1-2 招かれざる客
山へ帰るカラスの声に、スズムシの羽音。
二人がヨナギ村に到着するころには、太陽はどっぷりと西に傾き、茅葺の民家を茜色に染めていた。村をつらぬく砂利道に、ひと塊の影が伸びる。
「変だな。この辺りのはずなんだが……」
停止した三輪バイクの後部座席から、チトがぼやく。
閑散とした集落の入口。茅葺家屋がぽつぽつと並ぶ、「昭和」時代の山村風景に、エンジン音が心細く鳴る。VERTから貸与された携帯端末はすでに圏外だった。
行きつ戻りつ、何度も通った道で立ち止まること数回目。
途中、比較的新しい土砂崩れに出くわして遠回りしたが、周囲10キロ圏内にほかの集落はなかった。そのため、今いる場所がヨナギ村に違いない。
それなのに――どれだけ周囲を見渡しても「斉藤正夫」の家が見当たらない。
それどころか、村に人の気配が一切ない。
「すみませーん! 誰かいませんかー?」
リュッカは鉄の手のひらを頬に当てて、家に向かって叫んでみた。
しかし、返ってくるのは沈黙ばかり。空き家の生垣からアキアカネが飛び立ち、遅咲きのヒガンバナが退屈そうに揺れる。
「……だめか。チト様、やっぱり誰もいないみたいです」
外を歩く人がいないのに、夕飯の支度の匂いもしない。
家屋は廃墟と呼ぶほど荒れてはいなかったが、その内に持て余すような暗闇を溜めていた。畑に作物はなく、田圃は乾ききっている。家も村も、生命を欠いてがらんとしていた。
「これじゃ、まるでゴーストタウンですね」
途方に暮れたリュッカが言うと、チトは無言のままびくりと震えた。
……なるほど。どうやらこれは、チトにとって無視できない話題らしい。
リュッカは少しだけ調子に乗って、こんな雑談を振った。
「俺、緑化作業員の仲間から、この地域の怪談を聞いたことがあるんですよ。『お岩さん』ですよね。お皿が一枚足りなくて『うらめしや~』って出てくるおばけ」
「……それは『お菊さん』だ。大事な皿を割った後悔にとらわれている、女の幽霊。皿屋敷の話だな」
リュッカの曖昧な知識を、チトが小声で訂正する。
大した博識だ。それに、間違いをきちんと正してくる律儀さが、何とも言えずいじらしい。やりとりが会話らしくなってきたのも嬉しかった。
リュッカは薄く笑って、三輪バイクを発進させた。ゆっくり走り、空き家を順に覗き込む。
「……ちなみにだが、『お岩さん』は四谷怪談の登場人物だ。浮気性の夫から、顔がただれる薬を飲まされた不憫な女だよ。お岩さんは夫に復讐するために幽霊になって、」
チトはそこまで話すと、急に口をつぐんだ。
「チト様? 幽霊になって、それでどうしたんですか?」
「ゆ、ゆゆ、ゆゆゆゆ幽霊っ」
「え?」
空き家を物色していた視線を進行方向に戻せば、大きな屋敷の門のそば。
ゆらりと揺れるヤナギの下に、着物姿の女性が立っていた。
いつからそこに立っていたのだろう。まったく気配を感じなかった。
音もなく現れたその女性は、顔の大半を藍色の布で隠していた。表情が見えず、妙に人間味がない。しかも、布の隙間から覗く素肌は、かぶれて赤黒く腫れあがっていた――まるで、毒薬を飲まされて皮膚がただれたかのように。
「「出た~!!!!」」
急停止。リュッカは反射的にブレーキを掛けた。
三輪バイクの後輪が浮く。バランスが崩れて車体が振れる。
つんのめって宙に放り出された二人――を目撃した着物の女性は、しばし唖然としてから、慌てて屋敷へ走っていった。
「旦那様、旦那様!」と叫びながら。
・・・
「大変失礼いたしました。脅かすつもりはなかったのですが……」
村一番の屋敷の前で、女性が深く頭を下げる。下げすぎて後頭部しか見えていないが、声の落ち着き方からみて、年齢は30歳前後だろう。
「いいえ。俺たちが勝手に驚いただけなので」
リュッカは義手で膝を払いながら、愛想よく苦笑した。
一方チトはといえば、同じく砂まみれのドレス姿で、リュッカの影に隠れていた。薄々予想はしていたが、やはり人見知りする性格らしい。この小動物みたいな少女は、本当に〈一級庭師〉なのだろうか。リュッカはますます不安になった。
「でも、私も驚きましたわ。だって、こんなに大きな鉄の馬に、義手の騎士様、金髪碧眼のお嬢様……」
ほとんど顔を隠した女性はうっとりと言ってから、
「ああ、すみません……申し遅れました。私は民子と申します。この斉藤家に仕えて、身の回りのお世話をいたしております」
「『サイトウ』?」
「ええ。村長の斉藤正夫様にございます」
「それはよかった。ちょうどお尋ねしようと思っていたんです」
民子が斉藤家の使用人だなんて、塞翁が馬だ。民子を幽霊と見間違えて、三輪バイクで盛大に転倒したものの、結果的に依頼主のもとへ辿り着くことができた。
リュッカはチトに目配せして、説明を譲るため一歩退く。
チトはぎこちなく依頼書を掲げ、小股で一歩前に出た。
「わ……わたしはVERTの庭師のチト。こちらはリュッカ。キクの生育異常について、斉藤正夫氏から依頼を受けて来たのだが、この手紙に見覚えはないか?」
すると、民子は手紙には目もくれず、
「まあ、VERTの庭師様がこんな辺鄙な村まで! 気づかず申し訳ございません。てっきり、派遣員はご年配の方とばかり……さあさあ、こちらへどうぞ。きっと旦那様もお待ちかねですわ」
民子はたちまち声のトーンを上げて、歓迎を示した。
民子は顔を覆う布の隙間から笑顔を覗かせて、チトとリュッカを先導する。
好意的な反応に、肩の力がふっと抜ける。やけに、民子の理解が早いようにも思えたが――キクが咲かない異常事態は、使用人の民子も懸念しているところなのだろう。
チトとリュッカは顔を見合わせると、乱れた衣服をそれぞれさっと直して、民子を追った。
斉藤家の門をくぐるとき――
一度だけ村を振り返れば、すぐそこまで夜がきていた。
キクが咲かない村に漂う空気は、どこか寂しく陰鬱で、秘密の匂いを含んでいた。
・・・
「庭師を呼んだ覚えはない」
というのが、村長・斉藤正夫の第一声だった。
「でも、俺たちは依頼状を受け取って――」
「知らん」
「キクが咲かないから、わたしたちを頼ったのではないのか?」
「キクの開花が遅れているのは事実だが、手紙など出してない」
正夫はそう言って懐手をすると、値踏みするように二人を見た。
恰幅のいい背格好に、白髪交じりの短髪。ゆったりと着流した藍絣。正夫の顔には、村長として経験してきた苦労が深い皺となって刻まれていた。
案内された広い畳の間で、依頼主であるはずの正夫と対峙する。
還暦を越えているであろう正夫は、孫ほどに年齢差のある客人を、正面からじっと見据えた。針のような厳しい視線。リュッカは慣れない正座で震え上がった。
「旦那様。せっかく来ていただいたんですから、せめてお二人に、菊畑を見てもらいませんか? このままキクが咲かないようでは、菊代様も浮かばれませんわ」
チトとリュッカの助け船を出そうと、見かねた民子が声をあげる。
(――『菊代』?)
と、初めて聞く名前にリュッカが首をかしげた瞬間、ばん!と畳を打つ音が響き渡った。
相手を黙らせるための、威圧の音。正夫はこめかみを引きつらせ、強い口調でこう叫んだ。
「おい民子。さては、VERTに調査依頼を送ったのはお前だな? ワシに断りもなく勝手なことを……! 村の問題は村の人間で解決するものだ。余所者は入れない。常々そう言っているのがわからんのか!」
「し、しかし旦那様。このままでは菊代様の遺言が――」
「その名前を出すな!」
リュッカは激情に駆られる正夫を呆然と見上げた。
それから、説明を求めて民子のほうを向いた。民子はしばらく額を畳にこすりつけていたが、やがてリュッカの視線に気づくと、小声で補足した。
「菊代様は、正夫様の亡くなられた奥方でございます。四年前、村に流行病が蔓延したときに先立たれて……旦那様はそれ以来、ご老体に鞭打って、おひとりでキクを育てていらっしゃるのです」
村を襲った流行病。妻に先立たれた村長。
絶句するリュッカに変わって、今度はチトが、冷静に問いかけた。
「民子。ヨナギ村の住民が異様に少ないように見えるのは、その流行病が関係しているのか?」
「ええ。病気で死んだ者が大半でしたが、離村する者も多くおりました。ヨナギ村は……医療体制が充実した村ではありませんので」
道中、チトから聞いた話がふいに繋がる。
この悲劇はおそらく、ヨナギ村が重点文化保存地区であったために起きたものだ。文化を保存する施策のせいで、最新の医療が届かず、失われた命があったのだ。
何たる皮肉。リュッカは眉根を寄せて、
「ひょっとして民子さんの顔の傷も、その流行病のせいですか?」
ところが民子は目をぱちぱちと瞬かせ、
「えっと……それは……」
と口ごもった。ひどくかぶれた目元から、リュッカを睨むような視線が飛んでくる。
あれ――俺、何か変なことを聞いてしまっただろうか。
女性の容姿、それも本人が隠している部分にずけずけと踏み込むなんて、デリカシーがなかったかもしれない。手痛い失言。しまった、と遅れて後悔する。
ややあって、正夫が「……今さら、もう遅い」とひとりごち、沈黙を破った。
正夫は、握りしめた両手を震わせたかと思うと、
「とにかく、お前らVERTの手は借りない。すぐに村から出ていけ」
チトとリュッカに冷たく言い放ち、足早に部屋を出て行った。
乾いた余韻を残して、襖が閉まる。誰ひとり、すぐには口を開けなかった。
【TIPS】ヒガンバナ(彼岸花、石蒜)
:有毒のためか、不吉なイメージを持たれがちな秋の球根花。別名、曼殊沙華。