01-1:青年の日常
「……女々しいな、氷室涼二」
起き抜けの第一声に自身への皮肉と嘲笑を混ぜる。
そんな無意味な行為をする自分自身へと苦笑しながら、氷室涼二はゆっくりと身体を起こした。
あまり手入れはされていない、無造作に切られた黒い髪は、光の加減で僅かに青みを帯びる。
そしてそれを照らす窓の方へと、彼はその青紫色の瞳を向けていた。
(……アレから数ヶ月、か)
昨晩に見た夢を、涼二は思い返す。
水没した都市、金色の狼、襲い掛かる《戦乙女》、そして―――紅の少女。
炎を纏うその姿を脳裏に浮かべ、涼二は小さく苦笑を漏らす。
「元気にやってるのかどうか……ま、俺がいなくても上手くやるだろ」
強い光に細めていた視線は、明るさに慣れると共にゆっくりと広げられてゆく。
窓の外に見えるのはいくつもの建物―――遠景に見えるクレーンは、建設中のマンションの物だ。
ここは、水没した関東圏の代わりに作られた人工島。
無論、まだまだ関東全域の避難住民を収容できるほど大きい訳ではないが、それでも現在の所、世界最大の人工島となっている。
この地へと移住を求める者はそれなりに多く、そのおかげで人口密度はかつての大都市東京すらも越えるほど。
結果、正式名称こそ新東京島だが、人々の間では『密都』などと呼ばれる事となっていた。
「……」
涼二の視線と思考は、そんなゆったりとした感覚から徐々に研ぎ澄まされてゆく。
その視界に入っているのは、窓の外、遠景に見える一際大きなビル。
そこに刻まれた大樹の紋章を鋭く睨み、彼は小さく息を吐き出した。
まるで、息を潜めて獲物を睨む肉食獣のように。
―――『ユグドラシル』と言う名を持つ組織がある。
それは現在この日本で、大災害以前の政府と同じ働きをしている組織だ。
かつての大災害による被害は関東近辺に集中し、主要機関がそこに集中していた日本は、その当時機能が完全に麻痺した状態にあった。
そして、更に追い打ちを掛けるかのように、特殊な才能を持った人間が次々と現れ、国内は混乱して行ったのだ。
そんな中設立されたのが、その『才能』を持つ者によって中核を成された組織、ユグドラシルだった。
才能の一つに、『求心力を高める力』と言うものがある。分かりやすく表現するならば、『カリスマ』だろう。
その在り方は、混乱してゆく道を見失っていた人々にとって、替え難い光明となった筈だ。
そして、元々政府が持っていたあらゆる機関は統合され、その組織は新政府と呼べるものへと変貌してゆく。
そのような経緯を経て、最終的に出来上がったのが、今のユグドラシルだ。
「……下らない」
涼二は、そう吐き捨てる。
そこに込められた感情が並々ならぬ憎悪であると、分かる者ならば分かるだろう。
けれどその感情は誰にも読み取られる事無く、深々と吐き出した吐息の中に霧散した。
頭を掻き、涼二は嘆息する。
「朝飯でも作るか」
ベッドから降り、適当に着替えてから、正面にあるキッチンへと向かう。
涼二の住む部屋は小さなアパートだが、ここは総じて新築の多い密都に建つ建物。
彼が今住んでいるこの部屋は、半ばワンルームマンションのような機能性を持っていた。
しかし、既に慣れた涼二はそんな事は気にも留めず、フライパンに油を敷き、それを熱し始めながら冷蔵庫の中より材料を取り出してゆく。
(卵が安かったんだよな……まあ、あんまり置いておく訳にも行かんし、さっさと使っちまうか)
卵のパックを取り出し、ボウルを洗って中に割る。
―――ガチャンと音が響き、勝手に部屋のドアが開いたのは、ちょうどそんな時の事だった。
涼二はその気配に眉根を寄せながらも、あまり警戒した様子は見せず嘆息する。
この部屋の鍵を持つ人間は、彼の他には殆どいない。そして、その僅かな例外は―――
「おーう、涼二、起きてるかー?」
「朝ごはんたかりに……もとい、食べに来たわよー」
「帰れバカ共」
部屋の中に入ってきたのは、一組の男女。
一人は赤と黒のジャケットを羽織り、大胆に胸元を開けたシャツを纏った茶髪の男―――アウトローな雰囲気を出しつつも、どこか憎めない笑みを浮かべた青年。チョーカーと言うには物々しい首輪が印象的だ。
そしてもう一人は、赤茶色のショートヘアにこげ茶色の大きな瞳が映える少女―――淡い暖色系の装いは、寒くなり始めた昨今でも明るさを失っていない。ただし、ウロボロスのブレスレットは合わないのではないか、と涼二は思う。
「双雅、桜花。お前らな、何で一々ここにたかりに来るんだ」
「いーじゃん、材料費は払ってるだろ?」
「おまけに、何か良い材料があったら持ち込んでるんだから。それに一人寂しく食べるより、皆で食べたほうが美味しいでしょ~?」
上狼塚双雅に、御津川桜花。
共に、涼二にとって『幼馴染』と呼べる人間だ。
そんな二人は涼二の威嚇をものともせず、片付けてあった大きめのテーブルを取り出してセッティングし始める。
物怖じしない二人の様子に嘆息し、涼二はトースターに突っ込む食パンの枚数を増やす事にした。
いくら卵を多く買ってあると言っても、こう毎日たかられてはすぐに消費してしまうだろう。
「ったく……」
長年の経験で、言っても無駄だと分かっている涼二は、深々と嘆息して二人への追及を切り上げた。
小さく肩を竦めつつ割る卵を三個に増やし、フライパンの中へと流し込む。
塩と胡椒で適当に味付けをしつつ、涼二は一度二人の方へと振り返った。
「パン乗せでいいか?」
「おうよ」
「涼二の料理なら何でもー」
「よし、グリーンピース増し増しで入れてやろう」
「やっぱ嘘、この外道!」
悲鳴を上げる桜花に苦笑し、とりあえずパッと茹でて使えそうな野菜を取り出してゆく。
とりあえず、ホウレンソウとブロッコリーを取り出しながらお湯を沸かしつつ、目玉焼きを作るフライパンに蓋をする。
「温野菜のサラダ、目玉焼きトースト……サラダに刻んだベーコンでも入れておくか。飲み物はどうする?」
「オレ牛乳」
「あたし紅茶ー」
「双雅、お前はまだでかくなるつもりか。俺への当て付けか」
「いや、お前がちっこいのは俺の所為じゃねぇし?」
双雅の言葉に、涼二は思わず言葉を詰まらせる。
涼二の身長はギリギリ170cmに届かず、男性としては少々低めなのに対し、双雅の身長は190弱と言った所。
並ぶとその差が歴然となってしまうので、涼二はあまり双雅と並びたがらないのだ。
ちなみに、桜花も身長は160cm台なので、涼二と視線の高さは殆ど変わらない。
「ったく……まあいい。ほら、食器並べろ」
「うーい」
この部屋には、常にこの二人用の箸やマグカップが常備されていたりする。
今更と言えば今更なこの状況に、涼二は苦笑しつつも料理を進めて行った。
切った野菜を鍋の中に突っ込み、ちょうどいい感じに半熟に焼き上がった目玉焼きは三つに切り分け、一先ず皿の上に出しておく。
そしてトースターから出した食パンを並べ、余ったベーコンを乗せてから切り分けた目玉焼きを乗せる。
「後は味を調えて、と……よし、後は」
とりあえず完成した品をさらに乗せた涼二は、洗い物を流しの中に突っ込み、野菜が茹で上がるのを待った。
二つだけでは寂しいので、レタスとプチトマトを取り出して洗いつつ、彼は背後の二人へと問いかける。
「サラダのドレッシングはー?」
「和風ー」
「何言ってんのよ、胡麻ドレッシングでしょ」
「朝から高カロリーにすっと太るぞぉ、桜花ぁ」
「うっさいわね。あんたは縦に伸び過ぎなのよ!」
「……さっさと決めろよ」
じゃんけんを始める二人に嘆息しつつ、涼二は大きめの皿にレタスとプチトマトを並べてゆく。
そして茹で上がった野菜を冷ます頃には、二人の決着はついていた。
6あいこの末、決定したのは和風ドレッシングである。
「朝っぱらから騒がしい連中だな、お前らは……隣に迷惑だから、あんまり騒ぐんじゃねぇぞ?」
「はいはい、朝飯朝飯」
「ごめんなさーい」
「……桜花はまだいい。テメェはせめてポーズだけでも謝罪しろこのバカが」
料理を並べながら嘆息し、涼二もまた円形のテーブルに着く。
そして飲み物を注ぎ、三人で同時に手をあわせ、頂きますと声を上げた。
未だに抜けない礼儀正しい習慣。共に孤児院で過ごしていた頃からの癖に、涼二は小さく苦笑しつつ料理へと手を伸ばした。
その隣で、トーストに齧り付いていた桜花が顔を綻ばせる。
「んー、やっぱり涼二はお料理上手だねぇ。こりゃ、あたしも負けてられないわ」
「うむうむ。いい嫁さんになれるな、涼二は」
「殺すぞ双雅」
半眼と共に、涼二は近くに転がっていたテレビのリモコンを双雅へと向けて投げつける。
しかし、相手はそれをあっさりと片手でキャッチし、テレビのスイッチを入れた。
まるで堪えた様子の無い双雅に、涼二は嘆息交じりにテレビへと視線を向ける。朝のニュース番組は、いつも変わり映えの無い内容ばかりを放送していた。
と―――そんなテレビを見ていた桜花が、突如として歓声を上げた。
「二人とも、あれあれ!」
「あん?」
「どうかしたのか、桜花?」
彼女が指差した方向へと、二人は視線を向ける。
テレビに映っているその画像は、最近密都に完成したばかりの大型ショッピングモールの紹介だった。
ただでさえ土地面積が足りていないのに何をやっているんだ、と色々言われていたが、結局『必要な品物が一箇所で揃えられる』と言う利点から、多くの住民に受け入れられた次第である。
「……で、そのショッピングモールがどうかしたのか?」
「ほら、今日は二人とも暇でしょ? あそこに遊びに行ってみようって事」
「あー、まあ暇って言えば暇だな。何か買いたいモンでもあんのか?」
「別にー。ただ、久しぶりに三人で遊ぼうかなーって」
「遊ぶって……お前、一応まだスクール卒業してないだろ」
「今日は講義休みですー」
いー、と口を左右に広げながら言う桜花に、そんなものかと涼二は肩を竦めた。
そして一人であのショッピングモールの魅力をつらつらと語る桜花を他所に、彼は再びテレビの方へと視線を向けた。
ニュースは変わって、今は有名な製薬企業である静崎製薬の新製品に関する話へと移っていた。
あまり興味がある内容というわけでもなく、涼二はトーストを齧りながらぼんやりとそれを眺め―――隣から放たれた甲高い声に、唐突に現実へと引き戻された。
「で、涼二! そっちは暇なの?」
「ん、ああ……とりあえず、予定は入って―――」
いない、とそう言おうとした瞬間だった。
まるで図ったかのようなタイミングで、携帯電話が着信音を鳴らし始めたのだ。
若干マイナー気味な曲をアレンジした着信音に気付いた双雅が、近くにあった携帯電話を涼二へと投げ渡す。
軽く礼を言いつつ受け取った涼二は、そのディスプレイに表示されていた名前に思わず顔をしかめていた。
小さく嘆息しつつ、通話ボタンを押す。
「……もしも―――」
『はいはーい! 今日も元気にモーニングコール! 朝8時42分38秒をお知らせしま』
―――反射的に通話停止ボタンを押し、携帯電話を放り捨てる。
己の行動に頷きつつ、涼二はサラダの方へと箸を伸ばした。
「……えーと、涼二?」
「ん、何だ?」
「今の……あー、えーと、何でもない。とにかく、今日は暇なんでしょ?」
「ああ、まあ―――」
暇ならいいんだがな、と彼が呟こうとした瞬間だった。
再び、携帯電話が同じ着信音を響かせ始めたのだ。
涼二はしばし無視しようかと悩み、相手がその程度で諦めるような人間ではなかった事を思い出して、深々と嘆息する。
そんな疲れた表情のまま携帯電話へと手を伸ばし、再び通話ボタンを押して耳へと押し当てた。
「……何の用だ、スリス」
『酷いなぁ、涼二。ボク傷付いちゃうじゃないか』
「お前の図太さは重々承知だ。で、何の用だ?」
『はいはい、せっかちだなぁ』
電話越しに聞こえてくる嘆息の音に、涼二は思わず頬が引き攣るのを感じたが―――それを、何とか抑える。
相手の事は良く分かっているのだ、相手のペースに引き込まれれば泥沼にはまるだけだと、彼はよく理解していた。
そして相手が引っかからない事に気付くと、電話越しの相手―――スリスは、小さく笑い声を漏らしてから声を上げる。
『じゃ、本題だよ涼二。ボクらに依頼が入った』
「……相手は?」
『いつものじゃないね。匿名希望さんだけど、一応の信頼は置けそうな相手だよ』
「もう調べたのか。ご苦労だったな」
『えっへー、褒めて褒めてー』
耳に届く声に対し、涼二は小さく嘆息を吐き出した。
この相手は、あまり調子に乗らせると後で面倒になる事が分かっている。
「……で、仕事って訳か」
『うん、そうだね。詳しい内容は後で連絡するから、涼二はいつもの準備をしてくれないかな?』
「了解した。それじゃあ、また後でな」
『あ、ちょっといい?』
「ん、どうした?」
呼び止める声に、涼二は思わず首を傾げた。ここまで来て止められるような用事があっただろうか。
と、一つだけ思い当たる事があり、涼二は再び頬を引き攣らせていた。
そんな涼二の様子を知ってか知らずか、スリスは少し恥ずかしがるような声音―――いや、むしろ甘えるようなそれで声を上げる。
『次こっち来る時までに新作のエロゲを―――』
「じゃ、またな」
『あ、ちょっと―――』
電話を切断し、更に電源を落とした上でバッテリーを抜く。
そこまでしてから一息ついて、涼二はようやく耳を澄ませていた二人の方へと視線を向ける。
最近の携帯電話は外に声が漏れないように設計されている為、そんな事をした所で無駄なのだが。
二人とてそれは分かっているのだろうが、そこは人の逃れられぬ性と言った所だろう。
―――涼二は、小さく息を吐き出した。
「……済まんな、桜花。仕事が入った」
「えー……って言いたい所だけど、まあ仕方ないか」
「つーかよぉ、涼二。オマエ、仕事って何やってんだ? ユグドラシルは辞めたんだろぉ?」
「ああ……」
双雅の言葉に、涼二は窓の外へと視線を向ける。
そこに見えるユグドラシルの建物へと視線を向け、感慨に耽る―――振りをしながら、彼は必死で言い訳を考えていた。
今やっている仕事は、堂々と公言できるようなものではないからだ。
しばし悩みつつも、二人に怪しまれない程度の時間で視線を戻し、涼二は無難―――だと思われる―――内容を回答する。
「……まあ、探偵みたいなもんだな。探偵の手伝いって言うか」
「ほー、今時そういう時代錯誤な仕事してる奴もいるんだなぁ」
「そりゃいるでしょ。サイバースルーフとか、ネットワーク・ディテクティブとか……色々、需要はあるでしょ?」
「へぇ、そりゃ知らんかった」
「……とにかく、そんな感じだ。つー訳で、悪いが今日は付き合えない」
軽く頭を下げる涼二の言葉に、桜花は苦笑を浮かべながら手をパタパタと振って見せた。
そこに、あまり執着と呼べるようなものは存在しない。
色々と遠慮の無い性格の人物ではあるが、あまりしつこくない、このカラッとした在り方が周囲に人気なのだ。
共にスクールに通っていた時代に、よく性別問わず人に囲まれていた姿を思い出し、涼二は小さく苦笑した。
そんな口元を見せないようにする為に顔を俯かせていたのだが、どうやら桜花はそれを謝罪であると受け取ったようだ。
「別にいいってば。また今度だって大丈夫だし。まあ、開店セールやってる内には行きたいけどね」
「ああ、それまでには必ず時間を開ける。約束するさ」
「おっけー、約束だよ。破ったら部屋の中に蛇五匹ぐらい解き放ってやるからね」
(……これが無ければなぁ)
色々と惜しい女だ、と涼二は胸中で嘆息する。
愛嬌もあり容姿も整っているので、あまり彼女を知らない人間には非常に人気があるのだが―――その実、桜花は無類の爬虫類好きなのだ。
特に蛇の類を好んでおり、彼女は部屋にいくつもの飼育ケースを並べて、日夜蛇のど真ん中で過ごしている。
おかげか、深く知れば知るほど、付き合える友人は極少なくなってゆくと言う状況である。
桜花は涼二の一つ下の十八歳であるが、未だに部屋まで上がり込む事が出来た人物は、涼二と双雅のたった二人だけだった。
そんな輝かしい経歴を思い出しながら嘆息し、涼二は適当に料理を口の中に放り込んで立ち上がる。
「あれ、もう行くの?」
「ああ。急ぎって訳でもないが、あんまりゆっくりもしてられないからな。お前らと一緒にいると、ずるずると長居しちまう」
「褒められてんのか貶されてんのか……ま、頑張って来いよぉ」
「おう。洗い物は流しで水に浸けとけよ」
互いにサムズアップで応え、涼二と双雅は同時に笑みを浮かべた。
遠慮の必要ない相手、日常の風景。
けれど―――涼二が踏み込むのは、こことは完全に乖離した世界だ。
(さて、行くか―――)
―――そして、氷室涼二は《氷獄》へと姿を変えた。