02-1:プロローグ
無数の書棚が立ち並ぶ空間。
若干薄暗く広大なその部屋は、時折立っている柱に支えられた、巨大な図書館のような場所。
しかし、書棚に並んでいるのは本だけではなく、大量のバインダーに納められた書類の束だった。
―――そんな空間に、涼やかな声が響く。
「―――正面入り口の前で暴れていた刻印獣は、他の事件でも時折目撃されているものですが、その例はごく稀で情報はあまりありません」
「……うん、そうだね。僕も、それに関しては殆ど記憶していないかな」
無数の書棚に囲まれた部屋の奥。
そこに、二人の人物の姿があった。
一人は、設置されている机に広げられた資料を読む銀の髪の青年。
その長い髪をうなじの辺りで一括りにしている彼は、眼鏡の位置を直しながら声を上げる。
「それで、内部の状況に関しては……これだね」
「はい。どうやら、静崎製薬で行われていた実験資料は念入りに破棄されてしまったようです」
「ふむ……耐火金庫の中身まで、か。こちらは人為的だけど、やった者の正体は掴めず……随分と手馴れてるなぁ」
そんな青年の声に答えているのは、紫がかった長い髪をもつ一人の少女。
ゆったりとウェーブを描くその髪を揺らし、彼女は温和そうな笑みを浮かべつつ声を上げる。
「事実関係に関しては、その報告書に書かれている内容で全部です……と言う事で、お疲れ様、悠君」
「うん、ありがとう怜。さてと、次の資料は―――」
「今日はこれで全部だよ。全く、いつも仕事しっぱなしなんだから。今は報告書も来てないんだし、休憩にしよ?」
「あ、あはは……うん、分かったよ」
腰に手を当て、たしなめるように言う少女―――伊藤怜。
それに対し、青年―――詩樹悠は、相好を崩しながら眼鏡を外し、大きく背筋を伸ばして凝った身体をほぐしていた。
ユグドラシルには、ルーン能力者に関する様々な事件が飛び込んでくる。
能力者をただの人間が抑えるのは難しい。それ故に、ユグドラシルには治安維持部隊と呼べるものが存在しているのだ。
これには様々な部隊が存在し、警察と共に動いて事件の捜査を行う《フギン》、機動部隊として警察に協力する《フレキ》。そして、ルーン能力を使った凶悪犯罪を鎮圧する目的で作られた、最強の戦闘部隊である《ムスペルヘイム》などが存在している。
そして、そういった部隊からもたらされる報告は、全てこの図書館―――中央情報室《ミーミル》に集められているのだ。
「さて。それじゃ、私はお茶を淹れてくるね」
「うん、いつもありがとう怜。怜のお茶は美味しいから、楽しみだよ」
「ふふ。いつもそう言ってくれるから、私も作り甲斐があるよ。それじゃ、ちょっと待っててね」
悠の言葉に嬉しそうに頷き、怜は書棚の向こうへと姿を消して行く―――観葉植物の向こう側に彼女の姿が消えて行ったちょうどその時、やってきた職員が悠に対して声をかけた。
「室長、よろしいですか?」
「あ、うん。何ですか?」
室長―――すなわちこの情報室のトップである悠は、そんな職員の言葉に首を傾げる。
周囲の書棚の整理を行っている他の職員達は、そんな二人の様子に聞き耳を立てている様子ではあったが、それには気付かない振りをしつつ、悠は彼に続きを促した。
新人で、若干緊張した様子のある彼は、直立不動の姿勢のまま声を上げる。
「は、ムスペルヘイムの隊長殿がお見えです」
「緋織が? ああ……今回の件が耳に入ったのか。うん、通していいよ」
「了解しました!」
―――成程、今の緊張は僕と緋織二人分のものか、と胸中で納得し苦笑しながら、悠は去ってゆく職員の背中を見送る。
とりあえず机の上に広げられた資料を纏め、適当に積み重ねてから机の脇へと置いておく。
そんな事を続けられた紙の束が山のように積み重ねられていたが、日を置かずに怜の手によって片付けられる事となるだろう。
若干申し訳なく感じながらも、見えてきた紅の髪に悠は思考を切り替える。
磨戸緋織―――最強の実働部隊たる、ムスペルヘイムの現隊長。
そしてその脇に緊張した様子で立つ、金髪のツインテールを揺らす少女に、悠は小さく笑顔を浮かべていた。
「やあ、いらっしゃい《災いの枝》。本日はどのようなご用件で?」
「《口伝詩人》……いいえ、悠。堅苦しいのは無しで」
「あはは、ごめんごめん」
からかいの言葉をたしなめられ、悠は小さく苦笑を漏らす。
とはいえ、隣でガチガチに固まっていた少女の緊張をほぐす程度の効果はあったようで、きょとんと目を見開いている彼女へと悠は声を上げた。
「君は初めて見る顔だけど、確か緋織の補佐官に選ばれた子だったかな?」
「は、はい! 把桐羽衣と申します! コードネームは《戦乙女》です!」
「うん、僕は詩樹悠。コードネームは《口伝詩人》だよ。さ、立ち話もなんだから二人とも座って」
笑みを浮かべ、悠は二人へと椅子を勧める。
実力主義のユグドラシルでは、悠や緋織のように若手ながら高い位に就いている者も少なくはない。
それ故に、悠もこういった話というのは既に慣れたものであった。
椅子を引き寄せ座った二人に満足し、悠は声を上げる。
「さて……改めて、今日はどんな用件で?」
「……神話級の刻印獣が確認されたと聞いたから、その情報を確認に」
「成程」
若干目を逸らしながら言う緋織に、悠は小さく苦笑を漏らしていた。
そういう名目で来た、という事なのだろう―――彼女自身の目的は別にある。
そしてそれを理解しているからこそ、悠はあえてその言葉通りに声を上げた。
「恐らく、犬の類だね。刻印ルーンは恐らくTとR。人狼の形態を取っていたらしいから、もしかしたらMもあるかもしれない」
「……人間が、その姿になっていた可能性は?」
「Ehの力でかい? そうだね……可能性が皆無とは言えない。けれど、人と獣の中間を保つのは非常に難しい……それは、君も分かっているよね?」
「でも、相手は神話級。常識は通用しないと思った方がいい」
「ふむ、一理あるね」
緋織の言葉に、悠は肩を竦めながら頷く。
そんな応酬に居心地悪そうにしている羽衣の姿を視界の端に捉えながら、悠は緋織の瞳へと視線を向けた。
彼女は、何らかの確信を得ている―――いや、得た確信を誰かに肯定して貰いたいのだ。
それに気付いているからこそ、悠は表には出さないようにしながら胸中で嘆息する。
と―――
「あ……緋織ちゃんだけじゃなかったんだ。失敗しちゃったなぁ」
そこに、一度離れていた怜がお盆とティーセットを持って現れた。
お盆の上に置かれているのは三つのティーカップ。
悠と自分自身、そして緋織のものだ。
あまりにも準備が良すぎるその状態に、緋織は大きく目を見開く。
「怜……私が来る事、予想してたの?」
「そりゃあね。IとL、それに神話級。こんな報告を聞いて、緋織ちゃんが飛んで来ない筈がないから」
「べ、別に私は、そんな……」
憮然とした表情で唇を尖らせる緋織に、怜はクスクスと笑みを漏らしている。
そんな彼女に対して緋織は口を開こうとするが―――抗議の声は、意外な所から上がった。
「そんな事はありません!」
「羽衣……!?」
「神話級が相手となれば、必然的に私達が動く必要があります! ですから、危険な能力者の力を知るためにここに来たのです! あんな男の事なんて……!」
「はい、落ち着いて」
ぱんぱん、と悠は軽く手を叩く。
それと共に羽衣ははっと目を見開き、顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
そんな様子に小さく苦笑しつつも、悠は怜の方へと視線を向ける。
「あんまりからかっちゃダメだよ、怜」
「あはは……ゴメンね、二人とも」
苦笑交じりの表情を浮かべつつ、怜は手に持ったお盆を机の上に置いた。
そして、裏返していたカップを戻し、その中へとティーポットから紅茶を注いでゆく。
それと共に広がる僅かな林檎の香りが、周囲へと漂っていた。
「はい、お詫びの印にどうぞ」
「え、あの、えっと……」
「私は伊藤怜。コードネームは《植物園》。悠君……ここにいる、ミーミル室長の補佐官です。よろしくね、羽衣ちゃん」
「は、はい!」
緊張した様子の羽衣に苦笑しつつ、怜は紅茶とお茶請けのクッキーを机に置く。
ただし、それはあくまでも三人分―――自分の分は、そこには無かった。
それを見咎めた緋織が、申し訳なさそうな様子で声を上げる。
「怜、私の分はいいから……」
「私はいいの。後で、悠君と二人っきりで休憩するから……ね?」
「あはは……うん。まあ、そういう訳だから、遠慮しないでいいよ」
「……分かった。私も、怜のアップルティーは好きだから」
照れたように笑う悠の様子に、緋織も小さく笑みを零す。
そんな様子をニコニコとした笑顔で見つめる怜と、相変わらず緊張した様子の羽衣。
三人の様子を観察し、悠は胸中で小さく嘆息を漏らした。
(……やっぱり、気にするなって言う方が無理だね)
相変わらず落ち着かない様子の緋織。
彼女は才能を見出されて以来、ずっとある一人の男とパートナーを組んで戦ってきた。
緋織は、彼の事を心の底から信頼していたと言っても過言では無いだろう。
けれど、彼―――氷室涼二は、突如としてその姿を消してしまった。
緋織は、何も告げずに去ってしまった涼二の事を恨んでいる。けれど、彼の事を信じようとするその感情を抑える事は出来ていなかった。
「……今回の事件で神話級の出力を以って使われたのは、HとTh、そしてSのルーンだ」
「え?」
「さっきの反応、建物内で起こった方の事件についても知っているんだろう?
建物内で使われた形跡のあるルーンは、I、L、H、Th、Sの五つ。少なくとも二人以上の能力者が動いている」
そこまで告げてから紅茶に口をつけ、悠は小さく息を吐く。
悠は少しだけ口を湿らせてから、目を見開く緋織へと向けて続けた。
「IとLは、それほどの出力で使われた訳じゃない……内部にいた能力者に関しては、HとThとSを操る神話級能力者として捜査されているよ」
「……そう」
安心したように、けれどどこか残念そうな様子も漂わせ、緋織はそう呟く。
ティーカップの陰に苦笑を隠しつつ、悠は彼女の様子を静かに観察していた。
涼二が加担していなかった事に安堵しつつも、彼の行方を掴む事が出来なかった事を残念がっている。
そんな様子を外面から感じ取り、悠はここにはいないかつての友人に対して文句の一つでも言いたい気分になっていた。
吐き出された溜め息が、空気に溶ける。
「まあ、詳しい情報に関しては、もう少ししたら書架に並ぶ予定だから……それまではこのぐらいの情報で勘弁して」
「……うん、分かった。ありがとう、悠」
「どういたしまして。訓練の方、頑張ってね」
「ん、そっちも、あんまり根を詰めすぎないように」
―――君にだけは言われたくないなぁ、などと胸中で呟き。
紅茶とお茶請けはきっちりと消費してから席を立つ緋織の姿を、悠は表情を変えぬまま見送っていた。
そんな彼女の姿が見えなくなるのを待ち、悠はようやく息を吐き出す。
「お疲れ様、悠君」
「あはは……嘘は苦手じゃないけど嫌いだなぁ」
微笑む怜の表情に癒されながらも、悠は苦笑交じりに呟いた。
自分は緋織に嘘を付いている―――先ほどの話の中には、多くの嘘が含まれていたのだ。
何故なら詩樹悠は、氷室涼二がこの組織から離反した理由を全て知っているから。
そして、彼がずっと隠し続けてきた奥の手までも知っているのだから。
「しかしまぁ……罪作りな奴だよねぇ、涼二も」
「悠君がそれを言うかな?」
「え?」
「何でもないよ」
クスクスと笑いながら、怜はティーセットを片付け始める。
そして、そんな様子をぼんやりと眺めていた悠へと向け、彼女は声を上げた。
「ねえ、悠君」
「ん、何?」
「どうして涼二君は、私達にだけ全部を話して行ったのかな?」
そんな彼女の言葉に、悠は虚空を見上げ―――小さく、苦笑を漏らす。
彼が思い起こすのは、かつて友人がこの組織を去った前の日の話。
氷室涼二は、全てを話して行った。抱いている強い憎しみも、その眼に宿した強い力も、全て。
悠と怜、そのたった二人だけに全てを話して、彼は去って行ったのだ。
彼の目的を考えれば、正気とは思えない。それは決して悟られてはならぬものであり、そしてそれまでは決して悟られる事の無かった筈の話なのだ。
けれど、彼は全てを話してくれた。それを、悠は嬉しいと思う。
「……涼二は、分かっていたからだよ」
「分かっていたからって……一体、何を?」
「僕達なら、例えその話を聞いたとしてもこの組織から離れようとしないって、ね」
そう言って、悠はかつての彼の話を思い返す。
十五年前の大災害を経験した人間ならば、その話は十分に同情出来るものであったし、彼の憎しみを多少なりとも感じ取る事は出来た。
これを聞いたのが緋織だったならば、彼女は間違いなく涼二について行こうとしていただろう。
けれど、それでも悠は決して付いて行こうとはしなかったのだ。
「僕は、この組織から抜ける事はできないからね。そもそも、僕はこの仕事に誇りを持っているんだから……と言ってもまぁ、この誇りだって、涼二のおかげで得られたようなものだけど」
「……そして私は、そんな悠君から離れようとはしないから……だから涼二君は、私達に?」
「僕はそうだと思う。それだけ、僕の誇りを理解してくれていたんだって思うと……少し、嬉しいんだ」
悠は微笑む。親友と呼んでも過言では無い、あの青年の事を思い返して。
その表情に含まれていたのは、友情と親愛と、そして闘争心だった。
「だからこそ、涼二の秘密は護る。けれど、それ以上はしない。もしも直接対決するような事になったら、決して手加減はしないって決めてるんだ」
「……ずるいなぁ、男の子って」
ポツリと呟かれた怜の言葉に、悠はきょとんと目を見開く。
そして、冗談ではなく本気で拗ねている様子の表情を浮かべている彼女に驚き、あたふたと慌てた声を上げ始めた。
「え、いや、ずるいって? 僕とあいつは友達だし、それは怜だって同じじゃないか」
「そんな何も言わずに通じ合っちゃってるの、ずるいと思っちゃうんだよ。きっと、涼二君だって同じ事考えてるんだろうし」
「そ、それは……」
あながち否定できない事に頬を引き攣らせ、どう言い訳したものかと悠はひたすら言葉を探る。
彼の持つルーンによる強靭な精神も類稀な記憶力も、この時ばかりは役に立ってくれなかった。
そうして必死に悩んでいるうちに―――ふと、怜がクスクスと笑みを漏らしている事に気づく。
そこまで来て、悠はようやく自分がからかわれていた事に気が付いた。
「れ、怜ってば……」
「ふふ、ゴメンね悠君。でも、羨ましいって思ってるのはホントなんだよ?」
「あ、あはは」
笑顔を絶やさない怜は、それでもそんな笑顔の奥にどこか油断なら無いような色を秘め。
叶わないなぁ、などと思いながらも、そんな笑顔に惹かれている自分がいることを悠は自覚していた。
そして、彼はそんな話題の中心となった親友の事を思い返す。
「……今、あいつは何をしてるのかな?」
「分からないけど……でも」
「でも?」
「またいつか、昔みたいに笑い合えたらいいなって……緋織ちゃんも私達も、あの子も一緒に……ね?」
「……そうだね」
頷き、悠は虚空を見上げる。
彼は、今何処にいるのか―――
(……意外と、近くにいるのかもしれないな)
そんな事を考え―――悠は、小さく笑みを零していた。