01-9:交渉
「……大丈夫か?」
「は、はい……」
バイクの後ろに乗った雨音に声をかけ、涼二はその解答の弱々しさにバイザーの下で視線を細める。
隣を駆ける狼姿のガルムもまた、どこか心配そうな視線を雨音へと向けていた。
着物や手袋越しに伝わってくる体温は非常に高く、見るまでもなく不調である事は分かりきっている。
(調整不足―――調整の前に連れ去ってしまったのが、そもそもの原因か)
胸中で呟き、涼二は小さく嘆息した。
あの日、雨音があの会社に来たのは、体の調整を行う為だったのだろう。
しかし、それが完全に行われる前に、涼二達は彼女を連れ去ってしまった。
今のこの状態は、下調べの不足から発してしまった事と言えるだろう。
(とは言え、スリスを非難するつもりは無いがな)
ただひたすら責任を感じていた様子のスリス―――彼女は、自分の調査不足を自覚していたのだろう。
けれど、データ化されていない資料が多く存在した上、残されていたデータもかなり巧妙に隠されていたのだ。
たとえ神話級能力者のスリスと言えど、それを調べ上げるのは至難の技と言える。
故に、涼二はそれを咎めるつもりは無かった。
まだ挽回の余地はある。雨音を取り戻す事は十分に可能だ。
そこまで考え、涼二は小さく苦笑を漏らした。
(取り戻す、か)
元々自分達が攫って来た側だと言うのに、随分な言い草だ―――と。
しかしそれと同時に、そんな言葉が自然に出てくるほどに雨音へ入れ込んでしまっているのだと、涼二は自覚していた。
自分達の目的を考えれば、愚かな気の迷いともいえるかもしれない。
けれども―――
(もう、後悔はしたくない)
『あの時こうしていれば』と言う後悔がいくつもあった。
真に復讐すべき相手が誰かも知らず、そんな人間の下でただ力を振るい続けてきた。
氷室涼二は、己の身を引き裂きたいとすら思うほどの後悔を積み重ねてきたのだ。
―――故に、もう後悔する選択肢を選ばないと決めた。
そしてそれは、仲間達にとっても同じ事。
『―――聞こえる、涼二?』
「ああ、大丈夫だ」
『よっし。それじゃあ、ナビゲートはしっかり表示されてると思うけど……その目標地点に設定されている所が交渉の場所。
そして、その前の緑の点で印されたポイントが、依頼主から指定された合流ポイントだ』
涼二の装着するバイザーの片隅に表示されていたマップが、スリスの声と共に少々拡大する。
そこに描かれているマップには、スリスの言う通り二つのポイントと、現在涼二がいる場所のマークが表示されていた。
あまり遠くはない位置だが、発電所近くであるためか、人の気配は殆ど無い。
「……流石は大手のグループか。集めてるのも結構なレベルのようだな」
『それでも、神話級はいないみたいだけどね。一番強いのでも災害級の能力者みたいだよ』
「仕事が速いな、お前は」
スリスの言葉に、涼二は小さく嘆息する。
どうやら、早速ハッキングして情報を引き出していたらしい。
シアに知れればどんな言葉が出てくるか分からないが、ガルム―――の筋肉―――を見せたら許して貰えるのではないか、とどこか乾いた笑みを浮かべて涼二は視線をマップから離した。
『で、おっちゃんの方なんだけど』
『うむ、何だ?』
『おっちゃんは、涼二とは別行動。正直な所、静崎製薬の事はまだ調べ切れてる訳じゃないんだ。一体どんな隠し玉を持ってるか分からないから、隠れて待機だよ』
『ふむ、成程な。何かあれば、私がサポートに入ると言う訳か……了解した。涼二、背中は任せてもらおう』
「ああ、頼む」
獣の姿でもつけられるようなインカムなど良く探してきたものだ、と脇を眺めながら涼二は肩を竦める。
肉体派でありながら知識も深いガルムは、突発的な事態にも対処しやすい為、控えに回る事が多い。
能力は純粋な近接戦闘型ではあるが、その冷静な判断力は涼二も常に頼りにしていた。
「さてと―――」
涼二はガルムに視線を向けつつ、バイクにブレーキをかけ始める。
その視線を受けたガルムは小さく頷き、涼二とは反対にさらに加速して道を駆け抜けていった。
姿は一瞬で見えなくなってしまったが、バイザーの画面内では彼が何処にいるのかを一目で確認する事ができる。
どうやら、交渉を行う場所付近で隠れるつもりのようだ。
その動きが止まったのを確認し、涼二は雨音を支えながらバイクを降りる。
「……歩けるか?」
「は、はい……済みません、ご迷惑をおかけして……」
「迷惑をかけているのはこちらの方だろう。少しは自分の立場を自覚しろ」
「あ……ふふ、そうでしたね」
顔色が悪いながらも、雨音は小さく笑みを零す。
そんな様子に嘆息し―――涼二は、雨音の身体を抱え上げた。
突然浮き上がった身体に、雨音は目を白黒させて声を上げる。
「りょ、涼二様!?」
「本当ならば動くのも辛いんだろうに……変に遠慮をするな」
「で、ですが……」
「俺は手が塞がっていても戦闘に支障は無い。いいから、黙って運ばれろ」
「……はい」
視線を逸らしつつ涼二は声を上げ……そんな不器用な仕草に、雨音はきょとんと目を見開き、そして小さく笑みを零した。
そして彼女は、涼二の体に触れぬよう気をつけながら、そっと彼のコートを掴む。
バイザーの下、涼二は小さく目を見開き―――そして、小さく苦笑した。
「さて……」
雨音の身体を抱えたまま、涼二は周囲へと意識を集中して歩き出す。
コートの下に隠れて外からでは見えはしないが、その左肩に刻まれたLのルーンは、僅かに輝きを放っていた。
周囲に変化は無い―――それは、彼が空気中に能力で干渉した水分を散らしているに過ぎない為だ。
殺傷能力は皆無だが、周囲に存在する物体を把握する事が可能となる、Lの能力者が良く用いる使用法である。
尤も、奇襲に備えるような必要があるかどうかと問われれば、涼二としても答え辛い事ではあるのだが。
(この密着している状態では、下手な攻撃は出来ないだろうしな)
荒い息を繰り返す雨音を見下ろしつつも、僅かな水で周囲の状況を探ってゆく。
涼二の能力による検索限界範囲は、およそ半径100mほど。
徐々に広がってゆくその範囲に―――涼二は、複数の気配を捉えた。
「これは……集合地点の辺りか」
どうやら、シアの手の者が既に待機しているらしい。
とりあえず待たされる心配が無い事に安堵し、涼二はそちらへと向けて進んでゆく。
真っ直ぐな道の先―――そこに停まっていたのは、一台の黒いワゴン車と、その傍らに立つ黒いスーツの男だった。
彼は涼二たちの姿に気が付くと、警戒した様子を見せながらも声を上げる。
「……ニヴルヘイムの方ですか?」
「ああ。約束通り、保護対象を連れてきた」
この暗い中、サングラスを掛けている理由があるのかどうかと首を傾げかけ、涼二はふと思い当ってその動作を抑えた。
男の掛けているサングラスは、涼二の持つバイザーと同じような働きを持っているのだろう。
涼二は彼と、そして車の中の気配へと注意を向けつつ声を上げる。
「こちらは、そちらの指示に従うよう依頼を受けている。ただし、俺達が請けた仕事は、あくまでも彼女を送り届ける事だけだ。
そして、己の身の安全を優先する……問題は無いな?」
「ええ、そのように。では、参りましょう」
その言葉と共に、車の中から同じような格好をした男たちが現れ、先程の男と涼二を―――と言うより雨音を―――護衛するように囲みながら歩き出す。
若干の落ち着かなさを覚えながらも、涼二は黙ってそれに追従し始めた。
『……涼二、今話した人が災害級能力者だ。けど、戦闘向けじゃないね。思考強化……どうやら、交渉役として連れてきたみたいだ』
スリスの言葉を受け、涼二は声に出さずに頷く。
先程の話を聞く限りでは、ここにいる能力者で他にいるのは巨人級という事だろう。
あまり強力な戦闘系能力者を連れて来なかったのは、涼二とガルムに期待しているという事か。
(……面倒だな)
涼二は、そう胸中で呟く。
無論何が相手でも負けるつもりは無いが、相手の得体が知れない以上、あまり油断は出来ない為だ。
何をしでかすか分からない―――例え絶対的な力を持つ神話級能力者と言えど、その力を宿す肉体は人間の物だ。
決して不死身と言う訳ではない以上、油断をする訳には行かない。
かつて部下に教え続けてきた事を思い起こし、涼二は気を引き締める。
『涼二、指定の場所に着くよ』
「……」
スリスの言葉を聞き、涼二は能力を使って周囲を探る。
すると、あまり苦労する事も無く、交渉相手と思われる気配を察知する事が出来た。
人間が三人―――そのうち一人は、ジュラルミンケースのような物を手に持っている。
鉄森シアが望んだのは、静崎製薬が雨音を使って実験したその研究成果。
それが、そこに収められているのだろう。
―――涼二は、視線を細める。
(人数が少なすぎる……人数の指定をしたのか?)
静崎製薬ならば、雨音が今どのような状況にあるか、その想像がついている筈だ。
強化人間の調整には専用の装置が必要―――けれど、それでも応急処置が必要となる可能性も十分にある筈だ。
しかも、戦闘になる可能性も考慮しなければならないと言うのに。
「……ガルム」
『潜んでいる人間はいない。正真正銘、三人のみのようだな』
『依頼人からの指定は時間と交換材料のみ。人数がいてもボクらが何とかできると思ってたみたいだね。
あるいは、ボクらの戦闘能力を測るつもりだったのか……そっちも微妙だけど、正直ここで人数を揃えて来ないの思惑も分からない。気を付けて、涼二』
「ああ」
スリスの言葉に頷き、雨音の体を抱え直しながら涼二は沈黙する。
鉄森シアの思惑は恐らく二つ。もしも相手が力押しできたのならば、涼二とガルムの力で殲滅させ、ニヴルヘイムの力を測る事。
相手の実力も同時に測り、可能ならばそのまま乗り込み、研究資料と機具を奪取する事だろう。
相手が素直に応じるのならばそれで良し、研究成果を受け取り、その後雨音の調整の準備が済み次第、雨音を奪取すると言った所か。
『……スリス、スナイパーの可能性は?』
『無いね。対策の為に木々の多い自然公園を指定したんだし、射線が通るような建物は、既に依頼主さんが押さえてるよ。場所が奪取された気配も無い』
耳に響くガルムとスリスの言葉に、涼二はその視線を細める。
素直に応じるつもりか、それとも腕の立つ少数人数か。
だが、どちらにしろ―――
(―――直接戦闘なら負けはしない。そしてどのような結果でも、必ずこいつは取り戻す)
戦うための、覚悟を決める。
その細く鋭い氷の刃のような戦意を保ちつつ、涼二たちは自然公園の中へと足を踏み入れた。
僅かな風が木の葉を揺らす、そんなざわめきのような音だけが響き渡る中、足音を忍ばせる男たちはゆっくりとその場所を進んでゆく。
その木々の間―――暗視機能の付いたバイザーに映る視界に三人の姿を確認し、涼二は静かに目を細めた。
立っていたのは、研究者と思われる白衣の男が一人。
そして、その人物を護衛するかのように、二人のスーツの男が控えていた。
(……能力者、だな)
二人が―――威嚇のつもりか―――纏っているプラーナの強さから、そう判断する。
そして彼らも、そんな事を考えていた涼二の姿を見て、じっと体を強張らせていた。
今の涼二は、プラーナの力を抑えている状態ではない。その為、その放出量の差を見せ付けられる形となってしまったのだ。
能力者の位階は、伊達で付けられている訳ではない。
最上位たる神話級は、文字通り神話に名を残すほどの力という意味で名付けられているのだ。
「―――静崎製薬の方ですね」
涼二達の側にいた男―――例の災害級能力者の男が、そう口にする。
それに対し、白衣の男がぴくりと肩を震わせ、声を上げた。
「あ、ああ……その通りだ。そこにいるのは雨音様だな? 要求の物はここにある!」
「ふむ。では、それをこちらに」
「ッ……!」
あくまで冷静に、スーツの男はそう口にする。
それに対して相手は憤ったような様子を見せるが―――その仕草に、涼二はどこか違和感を覚えていた。
何かが引っかかる、と。
涼二がじっと相手を観察しているその間、周りに控えていた男達がケースを回収し、中身の確認を始める。
そんな中、涼二はただじっと相手側の戦闘要員を見据えていた。
少しでも戦うそぶりを見せれば、その刹那の内に凍て付かせる―――そんな意志を込めて、相手を見つめているのだ。
「……ふむ、確かに。では、静崎雨音さんはお返ししましょう」
(一時的に、な)
胸中でそう呟き、苦笑する。
そして涼二は雨音をそっと地面へと降ろし、一歩、二歩と離れた。
地面に座る雨音の視線―――それを受け、涼二は小さく頷く。
必ず迎えに行くと、その意志を込めて。
熱に浮かされた雨音は、ぼんやりとしながらもそれを受けて頷き―――
「―――コード、《死喰いの女王》」
―――その全身に、輝く光のラインが浮かび上がった。
白衣の男の声が響くと同時、雨音の瞳からは意志の光が失われ、丹田の辺りにある始祖ルーンが輝き始める。
「S―――」
「ッ……!!」
戦慄と共に、涼二は後方へと強く跳躍した。
プラーナを全身へと行き渡らせ、可能な限り身体能力を強化し、遠くへ―――
―――刹那、満ち溢れていたプラーナが全て喰らい尽くされていた。
「が……ッ!?」
力が抜け、着地に失敗し、地面に叩き付けられる。
けれど、涼二はまだマシな方だった。状況を理解できていなかった黒服の男たちは、一瞬でプラーナを喰らい尽くされ、ミイラのように干からび、そして存在を分解されて消滅してゆく。
「これ、が……ッ」
隠し玉と言う訳か―――そう言おうとしたが、神話級の莫大なプラーナすらも瞬く間に失われてゆく中、涼二は意識を保つ事すらも精一杯だった。
その霞む視界の中、全身に光のラインを浮かび上がらせる雨音が、立ち上がってゆっくりとその足を踏み出す。
(拙い―――!)
この状況では、逃げられない。
始祖ルーンの力に対抗する方法など、殆ど存在しないのだ。
もつれた足で逃げた所で、この力の効果範囲が一体何処まで存在しているのかも分からない。
(アレを、使うしか……)
失われてゆく力の中、奥の手とも言える力を使う事を決意し―――涼二の体は、唐突に襟首を引っ張られ、休息に枯れ果てて行く自然公園から離れていた。
その速度に目を見開きつつも、目に入った黄金の毛並みに納得して涼二は頷く。
「ガルム……」
『大丈夫か、涼二?』
「ッ……あんまり、大丈夫じゃないかもな。魂までは行かなかったが、プラーナの大半を奪い取られた……全力で戦闘した後みたいな気分だ」
力の入らぬ四肢で何とかガルムの毛を掴みつつも、涼二は呻くように声を上げる。
余剰分であるプラーナは失われ、能力を使うにもかなりの消耗を強いられる事となるこの状況。
始祖ルーンに対抗する方法を持つにもかかわらず、一瞬躊躇ってしまった己自身に自嘲を浮かべ、涼二は深々と息を吐き出した。
「まさか、マインドコントロールまで受けてたとはな……流石に、予想外だろ」
『……休んでいろ、涼二。私が拠点まで連れてゆく』
「ああ……頼ん、だ―――」
呟き、涼二は目を閉じる。
黄金に輝く毛並みの上―――涼二の持つその黒い髪が若干伸びている事に気付いている者は、ガルムただ一人だけだった。