の中身を確かめて講義の声を上げた。
「むー、ボクだけだと買いに行きづらいのに!」
「いや、お前一応18なんだから、買えない訳じゃないだろ。そもそも、友人やら雨音やらを連れてる時にそんなモノ買えるか」
確かにスリスは小柄であり、見方次第では雨音とそれほど変わらないか、下手をすればそれ以下の年齢にも見えかねない。
しかし偽造とはいえ身分証名書も存在しているので、決して買えない訳ではないのだ。
それでも行きたがらないのは、単なる出不精でしかない。
相変わらずな様子のスリスに嘆息し、涼二はその背を椅子の背もたれに預けた。
黒い革の高級なソファは、深く沈んで包み込むように涼二の体を受け止める。
と―――同じように反対側の椅子に座った雨音が、きょとんと首を傾げて見せた。
「あの……」
「ん、何だ?」
「えろげ、って何でしょう?」
その言葉に、部屋の中にいた三人が沈黙する。
涼二、ガルム、スリスは互いに視線を合わせ―――そして、それぞれがどのような方向性で話そうとしているかを察知した。
そして―――
「興味あるなら一緒にやろう!」
「止めろ馬鹿。雨音に妙な知識を植えつけるな」
「えー、ある意味必要な知識だよ?」
「あんな無駄に歪められた知識なんぞ使い物になるか」
あんなものは使いやすく情報が歪められている―――というのが、涼二の見解である。
基本的に、スリスの好むゲームはそういったシーンなどが存在する必要が無い、即ち基本のストーリーやらキャラクターやらを重視するタイプのゲームなのだが、だからと言って複数人でやるようなゲームではない。
どちらにしろ、世間知らずな雨音にとっては教育上よろしくない内容であった。
「とにかく、アホな事言ってる暇があったら自分で買って一人でやれ」
「ぶー、涼二のいけずー」
「……結局、何なんでしょう?」
「まあ、何と言うか……君は、基本的な保健の知識を身につけた方がいいかもしれないな」
「はぁ、良く分かりませんが……」
苦笑交じりのガルムの言葉に雨音は首を傾げ、その二人の様子に涼二は少しだけ安堵の吐息を吐き出していた。
雨音がしつこく追求してきた場合、どのように説明したものかと悩んでいたのだ。
尤も、基本的に彼女がそんな風に食い下がると言う行動を取る事はないのだが。
それはそれで問題があるかもしれない、などと胸中で呟き、涼二は小さく苦笑する。
現在の所、ニヴルヘイムはこのように鉄森グループに協力するような形で保護されていた。
尤も、普段からこの建物に滞在しているのは涼二以外の三人だけではあるのだが。
とは言っても、ニヴルヘイムはあくまでも、依頼を受けて活動する傭兵のような存在。
普段から何かをする訳ではないので、普段は涼二も自宅で待機しているのだ。
以前使っていた建物より交通の便がいい為、涼二としてもやり易い所である。
雨音は、以前までの問題はほぼ解決されたといっても過言ではない。
スリスが静崎製薬から持ち出した大量の資料を基に、鉄森シアの主導で雨音の調整機具が製造され、それによって雨音は今まで受けていた強化処理を緩和する処理を受ける事となった。
しかし、長年かけて体に馴染まされていたプラーナのラインは完全に消し去るには至らず、能力は中途半端に半分ずつ残る、というような状態となっている。
このままゆっくりと戻していくという方針ではあるが、雨音としても人に触れられるようになった現状は非常に嬉しいもののようだ。
スリスは、以前よりも恵まれたネットワーク環境で、その手腕を存分に発揮している。
ライバル企業のネットワークにハッキングを欠け、バレないように機密情報をいくつも奪取しているのだ。
Aのルーン特有のファンクション、《並列思考》によって同時平行でエロゲをやっていたりもするが、生憎と仕事はしっかりとやっている為、誰も文句がつけられない状態だったりする。
そしてガルムは、その筋肉故にシアのお気に入りである為、時折ボディガードを努めているのだ。
(……あれ、何もしてないのって俺だけ?)
机の上に置いてあったスナック菓子をかじりつつ、若干の危機感を覚えて涼二は頬を引き攣らせる。
何もやっていないと言う点では雨音も同じではあるが、研究に協力している為役に立っていないと言う訳ではない。
(突っ込んでこない辺り、スリスは気付いてないのか……まあ、ガルムは気付いてても何も言わんだろうが。
そもそも、俺達は依頼が無い限り動く必要が無い訳で。うん、俺は何もしなくて良し)
自堕落な自己完結をしつつ、涼二は窓の外へと目を向ける。
夕方から夜になり始める紫色の空は、雲ひとつ無く晴れ渡っていた。
夕日に染まる雲が好きな涼二としては、若干惜しいと思う所ではあるのだが。
「……さてと、俺は戻るかね」
「あれ、泊まっていかないの?」
「理由も無いしな。あんまり家を空けとくと、バカ共が勝手に入り込んで荒らしそうだし」
今更ながら合鍵を渡した事を後悔しつつある涼二であったが、今更言った所で意味は無い。
スリスに対してヒラヒラと手を振りつつ、他の二人にも目配せをし、涼二はその場から立ち上がった。
特に何かやる事がある訳ではない。あの一人きりの部屋には何も無く、ただ孤独な空間が広がっているだけだ。
けれど―――涼二は、孤独な空間を好む人間でもあった。
仲間達と過ごす時間を嫌っている訳ではない。けれど、一人で考える事が出来る時間と言うものを、涼二は非常に好んでいたのだ。
「さて、じゃあ何かあったら連絡してくれ」
「んー、了解」
「涼二様、また明日お会いしましょう」
「ああ、買って来た道具はしっかり使えよ」
雨音に声をかけ、ガルムには目配せをし、互いに苦笑交じりに頷いてから涼二は扉へと向けて歩き出す。
態々ここまで雨音を送る気になったのは何故だったか―――そんな事を考え、ドアノブへと手を伸ばした、その瞬間。
「嵐山がいませんわッ!?」
「うぉ!?」
蹴り破るような勢いで開けられた扉から、涼二は咄嗟に手を離す。
しっかりと足跡が着いた扉の向こう、そこに立っていたのは現在のニヴルヘイムの雇い主である鉄森シア。
彼女は非常に慌てた様子で、涼二達へと向けて声を上げた。
「ニヴルヘイムに指令です! 我が執事、嵐山果須を捜索なさい!」
半ば唖然としながらも―――またしばらく自宅に帰る事が出来なくなった現状に、涼二は深々と溜め息を漏らしていた。