01-11:血染めの狼
緑の光に包まれた周囲が、緩やかに揺れる。
半ば沈んだ意識のまま、雨音はぼんやりと周囲の光景を見つめていた。
衣服は奪われ、淡い緑色の液体に満たされた容器の中、その意識は覚醒と喪失を繰り返す。
そしてその長い髪は、水の力で広がり緩やかに漂っていた。
(スリスさん、ガルム様……)
その中で僅かに残った意識は、連れ去られた時の事―――あの三人と共に話をし、食事をし、ゲームをした時の事を思い返していた。
僅かな、本当に短い時間だったけれど、確かに穏やかで楽しかった記憶。
そして―――
(涼二、様……)
冷淡で、けれども仲間達の前では優しく穏やかな表情を見せていた青年。
彼の姿を思い出し、雨音はまどろむ意識の中で静かに目を閉じていた。
その姿を、出来るだけ明確に思い返す為に。
(私も、仲間になれたら……同じような表情を、向けて頂けたのでしょうか?)
益体もない思考に、しかし苦笑するほどの意識の余裕も存在しないまま、雨音はぼんやりと思考を続ける。
自分に対し、どこか切なそうな視線を向けていた彼。一体何を考えていたのか、僅かな付き合いしかない雨音には分からない。
けれど、それを無視する事は、彼女には決して出来なかった。
(貴方は何を考え、そして何を望んでいたのですか?)
分からない。
雨音は、分からない事はいつも諦めながら過ごしてきた。
知りたいと思ったとしても、それを知る為の方法がなかったから。
だからいつも諦めていたのだ。『無駄だから』と、『意味が無いから』と。
けれど―――
(知りたい……)
―――何故彼は、自分の姿を見た時に驚いた表情をしていたのか。
―――何故彼は、誘拐してきた自分に対し、ああも色々話をしてくれたのか。
―――何故彼は、皆でゲームをして遊んだ時、ああやって笑顔を向けてくれたのか。
そう、雨音は思ってしまう。
知りたいと。氷室涼二と言う青年の事を知りたいと。
そう、思ってしまったのだ。
(けれど―――もう、会えませんよね)
彼の事を殺そうとしてしまった。その事実が、雨音の心を苛んでいたのだ。
僅かに動く手で、彼女は己のルーンをそっと撫でる。
涼二が人を癒す力だと言っていたこのルーン―――けれど、雨音にはこれが呪いのように思えてならなかった。
仲良くなってくれた人々とも触れ合う事ができない、そんな呪いなのだと。
(……だから、来ないで)
―――警報が鳴り響いたのは、そんな瞬間だった。
* * * * *
「さてと、準備完了かな」
スリスの小さな声が路地裏に響く。
涼二、スリス、ガルムの三人―――強大な力を持つ神話級能力者が集合する。
そんな周囲の様子を見据え、涼二は声を上げた。
「それじゃあ、手筈どおりにか」
「うむ。陽動は任せてくれ」
いつも通りのコートとバイザーを装備した涼二と、それと全く同じ服装をしたスリス。
二人は互いの装備を確認し、そして涼二のLの力を利用して、隣に立っている雑居ビルの屋上へと登って行った。
そんな二人の姿を見送り、ガルムは小さく息を吐き出す。
その格好は普段と変わらず、何処にでもあるようなスーツ姿。
けれど―――彼にとって、変装など元々無意味なものなのだ。
「Eh、T、R」
ガルムの太い両腕と胸元にあるルーンが輝きを放つ。
その輝きと共にガルムの全身は頭髪と同じ黄金の毛に包まれ―――
『―――《血染めの狼》』
その姿は、巨大な人狼へと変化していた。
馬と変化を表す獣化のルーン、Eh。戦いと勝利を表す身体強化のルーン、T。そして乗り物や騎乗を表す加速のルーン、R。
それによって生み出されるのはただ強く、ただ速い獣―――純粋な強さのみを追い求めた、ガルム・グレイスフィーンのルーン能力。
『さて……では、往くとしよう』
そして―――ガルムは、強く地を蹴った。
勢い良く上空へと跳躍した巨体はゆったりと滞空し、そして静崎製薬ビルの真正面に着地する。
その巨体は獣化に伴い重さも格段に上昇している為、着地の衝撃だけでビルの前にある広場の地面が砕け散る。
轟音を響かせる巨体に、警備員達もすぐさま気付いて反応した。
「な……刻印獣!? 何でこんな所に!?」
「このッ!」
入り口の両側に立っていた警備員、その左側にいた男が、ガルムへと向かって拳銃を発砲する。
小型ながら十分な威力を持つ銃は、正確にガルムの身体を撃ち抜こうとし―――
(止まって見える……)
けれど、Rのルーンを発動したガルムには、銃の弾丸などその程度のものでしかない。
弾丸を躱しつつ接近したガルムは、鋭く伸びた鉤爪で、男の身体を容赦なく薙ぎ払った。
鋼すら抉る五条の一閃は、警備員の身体を容赦なく細切れにし、周囲へと撒き散らす。
一瞬で血に染まる周囲と、ガルムの胸元。その獰猛な視線は、すぐさまもう一人の方へと向けられた。
「ひ……ッ! お、応援だ! 応援を寄越せ! ビルの前でバケモノが暴れてる!」
(……そうだ、それでいい)
出来るだけ騒ぎを起こし、腕の立つ人間をこちらに集める事がガルムの目的だ。
故に、応援を呼ばれる前に倒してしまっては意味がない。
その為、彼へと手を下すのは若干遅らせていた。が―――彼は、もう用済みだ。
元々、ガルムは殺人を好むような人間ではない。
出来る限りは殺さないようにするし、殺すにしても一瞬で殺す事を心がけている。
しかし、それは必要ない場合のみに限った話だ。
ここでは、己が人間である事を気付かれてはならない。故に、獣として振舞う必要があるのだ。
目的の為ならば己の意思すらも黙殺する。ただひたすら、機械のように己が目的を果たす。
それが、ガルム・グレイスフィーンと言う男だ。
―――例え、悪と断じられようと。
涼二の言葉が、ガルムの脳裏に蘇る。
それに対して口元に小さな笑みを浮かべ、ガルムはその爪を振り下ろした。
「―――E、Z!」
―――刹那、現れた緑の障壁が、ガルムの鋭い爪を受け止めていた。
小さく目を細めながら距離を取れば、ビルの中から現れたのは警備員を引き連れた一人の男。
(……防御系のルーン能力者か)
涼二から聞いた報告を思い出し、ガルムは納得しつつ低く構える。
そしてそれとほぼ同時、男の背後に構えていた警備員達が、一斉に銃を構えた。
それと共に、ガルムは全身にプラーナを行き渡らせる。
弾丸が発射される直前―――ガルムは、強く跳躍した。
「なッ!?」
そのままビルの側面へと飛びつき、爪を突き立てる事でその側面を駆け抜ける。
目指す先は、正面にいる警備員の集団。
プラーナを放出―――光を纏う爪が、彼らの中心へと振り下ろされる。
「散開!」
『遅い……!』
小さく、聞こえないように呟く。
そしてその刹那、振り下ろされた爪が避けようとした人々の身を引き裂き、迸った衝撃波が残った人間を吹き飛ばす。
ルーン能力者の男はかろうじて防いでいたが、その直後に横殴りに回転して叩き付けられたガルムの蹴りが、その障壁を紙切れか何かのように引き裂いていた。
―――そして、反転。
『ォオオオオオオッ!』
一直線に突き出された手刀―――その鋭い爪の先端が、男の胸を容赦なく貫いた。
「が、ふ……!」
『……』
血を吐き出す男の顔を、残った左手で掴む。
そして、ガルムはその首を折り、職務を全うした男の命を終わらせた。
男の体を地面に落とし、そしれガルムは再び跳躍する。
その体を貫こうとしていた弾丸は空を貫き、そしてそれを放った警備員は、上空から振り下ろされた踵落としで砕け散った。
そして、左右に向けて振り払われた両腕が、その横にいた男二人を裂く。
黄金に紅を纏わせ、ガルムは構えた。
―――まだ、敵の気配はしている。
『強いプラーナの気配……ふむ。災害級ほどの能力者がいるか。これは、多少は楽しませて貰えそうだ』
小さく嗤い、ガルムはその気配が到着するのを待ちながら、周囲を取り囲む警備員たちへと躍りかかった。
加速した手刀の一撃が警備員をその装備ごと両断し、直後に跳躍して弾丸を躱す。
追い縋るように乱射される弾丸を次々と躱しながら、ガルムは近くに立っていた街灯の柱を切断し、それを近くにいた敵へと向けて蹴り飛ばした。
「うわぁッ!?」
男たちはそれをかろうじて躱すも、巻き込まれた事で次々と転倒してゆく。
ガルムはその街灯を追うように駆け抜け、それを掴み取る。
巨大な街灯を片手で持ち上げたガルムは、それを用いて警備員たちを横から薙ぎ払った。
「ご―――」
「げあァッ!?」
その一撃の重さは、高速で走る電車に撥ねられる以上の衝撃となる。
人体など容易く砕け散るその一撃―――しかしガルムは、背筋を懸け上がる悪寒に、すぐさまその街灯を手放していた。
そして代わりに繰り出された鋭い爪が、上空から振り下ろされた光の刃を受け止める。
そこにいたのは、手刀から光剣を伸ばす一人の男。
「よくも、誠治を……!」
「裕樹! その化け物を押さえていろ!」
現れたのは、二人のルーン能力者だった。
ガルムに接近している光剣の男は、高速で駆け抜けながらその剣で攻撃を繰り出してきている。
(涼二が言っていたもう一人の能力者か―――)
胸中で呟き、ガルムも駆ける。
相手が持っていたルーンはDとR。加速型軽戦士系の使い方をしている能力者。
確かに、加速は単純で強力なルーン能力である。
が―――
(―――それ以上の加速を持つ者には、意味が無い)
プラーナをRのルーンに集中、それと共にガルムは強く地を蹴った。
刹那の内に肉薄し、その速さに男は目を見開く。
突き出される爪―――しかし、男もまた消耗を度外視して加速したのか、その一撃に光の剣を合わせ、受け流して見せた。
(ほう……)
内心で、ガルムは感嘆の息を吐き出す。
あの土壇場でこれだけの反応を見せたのだ、どうやら能力だけと言う訳ではなく、しっかりと剣を扱う訓練を受けているようだ。
男は下段から振り上げるようにガルムへと向けて一閃を繰り出す。
ガルムがその一撃を左の爪で受け止めつつ蹴りを放てば、男はその一撃を後ろに跳躍しながら剣で受け、衝撃を殺しながら距離を取った。
一撃でも喰らえば死へと直結すると言うのに、中々に上手いものだ、とガルムは感心しつつ駆けようとし―――
「Th!」
『ぬ……!?』
地面から伸びた茨が、ガルムの体を縛り付けていた。
氷の巨人を表す妨害のルーン、Th。その力は、確かにガルムの動きを止めていた。
(あちらが災害級か!)
位階は一つ劣るとは言え、非常に強大な力を持つ能力者。
力任せに破る事も出来るが、いかなガルムとは言えども若干のタイムラグは存在する。
そして―――
「K! 燃え尽きろッ!」
男の掲げた手の上に発生する、巨大な火球。
炎と始まりを表す火炎のルーン、K。いかなガルムとは言え、正面から喰らえば無傷では済まない。
故に―――
『ゥゥォオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッ!!』
「―――っ!?」
「ひッ!?」
極大の殺気と力を込め、ガルムは雄叫びを放っていた。
びりびりと震える空気は物理的な圧力すら伴って周囲へと叩きつけられ、知覚にあったガラスにヒビすら走らせる。
気当たり、というものが存在する。強い殺気や威圧のこもった視線を受けると、人はどうしても萎縮してしまうものだ。
獣の威嚇は特にそれが強いと言えるだろう。
無論、訓練されている人間が相手では、動きを止められたとしても一瞬のみ。
けれど、ガルムにとっては一瞬だとしても十分すぎる時間となる。
『ガアアアアアアアアアアアッ!』
「こ、このォ!」
ガルムへと向けて、男の炎が放たれる。
けれどその一瞬前に、ガルムは茨による拘束を抜け出していた。
強い踏み込みと共に景色を置き去りにし、爆発する炎すらも推進力へと変えて、その爪は一直線に男の首を刎ね飛ばす!
悲鳴を上げる暇すらなく絶命した男からは視線を外し、炎の先―――未だ状況を理解していないであろう光剣の男へと向けてガルムは駆ける。
炎を吹き散らし、ただ前へ。
「なっ、貴様ッ!」
男もガルムの姿に気付き、光の剣を発生させるが―――遅い。
その時点で、ガルムは既にその爪を振り上げている所だったのだ。そしてこの体勢では、受け流すと言う選択を取る事は出来ない。
結果―――
「がッ!?」
振り下ろされた一撃に、男は地面へと叩き伏せられていた。
動く事もできない状態なのか、荒い息で痛みに喘ぐ男を、ガルムは静かに見据える。
「どう、して……こんな……」
『―――ただの、エゴだ』
「な―――」
人の言葉を解した事に驚愕したのだろう、男が目を見開く。
けれど、それが彼の最期の反応だった。
振り下ろされた爪は正確に男の首を切り裂き、その胴から分離させる。
血を吹き出して倒れた男の痛いから視線を外し、ガルムは静かに視線を上げた。
『……後は、お前達の出番だ。頑張ってくれ、二人とも』
そう呟く狼の姿―――けれど、その口元はどこか笑っているような形に変化していた。