01-13:死の氷獄
「―――ふッ!」
「ぐあっ!?」
鋭い呼気と共に、涼二は駆ける。
その手の中にはコンバットナイフが一つ―――袖の中から取り出したそれを、涼二は前方にいた警備員へと向けて投擲した。
真っ直ぐに飛んだナイフは男の手に突き刺さり、彼が持っていた拳銃を地面へと叩き落す。
そしてその隙に、涼二は一瞬で男の懐へと肉薄していた。
「な……!?」
突如として目の前に現れたその姿に驚き、男の身体が硬直する。
そしてその隙を、涼二は見逃さなかった。上向きに放たれた掌底が、目を見開いたまま硬直している男の顎を打ち据える。
一撃で意識を消し飛ばされた男は、そのまま力なく仰向けに倒れて行った。
ナイフを回収し、涼二は再び前進する。
流石に、足がつきそうな品物を残して行く訳にはいかないのだ。
(予想外に足止めを喰らったな……こっちに何かあるのか?)
貨物用エレベーターへと向かう途中に受けた妨害に、涼二は小さく目を細める。
この階層のマップへと視線を向け、そこにある反応には特におかしい部分はなく、涼二は首を傾げていた。
マップ内で警備員として表示されているマークは、彼らの持っている通信機などの反応を用いて位置を割り出している。
その為、そういった装備を持たない人間は表示されないのだが―――
「……プラーナの気配」
涼二は、小さく呟く。
離れていても分かる、強力なプラーナの波動。
意図的にある程度放出していなければ、こんな風に感じ取る事は出来ないだろう。
そしてこの密度は、間違いなく災害級以上の力がある。
(誘ってる、って訳か)
胸中で小さく呟き、涼二は静かに意識を集中させた。
感じ取る事が出来るプラーナは、非常に強力なもの。集中さえすれば、何処にいるか程度は把握する事が可能だ。
しかし―――
(確実に罠だな。だが、それにあえて乗るかどうか―――)
もしも、雨音と見せかけての別の能力者だったとしたら―――それはそれで問題ない、と言えるが。
災害級がいたとしても、涼二の実力ならばそれほど苦もなく倒せるだろう。
そして、雨音以外に神話級能力者がいる可能性は限りなく低い。
(方向からして……この巨大な会議ホールの辺りか。戦闘を想定してるな、これは)
プラーナを感じる方向と強度から考え、涼二はそう判断する。
コンサートホールのようにすら見える会議ホール。席や机が多く動きづらくは感じるが、それでも能力を使うならばこれぐらいの広さがなければならないだろう。
―――涼二が能力を使うならば。
(雨音の能力は場所の広さなど関係ない。むしろ、狭い場所の方が逃げ場がなくて有利な筈だ。なのに、こうやって誘っていると言う事は……)
可能性としては二つ。
一つは罠であり、強い能力者の力を使って迎撃しようとしているか。
もう一つは、雨音の戦闘テストをしようとしているか、と言った所だろう。
小さく息を吐き出し―――涼二は、声を上げた。
「……スリス、聞こえるか」
『ん、何? まだデータを引き出してる途中だから、この周辺のシステムを落とすのにはしばらくかかるけど』
「あいつと会って来る」
『え……? ちょ、ちょっと涼二!?』
通信を切り、涼二は歩き出す。
だが、それを遮るかのように、耳元でスリスの声が叫びを挙げた。
『ちょっと涼二! せめて映像記録が残らないようにしなきゃいけないんだから! その力は記録に残す訳にはいかないでしょ!?』
「分かってるさ。だから、最初は気付かれない程度に抑えておく。使えるようになったら連絡をくれ」
『どうしてそこまで……!』
焦ったような声が響き、涼二は小さく苦笑を漏らした。
それは決して、バカにしているといったモノではない。
むしろこれは、自分自身に呆れていた為に出た吐息だった。
「どうにも、な。理由は無いんだ。けど、あえて言うなら―――」
『……言うなら?』
「あいつの能力に対する感情を、正面からぶち破ってやりたい」
強すぎる能力に対し恐怖を覚えると言うことは、高い能力を持つ能力者にはそれほど珍しい事ではない。
物心つく前から実験体として扱われてきたスリスはともかく、涼二やガルムにも覚えのある事ではあった。
さらに、能力に目覚めた時には既に成人していたガルムと違い、まだ幼かった涼二はその恐怖を良く知っている。
人に触れられない―――そんな恐怖を抱える雨音とは少し違うだろうが、それでも涼二は彼女の感覚を多少なりとも理解する事が出来ていたのだ。
「自分の力に怯えてんじゃねーよって、教えてやろうと思ってな」
『でも、それだったら準備が終わってからでも……』
「それとも、俺が負けるとでも思ってるのか?」
『む……あーもう、分かったよ。涼二が負ける訳がない!』
半ば自棄の混じった声に、涼二は小さく苦笑を漏らす。
けれど、そこには何処までも強い信頼が込められていた。
そんな彼女に対し、涼二は胸中で感謝の言葉を発する。
そしてその足は、感じるプラーナの波動の方へと向かって歩き出していた。
「―――」
小さく、口の中で囁くように声を上げる。
室内にもかかわらず感じる風に小さな笑みを浮かべつつ、涼二は真っ直ぐにその方向へと向かっていた。
進行する通路上には警備員の姿は見当たらない。
彼の耳に聞こえてくるのは、正面入り口で暴れていると思われるガルムの戦闘音程度だ。
けれど、感じるプラーナの波動は徐々に強くなってゆく―――巨人級程度ならば、目の前で戦っている時に感じるレベルの密度だろう。
それだけの力を放出しても問題ないのは、やはり神話級のみとなってしまう。
ならば―――
「……いるんだろう、雨音」
僅かに伸びた髪に触れつつ、涼二は会議ホールの扉を開ける。
防音しようの為二重になっている扉を抜ければ―――装着するバイザーの視界に、壇上に立つ雨音の姿を発見した。
感情なく、ぼんやりと見開かれているその瞳に、涼二は静かに視線を細める。
マインドコントロール。強化人間に施される処理の一つではあるが、その実非常に制御が難しく、あまり実用的ではないとされている。
それは、ルーン能力に精神的な要素が大きく影響すると言う事実から発せられているのだが―――
「きちんと能力は発動していた。随分と進んだ研究をしているようだな、静崎義之」
『私としても自慢な物でね。どうかな、我が作品は素晴らしいだろう?』
響いたのは、スピーカーから発せられた声。
その声の主が何処にいるのかは分からないが、どうやらホール内の声は聞こえているらしい。
雨音の父親、静崎義之の言葉に対し、涼二は小さく息を吐き出した。
「随分と誇らしげなこって。まあ、勝手にしてくれとしか言いようがないな……ただし、俺の知らない所で、彼女を巻き込まずにだ」
『ほう……? 随分と面白い事を言うものだな、氷室涼二君』
「……!」
その言葉に、涼二はぴくりと眉を跳ねさせた。
そんな様子に気付いているのかいないのか、義之の声は続ける。
『ユグドラシル最強の実働部隊、《ムスペルヘイム》の前隊長。神話級のルーン能力者であり、突如として組織から謎の脱退を遂げた高位能力者……それが君だったね、《氷獄》』
「……こいつから聞いて、そこから独自に調べた訳か」
雨音の方へと視線を向け、涼二は小さく嘆息を漏らした。
彼女は相変わらずぼーっとしたまま、胡乱な視線で前方を見つめ続けているだけだ。
そこに意識の気配を感じる事は出来ないが―――僅かに、放たれるプラーナが揺らいでいるように感じる。
それが一体どんな意味なのかは、涼二には分からなかったが。
しかしそんな気配には気付かず、義之は続ける。
『さて……ところでなのだが、一つ取引をしないかな、《氷獄》』
「取引?」
『そう。我々に鞍替えしないか、と言う話だよ』
「何だと?」
バイザーの下で視線を細め、涼二は僅かに荒れた声を上げた。
姿は見せず、声だけの存在。涼二はゆっくりと前に進み出つつ、相手の言葉を待つ。
―――小さく囁くように、スリスへと声をかけてから。
『今の依頼主よりも高い金を出そう。君達ほど強力な能力者の集団は何にも代えがたいほどの価値がある。私としても、君達のような実力者は是非とも手に入れたいのだよ。
君達は、いわゆる傭兵のような存在だ。この戦いも商売でやっているに過ぎない。
ならば、今以上に収入がある方に付くのは道理ではないのかな?』
「……フン」
成程、納得はできる―――そう、涼二は小さく胸中で呟いた。
ニヴルヘイムは、金さえ受け取ればどのような仕事でも行う非合法なグループだ。
より高い金を払ってくる方に付くのは理に適っている事である。
が―――静崎義之は、一つだけ読み違えた。
「残念ながら、見当違いだな」
『何? 何が見当違いだと?』
「俺は金を受け取ったからやってるんじゃないんだよ。俺がやりたいからやっている……納得し、後悔しない為に戦う。
そこに道理やら何やらは存在しない。俺達はただ、感情のままに動くだけだ。お前ごときには、俺達は使えない」
故に、従えようとしたところで無駄なのだ。
彼らを理解し、いかに行動の理由を与えるかという事―――それが、ニヴルヘイムを動かすという事だ。
そして―――
「こいつを、こんな風に利用している事が俺には気に食わん。故に、俺達がお前に従う事はありえない。
分かったか、静崎義之。俺達は、俺達がやりたいからコイツを連れ戻しに来たんだ」
『……そうか、残念だよ。ならば―――死ね』
刹那、雨音の足元が爆ぜた。
思わずそう錯覚するほどの強い踏み込みと共に、雨音は涼二へと向けて肉薄する。
腰溜めに構えられた拳が高速で迫り―――涼二は、突き出された拳を掴みながら雨音の足を払い、彼女の体を投げ飛ばした。
「……役に立つもんだな、ガルム」
あらゆる格闘技を修めたガルムの技の一つ、合気道による受け流し。
小さく息を吐き出しつつ振り返れば、雨音がちょうど着地した所だった。
背中から落とすつもりだったのだが、彼女は器用に空中で体を捩り、上手く着地したようだ。
感情の浮かばぬ彼女―――その唇が、小さく動く。
「―――S」
「……ッ!」
その声に対し、咄嗟に身構える。
僅かな風が虚空を舞い、周囲のプラーナが雨音へと向けて急速に集まり始めた。
そう、涼二のプラーナも―――
「―――H」
―――刹那、涼二はそう声を上げた。
それと共に、涼二の周囲に強い風が逆巻き始める。
雨音の持つ吸収の力はその風に遮られ、涼二まで届く事無く吹き散らされた。
『ほう、もう一つルーンを隠し持っていた訳か……だが、そんなものでは我が作品の力を防ぎ切れんよ』
「……」
答えず、涼二は意識を集中させる。
再び突進してくる雨音。跳躍して踏み潰すように蹴りつけてきたその一撃を後方へと跳躍して躱し、涼二はホールの壇上へと立った。
そしてそれを追うように、雨音は一直線に突進する。
「L!」
涼二の右手に水が集い、周囲へと向けて網のように展開される。
頼りなく見えるが、力任せに引き千切るにはガルムほどの力が無ければ難しいこの水の網―――しかし雨音は、触れただけでそれを消滅させてしまっていた。
僅かに乱れるプラーナの波動。触れれば一撃で吸いつくされ、絶命するであろうその拳が、涼二へと向けて真っ直ぐに突き出される。
「風よ……!」
小さな戦慄と共に笑みを浮かべ、涼二は風を使ってその拳を絡め取る。
僅かに逸らし、それと反対の方向へ跳躍しながら、雨音の足元へと氷を走らせた。
一瞬で消滅させられる訳では無いのだろう。足を滑らせて、雨音の身体が転倒する。
(しかし、厄介だなこりゃ……)
胸中で呻き、涼二は再び油断無く構えた。
身体能力は高いものの、決して対応できないほどのレベルではない。
問題なのは相手に触れる事が出来ない事と、あまり強くない能力ならば吸収し、無効化してしまうという事。
さらに、周囲には常にプラーナを吸収する領域が存在している事だ。
風による護りを張っていたとしても、その領域にいる限り、徐々にプラーナを吸収されてしまう。
「ったく! おい、意識は無いのか!?」
「……」
無言のまま、再度突進してくる雨音。
その体を発生させた風で押し返しつつ、涼二はさらに叫び声を上げる。
「力に負けてんじゃない! お前は、それで満足なのか!?」
『無駄だ、君の言葉は聞こえていないよ』
「っ……」
響く声。しかし僅かに、だが確実にプラーナの波動が揺らぐ。
先ほどから感じていた僅かな違和感―――その正体に気付き、涼二は小さく笑みを浮かべた。
以前相対した時、あの公園の時よりも、明らかに吸収の力が低い。
僅かながらだが、力を抑えているのだ。
表情はなく、意志の感じられない瞳―――けれども、彼女の口が、僅かに開いた。
「っ、ぅ……し、て……きて、しまっ……です、か」
父親の耳には届かないであろう、本の僅かな声。
逆巻く風に掻き消されてしまうほど弱いそれを、涼二は決して聞き逃さなかった。
浮かべる笑みは、ただただ歓喜のそれ。
「お前こそ、どうしてだ? 諦めてるような事口にしながら、どうしてそんな風に意識を保っていられる?」
「わ、たし……」
『何……!?』
風の膜を潜り抜け、雨音はその手を勢い良く突き出してくる。
それをギリギリで躱しながら、プラーナを削り取られつつも、涼二は笑みと共に続けた。
「楽しかったからだろう、諦め切れなかったからだろう! だったら、何て言えばいいかぐらい分かってるだろうが!」
「ッ……!」
表情に変化の無かった雨音が、その目を大きく見開く。
輝きを失っていたはずの瞳には、涙の雫が揺れていた。
力を削り取られ、肩で息をしつつも―――涼二は、言葉を止めない。
「さあ、言ってみろ―――雨音!」
「涼、二……様……私、を……」
『くっ……殺せ、雨音!』
響く声。しかしそれにも踏みとどまり、初めて名前を呼ばれた雨音は―――その言葉を、告げる。
「私を、助けて……!」
「―――心得た」
涼二は、ただ不敵に笑う。
そしてその耳元に、一つの言葉が届けられた。
『準備できたよ、涼二。敵は君の真上だ……やっちゃって!』
「ああ!」
叫び、涼二はバイザーを毟り取る。
その瞳の中に不敵な色を宿らせて。
体の中に残るプラーナを昂ぶらせ、その身に宿す刻印へと意識を集中させる。
『このッ、殺せと言っているだろう、雨音!』
「ッ、あ、ああ……っ!」
叫び声と共に、雨音の身体が動き出す。
大きく広げられた掌は、真っ直ぐと素顔を曝した涼二の顔面へと向かい―――
「―――Th!」
―――地面から伸びた氷の茨によって、その動きを止められていた。
腕を、足を、そして身体を拘束された雨音は、手を伸ばしたその姿勢のまま驚愕に目を見開いている。
そしてその驚愕は、もう一人の人間にも伝わっていた。
『バカな……何だ、何だそれは!? なぜ、四つもルーンを持っている!?』
人が持つルーンは最大で三つ。それは、この世界に生きる人間にとっての常識だ。
それ以上の数を持つ者は今日まで生まれてきておらず、どれだけ強力な能力者の中にも四つのルーンを持つ者は存在しない。
―――けれど。
『それに……何だ、その姿は!?』
「……Lが表すのは、水と霊感……そして、『女性』だ。おかげで、Lのルーンを持つ男ってのは皆中性的な容姿をしてる訳だが」
長く伸びた黒髪、丸みを帯びた輪郭。
その青紫に輝く両の瞳に二つのルーンを宿し、女性の姿へと変貌した涼二は、その口元に皮肉気な笑みを浮かべていた。
「まあ、そのルーンがあったおかげで、俺はこの姉さんのルーンを受け取る事が出来た。そう……氷室静奈の持っていた、HとThの始祖ルーンをな」
15年前の大災害の日、涼二と静奈は死ぬはずだった。
ある男の槍によって腹部を貫かれた静奈も、両目が潰れて助けてくれる人間も失った涼二も、その結末を免れ得ぬはずだった。
けれども、そこに一人の男が現れたのだ。
路野沢一樹―――彼は瀕死の二人を回収し、既に手遅れとなっていた静奈の、その瞳を涼二へと移植した。
どうして死なせてくれなかったのかと、そう叫んだ時があった。
けれども、同時に感謝もしていたのだ。今の涼二は、それを深く理解している。
路野沢は善人ではない。利用する為に生かされた事も、涼二は十分に理解している。
けれど、それでも―――姉と一つになる事が出来た今を、涼二は感謝していた。
「I、L、H、Th―――」
雨音から距離を取り、涼二は全てのルーンを発動させる。
雨が降り、周囲は凍て付き、嵐が逆巻き、氷の茨が地面を覆う。
そう、それは正に死の氷獄。
死の女王が支配する、氷に包まれた滅びの世界。
「終わりだ、静崎義之。お前の築いたものは、全て俺が貰い受ける!」
スピーカーは凍りつき、既に彼の言葉は響かない。
けれど、その断末魔を聞き逃すつもりはなかった。
涼二は、腕を振り上げる。伸びた茨が天井へと突き刺さり、そこを伝いながら水と嵐が竜巻のように駆け上った。
凍結の竜巻は天井を突き破り、その先にあった監視室を蹂躙する―――
「―――消えろ」
パチン、と涼二が指を鳴らすと共に―――周囲に満ちていた地獄のような嵐は、一瞬で消え去っていた。
しかし凍結した周囲が戻る訳ではなく、僅かに生き残った証明の輝きを氷の表面が反射している。
そんな中、落下してくる物体が一つだけ存在していた。
その大きな氷の塊は、ホールに落ちると共に、その中身ごと粉々に砕け散る。
大きく息を吐き出し、乱れた長髪を整え、涼二は小さく笑みを浮かべた。
「あばよ、雨音は頂いて行くぜ」
コントロールが切れたのだろう。ぐったりと意識を失っている雨音に近付き、その皮膚に直接触れぬようにしながら抱き上げた。
寒さのせいか、顔色はあまりよくない。けれど、その顔には確かな笑みが浮かべられていた。
そんな表情に満足し、涼二は小さく頷く。
「さて、さっさとずらかるとするか」
プラーナも残り少ない。
けれど、ここにいつまでも立っている訳にも行かず、涼二は元来た道を戻るように歩き始めた。
凍りついた棺のような会議ホールを、置き去りにして。