1-3 チトの能力
がっくりと項垂れる民子の後をついて、屋敷の廊下を歩く。
顔を覆う布のせいで、民子の表情はわからない。しかし、その重い足取りから、心中は痛いほど察することができた。
「……今日はもう遅いので、お部屋をご用意します」
正夫が去った後、民子はそう言って、チトとリュッカを空き部屋に案内した。
民子は、正夫に盾突くことはなかった。
使用人の立場でありながら、正夫の名を騙ってVERTに依頼を出したのだ。それは確かに、正夫の怒りに触れる行為だったかもしれない。
だけど、民子の行動理由が「キクを咲かせたい」という善意なのは明らかだった。あんなに怒らなくたっていいのに、と、正夫への反感が募る。
「チトさん、リュッカさん。はるばるお越しいただいたのに、本当に申し訳ございません。私の身勝手な行いのせいで、ご迷惑をお掛けして……」
和室の下座に膝をつき、民子が泣きそうに言うものだから、
「大丈夫ですから、気にしないでください。民子さんにも事情があったわけだし」
リュッカは反射的に、慰めの言葉を口にした。
だがしかし――どう考えたって大丈夫な状況ではない。
このままでは、VERT特派員としての初任務が消化不良に終わってしまう。失敗とまでは言わなくとも、初っ端からお流れになるなんて幸先が悪い。それに、ヨナギ村のキクの問題だって何も解決していない。
チトを振り返れば、皮手袋の指をあごに当てて、何やらじっと考え込んでいる。落ち込んだ民子を元気づける方法を考えている……わけではないだろう。リュッカが肩を落とすと、民子が口を開いた。
「実は……ヨナギ村では毎年、この時期になると『菊人形祭り』をおこなうんです。菊人形、ご存知ですか?」
リュッカは首を横に振った。
「等身大の人形に、キクの花の衣装を着せて展示するんです。美しいんですよ。普段は寂しい村ですけれど、祭りの日だけは、人形も住民も皆着飾って楽しく過ごす……菊代様も、祭りを愛しておられました」
菊代――今は亡き、正夫の妻の名前がまた出てきた。
民子は思い出を抱き寄せるように、目を閉じて語り続けた。
「山の向こうから嫁がれた菊代様は、それはもう美しい方でした。ですが、四年前の流行病で……あの方は最期に、私にこう仰ったのです。『この村のキクがずっと美しいまま咲き誇るように』と」
なんて哀しい遺言だろう。
リュッカは胸が締め付けられる思いがした。
菊代が死んでも、村のキクが美しく咲けばそれでいい。だから別れを悲しまないで――あるいは、キクの花を見たら私を思い出して――そんなふうに解釈できる遺言だった。民子がキクの開花にこだわる理由が、はっきりとわかった。
とはいえ、正夫から「出ていけ」と言われ、民子もそれを受け入れてしまった手前、リュッカたちにできることは何もない。
お役御免の無力感。リュッカが黙り込んだとき、
「民子。今年の『菊人形祭り』は、いつだ?」
皮手袋を見つめていたチトが、ぽつりと言った。
民子が困惑気味に「例年通りなら三日後ですが……」と答えると、
「今から菊畑を見せてくれないか」
チトは何かを決心したように、静かに立ち上がった。
真夜中の菊畑はひっそりと、しかし見渡す限りの畦をつくって広がっていた。
広大な作付面積。屋敷の敷地の倍以上はあった。闇の中で息づく、膨大な植物の気配に、リュッカは思わず息をのんだ。
民子がかざす提灯が、枝葉を広げるキクをぼんやりと照らす。
葉の状態は悪くはないが――情報通り、どれもつぼみをつけていない。チトがキクをまじまじと観察するかたわら、リュッカは菊畑に立つ謎の装置を見上げて問った。
「この装置は?」
畑の畦に沿って等間隔に植えられた支柱。支柱のてっぺんとてっぺんをわたるロープに、大量の裸電球が吊り下げられていた。ライトは消灯しているが、もし点けたなら、真昼のように菊畑を照らすだろう。
「電照菊だよ、リュッカ。キクの開花時期をコントロールする方法のひとつだ」
キクは、日照時間が短くなることで花芽をつける「短日植物」だ。
その性質を逆手に取り、夜間に照明を当てて開花時期を調整するのが、電照菊栽培である。
「光を当てて開花を遅らせるんですね」
「ええ。生育自体が遅れては何の役にも立ちませんが……」
納得するリュッカに、民子が自嘲で返す。そうだった――ヨナギ村のキクは、本来この時期に咲いていなければならないのだ。
リュッカが俯くと、背後で砂利を踏む音がした。
「お前たち、まだいたのか?」
正夫だった。
正夫は使い古された提灯を持ち上げて、チトとリュッカを照らした。
驚き混じりの表情を見るに、尾行してきたわけではないのだろう。おそらく、日課で菊畑の様子を見に来たのだ。真摯にキクを栽培する者として。
「そこで何をしている? ワシが『村から出て行け』と言ったのが聞こえなかったのか?」
どすの効いた声が、菊畑にびりびりと響き渡る。
「……正夫、畑の土がかなり湿っている。この状態はいつから――」
チトが果敢に言い返すも、
「やかましい! だから何だ、今さら何になる? 部外者の子どもに村のキクは救えん!」
正夫は癇癪を起こしたみたいに怒鳴り、
「……それに、何もかももう遅い。今咲かないと『祭り』には間に合わない」
一転、糸が切れたように膝からくずおれた。
亡くなった菊代の存在が、正夫の嘆きに色濃く滲む。
もどかしいのとやるせないので、リュッカは歯噛みした。世界中で知られるVERTの〈庭師〉なのに、言い返せない。何もしてあげられない。
リュッカが、耐えきれずに目蓋をぎゅっと閉じかけたとき――「大丈夫だ」と声がした。
耳を疑って顔を上げる。その涼やかな声の主は、蒼い瞳に決意を宿してこう告げた。
「大丈夫だ。その花、わたしが咲かせてみせよう」
・・・
菊畑を吹き抜ける夜風。鼻腔をくすぐる青葉の匂い。
脈絡のない開花宣言にぽかんとする三人に、チトは的確に指示を出した。
「民子、正夫。電照菊のライトをつけてくれないか。少しの間でいい。頼む」
足元がおぼつかないから、と話すチトは妙に頼もしかった。
民子はこくこくと頷いて、畑の小屋に走っていく。チトはそれをちらりと見届けると、今度はリュッカに向き直った。
「リュッカはこれを預かっていてくれ」
手渡されたのは、チトがいつも身に着けている皮手袋。
くわえて、シルクのインナーグローブが二対。チトが脱いだものから順におずおずと受け取る。チトが三重に手袋を嵌めていたことを、リュッカはこのとき初めて知った。
露わになったチトの手は、たいそう白かった。土なんて触ったことがないような綺麗な指に、自然と目が吸い寄せられる。
「ち、ちょっとチト様、待っ――」
チトはいったい何をする気なのだろう。
リュッカは、菊畑の中心へ向かうチトを呼び止めようとしたが、それは強い光に遮られた。
突然の、不自然に明るい光の照射。リュッカは眩しさに目を細めた。民子が電照菊のライトをつけたのだ。裸電球がいっせいに灯り、花のないキクを煌々と照らした。
一同の視線が、菊畑に立つチトに集まる。
チトはドレスの裾をつまんで上品にお辞儀をすると、すぐそばにあったキクに軽く触れた。
刹那。黄色の可憐な花が、ぽんっと現れた。
チトの指先が、隣のキクへ移る。
チトの指が触れてから、一呼吸。
リュッカの目の前で、キクが意思を持ったかのように動き出した。
「なっ……!?」
チトが触れたところから、キクが茎を伸ばし、葉を広げ、花芽を付けていく。
まるで映像の早回し。見る見るうちに生長する様子に、リュッカは釘付けになった。次から次へと脇芽がつく。つぼみが膨らむ。さっきまで葉だけだったキクが、電球の光に向かって花首を伸ばし――弾けるように花開く!
「……嘘、だろ」
周囲のキクがひととおり開花すると、チトは両手をそっと広げた。
そして一歩一歩、地面を踏みしめながら菊畑を進み始めた。
時にターンして、踊るように。
チトが指先でキクを揺らすたび――音もなく、花が開いた。
ひとつ。
ひとつ。
またひとつ。
まるで花が、彼女を祝福しているみたいだった。
チトが回転するたびブロンドの髪が広がり、夜に映える。後ろに咲き乱れるキクの花は、黄、白、赤、紫――視界いっぱいの色の洪水。少女を取り巻くキクの花弁が、電照のスポットライトを浴びて光り輝く。
菊畑の中を駆け出したチトは、はしゃぐ子どものようで、舞台のダンサーのようで、神楽を奉納する巫女のようで。リュッカは息をするのも忘れて、その光景に見惚れていた。
(すごい……)
畑の隅では、正夫があんぐりと口を開け、民子が目を潤ませていた。
その姿に、胸が熱くなる。体が火照って、鼓動が高鳴る。
(これが、チトの異能……)
自由自在に花を咲かせる異能〈みどりのゆび〉。
遠い昔、病床で聞いたおとぎ話の奇跡が、目の前にある。
何年も、何百回も、夢に描いた光景が今、現実になっている。
ふと気がつけば、辺り一面満開のキク。あっという間の出来事だった。
菊畑の中心に戻ってきたチトがよろよろと足を止め、「ふぅ」と息を整えるのを、リュッカは全速力で迎えにいった。湧き上がる感動に任せて、キクをかき分けて走る。色とりどりに咲き誇るキクが、花吹雪のように舞い上がる。
リュッカは肩で息をしているチトに駆け寄ると、興奮してその手を取った。
「すごい……すごいよ、チト!」
チトは突然手を握られたことに驚き、小さく悲鳴を上げた。
ひやりと冷たい鉄の義手。無意識に呼び捨てられた名前。
チトは動揺して、一瞬だけ固まった。
しかし、少年のように目を輝かせるリュッカを、振りほどくことはしなかった。
爽やかなキクの香りが二人を包む。ほんの少しのためらいの後――チトはリュッカにつられるように、ふっと優しく微笑んだ。
【TIPS】電照菊
:菊の栽培方法の一種。愛知県の田原市(渥美半島)、沖縄県の読谷村などが有名。