婚約破棄された公爵令嬢は、全てを失ったはずでしたが――隣国の皇太子に拾われた結果、元婚約者たちが地獄を見ることになりました
「――リシェル・フォン・アルヴェイン公爵令嬢! 貴様との婚約は、ここに破棄する!!」
華やかな夜会の中心で、その声は高らかに響いた。
視線が一斉に私へと向けられる。
私はただ静かに、目の前の男――第一王子エドガー殿下を見つめた。
「理由を、お聞きしても?」
「理由だと? 決まっているだろう! お前は陰湿で傲慢、さらにはこの可憐なマリアをいじめ抜いていたのだからな!」
王子の腕の中にいるのは、男爵令嬢マリア。涙を浮かべ、か弱く震えている。
――ああ、そういう筋書きなのね。
「……その証拠は?」
「証拠など必要ない! マリアが泣いている、それが全てだ!」
会場がざわめく。
貴族たちの視線は、次第に私を断罪するものへと変わっていく。
だが。
(愚かね)
私は心の中で冷静にそう呟いた。
この程度の茶番で、公爵家の娘を断罪できると思っているのだろうか。
けれど――
「承知いたしました、殿下」
私はあえて、抵抗しなかった。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
その一言で、空気が凍る。
予想外だったのだろう。エドガー殿下は一瞬、言葉を失った。
「……な、なんだと?」
「ただし」
私は一歩前に出る。
「公爵家への侮辱として、正式な抗議はさせていただきます。後ほど、父より王家へ文書が届くでしょう」
「なっ……!」
王子の顔が青ざめる。
だがもう遅い。
婚約とは、個人の感情ではなく“契約”だ。
それを一方的に破棄すれば、当然責任が伴う。
それを――この男は理解していなかった。
「では、ごきげんよう」
私はスカートを翻し、その場を後にした。
背後から聞こえるざわめきと、王子の怒鳴り声を置き去りにして。
屋敷に戻ると、父はすでに話を聞いていた。
「……そうか」
低い声。
怒りを押し殺した、公爵としての声だった。
「王家は愚かな真似をしたな」
「ええ」
「リシェル、お前はどうしたい」
私は少しだけ考え、そして答える。
「……全て、正当に取り返します」
父はわずかに目を細めた。
「よかろう。アルヴェイン家として、全面的に動く」
それだけで十分だった。
だが、その夜。
私は屋敷を出た。
――一人で。
誰にも告げずに。
理由は簡単。
これは“私自身の復讐”でもあるからだ。
馬車も使わず、夜道を歩く。
冷たい風が頬を打つ。
(これで終わりじゃない)
むしろ――ここからが始まりだ。
そう思った、その時。
「――こんな時間に、女性が一人とは感心しないな」
低く落ち着いた声が、背後から響いた。
振り返ると、そこには見知らぬ男。
黒髪に鋭い金の瞳。纏う空気は、ただ者ではない。
「あなたは?」
「通りすがりの者だ」
嘘ね。
その立ち居振る舞いは、明らかに上位貴族か、それ以上。
「……事情がある顔をしている」
男は私をじっと見つめた。
「よければ、聞こうか?」
「結構ですわ」
即答する。
だが男は、くすりと笑った。
「強いな。だが――少し、無理をしている」
その言葉に、ほんの一瞬だけ心が揺れた。
見抜かれている。
「……余計なお世話です」
「そうか」
男は肩をすくめる。
「だが、もし行き場がないなら」
彼は一歩近づいた。
「俺のところに来るといい」
「……は?」
「安全は保証する。むしろ、退屈しない生活になると思うが」
あまりにも突飛な提案。
普通なら一笑に付す。
だが。
(この人……ただ者じゃない)
本能が告げていた。
「……あなたは何者ですの?」
そう問うと、男は一瞬だけ沈黙し――
「名乗るほどの者ではないが」
そして、静かに言った。
「レオンだ」
その名を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
――レオン・ヴァルディス。
隣国の皇太子の名。
(どうしてこんなところに……!?)
「さて、どうする?」
レオンは微笑む。
「すべてを失った顔をしているが――まだ終わりではないだろう?」
私は、彼を見つめた。
そして。
「……条件があります」
「ほう?」
「私は利用されるつもりはありません。対等であるなら、考えます」
レオンは楽しそうに笑った。
「いいだろう。むしろ、その方が面白い」
その瞬間。
私の運命は、大きく動き出した。
数日後。
王都は騒然としていた。
アルヴェイン公爵家が正式に抗議を行い、さらに――
「隣国ヴァルディス帝国が動いた」
王城の会議室。
エドガーは顔面蒼白で報告を受けていた。
「な、なぜだ!?」
「不明です……ただ、皇太子自らが来訪されると……」
その時。
扉が開かれた。
「――失礼する」
現れたのは、レオン。
そして、その隣に――
「……なっ!?」
私がいた。
「久しぶりですわね、殿下」
にっこりと微笑む。
「リシェル……なぜ……!」
「紹介しよう」
レオンが口を開く。
「彼女は現在、我が帝国の“特別顧問”だ」
ざわめきが走る。
「なっ……そんな馬鹿な!」
「馬鹿かどうかは、これから分かる」
レオンの声は冷たかった。
「さて、本題に入ろうか」
彼はゆっくりとエドガーを見下ろす。
「我が帝国は、今回の婚約破棄を重大な外交問題と見なす」
「な、なぜ……!」
「簡単だ」
レオンは言い放つ。
「彼女は、俺の“庇護下”にあるからだ」
空気が凍る。
私は静かに、元婚約者を見つめた。
(ここからよ)
あなたたちの――地獄は。
ーーーー
「彼女は、俺の“庇護下”にある」
その一言で、場の空気は完全に凍りついた。
王も、大臣も、貴族たちも――誰一人として声を発せない。
「……ふ、ふざけるな!」
最初に声を上げたのは、エドガーだった。
「ただの婚約破棄だ! それがなぜ帝国に関係する!?」
「理解できないのか?」
レオンの声音は冷え切っていた。
「なら教えてやろう。貴様は“公爵家”を侮辱した。そして、その令嬢を俺が保護した。――それはすなわち、帝国への敵対行為と見なされる」
「そ、そんな理屈が……!」
「通るかどうかは、力で決まる」
静かだが、絶対的な圧。
エドガーは言葉を失った。
その隙を逃さず、私は一歩前に出る。
「では、改めて申し上げます」
全員の視線が、私に集まる。
「私は、王子殿下より虚偽の罪を着せられ、名誉を著しく傷つけられました」
「虚偽だと!?」
「証拠はございますわ」
私は合図を送る。
すると、控えていた従者が一通の書類を差し出した。
「これは、男爵令嬢マリア様の侍女による証言書です」
「な……!?」
ざわめきが広がる。
「内容は簡単ですわ。――“いじめは存在しなかった”。むしろ、彼女が虚偽の噂を流していたと」
マリアの顔が一瞬で青ざめた。
「う、嘘よ……そんなの……!」
「さらに」
私はもう一枚、書類を出す。
「こちらは、殿下とマリア様の“密会記録”です」
今度こそ、会場が騒然となる。
「なっ……なぜそれを……!」
「公爵家を甘く見ないでいただきたいですわ」
私は冷ややかに微笑んだ。
「あなた方が裏で何をしていたか――全て、把握しております」
エドガーの額から、汗が流れ落ちる。
「つまり」
私は静かに言い切った。
「今回の婚約破棄は、“不貞行為の隠蔽”と“冤罪による断罪”です」
完全な沈黙。
誰も、反論できない。
そして。
「……終わりですわね」
私はそう呟いた。
「王よ」
レオンが口を開く。
「この件、どう裁く?」
問われた王は、苦しげに顔を歪めた。
だが、もはや逃げ場はない。
「……エドガー第一王子の王位継承権を剥奪する」
場がどよめく。
「さらに、男爵令嬢マリアは国外追放とする」
「ち、父上!? お待ちください!!」
「黙れ!」
王の怒号が響く。
「この愚か者が!!」
エドガーは膝をついた。
全てを失った顔で。
「リシェル……頼む……」
彼は縋るように私を見る。
「やり直そう……私は……」
「お断りします」
即答だった。
「あなたは一度、私を“切り捨てた”のです。ならば――私も同じことをするだけ」
その言葉に、エドガーは崩れ落ちた。
マリアは泣き叫びながら、兵に連れて行かれる。
――これで終わり。
そう思った、その時。
「まだだ」
レオンが言った。
「……え?」
「これで満足か?」
彼は私を見つめる。
その瞳は、どこか優しい。
私は少しだけ考え――首を横に振った。
「いいえ」
まだ足りない。
「私が望むのは、ただの処罰ではありません」
「ほう?」
「“二度と立ち上がれない”ことです」
一瞬の沈黙の後。
レオンは、楽しそうに笑った。
「いいな、それ」
そして。
「王よ。追加だ」
「……何だ」
「アルヴェイン公爵家への正式な謝罪と、賠償金。さらに、今後十年間の貿易優遇措置を要求する」
「なっ……!」
王は絶句した。
「飲めないのなら――戦争だ」
あまりにもあっさりとした一言。
だが、その重みは計り知れない。
「……分かった」
王は、ついに頭を下げた。
「全て受け入れる」
その瞬間。
この国の“敗北”が決まった。
数日後。
私は帝国の宮殿にいた。
「……本当に、ここまでやるとは思いませんでした」
「不満か?」
レオンが笑う。
「いいえ」
私は首を振った。
「むしろ、感謝しています」
「そうか」
彼は少しだけ目を細める。
「では、そろそろ報酬をもらおうか」
「報酬?」
「お前だ」
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
「俺の妃になれ」
あまりにも直球だった。
「……冗談ではありませんの?」
「本気だ」
レオンは一歩近づく。
「お前ほど面白く、強く、美しい女は初めて見た」
心臓が、わずかに跳ねた。
「それに」
彼は私の手を取る。
「守る価値がある」
その言葉に。
初めて、胸の奥が温かくなった。
私は少しだけ視線を逸らし――
「……条件があります」
「またそれか」
「対等であること」
「当然だ」
「そして」
私は彼を見つめた。
「私を、絶対に裏切らないこと」
レオンは、迷いなく頷いた。
「誓おう」
その答えに。
私は小さく、微笑んだ。
「……では、よろしくお願いいたしますわ」
こうして。
婚約破棄されたはずの公爵令嬢は――
隣国の皇太子に溺愛される未来を手に入れた。
そして。
彼女を裏切った者たちは、すべてを失った。
――それが、当然の報いだった。




