『歩く災厄』と呼ばれた私、森で運命の『鞘』と出会う
リリアナ──愛称リリィの一日は、だいたいにおいて不運から始まる。いや、不運以外から始まった日があるのかどうか、もはや彼女自身も覚えていない。
今朝も、その例に漏れなかった。
「ん……ふわぁ……」
小さな欠伸と共に薄目を開けたリリィの視界に、朝日を浴びてキラキラと羽を輝かせる小鳥が飛び込んできた。可愛らしいその姿に、リリィの口元がほんの少し緩んだ、その刹那。
ゴンッ!
「ぴ、ぴぃ……」
小鳥はまるで吸い込まれるように窓ガラスに激突し、短い悲鳴と共に窓枠でぐったりと目を回している。
「だ、大丈夫!?」
リリィは寝間着姿のままベッドから飛び出し、慌てて小鳥に駆け寄った。そっと手を差し伸べ、助け起こそうとした、まさにその時だった。
ガツンッ!
「いっ……たぁ……っ」
今度はリリィ自身が、勢い余って思いっきり窓枠の固い部分に額を強打。その衝撃で、窓辺に飾ってあった小さな花瓶がカタカタと不穏な音を立て……次の瞬間、パリン、と甲高い音と共に床に砕け散った。リリィが大好きだった、母の形見の花瓶だった。
「あ……あぁ……うそ……やっちゃった……」
膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、半泣きで呟くリリィ。そんな彼女の頭上では、いつの間にか意識を取り戻した小鳥が、まるで何事もなかったかのように元気よく空へと羽ばたいていった。「お騒がせしましたー!」とでも言いたげな軽やかさで。
リリィはただ、朝日の中でキラキラと虚しく光るガラスの破片を、虚ろに見つめるしかなかった。これが、リリィの日常。人呼んで、『歩く災厄』。
「はぁ……」
もはや何度目かも分からない溜息をつき、リリィは慣れた手つきで箒と塵取りを手に取った。
村へ向かう道すがらも、不運は容赦なく彼女に牙を剥く。
「おはようございます、ドロシーおばさん!」
笑顔で挨拶した先で、おばさんの抱えていたカゴから、なぜか新鮮なトマトが一つ、また一つと転がり落ちる。まるでリリィの足元に吸い寄せられるように。
「あらやだ! ごめんなさいね、リリィちゃん。今朝は手が滑っちゃって」
おばさんは苦笑いを浮かべるが、その目には明らかな警戒の色が滲んでいる。
子どもたちの遊んでいた革製のボールが、ありえないカーブを描いてリリィの後頭部にクリーンヒットすることも日常茶飯事だ。「ごめんなさーい!」と遠くから聞こえる声も、どこか楽しそうだ。
「またリリィか……」
「あの子が通ると、ろくなことがないわねぇ」
「まさに『歩く災厄』だぜ。ひそひそ……」
向けられる視線は好奇と憐憫、そしてほんの少しの恐怖。リリィはただ、申し訳なさそうに何度も頭を下げ、足早にその場を通り過ぎるしかなかった。別に、誰かを困らせたいわけじゃない。むしろ、みんなと仲良くしたい。それなのに、どうして──
そんなある日のことだった。
村で唯一の水源である古井戸の水量が、ここ最近めっきり減ってしまっていた。日照りが続いているわけでもないのに、水かさは日に日に下がり、村人たちの顔にも不安の色が濃くなっていた。
「どうしたものかねぇ……」
井戸端で深刻そうに話し合う大人たちを見て、リリィの胸がチクリと痛んだ。私に何かできることはないだろうか。いつも迷惑ばかりかけているのだから、せめてこういう時くらい、みんなの役に立ちたい。
その時、ふとリリィの脳裏に、昔、今は亡き祖母から聞いた話が蘇った。
──井戸が枯れそうになったらね、月の綺麗な夜に、聖なる石と清めの草を井戸に捧げるんだよ。そうすれば、水の精霊様が喜んで、またお水を分けてくださるのさ──
「これだわ!」
祖母の言葉を思い出したリリィは、いてもたってもいられなくなった。もちろん、それがただのおとぎ話やおまじないの類である可能性は高い。それでも、何もしないよりはマシだ。みんなのために、私がやらなきゃ!
善意100%、使命感200%で、リリィはその夜、こっそりと家を抜け出した。祖母の言葉通り、月が美しい夜だった。リリィは、昼間のうちに森で拾い集めておいた「聖なる石(それっぽくキラキラ光る石)」と「清めの草(それっぽく良い香りのする草)」を小さな布袋に詰め、人気のない井戸へと向かった。
「水の精霊様、どうか、どうか村にまたお恵みをお与えください……!」
小さな声で祈りを捧げながら、リリィは布袋をそっと井戸の中へと投げ入れた。チャポン、と小さな水音が夜の静寂に響く。これで大丈夫なはず。明日になれば、きっと井戸の水は元通りになっているに違いない。リリィは達成感と共に、誰にも見つからないように急いで家路についた。
翌朝。
村は、かつてないほどの騒ぎに包まれていた。
「なんだこれは!?」
「井戸からヘドロが!?」
「臭い! 息ができないぞ!」
リリィが期待に胸を膨らませて井戸へ向かうと、そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。昨日までかろうじて水を湛えていたはずの井戸からは、黒く濁ったヘドロのようなものがゴポゴポと不気味な音を立てて湧き出し、強烈な異臭を放っていたのだ。村の大切な水源は、一夜にして完全に汚染され尽くしていた。
リリィの顔からサァッと血の気が引いた。まさか、あの石と草が……?
「リリィ! お前だな!?」
鬼のような形相の村人が、リリィを指差して叫んだ。昨夜、こっそり井戸へ向かうリリィの姿を、運悪く(あるいはリリィにとっては当然のように)目撃していた者がいたのだ。
「お前のせいで、村の水源がめちゃくちゃだ!」
「なんてことをしてくれたんだ!」
「もう我慢できない! 出ていけ、この疫病神め!」
村人たちの怒声が、容赦なくリリィに突き刺さる。良かれと思ってやったことが、またしても最悪の結果を招いてしまった。
やがて、騒ぎを聞きつけた村長が、苦渋に満ちた表情でリリィの前に立った。
「リリィ……。お前の気持ちは、分かっているつもりだ。いつも村のために何かをしようとしてくれていることもな。だが……もう、これ以上はお前をこの村に置いておくことはできん」
村長の静かな、しかし有無を言わさぬ声が、リリィに現実を叩きつける。
「どうか……出て行ってくれ。村のためだ」
「……っ」
涙が、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちた。嗚咽を漏らしそうになるのを、リリィは必死で唇を噛んで堪えた。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
何度も、何度も頭を下げ、リリィは逃げるように村を飛び出した。背後からは、まだ怒りの収まらない村人たちの声が追いかけてくるようだった。
当てもなく、ただひたすらに森の中をさまよう。木の根につまずき、泥に足を取られ、木の枝で頬を引っ掻きながら、それでもリリィは歩き続けた。どれくらい時間が経っただろうか。雨が、ぽつり、ぽつりと降り始め、あっという間に本降りになった。
「もう……どうしたらいいの……」
冷たい雨に打たれ、体力も気力も尽き果てそうになった時、リリィの震える声が森の静寂に虚しく溶けていく。
「私なんて……いない方が、みんな幸せなの……かな……」
絶望が、黒い霧のようにリリィの心を覆い尽くそうとした、その瞬間。
ふと、目の前に小さな祠が姿を現した。古びてはいるが、どこか神聖な雰囲気を漂わせている。雨風を凌ぐには十分そうだ。リリィは、まるで何かに吸い寄せられるように、ふらふらと祠の中へと足を踏み入れた。
祠の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。そして、その中央。苔むした石の台座の上に、一本の「鞘」が静かに置かれていた。
それは、一目でただならぬものと分かる美しい鞘だった。黒檀のような深い色合いの木地に、銀細工と思しき繊細な文様が施され、所々には青白い宝石のようなものが埋め込まれている。古びてはいるものの、その気品と存在感は圧倒的で、まるでそれ自体が意志を持っているかのように、微かな光を放っているようにも見えた。
「きれい……」
リリィは無意識のうちに、そう呟いていた。そして、まるで何かに導かれるように、震える手をそっと鞘へと伸ばす――。
指先が、冷たく滑らかな鞘の表面に触れた、その瞬間。
──ようやく見つけました。我が“主”よ。
頭の中に直接、凛とした、それでいてどこか温かみのある美しい女性の声が響き渡った。
「え……!?」
リリィは驚きと混乱で目を見開き、思わず声を上げた。周囲を見渡すが、誰の姿もない。気のせい……?
だが、声ははっきりと続いた。
──ふむ……これはまた……凄まじいほどの『厄』をその身に纏っていますね。ですが、同時に……計り知れないほどの『何か』も感じます。
声の主は、まるで心底楽しんでいるかのように、そう言った。そして、リリィの心を見透かすように、力強く、しかし優しく語りかける。
──歓迎します、リリアナ。あなたのその『不運』、私と一緒なら、世界を救う『力』になるかもしれませんよ?
リリィは、ただ呆然と鞘を見つめていた。信じられない言葉だった。自分のこの忌まわしい不運が、力になる? 世界を救う? そんなこと、ありえるのだろうか?
降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。祠の入り口から、雲間を割って一筋の陽光が差し込み、まるでスポットライトのようにリリィと鞘を照らし出している。
その光の中で、鞘は一層神秘的な輝きを増しているように見えた。
リリィの不運な人生が、今、大きな転機を迎えようとしていた。