1-13 手向け、はなむけ
祭りの会場から離れ、斉藤家で荷物をまとめる。
短くも濃密だった三日間の滞在。
リュッカが使用人部屋に名残惜しさを感じていると、
「チト、いるんでしょ? 出てきなさいよ!」
外から、聞き覚えのある声がした。
屋敷の庭に立つのは、ショートカットの勝気な少女――藍。
チトの異能を否定し、チトと喧嘩別れになっていた藍染師見習いだった。
「藍……今さら、わたしに何の用だ」
チトは荷造りの手を止め、縁側から庭へ降りる。
藍は冷たい反応に怯みつつも、意を決して一歩前に出た。
「もう出発するんでしょ。せいせいするわ! あんたが来てから、ヨナギ村の自然はめちゃくちゃ。キクもワタもヤマフジも……でも、祭りが無事に開かれて、皆が救われたのも事実。だから、これ」
藍は右手を突き出し、手のひらを開いた。
「藍色のリボン……これ、わたしにくれるのか?」
アイで染めた短い髪帯。チトの目が丸くなる。
「か、勘違いしないで! 『金髪に映えるのは青』って言った手前、それを証明したいだけ。決して〈みどりのゆび〉を認めたわけじゃないから……でも、あのときは少し言い過ぎた。ごめんね」
藍は早口で言って、チトにリボンを押しつけた。
チトは一瞬硬直し、ごにょごにょとお礼を呟く。
リュッカは遠巻きにその様子を見届けると、すべての旅荷を抱えて屋敷を出た。
・・・
「チトさん、リュッカさん。本当にもう行かれるんですね」
村の端まで見送りにきた菊代は、
「正夫さんに挨拶してからでも……」
と言いかけて、すぐに発言を引っ込めた。
夜の崖で正体を暴かれて、昨日の今日だ。民子に扮したままの菊代は、まだ正夫に打ち明ける勇気が持てないでいるのだろう。
「菊人形で、民子を弔いましたからね。正夫さんも、すぐに私が菊代だと気づくでしょう。すべて話して謝罪するつもりです。顔のかぶれは……癒えるまでは背負っていかなきゃ」
頬を掻きながらそう話す菊代が、リュッカにはもどかしかった。
何年も漆を塗り重ねてきた顔が、もとの状態に戻るまでには、どれほどの時間がかかるのだろう――菊代だって「もう隠さなくていい」はずなのに。
三輪バイクに荷物を括り、エンジンをかける。
出発間際。
チトは思い立ったように、後部座席からぴょんと下りて、
「菊代。もう一度だけ顔を見せてくれないか」
そう言って、両手の革手袋を脱いだ。
現れた手は、やはり眩しいほどに白かった。
あの細い指こそが、ヨナギ村のキクを咲かせた奇跡の異能。
それにしても――チトはいったい何をするつもりなのか。
菊代は戸惑いながらも、従順に顔の布を外す。
チトの手が、菊代の顔を包み込む。
その瞬間。
菊代の顔のこわばりが、ぽろり、と剥がれ落ちた。
「えっ?」
そう声に出したのは、菊代かリュッカか。
リュッカは鼓動する三輪バイクに跨ったまま、その光景に釘付けになった。
チトが触れた箇所から、漆かぶれがひいていく。
赤みが消え、腫れが治まる。
傷のかさぶたが剥がれたら――玉のような肌が現れる。
にわかには信じがたい回復。まるでチトの指が、菊代の顔を癒していくみたいだった。
数秒間の超常現象。
気がつけば、民子の着物を着た美女が佇んでいる。
チトはかぶれの完治を確かめると、何事もなかったかのように後部座席に座り直し――
「――って、待ってよチト!! 今の何? どうして菊代さんの顔が治ったんだ!?」
リュッカは辺り構わず声を荒げ、
「〈みどりのゆび〉は植物を操る異能じゃなかったの? 人も癒せるなんて聞いてない! だめだ、理解が追い付かない。ねえチト説明を――」
「リュッカ、バイクを出してくれ」
「ちょっと!!」
「……うるさいぞ。いいから早く。出発だ」
どうやら、説明する気はないらしい。
混乱するリュッカの背中に、チトのヘッドドレスがこつんと当たる。
と同時に、腰の左右に革手袋の感触。
リュッカはぎょっとして我に返った。あんなに接触を嫌がっていたチトが、リュッカの腰に掴まっていた。ヨナギ村に到着する前にした「お願い」を、こんな形で返されるとは。
異能のことは、後で絶対に問い詰めてやるからな――と決心し、ハンドルを捻る。
呆然とする菊代のはるか後方から、二人を見送り損ねた正夫が駆けてくる。
菊代に合流した正夫はどんな顔をするのやら。見届けずとも想像できた。
三輪バイクは砂を巻き上げ、搭乗者の鉄腕と金髪を秋空に輝かせながら、紅葉する山をまっすぐ走り抜けていった。
【第1章 菊人形の里】完
ここまで読んでくださってありがとうございます。
よろしければ、引き続き、チトとリュッカの旅にお付き合いください。