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試作1.9(大丈夫かな?)



「……過去を求めるのか?」



挿絵(By みてみん)



「見てしまえば、聞いてしまえば、

もう二度と、“何も知らなかった頃”には戻れぬ」



「それでも……なお望むか」



「知らぬままであれば、

 救われよう。歩めよう。未来を」



「その心が、それに耐えられるとは限らぬ」



「知れば、今が壊れてしまうだろう」



「……再び、問おう――それでも、過去を求めるのか」



「……良かろう」



「ならば見せよう。ならば語ろう。

――()()の夢をもって、我が内に記されし、過去のすべてを」



「――たとえ御前(おまえ)が、御前(おまえ)でいられなくなるとしても……!」





※※※



 ある年の夏――。


 供え物ひとつ満足に買えない暮らしのなかで、それでもこの日だけは、と青年は父の命日に村の外れの墓地へ向かっていた。


 歩きながら、ふと心に過去がよみがえる。


 ――昔、我が家は小さな名家だった。

 貴族のように権力をもつでもなく、莫大な財を抱えていたわけでもない。

 けれど、忠義と勤勉を重んじ、土地の人々に頼られる家柄だった。


 母さんは気が強く、女ながらに武道を嗜み、男たちにも引けを取らぬほどの武芸者であり、

 その地の内外に名を知られる存在だった。


 父もまた才を見込まれて婿に迎えられた男だったと聞く。

 若くしてふたりは結ばれ、ほどなく母さんは俺を身籠った。……だが、その幸せは長くは続かなかった。


 父はとある“貴人”の非道によって命を奪われ、母さんは身重のまま未亡人となった。


 母さんは一度は復讐に生きようとしたらしい。

 だが、遺された俺を独りにしてはいけないと悟り、母さんは俺を深く愛してくれた。


 おぼろげな記憶の中での母さんは、誰よりも強く厳しいが、同時に優しい人だった。


 家の者や村の若者たちには容赦なく鍛錬を課し、怠ければ容赦なく叱りつけた。

 けれど俺にだけは、不思議なほど甘く優しかった。


 木剣を振れば「そこまでできれば上出来」と目を細め、

 字を覚えれば「よくできました」と微笑んで頭を撫でてくれた。

 大きくて少し硬い手のひらの温もりは、今でもはっきり覚えている。


 周囲からは威厳ある女武芸者として恐れ敬われていた母さんが、俺の前では、いつも俺を一番に考えてくれるただの優しい母さんだった。


 母さんと過ごした数年の平穏な日々を、俺は忘れたことがない。


 その間にも母さんには再婚の話も幾度となく持ちかけられていたが、母さんは亡き父を忘れることができなかった。


 けれど、その穏やかな時間も長くは続かず――

 数年後、母さんはまだ20代の盛りを過ぎたばかりという若さで、忽然と姿を消した。


 周囲の大人たちは皆口をそろえて「母は亡くなった」と言った。

 幼い俺に真実を告げれば、無謀に探そうとすると思ったのだろう。


 ――きっと母さんは父の後を追ったのだ。

 俺はやがてそう信じ、受け入れた。


 母を失った家は離散し、俺は古くからの使用人に育てられた。


 そして十数年、十八歳になった俺は今では日々鍛錬を重ね、剣も体の使い方も板についてきているはずだ。

 母ゆずりの武の才は乏しい――それはとうに自覚していた。

 それでもやめることはできなかったのは、顔も知らぬ父と、記憶の中で霞んでいく母との、ただひとつの繋がりだからだ。

 その背中に、わずかでも近づけているという自負があった。


 今日、胸を張って墓前に立てる――そう信じ青年は墓地を訪れた。


 すると、両親の眠るその場所には、

見知らぬ――けれど、どこか懐かしい面影を宿した、身重の貴婦人が立っていた。


その貴婦人の年のころは、母が生きていれば同じくらいか、それより下だろう。

肌は驚くほどなめらか。だがその奥には、長い歳月に磨かれた熟れた色香がただよい、年齢の定まらない不思議な若さをたたえている。


その身を包む衣は、彼が五年は遊んで暮らせるほど高価な淡い金糸を織り込んだもので、ひと目で高貴さを感じさせた。



 それにしても――


 両親が亡くなって十年以上が経つ。

 墓参りに来るのは近親者くらいのはずだが、どんな関係なのだろうか? ――もしかしたら、母が武道を教えた相手なのかもしれない……。


 貴婦人の顔は伏せたままだが、わずかに覗く横顔の線だけでも、彼女が儚くも美しい人であることは伝わってきた。


 だが、その佇まいを見た瞬間、青年は首を振った。

 貴婦人の背筋はわずかに丸まり、足元は不安定で、重心も定まっていない。

 武を学んだ者の身のこなしには程遠い、護身術の心得すらないのだろう。


 それにしても、あんなにもお腹が大きいというのに、付き人もつけずにひとりで……。

 身重な女性をこんな場所にひとりにして、周囲はいったい何をしているんだ?


 青年は、戸惑いと警戒が入り混じる気持ちを抑えながら、その光景を見つめていた。


 彼女は産み月が近いのだろう。大きくせり出した腹を両手で支え、静かに俯いて、足元にある墓石を見つめている。


 その姿は、まるで赦しを乞うているかのようだった。


 肩はかすかに揺れ、吐く息は細く浅い。指先は落ち着かず、ふくらんだ腹に何度も触れては、すぐに離している。

 それは胸の奥に込み上げるものを、どうにか押しとどめようとしているように見えた。


 顔は伏せられていても、今にも泣き出してしまいそうな気配があり、遠目にもその悲しみは滲んでいた。


 青年は思わず声をかけた。


「……重そうなお腹ですね」


 言ったそばから、自分でも場違いだったかと戸惑う。


 けれど、貴婦人はゆっくりと顔を上げた。


 「……ええ。この子の父親に似て、元気すぎるくらい育ってくれていて……嬉しく思いますわ……」


 小さく笑みをこぼしながらも、どこか影を落とした声。


 そして――


 二人の視線が、ふと交わった。

 その瞬間、時間が止まったようだった。


 彼女は、まるで幽霊を見たかのような表情のまま唇が震え、声がこぼれる。


「……そんな……■■……あなたなの……? 殺されたはずじゃ……生きて……いたの?」


 その言葉は、彼女が目の前の青年を、彼の父と見間違えたことを示していた。


 青年もまた、そんな彼女の姿に言葉を失っていた。


 ――その美貌に、かすかに母の面影を感じた。


 胸の奥が妙にざわめき、息が詰まりそうだった。

 ふとした仕草が、幼い日の記憶と重なって見えたのだ。


 輪郭。微笑みの癖。目元に差す影。


 ――忘れかけていた、いや、決して忘れられなかった面影が、そこにあった。


 思い返せば――

 幼い頃、母の葬式をした記憶などなかった。

 この墓に刻まれているのも、父の名だけだ。


 まさか……いや、そんなはずは――。

 けれど、彼女が呼んだ父の名が、その可能性を否定しきることを許さなかった。


「……母さん、なのか……?」

声は、自分のものとは思えないほど震えていた。


 貴婦人は間違いに気づいたのだろう、一瞬きょとんとし、青年を見つめた。


「……失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか? もしや誰かと勘違いされているのではありませんか?」


 その声音は礼儀正しくも、どこかよそよそしい――距離のある響きだった。


 青年の胸の奥に、ひやりとしたものが広がる。

 けれど、貴婦人は青年の顔をじっと見つめ――目元や口元を、何かを確かめるように順に追った。

 それは……その視線は、忘れてしまった、

 けれど大切だった“誰か”を漠然と探す仕草だった。


 目の前の青年の顔をなぞるように、まるで記憶の奥に重ねようとするかのように。

 固く閉ざされていた記憶の錠が、きしむ音を立ててゆっくりとほどけていく


 青年は一歩、近づいて名乗った。

「■■だよ、母さん……だよね……?」


 ほんの数瞬、空気が止まってたようだった。

 貴婦人は、小さく息を呑む。


 唇が微かに開き、うわごとのように呟いた。


「え……? でも……あの子は……たしか、まだ5つにも……」


 その瞬間、彼女の瞳が大きく開き、解かれた記憶が一気に押し寄せる。

 そして見開いた瞳のまま、彼女は小さく震え出した。


 「……あ……あぁ……なんてこと……そんな……そんなに……」


 言葉にならぬ叫びが、喉の奥から漏れ出した。


 耐えきれず、彼女は顔を覆う。


 肩が震え、指の隙間から、押し殺すような嗚咽が漏れ続ける。


「寂しい思いも……辛い思いも……たくさん、たくさん……させてしまって……本当に……ごめんなさい……」


 それは、言葉ではなく、十数年の空白のすべてを埋める――祈りのような謝罪だった。


「まさか……会えるなんて、思ってもみなかったの……」


 再会を果たした母の言葉に、青年の唇がわずかに震えた。


「……俺もだよ……母さん。

 母さんは死んだって……みんなから、そう聞かされていて……てっきり父さんの後を追ったとばかり……」


 声はかすれていた。

 驚きと困惑、安堵と喜び――その全てが胸の奥でせめぎ合い、

 何が一番強いのか、自分でもわからなかった。


 だが、再会の喜びでほんの一瞬ゆるんでいた胸を、母の姿が容赦なく打ち砕く。


 20年近く前に父は亡くなっている。

 十数年ぶりに再会した母が父の子を宿しているはずがない。


 ――母さんを、誰かが妊娠させた。


 家を背負う一族の当主としての務め。

 母親として、たった一人遺された息子を育てる責任。


 そのどれも果たさぬまま自分の前から姿を消した母は――知らぬ誰かに抱かれ、子を宿していた。


 その事実が刃のように胸を抉り、膨れた腹から目を逸らそうとしても逸らせなかった。


 なぜ――どうして母さん


 言葉を選ぶ余裕などなかった。

 こらえきれずに、喉まで出かかった言葉が溢れ出す。


 沈黙を破るように、堰を切ったように――。


「今までどこにいたんだ?! なぜ俺の前から姿を消した! 今まで何をしていたんだ……!

 母さんがいなくなった後、俺がどんな想いで過ごしてきたと思って……。

 そのお腹の子は? ……答えてくれ、母さん!」


「…………」

 成長した息子に妊娠を知られた母は、

我が身の恥に耐えきれず顔を伏せ、しばし沈黙した。


 青年の問いが、触れられたくなかった現実を突きつけていた。

 彼女は喉まで出かかった言葉をのみ込み、


 やがて目を伏せたまま、静かに問い返した。


「……あまり、良い話ではないわ。

 それでも――本当に、知りたいの?」


 声は、かすかに震えていた。


 青年は黙って頷いた。

 目を逸らさず、ただ真正面から、母を見つめていた。


 その瞳に、怒りも責めもなかった。

 ただ、“今、母から直接聞かなければ一生後悔する”――

 そんな確信だけが、そこにあった。


 貴婦人は、そっと息を吸った。

 何かを決意するように目を閉じ、長く吐き出す。


 ――話さなくてはならない。


 その不貞を。

 なぜ我が子を独りにしてしまったのか。

 どれほど母としての資格を欠き、いまもなお、愛する者達に顔向けできぬ存在であるか……己の不徳さを。


 それを語ることこそ、母として何ひとつしてやれなかった年月への、せめてもの償いなのだと。

 いまの自分を、息子の前にさらけ出さねばならないのだと

 ――彼女はようやく悟り、心を決めた。



「……お腹にいる赤ちゃんは……■■を殺した男の子供よ……。

あなたの父を殺した男の子供を、私は孕んでいるわ」


 青年は思わず口を挟んでしまう。


「なんで……どうしてそんな奴の子供を母さん!」


 一度、言葉を止めてから、母は絞り出すように続けた。


「……私は、再婚したの」


「無理やり結婚させられたってことか?!」


「私はあの方に見初められてしまったの。

 あの時の私は、誰の妻にもなる気はなかった。

 あの人を亡くしたあと、言い寄ってくる男達は他にもいたわ。なかには貴方のよき父親になってくれるだろう人もいた。

 でも、だれもあの人を忘れさせてくれるような人はいなかった。


 けれど……、あの貴人の前では、私の意思など何の力も持たなかったわ。


 あの方は、私をその場で(けが)したの。

犯されたとき私は――『お前の子供なんて絶対に産むもんか! お前の子を宿すくらいなら死んでやる!』と必死に叫んだわ。けれど、その思いは誰にも届かなかった、私が貴人()の使いに助けを求めても、

 ただ『でもこれは名誉なことです』と繰り返すばかり……。

 ()が終わると、私はそのまま力ずくで連れていかれたの」


 唇が乾いて震える。

 それでも彼女は、言葉を紡ぎ続けた。


「そして私は……再婚を、強いられたの。

 名を改めさせられ、すべてを忘れさせられて……

 今の私は、その方の妻とされてるの」


 母は父を殺した男に(けが)され、妻にされていた――。

 その現実は、残酷に胸をえぐった。


 母のその声には、憎しみとも嘲りともつかぬ苦い響きが混じっていた。


「……私だけでは……なかったのよ」


 青年の肩が、かすかに揺れた。


「あの方は子供を産ませるため優秀な女を集めているのよ。

 屋敷には、すでに同じように連れてこられた美女たちが何人もいたの。


 妊娠すれば娶って頂けるわ。

 あの方の伴侶として優雅で贅沢な生活が約束されている。

 私が娶られたときは、たしか二十八番目だったかしら。

 ……今もなお、若く美しい娘たちが次々と迎え入れられているわ」



「母さんは14年前……俺の前から消えたあの時からずっとそいつのところに?」


「ええ。あの日、あの方に見初められた私はこの14年間、毎年のようにあの方の子供を産まされていたわ」


「そんな……! ならお腹の子は……」


 母は黙って頷いた。


「ええ、そうよ……、お腹の子は一人目ではないわ。

 私は既に九人もあの方の子供を産んでいる……今お腹にいる赤ちゃんは十人目よ。

 ふふ……信じられないでしょう?」


 母の大きく膨らんだ腹が、ひどく生々しく目に映る。

「じゅ……十人……そんなに……」


 知らぬ間に、種違いの弟妹が九人もいる衝撃の告白に、青年は息を呑んだまま固まった。


 母親が妊娠している事実だけでも受け入れ難い。だというのに、お腹にいるのは十番目の子供だ。貴人は母さんに(はら)のあくヒマも与えず孕ませ続けていた。


 信じられないのではなかった。ただ、感情がその現実を受け入れることを拒み続けていた。


 喉の奥から胃液がこみ上げる。頭の中が握り潰されそうに痛み、どうにかなってしまいそうだった。


 青年の視線は、思わず母の腹へと落ちる。

 だが、そこに目を向けたこと自体に戸惑いを覚え、すぐに逸らした。


 母はお腹を優しくさすりながら、ほんの小さく息を吐いく。


「……普通はね、屋敷に迎え入れられてから半年たっても妊娠しなければ、

 ただ体を弄ばれ、汚されただけの石女(うまづめ)として故郷に送り返されるの。


 実際、子宮が耐えきれずに廃人に……いえ、もう子を宿せるような体ではなくなっているわ。


 妊娠して娶られたとしても、一人か二人産んだ頃には、体は壊れて子を宿す力を失くし、

 あの方の子を“産む道具”としての価値を失う……。


 そうなれば、屋敷や財を与えられて、“子の母”としては手元に置かれはするけれど、ある程度の自由は得られるのよ。


 でも――私は、運が悪かったの」


 静かに目を伏せながら、母は続けた。


「……私は体が丈夫すぎたの。

 だから、まだ子を身籠めてしまった。


 若い娘たちが次々と迎えられては、体を壊してしまい、いなくなっていくのに。

 私は……こんな歳になってもなお、孕まされ続けて……」


 その声には、憎しみとも嘲りともつかぬ苦い響きが混じっていた。

 まるで毒を吐くような言葉がゆっくりと落ちていく。


 母親の口から語られた内容は細部が濁されていた。

 だがそれだけで想像を絶する陵辱を受け続けたのが痛いほど伝わってくる。


 青年は母を辱めた男に対する憎悪が胸の奥で黒々と渦を巻く。


 なにせ十八年も前に自分を産んだ母親だ、もう若い体ではない。

 女の盛りを過ぎてもなお美しい容姿を保ってはいるが、その艶やかさは若さではなく、熟れた果実のような色香へと変っていた。

 本来なら子を産むような年齢はとうにすぎている。

 それなのに、その腹は痛々しく無惨にも大きく膨らんでいた。


 胸の奥にせき上がってきた感情は怒りだったのか、悲しみだったのか――

 それすら、もう自分でもわからなかった。




 すすり泣く母は、膨れた己が腹に視線を落とした。


 一瞬だけ迷うような沈黙のあと、母の手は、膨れた腹に触れかけて、一度止まり……やがて震えるように包みこんだ。

 まるで、自分自身を叱るように、そして赦そうとするように――。


 母は、涙を拭うと口を開く


「……あなたが私を恨んでも、仕方ないと思ってるわ。……むしろ、恨んでほしい。

 今の私には――あなたを置いていった私には、それしかあなたに与えられるものがないの……」


 大粒の涙をこぼし謝り続ける変わり果てた母の姿は哀れに思える。


「そうだ、そんなことないよ……母さん、一つだけあるよ」

 青年は震える声で問いかけた。


「一族の当主だけが知る一子相伝の奥義があるんだろう? 俺に教えてほしい。

 ……周りから、存在だけは聞いたことがあるんだ」


「…………っ」

 母の瞳が一瞬揺らぎ、言葉が喉で詰まる。

 迷うように目を伏せ、やがて絞り出すように答えた。


「……ごめんなさい。

 その技は……もう私の手には無いの、貴方に教えることはできないわ。

 奥義はすでに受け継がれている」


「受け継がれている……? それは誰に……誰に教えたんだ!」

 思わず青年の声が荒ぶ。胸を抉るような疑念がこみあげる。


「それは……」

 母は思わず言い淀み、唇がかすかに震え、声が途切れる、

 けれどその先の言葉はどうしても続かなかった。



 ――そして、その沈黙を破るように。


 墓地の入り口から、一人の少女が姿を現した。


 13、4歳ほどだろうか。

 母と同じ、絹糸のような美しく艶やかな長い黒髪を腰まで流し、

 その髪に手の込んだ飾り紐を結い添えた姿で、高価そうな布地の衣を風に揺らしながら、

 少女は母の姿を見つけると、小走りで駆け寄ってきた。


 その足取りには、かつての母と同じ、無駄のない美しい重心移動があった。


 自分は何年もかけてようやく近づきつつある武芸の構えを、この少女は生まれつき備えたかのような動きで、無意識のうちにやってのけている。


 青年は、見知らぬ少女のその才に、なぜか胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚を覚えた。


「お母様、大丈夫ですか? “昔付き合いのあった殿方のお墓参り”だなんて言って、私を参道の休憩所に残して一人で行ってしまうから……。

 もう臨月もいいところなのですから、あまり無茶はなさらないでくださいね」


 そう言ってから、青年の母を「お母様」と呼ぶ黒髪の少女はふと気づいたように青年へと視線を向けた。


 その瞳が、一瞬だけ驚きに揺れる。


「あの……この方は?」


 母さんはすぐに少女へ微笑みながらまず少女にむかって告げた。


「この方はね、私が貴人(お父さん)に出会う前に、一度だけ本気で好きになった人がいてね。……この方はその人の息子さんなのよ。久しぶりに会って時間を忘れて話し込んでしまったのね」

 そこに嘘はなかった。……でも、真実でもなかった。


母さんは一瞬だけ逡巡し、青年に向き直すと続けて言った。


「この子は、私の娘になりますわ」


 青年はその言葉を聞いた瞬間、息を呑んだ。


 ――やはり、そうなのだ。


 目の前の母さんを「お母様」と呼ぶ黒髪の少女は、

 母さんが産まさせられた、あの男の血を引く存在――俺の……妹。


 母の言葉に少女は目を丸くして青年を見つめ、

 はしゃぐように声を弾ませた。


「まぁ……お母様、もしかしてこの方……昔お母様が恋をしていた方に、似ていらっしゃるのかしら?」



 少女は好奇心に駆られたように、青年の肩や腕にそっと触れた。

 細い指先で筋肉の硬さを確かめると、目を輝かせて小さく頷く。


「あら……貴方、武道を嗜んでいるのでしょう?」


 そう言い終えるや否や、少女は一歩下がると、にこりと笑みを浮かべた。


「じゃあ――ほんの少し、試させていただけますか?」


 軽やかな声と同時に、強烈な一撃が空を薙いだ。

 予想外の事に、青年の体は反応が遅れ、咄嗟に身を引いた拍子に足をもつらせ、尻餅をついてしまった。


「…………!」

 少女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに楽しげに口元をほころばせる。


「すごい! この一撃を避けるなんて。お母様の御家の長子だけが受け継ぐ一子相伝の“奥義”なのですよ。初見でかわしたのは……お父様くらいですわ」


「……奥……義……?」

 青年は思わず口にしていた。


 少女は誇らしげに胸を張る。

「ええ。私はお母様の長女として、十歳のときにこの技を継ぎましたの」


 その言葉の意味を理解した瞬間、青年の心臓が不意に強く脈打った。


 本来なら、その「長子」は自分であったはずだ。

 だが母が自分の存在を忘れ、別の子……姫君に“長子の証”を与えた。


 もし、青年が同じ技を使えたなら――姫君は血の繋がりを感じ取ったかもしれない。

 けれど青年の母は彼に一切何も与えなかった。

 喉の奥に、言葉にならない苦みがこみあげてくる。


「やめなさい。……勝負にならない相手に無理な手合わせを願ってはいけないわ。

 力の差は解ったでしょう? 彼は貴女に、とても……かなわないわ。お願い……やめて……」


 母の声音が落ちる。

 その響きは、姫君が青年に怪我をさせないよう守ろうとする優しさだったのだろう――だが、青年には、自分に押された烙印のように聞こえた。


 胸の奥に冷たい刃が突き立つ。

 守られたのではない。母にそう断じられたのだ。


 ――母が勝利を信じるのは、自分ではなく目の前の少女。

 「勝てない」と言いきられた言葉が、耳から離れない。

 実際、その一撃は見ることもかなわなかった。


 そこにいる少女は――

 母さんが俺には与えなかった才。

 俺が欲しくてたまらなかった愛。

 どれほど望んでも得られなかったものを、惜しみなく当然のように一身に注がれて育っていた。


 喉の奥にこみあげてくるのは――怒りでも悔しさでもなかった。

 ただ――裏切られたような、暗い苦みだけだった。



「まったく、他人様(ひとさま)の前でそんなはしたない真似をしては駄目よ」


 母の声音が少し鋭くなった。


 少女ははっとして手を引っ込め、小さく肩をすぼめて、口元に手を添えた。


「あ……ごめんなさい……」


「この前も、異母姉兄(きょうだい)達と喧嘩して怪我をさせたばかりなのに。

 もう、誰に似たのかしら……もう少し()()()()()に育って欲しかったわ」


「でも、お父様は喜んでいましたよ? 

 私、ちょっと力が強いみたいで……お母様ゆずりだって。お母様を選んで正解だったって」


 母の目が一瞬だけ陰りを帯びたが、すぐに穏やかな笑みに戻った。


「ほんとにあなたって子は……」


 母はそう言いながらも、どこか楽しげに笑っていた。


 青年は、そのやり取りをただ黙って見つめていた。

 そこには、"母と娘の、ごく自然な親子の時間"があった。


 胸の奥が締めつけられるような苦しさを感じながら、青年は目の前の母と異父妹のやり取りを見つめ続けていた。


 彼がふと目をやると、姫君は母にたしなめられたのを気にして、花を供えるふりをしながら少し墓前から離れていた。


 母と青年の会話を遮らぬようにと気を配り、距離をとって佇んでいる。

 そのため、これから交わされる言葉は、貴婦人と青年の二人だけのものとなった。


 青年はしばらく言葉を飲み込み、立ち尽くした。胸の痛みをどうにか押し殺そうとしたが、その重さに耐えきれなかった。


 彼は、絞り出すように問いかけた。


「このまま貴人(アイツ)の屋敷に戻るのか?」


 貴婦人は、しばし黙ったあと、静かに目を伏せた。


「あの方はね……もう私が“逃げない”って、心底思ってるのよ。

 私が、あの子たちを置いてどこかへ行くような女じゃないって――あの方は、誰よりもよくわかってるの……」


 その声には、怒りも反発もなかった。ただ、すべてを呑みこんだ母親の声だった。


「――ごめんなさい……」


 少し唇を震わせてから、彼女は続けた。


「確かに、私はかつて――貴方の、貴方“だけ”の母親でしたわ。

 でも今の私は、屋敷で私の帰りを待っている我が子たちがいるの。

 たとえ正しき逢瀬ではなかったとしても、生まれてしまった子供たちを私は愛している。

 ……母親として、あの子たちをどうしても見捨てられないの」


 そう言ってから、貴婦人はふと視線を落とし、膨れた腹をそっと抱え込むように包みこんだ。


「……それに、今は、昔のように閉じ込められているわけじゃないの。

 歳も歳だから、この子で最後にしてほしいとあの方に懇願して……あの方の屋敷から今の屋敷に移された後は、許しさえあれば外にも出られるようになったの。


 けれど――それでも私は、今の今のまで息子(あなた)の存在すら忘れ、貴方のもとへは行かなかった。

 再会したときも貴方にすぐには気づけなかった私に――もう貴方の母を名乗る資格はないわ」


 その言葉は、胸の奥でわずかに残っていた糸までも断ち切った。


 もう、母にはあちらで家族がいるのだ――そこに、自分の居場所はどこにもない。


 再会の瞬間から、

 どこかで信じていた“また母と一緒にいれるのではないか”という想いが、跡形もなく消えていく。


 気づけば足元から力が抜け、世界が一歩、遠ざかっていくようだった。


 貴婦人は赤子の宿るボテ腹の曲線を、愛おしそうに優しくゆっくりとさすっている。


 その仕草には、言葉にならない矛盾が滲んでいた。


 いま宿す命を慈しむようでいて、それがもたらした別れを悔いるように。

 愛おしむようでいて、どこか疎ましそうに――。


 彼女の指先は、まるで何かを許そうとして、 それでもどこかで赦せないものを抱えているかのようだった。


 ひとしきり腹を撫でた後、彼女はふっと微笑み、淡々と告げた。

「……他の女性(ひと)たちのように体を壊すこともなく、

 子供たちにかこまれて優雅に暮らさせていただいて……私は恵まれておりますわ」



 青年には、その姿がひどく遠く見えた。 自分とはもう交わらない、“別の人生”を生きる者の姿として……。


 青年は母の背にすがるように言葉を落とした。


「また……会えるよね…?」


 貴婦人は青年の目をまっすぐ見ることができず、視線をそっと逸らした。


「私たちの住まう屋敷は、とても……とても遠いところにあるわ……」


 そう言い終えた母の唇は、ほんのわずかに震えていた。


 その静寂を破るように、遠くで花を供えていた姫君が歩み寄ってくる。

「お母様、そろそろ行きましょうか。……弟妹(きょうだい)たちが、母様を待っています。

 せっかくお父様が、長年仕えたお礼にと新しいお屋敷を与えてくださったんですもの、

 初めての遠出であまり時間がかかるとお父様にも心配されますよ」


その言葉に、貴婦人の瞳が一瞬だけかすかに揺れた。

ほんのわずかに視線を伏せたが、すぐに微笑みで覆い隠す。

けれど、その笑みの奥には、誰にも悟られぬように押し殺した影が滲んでいた。


 そんな母の心の色を知るわけもなく、少女はどこか呆れたように笑いながら、母の手をそっと引いた。


「本当に――母様のことになると、父様は過保護すぎますよね。

 母様が故郷に里帰りしたの、今回が初めてなんですもの。

 この里帰り自体お父様には内緒なのですから、

 初恋の殿方のお墓参りなんて知ったら父様が……また鍵を閉めてしまうかもしれません」


 ――それは、無邪気な冗談のつもりだったのだろう。


 だがその言葉に、貴婦人の肩がぴくりと震えた。


 ほんの一瞬、過去の記憶が脳裏をよぎったかのように、彼女は目を伏せた。


「……ええ、そうね。帰らなければ……、あの方を、これ以上待たせては……叱られてしまうわ」


 ――その口調には、喜びよりも、どこか諦めにも似た静けさが滲んでいた。


 ふと、母は青年の方にだけ視線を向け、微かに唇を動かした。


「……墓参りを望んでも……この土地に戻ることさえ、一度も許されなかったの」


 一瞬、少女が振り返りかけたが、母は穏やかな笑みで誤魔化すように肩を撫でた。

 その声はごく小さく、少女には聞き取れないほどだった。


「……だから、今日だけは……あの方の目を盗んで……ここに来たの。

 せめて―― 一度だけでも……お別れ、言いたかったの。……()()()()……亡き■■は貴方のような息子を持って誇りに思ってるはずよ。

 ごめんなさい――さようなら……」


 その言葉には、懺悔と名残惜しさが込められていた。


 そしてそれは――二度とは戻れない場所への、静かな別れの言葉でもあった。


 青年は、その声を黙って受け止めていた。


 母の言葉の余韻は消えず、胸の奥にどうしようもない空洞が広がっていく。


 ……そんな空気を破るように、軽やかな声が響いた。



「お母様がお屋敷から移った後も、お父様はお母様の元に足しげく通われて、

 変わらず仲睦まじいですから」


 少女はそう言って、何でもないように微笑んだ。


 貴婦人の瞳が一瞬だけかすかに揺れ、唇がわずかに開いた。

 何かを言おうとして――しかし、その言葉は形になる前に、横から茶化すような声音が横から割り込んだ。


「お母様は、毎年毎年『歳が歳だからこの子で最後かしらね』って言いますけど」

 少女は、笑いながら母の大きなお腹を指差した。


「そのお腹で言います?

 弟妹(きょうだい)が多いのは楽しいですが、年頃の娘がいることも考えてください」


 貴婦人は、今度は静かに視線を落とした。

 一瞬だけ息を飲み込み、言葉を選ぶように口を開く。

「……本当に、この子が最後よ……」


 口元がかすかに引きつるが、それを悟られまいと笑みに変える。


 少女は青年を一瞥し、それきり視線を落としたあと、ふと母を見上げた。


「そんなお母様にも恋する乙女の時代があったのですね」


「てっきりお母様の初恋の相手は、お父様とばかり……」


 貴婦人はわずかに息を呑み、沈黙ののち、小さく呟いた。


「……あなたが生まれる前のことよ……」


 その口元は、かすかに引きつっていた。


 少女はその言葉に、特に驚く様子もなく小さく頷いた。


「母様が失恋してから父様にどんなふうに出会ったか……今度教えてくださいね?」


 少女の言葉は何の疑念もない、幸福な家族の記憶だった。


 貴婦人はその言葉に小さく目を見開いたが、

 それを壊してはならないと、

 すぐに伏し目がちに曖昧な微笑みを浮かべる。


 応える声は、最後まで返ってこなかった。



 母は少女の手に導かれ、背を向けて歩き出す。

 青年は、その後ろ姿をただ見つめるしかなかった。


 ……あの少女は、自分が今まで積み重ねてようやく背中が見えてきたことを、たやすくやってのけていた。


 それは母が自分には与えなかった才能と、

 周りがあの少女に与えた環境の差か

 ――いや、そんなことはもうどうでもいい。


 ただ一つ確かなのは、

 母が誇らしげに隣に立たせるのは、あの少女であって自分ではないということだった。


 ――もし、母が奪われることがなければ。

 いや、もしあの時、自分も共に連れて行かれていたのなら――。

 あの少女の隣に立ち、母と笑い合う自分がいたのかもしれない。


 それは、

 いつか辿り着いていたかもしれない

 ――もう二度と手の届かぬ未来()だった。


 貴婦人はかつて愛した者たちに背を向け、もはや振り返ることなく少女に手を引かれ歩き去っていった。




 青年は、誰もいなくなった墓前にただひとり立ち尽くしていた。


「――さようなら……か……」


 頭では理解していた――いや、理解してしまったのだ。


 あの人は、もう自分の"母"ではないのだと。


 思い返してみれば、母に育てられたのは、わずか5年にも満たない。

 亡き父との夫婦生活を入れても、せいぜい5年ほどだ。

 対して、貴人との婚姻関係は14年も続いている――あの子たちは10年以上も共に過ごしてきた。


 自分は――今の母の名前すら、知らない。


 きっと母は、今日ここに“かつての人生”と決別するために来たのだろう。


 ――自らの意思で“かつての自分”に別れを告げるために……。


 ……それでも、胸の奥では、何かが崩れていく音がした。


 母はもう、自分と会うつもりはないのだ。二度と会うこともないのだろう――。


 妹は……姫君は父と母の出会いが拉致であり、

 そして――強姦だったことなど、きっと知らない。


 母は、自分の存在すら知らせていなかった。……兄だと、紹介もしてくれなかった。


 身分違いの恋を叶えた父と、幸福な母。

 二人が愛しあって生まれた大切な"愛の結晶"。


 その後に生まれた他の弟妹(きょうだい)達も、両親が相思相愛だと……何も疑いなく、信じている。


 言葉にならない何かが喉までこみ上げてきて、

 それでも、声にはならなかった。



 ――母は、新たな人生を歩んでいた。


 もう二度と、手の届かない場所で、“今の子たち”の母親として……。


 十数年にわたる貴人との望まぬ夫婦関係は母の武芸者として名をとどろかせた日々を塗り潰した。


故郷での記憶は自分を亡き父と見間違うほど薄れ、あれほど溺愛していた自分の存在すら忘れ去られていたのだ。


 断ち切られた母子の絆は、すでに朽ち果てている。

 もう、結ばれることは……自分がその腕に抱かれることはないのだ……。


「……っ、う、あ……ぁ……っ、あ……あああああ……っ!!」


 引き裂かれるような声が、誰もいない空へと響いた。


 それは、もはや声とも呼べない、震えるような慟哭だった。




 後日、貴婦人の希望により、

 青年の父が眠る墓石には、


 かつての彼女の名――青年の“母の名”が刻まれた。


 そして、彼女が失踪の日から決して手放すことなく守り続け、


 あの日、父の墓前に捧げることで自ら手放した“青年の母であった証”が、彼女の“遺骨”としてそこへ納められた。




 貴婦人がこの地に足を運んだのは、

 それが最初であり――そして、最後だった。


 母親を迎えに来た姫君も、青年が種違いの兄だということに

 ――生涯、気がつくことはなかった。



※※※


 人が言葉にできぬ思いを抱えたとき、


 それは時に、どこかに残る。


 ――言葉にならぬ、十の情念。


 我ら(アヤカシ)は皆、この思いから生まれ、形を得た。


 我らは『神未満(アヤカシ)』、欠けたモノ。


 満ち足りず、飢えたモノ。


 飢えは欲望を生み、欲望は心を生む。


 それゆえ求め続ける――飢えを……欠けを埋めてくれるモノを……。


 人もまた飢えた存在、欠けた存在。


 故に人は求める……欲望を満たす力を……。


 故に――我らは人に憑く、


 互いを喰らいあい――互いを満たすために……。


 我らは授ける――『恩恵()』を。


 我らは欲す――欠けを埋め、共に歩んでくれる伴侶を……。



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