星辰を読む魔術師 ― アスト=セイミル伝 ―
魔法使いは、いかにして英雄となるのか。
――異界暦921年編纂。第三史料庫所蔵『異界物語編纂録』より抜粋。――
序
魔法の行使は、生まれ持った才能によるものではない。
少なくとも――後世に編まれた記録は、そう断じている。
歴史を振り返れば、数多の英雄が魔法を振るい、戦場を駆け抜け、世界の流れそのものを変えてきた。
彼らは皆、「選ばれし者」と呼ばれた存在だ。
だが、その実態は少し違う。
英雄たちのほとんどは、生まれながらにして魔法を宿していたわけではなかった。
むしろ、魔法を使えない者のほうが圧倒的に多かったのである。
では、なぜ彼らは魔法を操れたのか。
編纂録には、こう記されている。
――魔法とは、選ばれた者に与えられるものではない。
――それを強く望んだ者に、応えるものである。
才能とは、魔法を得た瞬間には、何の価値も持たない。
真に問われるのは、ただひとつ。
「何を願い、何のために魔法を使ったのか」
その答えを体現した存在として、後世の物語はしばしば、ひとりの宮廷魔術師の名を挙げる。
彼は星の声を聴き、複雑な術式を操り、己の命を削る代償を厭わず、王国を救った。
それほどの功績を残しながら、彼は一切の報酬を求めなかったという。
魔法は、力であり、手段であり、信仰であり――時に呪いでもある。
彼はそのすべてを理解したうえで、それでもなお、魔法を信じ続けた。
魔法を操れたから英雄になったのではない。
英雄になるために、彼は魔法を選んだのだ。
それこそが、
アスト=セイミル――その存在の本質である。
ーーー
第一節:星の声を聴く少年
彼が最初に魔法という概念に触れたのは、夜空だった。
幼い頃のアスト=セイミルは、孤児だったという。
親の顔も、名も知らない。街の片隅で、誰にも属さずに生きていた子供だった。
だが彼には、ひとつだけ、誰にも奪われない居場所があった。
それが、夜空である。
日が落ち、街が眠りにつく頃。
アストはいつも、石畳に寝転がり、星を見上げていた。
星々は無秩序に瞬いているようでいて、決してそうではなかった。
規則正しく並び、時に流れ、時に異様な輝きを放つ。
そこには、目に見えない“何か”が確かに存在していた。
アストは直感的に悟った。
――星は、ただ輝いているのではない。語っているのだ、と。
彼は次第に、星々の動きに意味を見出すようになった。
配置、周期、微かな揺らぎ。
それらを組み合わせることで、世界の法則の一端が浮かび上がってくる。
ある夜、アストは村外れに住む占術師のもとを訪れた。
占術師は、言葉を失った。
七歳の子供が、すでに星読みの基礎を理解していたからだ。
それも、誰かに教わった形跡はない。
まるで、星そのものから学んだかのようだった。
占術師は、後にこう記している。
「彼は星に問いかけているのではなかった。
星が語り始めるのを、静かに待っているように見えた」
その日を境に、アストは街の人々から「星の子」と呼ばれるようになった。
だが、その呼び名に、優しさはなかった。
大人たちは彼の知識を“便利な道具”として扱った。
明日の天候を占わせ、市場の流れを読ませ、祭りの日に誰が儲けるかを当てさせた。
そこに敬意はない。あるのは、理解できないものへの畏怖と、都合のいい利用だけだった。
そして、ある日。
アストは、ほんの小さな予言を口にする。
「南の大橋が、崩れる」
誰も真剣には受け取らなかった。
些細な事故で済むはずの話だった。
――だが、橋は本当に崩れた。
死者は出なかった。
それでも、予言が現実になった瞬間、人々の目は変わった。
尊敬ではない。
崇拝でもない。
恐怖だった。
異様な知識を持つ子供として、アストは遠ざけられる存在となった。
囁き声と視線が、彼を囲むようになる。
その経験を通じて、アストは学んだ。
魔法も、言葉も、使い方ひとつで人を救うことも、突き放すこともできる。
それ以来、彼は己を鍛え始めた。
星を読むだけでは足りない。
四元素の挙動を分析し、魔力の流れを理解し、制御する術を探った。
当時の魔法理論は、まだ未成熟だった。
だが、アストはそれに頼らなかった。
彼は学ぶよりも先に、構築していたのだ。
記録には、こう残されている。
「彼は理論を学んだのではない。理論そのものを、生み出していた」
この頃に築かれた思考と観測の積み重ねこそが、
後に宮廷魔術師として名を刻むアスト=セイミルの、確かな礎となったのである。
ーーー
第二節:宮廷魔術師アスト=セイミル
アスト=セイミルが王都に迎えられたのは、王国が内にも外にも、不安を抱え込んでいた時期だった。
王権は揺らぎ、地方では反乱の兆しが絶えない。
さらに星辰の巡りまでもが、占術記録において「凶」と記されていた。
剣だけでは、もはや国は保たない。
そう判断した当時の宮廷は、武よりも知を――
力よりも、未来を読む眼を求めていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、ひとりの魔法使い。
アスト=セイミルである。
彼は、いずれの貴族家にも属していなかった。
魔術学院の正規課程を修めた記録も存在しない。
経歴だけを見れば、宮廷に迎えられる理由は何ひとつない。
だが、それでもなお、彼は否定できなかった。
彼の魔法は、過剰でも派手でもない。
だが、寸分の狂いもない精度を誇っていた。
そして、星読みに基づく予見は、王宮に集う誰の占術よりも現実に即していた。
魔法の基本とされる四属性――火、水、風、土。
アスト=セイミルは、それらを等しく扱い、いずれかに偏ることを嫌った。
「一つに寄れば、視野が歪みます」
そう語ったと、記録には残されている。
彼が重視したのは、魔法の威力ではない。
星の配置と、時間の流れ。
世界が、どの方向へ傾こうとしているのか――その兆しだった。
いつ雨が降るのか。
いつ疫病が広がるのか。
いつ、人は争いを選びやすくなるのか。
彼の星読みは、未来を断言するものではなかった。
だが、「備えるべき時」を示すには、あまりにも的確だった。
王は、アスト=セイミルを宮廷魔術師として迎え入れた。
ただし、その扱いは、極めて慎重だった。
彼に、軍を動かす権限は与えられない。
王命を代行する資格もない。
彼は、助言する者。
決断しない者。
責任を負わない立場に置かれた。
それは、王権を守るための判断であり、同時に、彼を単なる「便利な道具」にしないための配慮でもあった。
この頃の記録には、アスト=セイミルが政治的な発言を徹底して避けていたことが、何度も記されている。
彼は王に進言する際、必ずこう付け加えたという。
「選ぶのは、陛下です」
「星は、理由を与えるだけです」
その姿勢は、宮廷内で静かな信頼を得る一方、「何を考えているかわからない男」という評価も同時に生んだ。
やがて、人々は気づき始める。
彼が語らない未来ほど、もっとも大きな意味を持つのではないか――と。
この疑念こそが、後にアスト=セイミルを歴史の表舞台から遠ざけることになる、最初の兆しであった。
ーーー
第三節:影を使う者
アスト=セイミルが宮廷に仕えてから、しばらくのあいだ。彼の魔法は、ほとんど語られることがなかった。
理由は単純だ。彼の行使した魔法の多くが、人目に触れなかったからである。
王都では、いくつかの不可解な事象が記録されている。
夜ごと、巡回兵が理由もなく同じ場所を避けるようになったこと。反乱の兆しを見せていた貴族家の屋敷で、誰も侵入していないはずの中庭に、足跡だけが残されていたこと。王宮地下の倉庫で、厳重に封印されていた古文書が、翌朝には整然と並び替えられていたこと。
いずれも、犯人不明。
事件として扱われることもなく、ただ記録に残された。
だが、同時期の文書には、共通する証言が散見される。
――宮廷魔術師アスト=セイミルは、夜に仕事をしていた。
彼は、自ら前に出ることを好まなかった。その代わりに用いたのが、「式神」と呼ばれる存在である。式神とは、魔力によって形作られた使役存在。精霊とも魔物とも、明確には区別されない曖昧な存在だった。人の形を取るものもいれば、獣の姿をしたものもいる。多くは名を持たず、記録にも残らない。
アスト=セイミルは、それらを「使う」とは言わなかった。
「任せているだけです」
彼は、そう表現したという。
彼の式神は、敵を討たなかった。血を流さず、声も上げず、ただ配置を変え、流れを歪めた。
結果として、争いは起こらなかった。
あるいは、起こる前に形を失った。
この頃から、彼に対する評価は、微妙に変化し始める。
「救っているのか、縛っているのかわからない」
「見えない手で、国を動かしている」
そうした言葉が、宮廷の奥で囁かれるようになった。
やがて、ひとつの噂が、決定的な意味を持ち始める。
――彼の母は、人ではなかったのではないか。
記録によれば、アスト=セイミルは自身の出自について、ほとんど語らなかった。
ただ一度だけ、古い文書の片隅に、次の一文が残されている。
「母は、夜に還った」
その意味を説明する記述はない。
だが、同時期にまとめられた異類誌には、奇妙な逸話が記されている。
人の世に留まり、子を成した狐の話だ。
知恵を持ち、星を知り、人の理から外れた存在。昼には人として振る舞い、夜には本来の姿へと戻るもの。
後世の編纂者は、この二つを結びつけた。
アスト=セイミルの星読み。式神との異様な親和性。鬼や妖と呼ばれる存在への、異常なほどの理解。
それらはすべて、「人ならざる血」に由来するのではないか――と。
彼自身は、この噂を否定もしなければ、肯定もしなかった。鬼を使ったという記録は存在する。妖と交渉したという報告も、複数残されている。だが、それは支配ではなかった。彼は、鬼に命じなかった。妖を縛らなかった。条件を示し、境界を定め、互いに踏み越えない線を引いただけである。
「力は、押さえつければ反発します」
「だから、最初に居場所を決めるのです」
この考え方は、人にも、魔にも、等しく適用された。
その姿勢は、一部の者からは「調停者」として評価された。だが、別の者には、より危険な存在として映った。
――彼は、人と異類の境界に立っている。
そう認識された瞬間から、アスト=セイミルは「必要だが、近づけてはならない存在」へと変わっていった。
彼の存在は、静かに、しかし確実に、恐れられ始めていた。
この節の末尾には、後世の編纂者による短い注記が添えられている。
「彼が式神を使ったからではない。鬼や妖と語ったからでもない。
人々が恐れたのは――
彼が、それらを“理解していた”からである」
ーーー
第四節:平穏を守る魔法
アスト=セイミルが王宮に仕えていたあいだ、
王国は大きな動乱に見舞われることなく、平穏を保っていた。
この事実について、後世の編纂者たちは、しばしば彼の名を挙げている。
宮廷魔術師アスト=セイミルは、戦を起こすこともなければ、敵を焼き払うこともなかった。
彼が行ったのは、ただひとつ。
王国に生じかけた「不安定な要素」を、静かに取り除くことだった。
疫病の兆しがあれば、流行する前に断ち切る。
魔獣の気配があれば、接近する前に察知する。
戦争の火種が生まれれば、燃え上がる前に潰す。
それは、事が起きてから対処する魔法ではない。
起きるはずだった未来を、存在しなかったものにする――
いわば「予防」に近い働きである。
だが、その成果は、あまりにも静かだった。
誰も、彼が何かをしたとは気づかなかった。何も起こらなかったことこそが、彼の仕事の証だったからだ。
歴史に名を残す戦場において、彼は一度も剣を振るっていない。
それでも王国が滅びなかった理由として、人々は次第に、「見えない力」の存在を意識し始める。
アスト=セイミルが行っていたのは、王国内に流れる魔力の均衡を保つことだった。
水の魔力が偏った土地には、土の力を導く。風が荒れすぎた地域には、火の温もりを流し込む。
それは魔法というより、星と地と人とのあいだを取り持つ「交渉」であり、絶え間ない「調整」だった。
その積み重ねは、やがて王国全体を覆う、目に見えぬ結界のような役割を果たしていく。
こうした行為は、当時の宮廷魔術師としては極めて異例だった。
多くの魔法師は、権威を示すための儀礼的な魔術を披露するか、あるいは軍事力として破壊を担う存在だったからだ。
アスト=セイミルは、そのどちらでもなかった。
彼は、王国という巨大な仕組みの中で、静かに不具合を修理し続ける技術者だった。それは、語られることのない仕事だ。華々しい戦績も、称賛される瞬間もない。
だが、それがなければ――
王国は、幾度となく破滅の淵に立たされていたであろうことは、
記録を追えば明らかである。
ある史料には、こう記されている。
「彼が守ったのは、勝利ではない。栄光でもない。ただ、王国が“在り続けること”そのものだった」
ーーー
第五節:王が求めたもの
王が、アスト=セイミルに次第に不満を抱くようになった理由は、実に単純だった。
――彼は、勝っていなかった。
戦は起きず、反乱は鎮まり、疫病も流行らない。
王国は確かに安定していた。
だが、その平穏は、王の威光を高めるものではなかった。
王が欲したのは、目に見える戦果だった。
敵を討ち、領土を広げ、武勲を記録に刻むこと。
民に語られ、歌にされ、後世に残る「物語」である。
アスト=セイミルの仕事は、それと正反対だった。
彼は、物語が生まれる前に、それを消してしまう。
戦が起きなければ、英雄は生まれない。
危機がなければ、王の決断も語られない。
やがて、宮廷の奥で囁きが増え始める。
「あの魔術師は、本当に必要なのか」
「この平穏は、彼の力によるものなのか」
「それとも、ただ何も起きていないだけなのではないか」
記録によれば、ある時期を境に、王の側近たちは派手な魔法を好むようになったという。
儀礼の場で炎を掲げ、敵国への威圧として雷を落とす。
そうした魔術師たちが、王の寵を受け始めた。
アスト=セイミルは、その流れに与しなかった。
彼は変わらず、進言だけを行い、決断を避け、星の巡りを語り続けた。
「今は、動くべき時ではありません」
「勝利は得られますが、代償が大きい」
「その道は、十年後に歪みを残します」
それらの言葉は、次第に王の耳にとって、不快なものとなっていった。
王は、勝ちたかった。
今、この瞬間に。
やがて、宮廷からアスト=セイミルの名は減っていく。
会議に呼ばれなくなり、
星読みの記録も、公文書から外された。
彼が行っていた結界の調整は、誰にも引き継がれなかった。
そもそも、それが「仕事」であると認識されていなかったからだ。
そして、ある年を境に――
彼の名は、公式の記録から消える。
追放されたのか。自ら去ったのか。あるいは、最初からそうなる運命だったのか。
それを断定できる史料は、存在しない。
ただひとつ、後年に添えられた注釈がある。
「この年より、王国では戦が増えた」
アスト=セイミルは、歴史に敗れたのではない。
彼は、物語を欲した時代において、物語を生まれさせなかったがゆえに、静かに消えたのである。
ーーー
後日談:星の沈黙
アスト=セイミルの名が記録から消えてから、しばらくのあいだ。
王国は、表向きには変わらぬ平穏を保っていた。
そのため、多くの者は彼の不在を意識しなかった。
星読みが行われなくなったことも、王国全体を覆っていた調整が止まったことも、誰にも気づかれなかった。
変化は、あまりにも静かに始まった。
まず、季節がずれた。
雨は降るべき時を外し、川は氾濫と干上がりを繰り返す。
次に、疫病が散発的に広がった。
致命的ではない。
だが、村々の労働力を削り、物資の流れを鈍らせるには十分だった。
その隙を突くように、辺境で小規模な衝突が増えた。
かつてなら起きなかった規模の争いが、
理由も曖昧なまま、次々と発生する。
宮廷は、それらを偶発的な不運として処理した。
誰も、それがひとつの流れであるとは考えなかった。
やがて――戦が起きた。
王が、かつて望んでいた通りの、派手な戦である。
勝利は得られた。
敵は討たれ、戦果は記録され、王の名は称えられた。
だが、その翌年。
星辰は、かつてない乱れを示したと、後世の史家は記している。
勝利は、続かなかった。
国内の不満は高まり、疫病は広がり、
魔獣の出現が、各地で報告されるようになる。
かつてなら、起きる前に消えていたはずの出来事が、次々と「物語」として、歴史の表に現れ始めた。
ある古い写本の余白には、無名の書き手による、短い走り書きが残されている。
「昔、この国には、
何も起こさせない男がいたという」
それが、アスト=セイミルを指しているのかどうかは、分からない。
だが、この一文が書き加えられた頃から、王国の年代記は、戦と災厄の記述で埋め尽くされていく。
星は、もはや語らなかった。
語る者が、いなくなったからである。
――異界物語編纂録『星辰を読む魔術師 ― アスト=セイミル伝 ―』了




