初めてのパン屋バイト!-前編
森を抜け、リリィとサヤがようやく辿り着いたのは、活気あふれる町「メープルウッド」だった。石畳の道には荷馬車が行き交い、道の両脇には様々な品を並べた露店や、立派な構えの商店が軒を連ねている。行き交う人々の賑やかな声に、リリィは思わず目をキラキラさせた。
「わぁ……! すごい! これが町なんですね、サヤ!」
興奮気味に隣のサヤに話しかけるリリィ。
「ふむ、なかなかの規模ですね。文明の香りもします。ですがマスター、あまり目立ちすぎないように」
サヤは冷静に周囲を観察しながらも、背伸びしてリリィの肩を軽く叩き、注意を促す。その口元には、ほんのりと笑みが浮かんでいるようにも見えた。
感動も束の間、二人はすぐに現実的な問題に直面した。そう、お金である。 村を追い出されたリリィのなけなしの所持金は、森での数日間の食料でほぼ底をついていた。サヤは鞘なので食事は不要だが、リリィはそうもいかない。
リリィは青ざめた顔で、空っぽに近い革袋を握りしめた。
「はっ! サヤ、どうしよう……お金が、ほとんどないです……」
「情報収集も重要ですが、まずは日銭を稼ぎ、今夜の宿を確保するのが先決のようですね」
サヤは落ち着き払っている。
「私は少し町の構造と人々の気質でも観察してきます。マスターは何か仕事を探してみてください。くれぐれも、騒ぎは……まあ、期待はしていませんが、できる限り起こさぬように」
「は、はい! 頑張りますっ!」
サヤは「では、夕刻にまた」と軽く手を振ると、まるで風景に溶け込むように、あっという間に人混みの中へ消えていった。
一人残されたリリィは、深呼吸を一つ。
「よーし! やるぞー!」
気合を入れ直し、まずは食事ができて、できれば住み込みで働ける場所を探し始めた。しかし、見ず知らずの少女を、そう簡単に雇ってくれる店はなかなかない。いくつかの食堂や宿屋に声をかけるも、にべもなく断られ続け、リリィの肩は徐々に落ちていく。
「うぅ……やっぱり私なんかじゃ、ダメなのかな……」
半泣きになりながらトボトボと裏通りを歩いていると、ふと、香ばしいパンの匂いが鼻をくすぐった。匂いに誘われて角を曲がると、そこには「焼きたてパン・小麦の穂」と書かれた、小さな木の看板を掲げたパン屋があった。
藁にもすがる思いで店の扉を開けると、恰幅の良い、人の好さそうな初老の男性がカウンターの奥でパン生地をこねていた。
「いらっしゃ……おや、お嬢ちゃん、どうしたのかい?」
店主のゴードンは、リリィの曇った表情を見て、少し心配そうに声をかけてくれた。
リリィは事情を話し、何でもするから働かせてほしいと必死に頼み込んだ。 ゴードンは腕を組み、うーん、としばらく唸っていたが、リリィのあまりの必死さと、どこか放っておけない健気な雰囲気に根負けしたらしい。
「……まあ、ちょうど手が足りなくて困ってたところだ。皿洗いと掃除くらいなら、やってもらうかね。食事と、屋根裏でよければ寝床も提供しよう」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
リリィは顔をパッと輝かせ、何度も頭を下げた。
こうして、リリィのパン屋でのバイト生活が始まった。
「怪我だけはするんじゃないぞ、お嬢ちゃん。うちは火も使うし、道具も多いからな」
ゴードンの言葉に、リリィは「はい! 気をつけます!」と元気よく返事をした。
初日。まずは店の掃除と、洗い物から。
(割れないで…お願い…!)
リリィは一生懸命働いた。床をピカピカに磨き上げ、山のような洗い物も丁寧に片付けていく。
ゴードンも「おぅ、なかなか働き者じゃないか」と目を細めていた。
(できた…!よし、この調子なら、私でも大丈夫かも……!)
リリィの心に、ほんの少しだけ自信が芽生え始めた、その矢先だった。
「なら嬢ちゃん、手が空いたなら、このパン生地を少しこねておいてくれんか?」
ゴードンが、大きな木のボウルに入ったパン生地をリリィに差し出した。
「はい! やってみます!」
初めてのパン作り(のお手伝い)。リリィは愛情を込めて、一生懸命に生地をこね始めた。美味しくなれー、と心の中で唱えながら。
しかし。 リリィが触れた生地は、なぜかみるみるうちに水分を失い、まるで粘土細工のように硬くなっていくではないか。
「あれ……? あれれ……?」
リリィが首を傾げれば傾げるほど、生地はさらに硬度を増していく。最終的に、それはパン生地というよりも、もはや鈍器と呼んだ方がしっくりくるような、カッチカチの塊へと変貌を遂げていた。
「て、店主さん……す、すみません……! なんでか、生地が……石みたいに……」
おそるおそるゴードンに差し出すと、店主は目を丸くして絶句した。
「な……なんだこりゃあっ!? カッチカチじゃないか! 嬢ちゃん、一体何を入れたんだ!?」
「な、何も入れてません! 普通にこねてただけなんですけど……」
リリィは泣きそうだ。
ゴードンは頭を抱えた。
「うーむ……まあ、初めてだしな。仕方ない。こいつはもうダメだ。後で処分しよう」
そう言って、カチカチのパン生地を脇に追いやった。
(やっぱり私、ダメなのかな……)
リリィの自信は、早くも風前の灯火だ。
気を取り直して、ゴードンは言った。
「つ、次は……そうだな、釜の火の番でもしていてくれ。火力が強すぎないか、弱すぎないか、見ていてくれればいい」
「は、はい!」
今度こそ失敗しないように、とリリィは緊張しながら大きなパン焼き釜の前に立った。釜の中では、赤い炎が勢いよく燃えている。リリィは、その炎が弱まらないように、かといって強くなりすぎないように、じっと見守った。
だがしかし。 リリィが釜に近づいた途端、ゴオォォォッ!! という轟音と共に、釜の中の炎がまるで生き物のように勢いを増し、火柱となって燃え上がったのだ!
「うわあああああっ!? な、なんだこの火力は!?」
ゴードンが慌てて飛んでくる。
「お嬢ちゃん、危ない! 離れろ! 火を止めんと、釜が壊れちまうぞ!」
店内に焦げ臭い匂いが立ち込め始め、一時騒然となる。 リリィはパニックになった。
「わ、私が止めます!」
しかし、焦れば焦るほど事態は悪化する。それがリリィの不運クオリティ。 慌てて消火用の砂を掴もうとして──お約束のように、何もないところで盛大につまずいた!
「きゃあああっ!」
バランスを崩したリリィは、そのまま燃え盛る釜の側面へと、頭からドカァァァン!! と見事に激突したのだった。
ゴツンッ! という鈍い音と共に、リリィの意識は一瞬ホワイトアウトした。
「……お、お嬢ちゃん! 大丈夫か!?」
ゴードンの悲鳴に近い声が、遠くに聞こえる。釜の異常な火力は、リリィがぶつかった衝撃で何故か少しだけ収まったように見えたが、それどころではない。
リリィは額を押さえ、涙目で店主を見上げた。
「すみません……私……また……」
ゴードンは、燃え盛る釜と、額に大きなたんこぶを作って半泣きのリリィを交互に見比べ、天を仰いで深く、ふかーく溜息をついた。
「……今日はもう、店じまいだなぁ……」
その声は、疲労と絶望に満ち満ちていた。
リリィは、「私、クビになっちゃいますか……?」と消え入りそうな声で呟くことしかできなかった。
──リリィのパン屋バイト、初日にして最大のピンチ到来である。