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試作(2.0)妃、鍵かけてる 2/19



「……過去を求めるのか?」



挿絵(By みてみん)



「見てしまえば、聞いてしまえば、

もう二度と、“何も知らなかった頃”には戻れぬ」



「それでも……なお望むか」



「知らぬままであれば、

 救われよう。歩めよう。未来を」



「その心が、それに耐えられるとは限らぬ」



「知れば、今が壊れてしまうだろう」



「……再び、問おう――それでも、過去を求めるのか」



「……良かろう」



「ならば見せよう。ならば語ろう。

――()()の夢をもって、我が内に記されし、過去のすべてを」



「――たとえ御前(おまえ)が、御前(おまえ)でいられなくなるとしても……!」




    ◇◆◇



 ある年の夏――。


 供え物ひとつ満足に買えない貧しい暮らしのなかで、


 “それでもこの日だけは”と、青年は父の命日に村の外れの墓地へ向かっていた。


 歩きながら、ふと心に過去がよみがえる。



 ――昔、我が家は小さな名家だった。



 貴族のように権力をもつでもなく、莫大な財を抱えていたわけでもない。


 けれど、忠義と勤勉を重んじ、土地の人々に頼られる家柄だった。



 そして、その血筋にはときおり、人並外れた膂力りょりょくを備えた者が生まれ、


 それもまた、我が家が一目置かれていた理由であった。



 母さんも、その特異な体質の持ち主で、気が強く、


 女ながらに武道を嗜み。


 男たちにも引けを取らぬほどの武芸者として、


 その地の内外に名を知られる存在だった。



 父もまた、母さんには及ばないが、


 武の才を見込まれて婿に迎えられた男だったと聞く。



 若くしてふたりは結ばれ、ほどなく母さんは俺を身籠った。


 ……だが、その幸せは長くは続かなかった。



 父がとある“貴人”に殺されたのだ。



 戦場で散ったのなら、母さんも戦の()()()として受け入れられただろう。



 しかし父は、貴人の非道により理不尽に命を奪われた。



 身重のまま未亡人となった母さんは、一度は復讐に生きようとしたらしい。


 だが遺された我が子を独りにはできないと悟り――復讐ではなく、俺を選んでくれた。



 おぼろげな記憶の中での母さんは、誰よりも強く厳しいが、同時に優しい人だった。


 家の者や村の若者たちには容赦なく鍛錬を課し、怠ければ容赦なく叱りつけた。


 けれど俺にだけは、不思議なほど甘く優しかった。


 木剣を振れば「そこまでできれば上出来」と目を細め、


 字を覚えれば「よくできました」と微笑んで頭を撫でてくれた。


 大きくて少し硬い手のひらの温もりは、今でもはっきり覚えている。


 周囲からは威厳ある女武芸者として恐れ敬われていた母さんは、


 俺の前では、いつも俺を一番に考えてくれるただの優しい母さんだった。



 母さんと過ごした数年の平穏な日々を、俺は忘れたことがない。


 まだ空が白むかどうかという頃には、母さんはもう起きていた。


 毎朝かならず父の墓へと足を運び、静かに手を合わせる。


 それを終えると、その足で屋敷の庭に出て、ひとり木刀を振り鍛練をするが母さんの日課だった。


 その間にも母さんには再婚の話も幾度となく持ちかけられていたが、母さんは亡き父を忘れることができなかったらしい。


 けれど、その穏やかな時間も長くは続かず――


 数年後、母さんはまだ20代の盛りを過ぎたばかりという若さで、忽然と姿を消した。


 周囲の大人たちは皆口をそろえて「母は亡くなった」と言った。


 幼い俺に真実を告げれば、無謀に探そうとすると思ったのだろう。



 ――きっと母さんは父の後を追ったのだ。


 俺はやがてそう信じ、受け入れた。


 母を失った家は離散し、俺は古くからの使用人に育てられた。



 そして十数年、


 十八歳になった俺は今では日々鍛錬を重ね、剣も体の使い方も板についてきているはずだ。


 今では父母と並び立つ実力を備えているという自負があった。



 母ゆずりの特異体質――人並外れた膂力りょりょくは残念ながら俺は受け継いではいなかった。


 それでも武の道に進んだのは、


 顔も知らぬ父と、記憶の中で霞んでいく母との、ただひとつの繋がりだからだ。


 今日、胸を張って墓前に立てる――そう信じ青年は墓地を訪れた。


 墓地の手前まで来たところで、村に最近越してきた男とすれ違った。


 男は青年の顔を見るなり、片手を上げて言う。


 「おい、お前んとこに客が来てるぞ。……すげえ美人だ。ありゃあ貴族だな」


 青年は思わず足を止めた。


 誰だろう――?

 

 貴族の女性がなんでこんなところに?


 両親が亡くなって十年以上が経つ。


 墓参りに来るのは近親者くらいだと思っていたが、どんな関係だったのだろうか? 


 もしかしたら、母が武道を教えた相手なのかもしれないと、青年が考えていると。


 男は続けて、苦笑しながら墓地の入口を振り返る。


 「さっきな入り口で、入ったり来たりとウロウロしてる女に道を聞かれてな。


 話を聞いたら“お前の所の墓はどこだ”って言うんだ……


 それで、『ここに来るのは初めてか』と聞いたら、今にも泣き出しそうに


『いえ、何度も来たわ……それなのに……それなのに……。


 ここまでの道はなんとか覚えていたのだけれど、ここから先が、どうしても思い出せなくて……』って言うんだが」


 なぜ墓の場所を覚えていないだけで、彼女はそんなにも泣き出しそうになっているのだろうか。


 青年は胸の奥がざわつくのを覚える。


 やがて青年がたどり着いた、両親の眠るその場所には、


 見知らぬ――けれど、どこか懐かしい面影を宿した、身重の女性が立っていた。


 その女性の年のころは、母が生きていれば同じくらいか、それより下だろう。


 肌は驚くほどなめらか。


 だがその奥には、長い歳月に磨かれた熟れた色香がただよい、


 年齢の定まらない不思議な若さをたたえている。


 その身を包む衣は、淡い金糸を惜しげもなく織り込んだ贅沢な錦で仕立てられたもの。


 その腕に携えた錦織の巾着袋だけでも、


 彼が二年は遊んで暮らせるほどの価値があり、


 ひと目で高貴さを感じさせる。


 貴婦人の顔は伏せたままだが、わずかに覗く横顔の線だけでも、彼女が儚げな美女であることは伝わってくる。



(なんて気の弱そうな女性(ひと)だ……)


 だが、その佇まいを見た瞬間、青年は首を振った。

 

 先ほどは、『もしかしたら、母が武道を教えた相手なのかもしれない』と考えていたが、


 貴婦人の背筋はわずかに丸まり、足元は不安定で、重心も定まっていない。


 身長は高く体格も良いが、武を学んだ者の身のこなしには程遠い、護身術の心得すらないのだろう。



 それにしても、あんなにもお腹が大きいというのに、付き人もつけずにひとりで……。


 身重な女性をこんな場所にひとりにして、周囲はいったい何をしているんだ?



 青年は、戸惑いと警戒が入り混じる気持ちを抑えながら、その光景を見つめていた。


 彼女は産み月が近いのだろう。大きくせり出した腹を両手で支え、静かに俯いて、足元にある墓石を見つめている。


 顔を伏せていても、今にも泣き出してしまいそうな気配があり、


 その哀しみは遠目にさえ伝わってきた。



 貴婦人は、しばし目を閉じ、深く息を吸うと、片腕に下げていた巾着袋の口を、そっと開いた。


 中から布に包まれた小さな品を取り出すと、手のひらに抱きとめ、そのまま墓前に差し出そうとする。


 しかし――よほど大切なものだったのだろう、

 指先はためらうように震え、どうしても手が離れない。


 肩はかすかに揺れ、吐く息は細く浅い。


 指先は落ち着かず、ふくらんだ腹に何度も触れては、すぐに離している。


 それは、胸の奥に込み上げるものをどうにか押しとどめようとしているように見えた。


 ――そして、ようやく未練を断ち切るように、貴婦人は包みを墓石の前に置き、そっと手を放した。



 ひとつ息を吐き、静かに黙祷を捧げるその姿は、まるでどこか赦しを乞うているかのようだった。



 青年は思わず声をかけた。


「……重そうなお腹ですね」


 言ったそばから、自分でも場違いだったかと戸惑う。


 けれど、貴婦人はゆっくりと顔を上げた。


 「……ええ。この子の父親に似て、元気すぎるくらい育ってくれていて……嬉しく思いますわ……」


 小さく笑みをこぼしながらも、どこか影を落とした声。


 そして――


 二人の視線が、ふと交わった。

 その瞬間、時間が止まったようだった。



 彼女は、まるで幽霊を見たかのような表情のまま唇が震え、声がこぼれる。


「……そんな……■■……あなたなの……? 殺されたはずじゃ……生きて……いたの?」


 その言葉は、彼女が目の前の青年を、彼の父と見間違えたことを示していた。



 青年もまた、そんな彼女の姿に言葉を失っていた。


 ――その美貌に、かすかに母の面影を感じた。


 胸の奥が妙にざわめき、息が詰まりそうだった。

 ふとした仕草が、幼い日の記憶と重なって見えたのだ。


 輪郭。微笑みの癖。目元に差す影。


 ――忘れかけていた、いや、決して忘れられなかった面影が、そこにあった。



 思い返せば――


 幼い頃、母の葬式をした記憶などなかった。


 この墓に刻まれているのも、父の名だけだ。


 まさか……いや、そんなはずは――。


 けれど、彼女が呼んだ父の名が、その可能性を否定しきることを許さなかった。



「……母さん、なのか……?」


声は、自分のものとは思えないほど震えていた。



 貴婦人は間違いに気づいたのだろう、一瞬きょとんとし、青年を見つめた。


「……失礼しました。昔の知り合いと雰囲気が重なってしまい、私こそ勘違いしてしまったようですわ。


 ですが、もしかして貴方もどなたかとお間違いではなくて?


 申し遅れましたわ、私――桜花院と申します」



 その声音は礼儀正しくも、どこかよそよそしい――距離のある響きだった。


(……喋り方が違う……やっぱり別人か? でも……)


 かつての母は、もっと歯切れがよくて、


 「〜だ」「〜しなさい」と男衆にも引けを取らない口調で笑い、叱り、ときに怒鳴った。


 目の前の貴婦人が口にする「〜ですわ」「貴方」などは、


 幼い日の記憶にある母の声とは、あまりにかけ離れていた。



 ――それでも、青年は期待するように一歩、近づいて名乗る。


「●●だよ、母さん……だよね……?」


 しかし、返ってきたのは戸惑いを含んだ声だった。


「えっ……? え……? ●●? 誰? どなた……? 私をご存じなの……?」


 ほんの一瞬、空気が止まったかのように感じた。



 胸の奥で、どうしようもなく冷たいものが広がっていく。



 青年は母が自分を忘れていると気づいた。


 だが、その事実を認めたくなかった――。


 青年の胸が痛みに締めつけられる中、


 貴婦人は青年の顔をじっと見つめ――目元や口元を、何かを確かめるように順に追った。



 それは……その視線は、忘れてしまった、


 けれど大切だった“誰か”を漠然と探す仕草だった。


 やがて、固く閉ざされていた記憶の錠が、きしむ音を立てながら、ゆっくりとほどけていき、貴婦人は、小さく息を呑む。



 唇が微かに開き、うわごとのように呟いた。



「●●⋯⋯? ●●⋯⋯。


 え……? そんな……貴方は……?


 でも……そんなはずは……


 あの子は……たしか、まだ5つにも……」


 その瞬間、彼女の瞳が大きく開き、解かれた記憶が一気に押し寄せる。



 そして、彼女はその場に泣き崩れた。


 力が抜けたようにその場へ膝をつき、見開いた瞳のまま、彼女は小さく震え出す。


「そんな……そんなに……。


 あぁ⋯⋯! なんてこと! あぁあぁっ⋯⋯!!


 ごめんなさい! 私⋯⋯! 私は⋯⋯!!」


 かすれた声が、涙とともにこぼれ落ちる。



 耐えきれず、彼女は顔を覆った。


 肩が大きく震え、指の隙間から、押し殺すような嗚咽が漏れ続ける。


 言葉にならぬ叫びが、喉の奥から漏れ出していた。


「寂しい思いも……辛い思いも……たくさん、たくさん……させてしまって……本当に……ごめんなさい……」


 それは、言葉ではなく、十数年の空白のすべてを埋める――祈りのような謝罪だった。


「まさか……会えるなんて、思ってもみなかったの……」



 再会を果たした母の言葉に、青年の唇がわずかに震えた。


「……俺もだよ……母さん。


 母さんは死んだって……周りはみんな、母さんは死んだって言うだけで……俺には何も教えてくれなくて……てっきり父さんの後を追ったとばかり……。


 ……今は“桜花院”と名乗っているのか」


 母は涙を拭い、かすかに頷く。


 一瞬だけ目を伏せ、苦い微笑を浮かべた。


「ええ……そうよ。周りからは、本当になにも聞いていないの?」


「みんな、口を揃えて母さんは死んだって……それだけだった」


 声はかすれていた。



 驚きと困惑、安堵と喜び――その全てが胸の奥でせめぎ合い、


 何が一番強いのか、自分でもわからなかった。


 だが、再会の喜びでほんの一瞬ゆるんでいた胸を、母の姿が容赦なく打ち砕く。


 20年近く前に父は亡くなっている。


 十数年ぶりに再会した母が父の子を宿しているはずがない。


 ――母さんを、誰かが妊娠させた。


 家を背負う一族の当主としての務め。


 母親として、たった一人遺された息子を育てる責任。


 そのどれも果たさぬまま自分の前から姿を消した母は――知らぬ誰かに抱かれ、子を宿していた。


 その事実が刃のように胸を抉り、膨れた腹から目を逸らそうとしても逸らせなかった。


 なぜ――どうして母さん


 言葉を選ぶ余裕などなかった。


 こらえきれずに、喉まで出かかった言葉が溢れ出す。


 沈黙を破るように、堰を切ったように――。


「今までどこにいたんだ?! なぜ俺の前から姿を消した! 今まで何をしていたんだ……!


 母さんがいなくなった後、俺がどんな想いで過ごしてきたと思って……。


 そのお腹の子は? ……答えてくれ、母さん!」



「…………」


 成長した息子に妊娠を知られた母は、


 我が身の恥に耐えきれず顔を伏せ、しばし沈黙した。


 青年の問いが、触れられたくなかった現実を突きつけていた。


 彼女は喉まで出かかった言葉をのみ込み、


 やがて目を伏せたまま、静かに問い返した。


「……あまり、良い話ではないわ。


 貴方は……知らない方がいいの……。


 でも――黙ってしまうのは、もっと不誠実だと思う。


 貴方が望むなら私は真実を語るわ。


 ……どんな理由があろうとも、私が貴方を捨てた事は事実なのだから。



 それでも――本当に、知りたいの……?」


 声は、かすかに震えていた。


 青年は黙って頷いた。


 目を逸らさず、ただ真正面から、母を見つめていた。


 その瞳に、怒りも責めもなかった。


 ただ、“今、母から直接聞かなければ一生後悔する”――


 そんな確信だけが、そこにあった。


 貴婦人は、そっと息を吸った。


 何かを決意するように目を閉じ、長く吐き出す。


 ――話さなくてはならない。


 その不貞を。


 なぜ我が子を独りにしてしまったのか。


 どれほど母としての資格を欠き、いまもなお、愛する者達に顔向けできぬ存在であるか……己の不徳さを。


 それを語ることこそ、母として何ひとつしてやれなかった年月への、せめてもの償いなのだと。


 いまの自分を、息子の前にさらけ出さねばならないのだと


 ――彼女はようやく悟り、心を決めた。



「……お腹にいる赤ちゃんは……■■を殺した男の子供よ……。


 貴方の父を殺した男の子供を、私は孕んでいるわ」


「なんで……どうしてそんな奴の子供を母さん!」


 青年は思わず口を挟んでしまう。


 一度、言葉を止めてから、母は絞り出すように続けた。


「…………私は、再婚したの。あの方に見初められてしまい……」


「無理やり結婚させられたってことか?!」


「ええ。⋯⋯まだ知りたい? 本当に聞きたいの?」


「……俺はずっと知りたかったんだ。母さんが突然いなくなった、あの日に何が起きたのか……教えてくれ。


 父さんの後を追ったのなら信じられた! でも、母さんは生きていた! 


 あの日、何があったんだ!?」


「……あの時の私は、誰の妻にもなる気はなかった。


 あの人を亡くしたあと、言い寄ってくる男達は何人もいたわ。


 なかには貴方の良き父親になってくれるだろう人もいた。


 でも、だれもあの人を忘れさせてくれるような人はいなかった。


 そんな折、あの方が私たちの家の近くに来ると聞いたの。夫を殺した貴人が――


 仇を討てるかもしれない、そう思ってしまったのよ」


 抑えていた声が、堰を切ったようにあふれる。


「ごめんなさい! 全部私が悪いの! あなたのことを思えば、そんなこと考えるべきじゃなかった!」


 それは叫びにも似た悲鳴だった。



 母は涙を拭い、声を抑えて続けた。


「それで、私はあの方に勝負を挑み……敗れたの。


 あの方は敗北した私に向かって言ったの。


『我より一回りほども年上の、趣味から外れた子持ちの年増。適当にあしらって終わりにするつもりだったが、その尋常ならざる膂力は欲しいな。


 そうだな、そなたに我が“子”を産ませよう』と。そして、その場で私の身体を奪ったの」



「犯されたとき私は――


『やめろ! 抜け! 死んでやる!


 お前の子供なんて絶対に産むもんか!


 お願い……抜いて……』と必死に叫んでいたわ。


 けれど、その思いは誰にも届かなかった。


 私が貴人()の側近の女性に助けを求めても、ただ『気持ちはわかります……でも、これは名誉なことです』と繰り返すばかり……。


 そうして()が終わると、


 あの方は『これからは武なんて捨てて女らしくするんだ』と身勝手な事を言って、そのまま力ずくで連れていかれたの」


 唇が乾いて震える。

 それでも彼女は、言葉を紡ぎ続けた。


「そして私は、自ら命を絶つことすら許されないまま、


 ()()()()()ほど簡単に、あの方の子を身籠ってしまい、


 今の私は、あの方の妃となってしまったの」




 母は父を殺した男に(けが)され、妻にされていた――。


 その現実は、残酷に胸をえぐった。


 母のその声には、憎しみとも嘲りともつかぬ苦い響きが混じっていた。



「……私だけでは……なかったのよ」


 青年の肩が、かすかに揺れた。


「あの方は、優秀な子供を産ませるために、血筋や才覚のある女を集めているのよ。


 屋敷には、すでに同じように連れてこられた大勢の美女たちがいたわ。


 その多くは高貴な家柄の女性で、名家や旧家の出身者ばかり、


 名門から献上された貴族の娘も少なくなかったの。



 妊娠すれば娶って頂けるわ。


 あの方の妻として優雅で豪奢な生活が約束されている。


 私はその中でもいちばん年嵩ですわ。


 私が娶られたときは、たしか二十八番目だったかしら。


 今はもっと多いわ……若く美しい娘たちが次々と迎え入れられているの」



「母さんは14年前……俺の前から消えたあの時からずっとそいつのところに?」


「ええ。あの日、あの方に見初められた私はこの14年間、毎年のようにあの方の子供を産まされていたわ」


「そんな……! ならお腹の子は……」


 母は静かに頷いた。


「ええ、そうよ……、お腹の子は一人目ではないわ。


 私は既に十三人もあの方の子供を産んでいる……。


 男の子が七人、女の子が六人。


 今お腹にいる赤ちゃんは十四人目よ。


 ふふ……信じられないでしょう?」


 母の大きく膨らんだ腹が、ひどく生々しく目に映る。


「じゅ……十四人目……そんなに……」


 知らぬ間に、種違いの弟妹が十三人もいる衝撃の告白に、青年は息を呑んだまま固まった。


 母親が妊娠している事実だけでも受け入れ難い。


 だというのに、お腹にいるのは十四番目の子供だ。貴人は母さんに(はら)のあくヒマも与えず孕ませ続けていた。


 信じられないのではなかった。ただ、感情がその現実を受け入れることを拒み続けていた。


 喉の奥から胃液がこみ上げる。頭の中が握り潰されそうに痛み、どうにかなってしまいそうだった。


 青年の視線は、思わず母の腹へと落ちる。

 

 だが、そこに目を向けたこと自体に戸惑いを覚え、すぐに逸らした。


 母はお腹を優しくさすりながら、ほんの小さく息を吐いく。


「……ほとんどの者はね、屋敷に迎え入れられてから半年たつ頃には子宮が耐えきれずに廃人になる。


 ただ体を弄ばれ、穢されただけの石女(うまづめ)として故郷に送り返されるの。


 実際、もう子を宿せるような体ではなくなっているわ。


 妊娠して娶られたとしても、一人か二人産んだ頃には、体は壊れて子を宿す力を失くし、


 あの方の子を“産む道具”としての価値を失う……。


 そうなれば、屋敷や財を与えられて、“子の母”としては手元に置かれはするけれど、ある程度の自由は得られるのよ。


 でも――私は、運が悪かったの」


 静かに目を伏せながら、母は続けた。


「……私は体が丈夫すぎたの。

 だから、まだ子を身籠めてしまった。


 私の子だとしてもおかしくない年頃の娘たちが次々と迎えられては、体を壊して、いなくなっていくのに。


 私は……こんな歳になってもなお、孕まされ続けて……」


 その声には、憎しみとも嘲りともつかぬ苦い響きが混じっていた。


 まるで毒を吐くような言葉がゆっくりと落ちていく。


 母親の口から語られた内容は細部が濁されていた。


 だがそれだけで想像を絶する陵辱を受け続けたのが痛いほど伝わってくる。



 青年は母を辱めた男に対する憎悪が胸の奥で黒々と渦を巻く。


 なにせ十八年も前に自分を産んだ母親だ、もう若い体ではない。


 女の盛りを過ぎてもなお美しい容姿を保ってはいるが、その艶やかさは若さではなく、熟れた果実のような色香へと変っていた。


 本来なら子を産むような年齢はとうにすぎている。


 それなのに、その腹は痛々しく無惨にも大きく膨らんでいた。


 胸の奥にせき上がってきた感情は怒りだったのか、悲しみだったのか――


 それすら、もう自分でもわからなかった。



 事実、かの貴人にとって女なぞ、伴侶でもなんでもなく、

 優秀な子供を産ませるための器であり、性欲を処理する目的の精液便所でしかない。


 側近の女もまた、その血に宿る才を狙われた末に、絶対の服従を誓い、


 数度の出産を果たしたすえ子宮は壊れ、子を宿せない体になっていた。


 貴人が“青年の母”を見初めた頃には、側近の女は既に孕めなかったが、


 それでもなお従順さと体の具合の良さを理由にそばに置かれ、日常的な性処理に酷使されている。



 すすり泣く母は、膨れた己が腹に視線を落とした。


 一瞬だけ迷うような沈黙のあと、


 母の手は膨れた腹に触れかけて一度止まり……やがて震えるように包みこんだ。


 まるで、自分自身を叱るように、そして赦そうとするように――。


 母は、涙を拭うと口を開く


「……貴方が私を恨んでも、仕方ないと思ってるわ。……むしろ、恨んでほしい。


 今の私には――貴方を置いていった私には、それしか貴方に与えられるものがないの……」


 大粒の涙をこぼし謝り続ける変わり果てた母の姿は哀れに思える。


「そうだ、そんなことないよ……母さん、一つだけあるよ」 


 青年は震える声で問いかけた。


「一族の当主だけが知る一子相伝の奥義があるんだろう? 俺に教えてほしい。


 ……周りから、存在だけは聞いたことがあるんだ」


「…………っ」


 母の瞳が一瞬揺らぎ、言葉が喉で詰まる。


 迷うように目を伏せ、やがて絞り出すように答えた。


「……ごめんなさい。


 その技は……もう私の手には無いの。


 あの日から、私は一度も剣を握っていない。鍛練すら許されなかった。


 ……だから、貴方には教えられないわ。


 それに、奥義はすでに受け継がれているの」


「受け継がれている……? それは誰に……誰に教えたんだ!」


 思わず青年の声が荒ぶ。胸を抉るような疑念がこみあげる。


「それは……」


 母は思わず言い淀み、唇がかすかに震え、声が途切れる、


 けれどその先の言葉はどうしても続かなかった。



 ――そして、その沈黙を破るように。


 墓地の入り口から、一人の少女が姿を現した。


 13、4歳ほどだろうか。年の頃に似合わぬ長身で、自分と同じくらい背丈があるその少女は、


 母と同じ、絹糸のような美しく艶やかな長い黒髪を腰まで流し、


 その髪に手の込んだ飾り紐を結い添えた姿で、高価そうな布地の衣を風に揺らしながら、


 少女は母の姿を見つけると、小走りで駆け寄ってきた。


 その足取りには、かつての母と同じ、無駄のない美しい重心移動があった。


 自分は何年もかけてようやく近づきつつある武芸の構えを、この少女は生まれつき備えたかのような動きで、無意識のうちにやってのけている。


 青年は、見知らぬ少女のその才に、なぜか胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚を覚えた。


「お母様、大丈夫ですか? 『昔付き合いのあった殿方のお墓参り』だなんて言って、私を参道の休憩所に残して一人で行ってしまうから……。


 もう臨月もいいところなのですから、あまり無茶はなさらないでくださいね」


 そう言ってから、青年の母を「お母様」と呼ぶ黒髪の少女はふと気づいたように青年へと視線を向けた。


 その瞳が、一瞬だけ驚きに揺れる。


「あの……この方は?」


 母さんはすぐに少女へ微笑みながらまず少女にむかって告げた。


「この方はね、私が貴人(お父さん)に出会う前に、一度だけ本気で好きになった人がいてね。……この方はその人と○○さんの息子さんなのよ。


 久しぶりに会って時間を忘れて話し込んでしまったのね」


 そこに嘘はなかった。……でも、真実でもなかった。


母さんは一瞬だけ逡巡し、青年に向き直すと続けて言った。


「この子は、私の娘になりますわ」


 青年はその言葉を聞いた瞬間、息を呑んだ。


 ――やはり、そうなのだ。


 目の前の母さんを「お母様」と呼ぶ黒髪の少女は、


 母さんが産まさせられた、あの男の血を引く存在――俺の……妹。


 母の言葉に少女は目を丸くして青年を見つめ、


 小さく姿勢を正すと、鈴を転がすような声で名乗った。


「はじめまして。貴人(お父さま)桜花院(お母さま)の娘、▲▲と申します」


 そして次の瞬間には、はしゃぐように声を弾ませ、続けた。


「まぁ……お母様、もしかしてこの方は……昔お母様が恋をしていた、その方に似ていらっしゃるのかしら?」



 少女は好奇心に駆られたように、青年の肩や腕にそっと触れる。


 細い指先で筋肉の硬さを確かめると、目を輝かせて小さく頷く。


「あら……貴方、武道を嗜んでいるのでしょう?」


 そう言い終えるや否や、少女は一歩下がると、にこりと笑みを浮かべた。


「じゃあ――ほんの少し、腕前を試させてくださいな?」


 軽やかな声と同時に、強烈な一撃が空を薙いだ。


 予想外の事に、青年の体は反応が遅れ、咄嗟に身を引いた拍子に足をもつらせ、尻餅をついてしまった。


 その身のこなしと一撃の重さに、青年は息をのんだ。


 ――間違いない。あの尋常ならざる膂力りょりょくは、一族にときおり生まれる特異な体質。


 母さんが持っていた、その血に宿る力を妹は確かに受け継いでいる。


 青年は呆然と少女を見上げた。


「…………!」


 少女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに楽しげに口元をほころばせる。


「すごい! この一撃を避けるなんて。


 お母様の御家の長子だけが受け継ぐ一子相伝の“奥義”なのですよ。


 初見でかわしたのは……お父様くらいですわ」


 少女は胸の前で手を重ね、少し誇らしげに微笑んだ。


「お父様は、とても強いんですの。


 それでいて優しくて、困ってる人を見捨てた事のない……誰よりも立派な方ですわ。


 私も、貴人(お父さま)のようになれるよう、日々精進しておりますの」


「……奥……義……?」


 だが青年の耳に届いていたのは、


 少女の口にした()()言葉だけだった。


 少女は誇らしげに胸を張る。


「ええ。私はお母様の長女として、十歳のときにこの技を継ぎましたの」


 その言葉の意味を理解した瞬間、青年の心臓が不意に強く脈打った。


 本来なら、その「長子」は自分であったはずだ。


 だが母が自分の存在を忘れ、別の子……姫君に“長子の証”を与えた。


 もし、自分も母と同じ体質を継いでいたなら――姫君は血の繋がりを感じ取ったかもしれない。


 けれど青年の母は彼に一切何も与えなかった。


 喉の奥に、言葉にならない苦みがこみあげてくる。


 そのとき、母の鋭い声音が割って入った。


「やめなさい! ……勝負にならない相手に無理な手合わせを願ってはいけないわ。


 力の差は解ったでしょう? 貴女はもう、若い頃の私より強いの。


 彼は貴女に、とても……かなわないわ。お願い……やめてあげて……」


 母の声音が落ちる。


 その響きは、姫君が青年に怪我をさせないよう守ろうとする優しさだったのかもしれない――。


 だが、それは青年に押された烙印だった。


 胸の奥に冷たい刃が突き立つ。


 守られたのではない。母にそう断じられたのだ。


 ――母は目の前の少女の勝利を疑っていない。


『勝てない』と言いきられた言葉が、耳から離れない。


 実際、その一撃は見ることもかなわなかった。


 そこにいる少女は――


 母さんが俺には与えなかった才。

 俺が欲しくてたまらなかった愛。


 どれほど望んでも得られなかったものを、惜しみなく当然のように一身に注がれて育っていた。


 喉の奥にこみあげてくるのは――怒りでも悔しさでもなかった。


 ただ――裏切られたような、暗い苦みだけだった。


 そんな青年の気持ちなどお構いなしに、姫君はむくれて言う。


「むぅ。お母様は“剣士の心”ってのがわかってないんです」


「▲▲!


 あとでお師匠さまに叱ってもらいますからね! 


 まったく、これからの時代、武道なんてなんの意味もないんだから、


 他人様(ひとさま)の前でそんな()()()()()真似をしては駄目よ」


 母の声音が少し鋭くなった。


 少女ははっとして手を引っ込め、小さく肩をすぼめて、口元に手を添えた。


「あぅ……ごめんなさい……」


「この前も、異母姉兄(きょうだい)達と喧嘩して怪我をさせたばかりなのに。


 もう、誰に似たのかしら……もう少し()()()()()に育って欲しかったわ」


「でも、お母様だって――」


 少女は小さく口を尖らせた。


「お母さまだって、お父様と結婚する前は

 上流階級の作法なんて何も知らなくて、


 周りの奥の方は高貴な生まれの方が多かったから、


 恥をかいて笑われないように自然と作法を覚えたって言ってましたじゃないですか」


 母の眉がごく僅かに引きつる。


「お父様は喜んでいましたよ? 


 私、ちょっと力が強いみたいで……お母様ゆずりだって。お母様を選んで正解だったって」


 その言葉に母の目も一瞬だけ陰りを帯びたが、すぐに穏やかな笑みに戻った。


「ほんとにあなたって子は……」


 母はそう言いながらも、どこか楽しげに笑っていた。



 青年は、そのやり取りをただ黙って見つめていた。


 そこには、"母と娘の、ごく自然な親子の時間"があった。


 胸の奥が締めつけられるような苦しさを感じる。


 ――自分にとっては母との唯一の繋がりだと信じていた武道も、


 母にとっては、結局なんの役にも立たない、意味のないものだったのだろうか……。


 青年は目の前の母と異父妹のやり取りを見つめ続けていた。



 彼がふと目をやると、姫君は母にたしなめられたのを気にして花を供えるふりをしながら少し墓前から離れていた。


 母と青年の会話を遮らぬようにと気を配り、距離をとって佇んでいる。


 そのため、これから交わされる言葉は、貴婦人と青年の二人だけのものとなった。



 青年はしばらく言葉を飲み込み、立ち尽くした。


 胸の痛みをどうにか押し殺そうとしたが、その重さに耐えきれなかった。



 彼は、絞り出すように問いかけた。


「このまま貴人(アイツ)の屋敷に戻るのか?」


 貴婦人は、しばし黙ったあと、静かに目を伏せた。


「あの方はね……もう私が“逃げない”って、心底思ってるのよ。


 私が、あの子たちを置いてどこかへ行くような女じゃないって――あの方は、誰よりもよくわかってるの……」


 その声には、怒りも反発もなかった。ただ、すべてを呑みこんだ母親の声だった。


「――ごめんなさい……」


 少し唇を震わせてから、彼女は続けた。


「確かに、私はかつて――貴方の、貴方“だけ”の母親でしたわ。


 でも今の私は、桜花院と名を改めて……別の名で生きているの。


 あの屋敷には、私の帰りを待っている子どもたちがいるわ。


 たとえ正しき逢瀬ではなかったとしても、


 生まれてしまった子どもたちを私は愛している。


 ……母親として、あの子たちを私は見捨てられない」


 そう言ってから、貴婦人はふと視線を落とし、膨れた腹をそっと抱え込むように包みこんだ。


「……それに今は、昔のように閉じ込められているわけじゃないの。


 あの方の屋敷から今の屋敷に移された後は、許しさえあれば外にも出られるようになったの。


 けれど――それでも私は、

 逃げたら貴方(あなた)を害すると言われていたわけでもないのに、


 今の今のまで息子(あなた)の存在すら忘れ、貴方のもとへは行かなかった。


 再会したときですら貴方が息子だとすぐには気づけなかった私に――もう貴方の母を名乗る資格はないわ」



 その言葉は、胸の奥でわずかに残っていた糸までも断ち切った。


 再会の瞬間から、


 どこかで信じていた“また母と一緒にいれるのではないか”という想いが、跡形もなく消えていく。


 気づけば足元から力が抜け、世界が一歩、遠ざかっていくようだった。


 貴婦人は赤子の宿るボテ腹の曲線を、愛おしそうに優しくゆっくりとさすっている。


 その仕草には、言葉にならない矛盾が滲んでいた。


 いま宿す命を慈しむようでいて、それがもたらした別れを悔いるように。


 愛おしむようでいて、どこか疎ましそうに――。


 彼女の指先は、まるで何かを許そうとして、 それでもどこかで赦せないものを抱えているかのようだった。


 ひとしきり腹を撫でた後、彼女はふっと微笑み、淡々と告げた。


「……他の女性(ひと)たちのように体を壊すこともなく、


 子供たちにかこまれ、優雅な暮らしをさせていただいて……私は恵まれておりますわ」



 青年には、その姿がひどく遠く見えた。 自分とはもう交わらない、別の人生を生きる者の姿として……。


 青年は母の背にすがるように言葉を落とした。


「また……会えるよね…?」


 貴婦人は青年の目をまっすぐ見ることができず、視線をそっと逸らした。


「私たちの住まう屋敷のある場所は、とても……とても遠いところよ……。


 今の私は、あの方の……伴侶……ですもの……。


 ……ごめんなさい……赦して」


 そう言い終えた母の唇は、ほんのわずかに震えていた。



 貴人の『妃』。


 その語が意味するものを、青年は遅れて理解した。


 貴人とはこの国の頂に連なる男だと。



 ——“桜花院”。


 ただの後妻でも、囲われた愛人でもない。


 その貴人が、正式に名を与え、座を与えた女の一人。


 もう——自分の手が届く場所に、母はいない。



 その静寂を破るように、遠くで花を供えていた姫君が歩み寄ってくる。


「お母様、そろそろ行きましょうか。……弟妹(きょうだい)たちが、母様を待っています。


 せっかくお父様が、長年仕えたお礼にと新しいお屋敷を与えてくださったんですもの、


 初めての遠出であまり時間がかかるとお父様にも心配されますよ」


 その言葉に、貴婦人の瞳が一瞬だけかすかに揺れた。


 ほんのわずかに視線を伏せたが、すぐに微笑みで覆い隠す。


 けれど、その笑みの奥には、誰にも悟られぬように押し殺した影が滲んでいた。


 そんな母の心の色を知るわけもなく、少女はどこか呆れたように笑いながら、母の手をそっと引いた。


「本当に――母様のことになると、父様は過保護すぎますよね。


 母様が故郷に里帰りしたの、今回が初めてなんですもの。


 この里帰り自体お父様には内緒なのですから、


 初恋の殿方のお墓参りなんて知ったら父様が……また鍵を閉めてしまうかもしれません」


 ――それは、無邪気な冗談のつもりだったのだろう。


 だがその言葉に、貴婦人の肩がぴくりと震えた。


 ほんの一瞬、過去の記憶が脳裏をよぎったかのように、彼女は目を伏せた。


「……ええ、そうね。帰らなければ……、


 あの方を、これ以上待たせては……叱られてしまうわ」


 ――その口調には、喜びよりも、どこか諦めにも似た静けさが滲んでいた。


 ……そんな空気を破るように、軽やかな声が続いた。


「お母様がお屋敷から移った後も、お屋敷へ足しげく通われて、


 相変わらず、お二人は夢中で仲睦まじいですもの」


 少女はそう言って、何でもないように微笑んだ。


 貴婦人の瞳が一瞬だけかすかに揺れ、唇がわずかに開く。


 「――お願い……やめて。彼の前でそんな嘘……言わないで……」


 しかし、その言葉はかき消されるように、横から茶化すような声音が割り込まれる。


「嘘なもんですか。

 

 娘の前でも、お父様にいつもべったりで……お母様は、毎年毎年『歳が歳だからこの子で最後かしらね』って言いますけど」


 少女は、笑いながら母の大きなお腹を指差した。


「そのお腹で言います?


 弟妹(きょうだい)が多いのは楽しいですが、年頃の娘がいることも考えてください」


 貴婦人は、今度は静かに視線を落とした。


 一瞬だけ息を飲み込み、言葉を選ぶように口を開く。


「……本当に、この子が最後よ……」


 口元がかすかに引きつるが、それを悟られまいと笑みに変える。


 少女は青年を一瞥し、それきり視線を落としたあと、ふと母を見上げた。


「そんなお母様にも恋する乙女の時代があったのですね。


 てっきりお母様の初恋の相手は、お父様とばかり……」


 貴婦人はわずかに息を呑み、沈黙ののち、小さく呟いた。


「……あなたが生まれる前のことよ……」


 その口元は、かすかに引きつっていた。


 少女は母のその反応に、特に気づく様子もなく小さく頷いた。


「お母様が失恋してからお父様にどんなふうに出会ったか……今度教えてくださいね?」


 少女の言葉は何の疑念もない、幸福な家族の記憶だった。


 貴婦人はその言葉に小さく目を見開いたが、


 それを壊してはならないと、


 すぐに伏し目がちに曖昧な微笑みを浮かべる。


 応える声は、最後まで返ってこなかった。


 (ああ……母さんが今になって墓参りを……この土地に近づく事を許されたのは、もう彼女が逃げれないとわかってるからだ)


 青年が無力感に立ち尽くしていると、


 ふと、母は青年の方にだけ視線を向け、微かに唇を動かした。


 一瞬、少女が振り返りかけたが、母は穏やかな笑みで誤魔化すように肩を撫でる。


 その声はごく小さく、少女には聞き取れないほどだった。


「……せめて、一度だけでも……お別れ、言いたかったの。


 ……()()()()……最後に貴方に会えて、本当に……良かった……。


 かつての私なら、目をつぶっていてもこの墓所にたどりつけたでしょうね……。


 亡くなった■■さんは貴方のような息子を持って誇りに思ってるはずよ。


 ごめんなさい――さようなら……」


 その言葉には、懺悔と名残惜しさが込められていた。


 そしてそれは――二度とは戻れない場所への、静かな別れの言葉でもあった。


 青年は、その声を黙って受け止めていた。


 貴婦人の背には、消えきらない未練の影が漂っていた。


 それでも彼女は、かつて愛した者たちに静かに背を向け、


  一度も振り返ることなくそのまま静かに歩み去っていった。



    ◇



 青年は、誰もいなくなった墓地にただひとり佇んでいた。


「――さようなら……か……」


 母の言葉の余韻が消えず、胸の奥にどうしようもない空洞が広がっていく。


 頭では理解していた――いや、理解してしまったのだ。


 ああ……母が自分に語ったのは、過去のほんの一片でしかなかったのだ……。


 拉致の日のことは口にしても、


 貴人のもとで過ごした日々について、母はほとんど語ろうとはしなかった。


 名を改めさせられて以来、


 かつての名を呼ばれることも、自ら名乗ることもなくなって久しい。


 優雅で豪奢な別世界暮らしに身を置くうちに


 いつのまにか、 話し方までもが()()()のものとはすっかり変わっていたのに――


 母自身は、その変化に気づいていないようだった。


 思い返してみれば、母に育てられたのは、わずか5年にも満たない。


 亡き父との夫婦生活を入れても、せいぜい5年ほどだ。


 対して、貴人との歪な婚姻関係は14年も続いている――あの子たちは10年以上も共に過ごしてきたのだ。


 過ぎ去った年月を思えば、貴人との夫婦生活の方がはるかに長い。


 故郷での記憶はすでに薄れ、


 毎朝通っていたはずの愛した夫が眠る、先祖代々の墓所がどこにあるのかさえ忘れて、


 あれほど溺愛していた一人息子の存在すら覚えていなかったのだ。


 生まれた子供たちと10年以上も共に過ごしていれば、情もわく。


 もう、母にはあちらで家族がいるのだ――そこに、自分の居場所はどこにもない。


 

 十数年にわたる貴人との夫婦関係は、


 亡き父の妻であり、自分の母として生きた、その半生(はんせい)を塗り潰した。


 故郷に戻り、誰に取り繕う必要もないというのに――たとえ息子だと気づかなかったとはいえ、


 母は“桜花院”を名乗っていた。


 きっと母は、今日ここに“かつての人生”と決別するために来たのだ。


 自らの意思で“かつての自分”に別れを告げるために……。


 ……それでも、胸の奥では、何かが崩れていく音がした。


 母はもう、自分と会うつもりはないのだ。二度と会うこともないのだろう――。


 妹は……姫君は父と母の出会いが拉致であり、


 そして――強姦だったことなど、きっと知らない。


 母は、自分の存在すら知らせていなかった。……兄だと、紹介もしてくれなかった。


 身分違いの恋を叶えた父と、幸福な母。


 二人が愛しあって生まれた大切な"愛の結晶"。


 事実、相手は憎き仇の貴人にもかかわらず、貴婦人の心は靡いていた。


 その後に生まれた他の弟妹(きょうだい)達も、両親が相思相愛だと……何も疑いなく、信じている。


 ……あの少女は、自分が今まで積み重ねてようやく背中が見えてきたことを、たやすくやってのけていた。


 それは母が自分には与えなかった才能と、


 周りがあの少女に与えた環境の差か


 ――いや、そんなことはもうどうでもいい。


 ただ一つ確かなのは、


 母の隣に立っているのは、あの少女であって自分ではないということだった。


 言葉にならない何かが喉までこみ上げてきて、


 それでも、声にはならなかった。



 ――母は、新たな人生を歩んでいた。


 亡き父はどう思うのだろうか……。


 もし母が、死別の悲しみを乗り越え、


 自ら望んだ新しい恋へと歩んだのなら――きっと父は祝福しただろう。


 だが現実は、貴人が我が一族の特異体質を欲して母を奪い、


 ただ子供を産ませるためだけに抱え込んだに過ぎなかった。


 貴人の胤は子宮に根を張り、


 母の才能を吸い尽くして生まれた娘は両親の血を色濃く継いでいた。


 もし、あの日の出来事が、母が貴人に陵辱を受けただけの被害で終わっていたなら、


 母との関係は今とは違う運命を辿ったはずだ。


 だが、断ち切られた母子の絆はすでに朽ち果てていた。


 あの人は――もう自分の母ではなかった。



 ――もしも、母が奪われることがなければ。


 いや、もしあの時、自分も共に連れて行かれていたのなら――。


 あの少女の隣に立ち、母と笑い合う自分がいたのかもしれない。


 それは、もう二度と手の届かない“()()()”の夢だった。



 胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちていくのを、受け止めるしかなかった。


「……っ、う、あ……ぁ……っ、あ……あああああ……っ!!」


 引き裂かれるような声が、誰もいない空へと響いた。


 それは、もはや声とも呼べない、震えるような慟哭だった。



    ◇


 後日、青年の父が眠る墓石には、


 貴婦人のかつての名――青年の“母の名”が刻まれた。


 そして、貴婦人が失踪の日から()()()()()“彼女が彼女であった証”として、決して手放すことなく守り続け、


 あの日、一族の墓前に捧げることで自ら手放した、彼女が“青年の母であった証”が、彼女の“遺骨”としてそこへ納められた。



 貴婦人がこの地に足を運んだのは、


 それが最初であり――そして、最後だった。


 母親を迎えに来た姫君も、青年が種違いの兄だということに


 ――生涯、気がつくことはなかった。



    ◇◆◇


 人が言葉にできぬ思いを抱えたとき、


 それは時に、行き場をなくし心から零れ落ちる。


 ――この母子(おやこ)の別れを由来とする、十の情念。


 “断絶(だんぜつ)”・“未練(みれん)”・“帰属(きぞく)”・“追憶(ついおく)”・“無力(むりょく)

 “虚像(きょぞう)”・“逡巡(しゅんじゅん)”・“贖罪(しょくざい)”・“逃避(とうひ)”・“嫉妬(しっと)


 我ら(アヤカシ)は皆、このときの思いから生まれ、形を得た。


 我が名は時記(とき)


 人に過去の“記録”を見せ、


 和本を形代とする、『追憶』を(いだ)く名。


 我が“恩恵(ちから)”は過去を追体験としての閲覧。


 人の歩みを覗けば、その一瞬だけではない。


 価値観も痛みも愛も、積み重ねた人生ごとその身に宿し、


 まるで当人として生き直すように、その過去を生きる。


 その間、己が己であることを忘れ、


 視る者は“自らがその人物である”と信じて疑わぬ。


 見るは記憶にあらず、出来事そのものの“記録”。


 ゆえに忘却されし事も、無意識に沈んだ事も、ありのままに知れる。


 だが、この恩恵(ちから)には必ず供物を要する。


 我らは『神未満(アヤカシ)』、欠けたモノ。


 満ち足りず、飢えたモノ。


 飢えは欲望を生み、欲望は心を生む。


 それゆえ求め続ける――飢えを……欠けを埋めてくれるモノを……。


 人もまた飢えた存在、欠けた存在。


 故に人は求める……欲望を満たす力を……。


 故に――我らは人に憑く、


 互いを喰らいあい――互いを満たすために……。


 我らは授ける――『恩恵(ちから)』を。


 我らは欲す――欠けを埋め、共に歩んでくれる伴侶を……。



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