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異界物語編纂録  作者: あどん


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魔獣を率いる異邦の将 ― ニヴァル・バルカス伝 ―

魔獣使いは、いかにして英雄となるのか。あるいは、恐怖はいかにして国家を食い破るのか。


――異界暦前247年編纂。第三史料庫所蔵『異界物語編纂録』より抜粋。



フェニア大戦を記した古い年代記の冒頭には、必ず、呪詛にも似た同じ一文が添えられている。


――この戦争に、勝者は存在したが、英雄は一人もいなかった。


ロメア連邦が最終的な勝利を宣言し、宿敵たる青銅海都が歴史の表舞台から永遠に退いたあとも、人々はただ一つの名を、震える声で語り続けた。


ニヴァル・バルカス。


異邦より来たり、巨大な魔獣の群れを従え、連邦の版図を文字通り蹂躙し、そして――忽然と姿を消した、名もなき将。


彼が何者であったのか。絶望的なまでの連勝を重ねながら、なぜ最後の一歩で連邦を滅ぼし尽くさなかったのか。それを知る者は、もはや史料の海にも存在しない。


ただ確かなのは、彼の名が反芻されるたび、人々は「勝利の栄光」ではなく、喉元を焼くような「生存の恐怖」を思い出した、ということだけである。


ーーー


第一節 名を記すことの禁忌


異邦の将、ニヴァル・バルカスについて、客観的な事実はほとんど残されていない。


生年は不明。出身地も定かではなく、彼が人間であったのか、あるいは人智を超えた異種族であったのかすら、歴史家の間でも議論が分かれる。


それでも、ひとつだけ、どの時代の編纂者も異論なく一致して記している事実がある。


彼の名は、実体よりも先に「純粋な恐怖」として広まった、ということだ。


フェニア大戦の初期、ロメア連邦の公的な軍事記録に、彼の名は一切現れない。 公式の戦報には、ただ無機質な事実が書き連ねられている。


「国境地帯に、既知の種とは異なる異邦の軍勢を確認」

「山脈を越え、本来通行不能とされる峻険な地より、巨大魔獣を伴う部隊が出現」

「敵集団の指揮系統、および統制能力は測定不能」


そこに、特定の将の名は記されていない。


にもかかわらず、公文書ではない民間の記録――商人の覚え書きや、生き残った兵士の口述、逃げ惑う旅人の日記には、同じ不気味なフレーズが執拗に繰り返されている。


「ニヴァルが来る」


誰がその名を広めたのか。その名は、正式な敗報よりも早く、風のように連邦全土へ広がった。 砦が陥落する前に。街道が封鎖される前に。戦端が開かれるよりも、ずっと前に。


人々は、まだ起きていないはずの「未来の敗北」を、予感という名の病のように恐れた。


興味深いことに、この段階においてロメア連邦は、軍事的にまだ一度も敗れてはいなかった。 兵力は温存され、同盟都市との連携も維持され、国境防衛線も盤石の体裁を保っていた。


それでも、「最後には勝てる」という根源的な確信だけが、国家の底から静かに失われていった。


後世の史家は、この奇妙な停滞期をこう評している。


「ニヴァル・バルカスは、最初の矢を放つ前に、すでに精神的な領域において連邦を一度、完全に征服していた」


恐怖が言葉となり、言葉が判断力を縛り、その鈍った判断が国家という巨体を麻痺させたからである。


やがて、ロメアの最高軍議において、ある種の呪縛タブーが生まれた。


「ニヴァル・バルカス」


その名を口にするだけで、場は凍りついたような沈黙に支配されるようになった。 議論は「いかに勝つか」という前向きな策を失い、「いかにして負けないか」という、敗北を前提とした責任逃れの言い訳へと堕落していった。


こうして、異邦の将は、まだその姿を一度も戦場に現さぬまま――戦争という巨大な舞台の中心に、不吉な主役として君臨していたのである。


ーーー


第二節 白神の背骨を越える者


ニヴァル・バルカスという名が、公式な戦史に戦慄を伴って刻まれるのは、ヴァイス・ネヴァ山脈――通称「白神の背骨」を彼が踏破したその日からである。


その山脈は、連邦にとって単なる国境ではなく、世界の終焉を意味する境界であった。狂暴な原生魔獣すら寄りつかず、過去に幾度となく野心ある軍勢を呑み込み、消滅させてきた“死の稜線”。


当時のロメア連邦の史書には、困惑と恐怖が混じり合った一文が遺されている。


「彼は、人間が越えられぬ場所から、人間ではないものと共に現れた」


ニヴァル・バルカス。 彼は青銅海都の将として立ちながら、その本質は既存の戦術体系を根底から覆す異邦の思想を持っていた。そして何より、彼は数多の「魔獣」を、自身の意志の延長として完全に統制テイムしていたのである。


巨躯を誇る戦象種、空を裂く飛竜、闇を這う不可視の獣。 それらは兵であり、移動する要塞であり、何より対峙する者の理性を粉砕する恐怖そのものであった。


だが、奇妙なことに、これほど強力な「個」の武力を抱えながら、ニヴァル自身は最前線に躍り出ることを好まなかった。 戦場における彼は常に後方に位置し、異種の生体機能と人間の兵法を冷徹に統合し、勝敗の趨勢が完全に確定した瞬間にのみ、その静かな姿を現した。


「猛将ではない」

「個の武勇に頼る英雄でもない」


対峙したロメアの将たちは、理解を拒むようにそう評した。 だが、事実は残酷であった。 彼の軍は、ただ勝ったのではない。完勝し続けたのである。


絶対に不可能とされた山岳突破を成し遂げ、予測不能の地点から奇襲を敢行し、絶望的な数的不利を、魔獣の特性を活かした重層的な戦術で覆した。


この時、連邦の指導者層はまだ、誰一人として悟っていなかった。 この異邦の将が、目の前の勝利を積み重ねることそのものを、真の目的とはしていないということを。


フェニア大戦は、この「白神の背骨」の崩落を境に、従来の戦争という枠組みを逸脱していく。


そして歴史は、その不吉な沈黙を保つ男の名を、血を流しながら何度も記すことになる。


ニヴァル・バルカス。 無敵を証明し続け、そして――絶頂の最中に記録から霧散した、不可解な将の名を。


ーーー


第三節 双環野の罠


ロメア連邦が真の意味で国家の危機を自覚したのは、白神の背骨を越えた異邦の軍勢が、連邦の心臓部へ向けて深く侵入してからであった。


連邦は圧倒的な物量を誇示した。規律ある重装歩兵、精鋭騎兵、そして高度な魔導支援部隊――。 正面から全戦力で衝突すれば、異邦の小軍勢など砂塵に等しい。彼らはそう確信していた。


激突の地に選ばれたのは、二条の河川に挟まれた広大な平原。後に「双環野」として史上最も凄惨な戦場として記憶されることになる地である。


物理的な数において、包囲されるのは異邦の将のほうであった。


ロメアの将軍たちは戦術の勝利を疑わなかった。 中央を突破し、分断し、そのまま脆弱な両翼を磨り潰す。 それは教本に記された、盤石なる勝利の方程式であった。


だが――ニヴァル・バルカスは、その方程式そのものを歪めた。


彼の軍は、中央の戦列が異常なまでに薄かった。 配備された魔獣も、老齢や幼体といった弱体と見なされる個体ばかりが並べられていた。


「臆病者の、愚かな布陣だ」


そう嘲笑し、先陣を切った勇猛な将が、最初に歴史から消えた。


ロメア軍が勝利を確信して前進した瞬間、中央の異邦軍は、崩れるのではなく「耐えるように」緩やかに後退を開始した。 押し込める。勝てる。誰もがそう確信し、前がかりになったその瞬間。


戦場が、静かに“閉じた”。


両翼に伏せられていた精鋭魔獣たちが、一斉に駆動したのである。 地を割る剛力の巨獣、空から降下する不可視の影、そして音もなく退路へと回り込む捕食者の群れ。


ロメア軍は、自らが「押し込んでいた」のではなく、「引きずり込まれていた」ことに気づいた時には、すでに巨大な円環の中に閉じ込められていた。


逃げ場はどこにもなかった。 背後には冷徹な河川、前方には密集しすぎて動けない味方の兵、そして周囲を囲む飢えた魔獣たち。


阿鼻叫喚の混乱の中で、誰かが絶望的に叫んだという。


「ニヴァル・バルカスは、どこだ! 姿を見せろ!」


だが、その名の将は、流血の渦巻く中央にも、指揮を執るべき後方にも、どこにもいなかった。 彼は、最初の配置を終えた時点で、すでにこの結末を見届けていたのである。


双環野の戦いは、わずか一日で終結した。 ロメア連邦史上、最も多くの将軍と精鋭を一度に失った不名誉な戦であり、そして――数学的な戦力差では説明のつかない、非合理な敗北であった。


この凄惨な潰走以降、ロメアの軍紀からある傲慢な言葉が消滅する。


「正面決戦」


代わりに残ったのは、呪文のように繰り返される、ただ一つの恐怖であった。 「ニヴァル・バルカスが来る」 という、もはや勝利の定義さえ定かではない、混迷した言葉だけである。


ーーー


第四節 崩れゆく連邦


双環野での破滅的な敗北は、単なる一会戦の失敗に留まらなかった。 それは、ロメア連邦という巨大な自意識が、自らの正義と秩序を信じられなくなった決定的瞬間でもあった。


連邦軍は幾度も再編された。無能を晒した将は罷免され、戦術編成は根本から改められ、「双環野の再現」を避けることのみが最優先事項とされた。 だが、何を、どの予兆を避ければよいのかを理解している者は、中枢にも現場にも一人として存在しなかった。


ニヴァル・バルカスは、次の戦場においても決して正面には現れなかった。


堅牢を誇ったはずの都市は、包囲を待たずして内側から門を開いた。国境の要塞は、魔獣の咆哮を聞く前に降伏の白旗を掲げた。前線の補給路は、交戦する以前に、輸送兵たちの失踪によって実質的に断絶していた。


「敗北」の定義そのものが、回を追うごとに変質していったのだ。


ある夜には、数千の魔獣が足音を消して野営地を蹂躙し、夜明けには影すら残さず去った。 ある朝には、頼みの同盟軍が開戦直前に陣を払い、沈黙のまま撤退していった。 ある戦いでは、敵影を追って進軍したはずの連邦軍が、荒野で自滅的な疲弊を遂げ、一度も剣を交えることなく瓦解した。


ロメア側の公式記録には、当時の軍事常識では解釈不能な、不気味な表現が並び始める。


「敵は来襲しなかったが、我々は敗北した」

「戦場に敵将は不在であった。ゆえに、斬るべき首もなかった」

「命令系統は正常であったが、結果として軍は沈黙した」


やがて、連邦の屋台骨である加盟諸国が動揺を露わにし始める。 双環野の惨状を聞きつけた小国が中立を宣言し、続いて通行税の支払いを拒む都市国家が現れた。そして最悪なことに、密かに異邦軍へ物資を横流しし、生存を担保しようとする「内通者」が続出したのである。


彼らは異口同異に、絶望的な論理を口にした。


「ロメアはまだ負けていない。だが、この先に『勝つ未来』が一点も存在しないのだ」


ニヴァル・バルカスの恐怖は、物理的な破壊よりも遥かに深い場所で連邦を蝕んでいた。 彼は都市を焼き払うことをせず、無差別な略奪も命じなかった。 だが、彼は冷徹に「選別」を行った。


連邦への忠誠を誓い、抵抗の意志を見せる都市には、翌朝、説明のつかない惨劇と魔獣の影が降りた。 対照的に、中立という名の沈黙を選んだ都市には、一切の災厄が訪れなかった。 その残酷な「差」が何を意味するのか。人々は、痛いほどに理解していた。


ロメア連邦の中枢都においては、ついに最悪の禁句が囁かれ始める。


「我々は、この都を守り切れるのか?」


答えを出せる智者は一人もいなかった。 なぜなら、守るべき“明確な戦場”が、すでに大陸のどこにも存在しなくなっていたからである。


ニヴァル・バルカスは、なおも姿を現さない。


彼は、勝ち続けていた。 一度も剣を振るうことなく。声を荒らげて命令を叫ぶこともなく。 ただ、そこに「来る可能性がある」という、絶対的な因果の主として存在するだけで。


ロメア連邦は、未だ決定的な敗北を喫していないにもかかわらず、その精神から瓦解し始めていた。


そして、無人の野を行くが如くロメア中枢都を眼前にしたその時。 ニヴァル・バルカスは、世界が最も息を呑んだ瞬間に――


唐突に、歴史の表舞台から消え去ってしまうのである。


ーーー


第五節 異邦の将


ロメア連邦の中枢都が、ついにその威容を視界に捉えた日。 白壁の塔群と、幾重にも巡らされた絶望的なほど堅牢な防壁を前にして、人々はようやく一つの真実を理解し始めていた。


この戦争は、すでに「勝ち負け」という低次元の問題ではなくなっていたのだということを。


ニヴァル・バルカスの軍勢は、すでに連邦の心臓部をその喉元に捉えていた。補給線は灰に帰し、同盟は砂の城の如く瓦解し、軍令はもはや地方の末端には届かない。 にもかかわらず、中枢都を血で染めるはずの「最後の会戦」は、ついに執り行われることはなかった。


理由は、呆気ないほどに単純であった。


ニヴァル・バルカスが、そこから消えていたのである。


最前線で采配を振るっていたはずの将の姿は、ある霧の深い朝を境に、忽然と失われた。 陣営はそのまま残されていた。


繋ぎ止められた魔獣たち、整備された武器、風にたなびく青銅海都の旗。


だが、その中心にいるべき男だけがいなかった。撤退の命令も、戦死の報告も、敵方との交渉の痕跡すらも、どこにも存在しなかった。


この不条理な失踪について、後世の史家たちは無数の説を編み出した。


――政敵によって暗殺された。

――勝利を目前に、何らかの絶望に囚われ亡命した。

――あるいは、彼は最初からこの世界に属さぬ存在であり、己の役割を終えて異界へ帰還したのだ、と。


ある記録は「白神の背骨の向こう側、未知の地平へと戻った」と記し、またある記録は「彼は最初から、この歴史に留まるべき者ではなかった」と結論づけている。


だが、そのいずれもが推測の域を出ない。


確かなのは、ニヴァル・バルカスが消えたことで、世界の趨勢が決定的に変わったという事実だけである。 絶対的な統制者テイマーを失った異邦の軍勢は、その強靭な牙を失い、やがて歴史の濁流の中へと瓦解していった。


フェニア大戦は、最終的にロメア連邦の「勝利」として幕を閉じる。


だが――果たして、それは勝利と呼べる代物であったのか。


連邦は確かに生き延びた。だが、そこにあるのはかつての威光を失った、変わり果てた姿であった。 都市は隣人への疑心に満ち、将軍たちは互いの寝首を掻くことに腐心し、民は「次に来る恐怖」の名を口にすることさえ怯えるようになった。


そして、一つの奇妙な風習だけが歴史に残る。 幼い子が泣き止まぬ夜、親たちは震える指で窓の外を指し、こう囁くのである。


「静かにしろ。……ニヴァルが来るぞ」


それは、かつて大国を震え上がらせた、理解不能な敗北の記憶そのものであった。


後世の編纂者は、この奇妙な戦争をこう総括している。


「ニヴァル・バルカスは、ロメア連邦を滅ぼしはしなかった。だが、その魂を、二度と“元には戻れない”形へと作り変えてしまったのである」


異邦の将は、歴史書に栄光ある勝者として名を刻まれることはなかった。


だが、名を呼ばれぬ恐怖という名の「不変の偶像アイコン」として、最も長く、そして深く、この世界に呪いのように残り続けたのである。


――『異界物語編纂録』抄 「魔獣を率いる異邦の将 ― ニヴァル・バルカス伝 ―」 了

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