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試作1.4



「……過去を求めるのか?」



挿絵(By みてみん)



「見てしまえば、聞いてしまえば、

もう二度と、“何も知らなかった頃”には戻れぬ」



「それでも……なお望むか」



「知らぬままであれば、

 救われよう。歩めよう。未来を」



「その心が、それに耐えられるとは限らぬ」



「知れば、今が壊れてしまうだろう」



「……再び、問おう――それでも、過去を求めるのか」



「……良かろう」



「ならば見せよう。ならば語ろう。

――()()の夢をもって、我が内に記されし、過去のすべてを」



「――たとえ御前(おまえ)が、御前(おまえ)でいられなくなるとしても……!」





※※※



 昔、ひとつの名家があった。


 その家は、貴族のように権力をふるう一族ではなかった。

 けれど、忠義と勤勉を重んじ、土地の有力者として長く栄えてきた。

 そんな家に、若い夫婦が暮らしていた。


 妻は気が強く女ながらに武道を嗜み、男たちにも引けを取らぬほどの武芸者であり、

 その地の内外に名を知られる存在だった。


 その夫もまた、才を見込まれて婿養子に迎えられた男であった。


 やがて妻は子を授かった――

 だが、夫は突如、とある貴人により命を奪われた。



 身重のまま、夫を喪った彼女は、やがて息子を出産した。


 夫を失い家は少し揺らぎもしたが、彼女の存在が家を支えた。


 彼女は遺された一人息子を深く愛し、母子は数年の平穏な日々を共に過ごしていた。


 たびたび再婚の話も持ちかけられたものの、

――彼女は、亡き夫を忘れることはできなかった。



 けれど、その穏やかな時間も長くは続かなかった――。

 数年後、今度は三十路が見えてきた頃の彼女もまた忽然と姿を消したのだ。


 一人残された幼い彼に真実を教えれば、いつか無謀に探そうとするかもしれない。


 周囲の大人たちは、せめてこの子の心だけは平穏にと願い、「母は亡くなったのだ」と告げた。

 その真実を、誰も幼子に語ることはなかった。


 こうして最後の拠り所を失った家は、やがて離散していった。


 幼い彼は母を探した。家の中を、庭を、町の中を。

 けれど、幼い足に辿れる範囲は限られていた。

 どこにも母の姿はなく、誰もが「母はもういない」と繰り返した。

 それでも幼い心は、しばらくのあいだ希望を捨てきれなかった。


 だが、やがて彼はその言葉を信じ、そして母の死を受け入れた。


 顔すら知らぬ父――その命を奪った仇を探すこともなく、

 いなくなった母に対しても、憎しみを抱かず、

 わずかに覚えていた母の温もりだけを頼りに、慎ましくも与えられた日々をまっすぐに生きてきた。


 そうして彼は、十八歳の青年へと成長していた。


---


 そんなある年の夏、


 供え物ひとつ満足に買えない暮らしのなかで、

 それでもこの日だけは――

 そう思い、青年は父の命日に墓地を訪れた。


 すると、父の眠るその場所に、見知らぬ――けれど、どこか懐かしい面影を宿した、身重の貴婦人が立っていた。


 墓前に立つその貴婦人は、彼が一度も見たことのないような、淡い金糸が織り込まれた上品な衣をまとい、静かにその場に佇んでいる。


 ――年のころは、母が生きていれば同じくらいか、それより下だろう。


 肌は驚くほどなめらかで、横顔には年齢の定まらない不思議な若さと、静かな哀しみの影が差していた。


 彼女は、大きくせり出した腹を両手で支え、静かに俯き、足元にある墓石を見つめるその姿は、まるで赦しを乞うているかのようだった。


 肩はかすかに揺れ、吐く息は細く浅い。

指先は落ち着かず、腹のふくらみに何度も触れては、すぐに離している。

 それは、胸の奥に込み上げるものを、どうにか押しとどめようとするような動きに見えた。


 顔は伏せられていても、今にも泣き出してしまいそうな気配が、遠目にも、それは悲しみの気配として滲んでいた。



 その美貌に、どこか母の面影が宿っていた。

 青年は、胸の奥が妙にざわめいた。

 なぜだかわからない――けれど、息が詰まりそうだった。


 一方、貴婦人も青年を見て、かつての恋人――青年の父と見間違えた。

 いや、見間違えたというより、その面影があまりに濃かった。

 まるで、青年は父の生き写しのようだったのだ。



 青年は、彼女の姿に言葉を失った。


 ふとした仕草が、幼い頃の記憶と重なったのだ。

 その輪郭。微笑みの癖。目元の影に――忘れかけていた、いや、忘れられるはずもない面影があった。



 思い返せば――

 幼い頃、母の葬式をした記憶などなかった。

 この墓に刻まれているのも、父の名だけだ。


 まさか……。

 いや、そんなはずは――けれど、胸の奥が否定しきれなかった。


「……母さん、なのか……?」

 声は、自分のものとは思えないほど震えていた。


 貴婦人は一瞬きょとんとし、青年を見つめた。

 けれど、その視線は“誰か”を探していた。


 目の前の青年の顔をなぞるように、まるで記憶の奥に重ねようとするかのように。


 青年は一歩、近づいて名乗った。

「■■だよ、母さん……だよね……?」


 ほんの数瞬、空気が止まってたようだった。

 貴婦人は、小さく息を呑む。


 唇が微かに開き、うわごとのように呟いた。


「え……? でも……あの子は……たしか、まだ5つにも……」


 その瞬間、彼女の瞳が見開かれる。


 見開いたまま、やがて小さく震え始めた。


 「……あ……あぁ……なんてこと……そんな……そんなに……」


 言葉にならぬ叫びが、喉の奥から漏れ出した。


 耐えきれず、彼女は顔を覆う。


 肩が震え、指の隙間から、押し殺すような嗚咽が漏れ続ける。


「寂しい思いも……辛い思いも……たくさん、たくさん……させてしまって……本当に……ごめんなさい……」


 それは、言葉ではなく、十数年の空白のすべてを埋める――祈りのような謝罪だった。


「まさか……会えるなんて、思ってもみなかったの……」


 再会を果たした母の言葉に、青年の唇がわずかに震えた。


 喜び、困惑、怒り、悲しみ――何が一番強いのか、自分でもわからなかった。


 それでも、こらえきれずに口を開いた。

 沈黙を破るように、堰を切ったように――。


「今までどこにいたのか」

「なぜ、自分の前から姿を消したのか」

「今まで何をしていたのか」

「……そのお腹の子は?」


 貴婦人はしばし沈黙した。

 だが、やがて目を伏せたまま、静かに問い返した。


「……あまり、良い話ではないわ。

 それでも――本当に、知りたいの?」


 声は、かすかに震えていた。


 青年は黙って頷いた。

 目を逸らさず、ただ真正面から、母を見つめていた。


 その瞳に、怒りも責めもなかった。

 ただ、“今、母から直接聞かなければ一生後悔する”――

 そんな確信だけが、そこにあった。


 貴婦人は、そっと息を吸った。

 何かを決意するように目を閉じ、長く吐き出す。


 ――話さなくてはならない。

 なぜ我が子を独りにしてしまったのか。

 それを語ることこそ、母として何ひとつしてやれなかった年月への、せめてもの贖罪なのだと。

 ようやく、心を決めた。


 


「……私は、再婚したの」


 青年の肩が、かすかに揺れた。


「……私は――とある“貴人”に見初められてしまったの」


 一度、言葉を止めてから、彼女は吐き捨てるように続けた。


 「その“貴人”こそが――夫を……あなたの父を殺したの」


 まるで毒を吐くように、言葉がゆっくりと落ちていく。


「私の意思なんて、何の意味もなかった。

 あの方は、私を……そのまま、力ずくで連れていったのよ」


 唇が乾いて震える。

 それでも彼女は、言葉を紡ぎ続けた。


「そして私は……そのまま再婚を、強いられたの。

 名を捨てさせられ、すべてを忘れさせられて……

 今の私は、その方の妻とされてるの」



 青年は、その言葉の意味をすぐには受け止めきれなかった。


 ――父を殺した男の妻……。


 その現実はあまりにも残酷で、頭の中が真っ白になった。


 胸の奥にせき上がってきた感情は、怒りだったのか、悲しみだったのか――

 それすら、もう自分でもわからなかった。


「……あなたが私を恨んでも、仕方ないと思ってるわ。……むしろ、恨んでほしい。

 今の私には――あなたを置いていった私には、それしかあなたに与えられるものがないの……」


 母は、膨れた腹に視線を落とした。

 一瞬だけ迷うような沈黙のあと、どこか遠くを見るように口を開く。


「……私だけではなかったのよ」


「その屋敷には、すでに同じように連れてこられた美女たちが何人もいたの。

 私が娶られたときは、たしか二十八番目だったかしら。

 ……今もなお、若く美しい娘たちが次々と迎え入れられているわ」


 母はお腹を優しくさすりながら、ほんの小さく息を吐いた。


「……普通はね、一年か二年で“飽きられる”までに妊娠できなければ帰していただけるの。

 あるいは、一人か二人産んだ頃には……ね。

 でも――私は、運が悪かったの」


 静かに目を伏せながら、母は続けた。


「……気に入られてしまったのよ、あの方に。

 若い娘たちが次々と迎えられては、やがていなくなっていくのに、

 私は……こんな歳になってもなお、“飽きられる”ことなく孕まされ続けて……今はもう、九人もあの方の子を産んでいるの」


 母の手は、膨れた腹に触れかけて、一度止まり……やがて震えるように包みこんだ。

 まるで、自分自身を叱るように、そして赦そうとするように――。


「……この子も、あの方の……血を継いでいるのよ」


「じゅ……十人……そんなに……」


 青年の視線は、思わず母の腹へと落ちた。

 だが、そこに目を向けたこと自体に戸惑いを覚え、すぐに逸らした。


 現実を受け入れきれず、ただ呆然と――立ち尽くしていると、

 墓地の入り口から、一人の少女が姿を現した。


 13~14歳ほどだろう。

 母と同じ、絹糸のような美しく艶やかな長い黒髪を腰まで流し、

 その髪に手の込んだ飾り紐を結い添えた姿で、高価そうな布地の衣を風に揺らしながら、

 少女は母の姿を見つけると、小走りで駆け寄ってきた。


「お母様、大丈夫ですか? “昔付き合いのあった殿方のお墓参り”だなんて言って、私を参道の休憩所に残して一人で行ってしまうから……。

 もう臨月もいいところなのですから、あまり無茶はなさらないでくださいね」


 そう言ってから、青年の母を「お母様」と呼ぶ黒髪の少女はふと気づいたように青年へと視線を向けた。


 その瞳が、一瞬だけ驚きに揺れる。


「あの……この方は?」


 母は一瞬だけ逡巡し、まず青年に向き直った。


「この子は、私の娘になります」


 青年はその言葉を聞いた瞬間、息を呑んだ。


 ――やはり、そうなのだ。


 目の前の母を「お母様」と呼ぶ黒髪の少女は、

 母が産まさせられた、あの男の血を引く……自分の妹――。


 母はすぐに少女へ微笑みかけ、続けて言った。


「この方はね、私が貴人(お父さん)に出会う前に、一度だけ本気で好きになった人がいてね。……この方はその人の息子さんなのよ」

 そこに嘘はなかった。……でも、真実でもなかった。


 少女は目を丸くして青年を見つめ、

 はしゃぐように声を弾ませた。


「まぁ……お母様、もしかしてこの方……昔お母様が恋をしていた方に、似ていらっしゃるのかしら?」



 少女は好奇心に駆られたように青年を見つめると、ついにはそっと彼の顔に近づき、じっと目を覗き込み

 やがて少女は、青年の肩や腕にまでそっと手を伸ばした。




「――やめなさい、他人様(ひとさま)の前でそんなはしたない真似をしては駄目よ」


 母の声音が少し鋭くなった。


 少女ははっとして手を引っ込め、小さく肩をすぼめて、口元に手を添えた。


「あ……ごめんなさい……」


「この前も、異母姉兄(きょうだい)達と喧嘩して怪我をさせたばかりなのに。

 まったく、誰に似たのかしら……もう少し()()()()()に育って欲しかったわ」


 母はそう言いながらも、どこか楽しげに笑っていた。


 青年は、そのやり取りをただ黙って見つめていた。

 そこには、"母と娘の、ごく自然な親子の時間"があった。


 もう、母にはあちらで家族がいるのだ――そこに、自分の居場所はどこにもない。



 青年は、胸の奥が締めつけられるような苦しさを感じながら、目の前の母と異父妹のやり取りを見つめ続けていた。



 青年は、絞り出すように問いかけた。


「このまま貴人(アイツ)の屋敷に戻るのか?」


 貴婦人は、しばし黙ったあと、静かに目を伏せた。


「あの方はね……もう私が“逃げない”って、心底思ってるのよ。

 私が、あの子たちを置いてどこかへ行くような女じゃないって――あの方は、誰よりもよくわかってるの……」


 その声には、怒りも反発もなかった。ただ、すべてを呑みこんだ母親の声だった。


「――ごめんなさい……」


 少し唇を震わせてから、彼女は続けた。


「たとえ正しき逢瀬ではなかったとしても、生まれてしまった子供たちを私は愛しているの。

  屋敷で、私の帰りを待っている我が子たちを、私は見捨てられないの……」


 そう言ってから、貴婦人はふと視線を落とし、膨れた腹をそっと抱え込むように包みこんだ。


 張った腹の曲線を、ゆっくりと撫でる。


 その仕草には、言葉にならぬ矛盾が滲んでいた。


 いま宿す命を慈しむようでいて、それがもたらした別れを悔いるように。

 愛おしむようでいて、どこか疎ましそうに――。


 彼女の指先は、まるで何かを許そうとして、 それでもどこかで赦せないものを抱えているかのようだった。


 青年には、その姿がひどく遠く見えた。 自分とはもう交わらない、“別の人生”を生きる者の姿として……。


 青年は母の背にすがるように言葉を落とした。


「また……会えるよね…?」


 貴婦人は青年の目をまっすぐ見ることができず、視線をそっと逸らした。


「私たちの住まう屋敷は、とても……とても遠いところにあるわ……」


 そう言い終えた母の唇は、ほんのわずかに震えていた。


「お母様、そろそろ行きましょうか。……弟妹(きょうだい)たちが、母様を待っています。

 初めての遠出であまり時間がかかるとお父様にも心配されますよ」


 少女はどこか呆れたように笑いながら、母の手をそっと引いた。


「本当に――母様のことになると、父様は過保護すぎますよね。

 母様がお屋敷の外に出たの、今回が初めてなんですもの。

 この里帰り自体お父様には内緒なのですから、

 初恋の殿方のお墓参りなんて知ったら父様が……また鍵を閉めてしまうかもしれません」


 ――それは、無邪気な冗談のつもりだったのだろう。


 だがその言葉に、貴婦人の肩がぴくりと震えた。


 ほんの一瞬、過去の記憶が脳裏をよぎったかのように、彼女は目を伏せた。


「……ええ、そうね。帰らなければ……、あの方を、これ以上待たせては……叱られてしまうわ」


 ――その口調には、喜びよりも、どこか諦めにも似た静けさが滲んでいた。


 ふと、母は青年の方にだけ視線を向け、微かに唇を動かした。


「……墓参りを望んでも……この土地に戻ることさえ、一度も許されなかったの」


 一瞬、少女が振り返りかけたが、母は穏やかな笑みで誤魔化すように肩を撫でた。

 その声はごく小さく、少女には聞き取れないほどだった。


「……だから、今日だけは……あの人の目を盗んで……ここに来たの。

 せめて――一度だけでも……お別れ、言いたかったの……だから…ごめんなさい、――さようなら……」


 その言葉には、懺悔と名残惜しさが込められていた。


 そしてそれは――二度とは戻れない場所への、静かな別れの言葉でもあった。


 青年は、その声を黙って受け止めていた。



「母様と父様は、ずっと変わらず仲睦まじいですから」


 少女はそう言って、何でもないように微笑んだ。


 その言葉に、貴婦人は一瞬だけ視線を彷徨わせた。

 口元がかすかに引きつるが、それを悟られまいと笑みに変える。


 少女は青年を一瞥し、それきり視線を落としたあと、ふと母を見上げた。


「母様が失恋してから父様にどんなふうに出会ったか……今度教えてくださいね?」


 少女の言葉は何の疑念もない、幸福な家族の記憶だった。


 貴婦人はその言葉に小さく目を見開いたが、それを壊してはならないと、すぐに伏し目がちに曖昧な微笑みを浮かべるだけだった。


 ……たとえ、その全てが、造られたものだったとしても。


 応える声は、最後まで返ってこなかった。


 母は少女の手に導かれ、背を向けて歩き出す。

 青年は、その後ろ姿をただ見つめるしかなかった。


 ――もし、母が奪われることがなければ。

 いや、もしあの時、自分も共に連れて行かれていたのなら――。

 あの少女の隣に立ち、母と笑い合う自分がいたのかもしれない。


 それは、

 いつか辿り着いていたかもしれない――もう二度と手の届かぬ未来()だった。


 貴婦人はかつて愛した者たちに背を向け、もはや振り返ることなく少女に手を引かれ歩き去っていった。




 青年は、誰もいなくなった墓前にただひとり立ち尽くしていた。


「――さようなら……か……」


 頭では理解していた――いや、理解してしまったのだ。


 あの人は、もう自分の"母"ではないのだと。


 思い返してみれば、母に育てられたのは、わずか5年にも満たない。

 対して、あの子たちは10年以上も共に過ごしてきた。


 自分は――今の母の名前すら、知らない。


 きっと母は、今日ここに“かつての人生”と決別するために来たのだろう。


 ――自らの意思で“かつての自分”に別れを告げるために……。


 ……それでも、胸の奥では、何かが崩れていく音がした。


 母はもう、自分と会うつもりはないのだ。二度と会うこともないのだろう――。


 妹は……姫君は父と母の出会いが拉致であり、

 そして――強姦だったことなど、きっと知らない。


 母は、自分の存在すら知らせていなかった。……兄だと、紹介もしてくれなかった。


 身分違いの恋を叶えた父と、幸福な母。

 二人が愛しあって生まれた大切な"愛の結晶"。


 その後に生まれた他の弟妹(きょうだい)達も、両親が相思相愛だと……何も疑いなく、信じている。


 言葉にならない何かが喉までこみ上げてきて、

 それでも、声にはならなかった。



 ――母は、新たな人生を歩んでいた。


 もう二度と、手の届かない場所で、“今の子たち”の母親として……。

 自分は、もう、その腕に抱かれることはないのだ……。




 後日、貴婦人の希望により、

 青年の父が眠る墓石には、


 かつての彼女の名――青年の“母の名”が刻まれた。


 そして、彼女が失踪の日から決して手放すことなく守り続け、


 あの日、父の墓前に捧げることで自ら手放した“青年の母であった証”が、彼女の“遺骨”としてそこへ納められた。




 貴婦人がこの地に足を運んだのは、

 それが最初であり――そして、最後だった。


 母親を迎えに来た姫君も、青年が種違いの兄だということに

 ――生涯、気がつくことはなかった。



※※※


 人が言葉にできぬ思いを抱えたとき、


 それは時に、どこかに残る。


 ――言葉にならぬ、十の情念。


 我ら(アヤカシ)は皆、この思いから生まれ、形を得た。


 我らは『神未満(アヤカシ)』、欠けたモノ。


 満ち足りず、飢えたモノ。


 飢えは欲望を生み、欲望は心を生む。


 それゆえ求め続ける――飢えを……欠けを埋めてくれるモノを……。


 人もまた飢えた存在、欠けた存在。


 故に人は求める……欲望を満たす力を……。


 故に――我らは人に憑く、


 互いを喰らいあい――互いを満たすために……。


 我らは授ける――『恩恵()』を。


 我らは欲す――欠けを埋め、共に歩んでくれる伴侶を……。



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