■ミザリアの異世界案内所 案件③
数日前までの暑さがすっかり過ぎ去り、コートが必要な程に肌寒い十月二十日の夜の事だった。
多くの人が行きかう繁華街を、缶ビールを片手に千鳥足の男が歩いている。
その男は、部屋着であろうグレーのスウェットをだらしなくも着こなし、周囲の人々の目を気にするでもなく、フラフラと歩いて行く。
男の名前は、今田 時男。27歳で無職。しかも、引きこもりという奴だった。
――数時間前、時男は母親が作ってくれた夕食を平らげた後に、部屋に箱で置いてあった生ぬるい缶ビールを一気に三本空けると四本目を手に持ち「もう、死のう……」と、誰に言うでもなく、そう呟いて家を出た。
時男には、将来の夢や目標、やりたい仕事も無かった。それは、生き甲斐が無いという事と同じだった。人付き合いが苦手で、友人も出来ず、何か得意な物がある訳でもなく、ただ何となく生きてきた。
高校生になれば、大学生になれば、社会人になれば……
やりたい事や目標、生きがいとかいう奴が、自然と見つかると思っていた。
――でも、そんな物は何も現れなかった。
4年前に、さほど有名でもない大学を卒業し、何となく就職した職場は、人間関係が上手く行かず、半年で退職した。
それからずっと、自宅に引きこもっていた。
アニメを見て、ゲームをし、漫画を読み、ネットの世界に入り浸り、現実逃避をする事で、何とか生きていた。
――でもそれも、もう限界だった。
「死のう……今夜にも……」そう呟きながら、アルコールの力を借りて夜の街を歩き続ける。
ゾンビのような死んだ目をして、アテも無く歩く時男だったが、わざわざ電車を乗り継いで、この場所に来たのは、酔った勢いだけではなかった。
時男はここ数日、何度も繰り返し、ネットで楽な死に方を検索していた。その時に何気なく、死んだ後に異世界へ転生する方法を調べてみたのだった。
もちろん、本気でそんな事が可能だとは思ってはいなかった。ただ、ひょっとしたら……一応、念の為、という、藁にもすがる心境だった。
当然の事だったが、検索で出てきたのは、ラノベやアニメのサイトであり、現実に異世界へ転生する方法など書いてある所は無かった。
――それは分かっていた事だった。当たり前の事だった。
ネットに異世界への行き方が書かれているなんて、海外旅行じゃあるまいし、ありえないという事は、さすがに時男も分かっていた。
――しかし、数多くの検索結果の中に、気になる記載を見つけた。
それは、この現実世界に、異世界へ案内してくれる人がいるという内容だった。
時男は初め、そういう内容のラノベか漫画があるのかと思った。しかし、どうやら違うらしい。
その案内人を、本気で探して情報を求めている人が何人か居たのだ。中には情報をくれた人にはお金を支払うとまで言っている人も居た。
理由はわからないが、自分以外にも異世界への行き方を探している人が居る事を知った……。
――もし、本当にその案内所というのが有ったとして、ひょっとしたら、案内出来る人数に制限があるかもしれない。早く見つけないと……。
時男は妙な競争意識が芽生え、有り余る時間を掛けて、ネットの中を探し回った。
だが、その案内人について分かったのは、とある雑居ビルの地下にある、怪しい店に居るという事だけだった。それ以外の情報は見当たらなかった。
しかし、本当に異世界への案内が必要であれば、その人には、きっと辿り着けるとも書かれていた。逆に、そうじゃない人には、絶対に辿り着く事が出来ないのだろう……。
――たしか、そのビルの場所が、この繁華街のどこか……らしいのだ。
俺には絶対に必要じゃないか? 本当にそんな店があるのなら、絶対に辿り着ける。
もっとも、そんな店が本当に有るのならな……。
死ぬのは、それを確かめてからだ。異世界へ案内してくれる店なんて無かったと分かれば、それで思い残す事も無く死ねる。
死ねるんだ!
そんな事を考えながら、時男はフラフラと人の流れに沿って歩いていた。一応の目的はあっても具体的なアテは無いのだ。出来るのは、人の流れに沿って歩く事だけだった。
そんな時だった。時男に声を掛けてくる女性がいた。
「あの、すみません。そこの貴方」
スーツを着た、小綺麗な女性だった。如何にも都会のOLという感じで、自分とは別世界の人間に思えた。
くそ、なんだ? 俺、何かしたか?
時男は、声を掛けてきた女性を睨みつつも、愛想笑いを浮かべる。
「な、な、なんなんだ? べ、別に何も、えっと、悪い事とか、してないけど……」
「あの! この、チラシ見てください。そして、何か心当たりがあったら、書いてあるアドレスに連絡ください。どんな些細な事でもいいんです。お願いします!」
そう言って、その女性は、時男にチラシを手渡し、軽く頭を下げると、また別の人に声を掛けに向かった。
なんだ? どっかの店の呼び込みか何かか?
急に人に声を掛けられて焦ったのを悟られないように、周囲を気にしつつ、時男はチラシを眺める。
そこには眼鏡を掛けたセーラー服の少女のモノクロ写真が印刷されており、行方不明者と書かれていた。
結構、可愛い子だな。行方不明とか大げさな。どうせただの家出だろう……くだらねぇ。次元が違うんだよ。俺の悩みとは……こっちは死ぬしかない状況だってのに……。
時男は、チラシを折って上着のポケットにしまい込む。そして、手に持っていた缶ビールを一気に空にして、さらに歩き続ける。
時男は、手に持った空き缶を捨てる場所を探してビルとビルの狭い隙間に足を踏み入れる。そこはゴミが散乱し空き缶をその辺に置いても、誰にも文句を言われなそうな場所だった。
空き缶をそっと地面に置いて、改めて周囲を見渡すと、時男は、自分がいつの間にか薄暗い室内の通路を歩いている事に気が付いた。
ん? なんだ、ここは? どこかの建物の中? いつの間にか地下街にでも降りたのか? 少し飲みすぎたかもしれないな。
「あら? お客様かしら? いらっしゃい」
「うわ! え? あ、すみません……」
不意に声を掛けられて、時男は驚き、後ずさりながら思わず謝ってしまう。
振り向くと、そこには大きな黒いとんがり帽子にマントという、如何にも魔女という恰好の金髪の女性が立っていた。左手には大きな木の杖を持ち、右手には長い金属製のキセルを持っている。
肩幅よりも広い、帽子のツバの影から垣間見える白い肌の美しい顔は、目を離せなくなる程に美しかった。実際、時男は数秒程、見惚れてしまっていた。
コスプレした外人? いや、本物の魔女かもしれない……。
時男は最初、目の前の女性が、あまりに整った顔立ちの為、海外のモデルか何かが、魔女のコスプレをしているのかと思った。しかし、その身に着けているローブやマント、手に持っている杖や装飾品が、明らかに本物だという「何か」を漂わせているのを感じた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら?」
「あぁ、いえ。えっと……すみません」
時男は、目の前の美女から目を逸らし、取りあえず謝ると、この場を去ろうとする。
「あら? 帰ってしまうの? 残念ね。久しぶりのお客様かと思ったのに……」
右手に持ったキセルを一吹かしし、その魔女は微笑む。
ん? お客様だって?
時男が、その魔女に背を向け、立ち去ろうとした時に、足元に光る四角い看板に気付いた。
その一瞬目に入っただけの看板には、確かに「異世界」という文字が書かれていた。
「異世界案内所……」
時男は、しゃがみ込み、看板の文字を確かめ口にして読んでいた。
「そうよ、そのカーテンの奥が案内所なのだけれど、折角ここまで来たのだから、話だけでも聞かせてもらえないかしら? フフフフ」
「ほ、本当に居たって言うのか? 異世界へ案内してくれる人が……」
「あら? 貴方も異世界に興味が有るのかしら? だったら話は早いわ。そうよ、ここが異世界への案内所よ」
「マジか……」時男はしばらく茫然と立ち尽くす。
本当に有ると思っていなかった目的地に、既に到着しているなんて、そんな都合の良い話、到底信じられなかった。
幻覚を見る程、酔ってはいないと思う……。というか、むしろ酔いは冷めきった。
――しかし、目の前の魔女の美しさも恰好も、現実味の無い雰囲気だが、それが余計にリアルに思える。何故なら、異世界なんて所に案内をするというのだ。その人も現実味が無いのは当たり前かもしれない。
「――もしもし? 大丈夫? 聞いているかしら?」
「あ、あの……、もし異世界ってのが本当に有るのだとしたら、俺を! ぜひそこに連れて行ってくれないだろうか……」
酔いが冷めた影響か、時男は自分の言っている事が、途中で恥ずかしくなり、最後の方は聞こえないくらいの小声になっていた。
「いいわ。それじゃ貴方は、お客様ね。さあ、店の中に入りなさい」
魔女は当たり前のように、時男をカーテンの奥へ促す。
笑われるかもしれないと思っていた時男は、思わず聞き返す。
「え? 本当に異世界に……」
「そうよ。知っていて来たのでしょう? ここに辿り着いたという事は、そういう事よ」
「そ、それじゃ連れて行ってくれ! 直ぐに! 異世界に!」
「フフフ。慌てずに、まずは中でお話を聞かせてもらえるかしら?」
そう言って、魔女はカーテンの奥へ時男を誘う。
「フフフ。ようこそ。異世界案内所へ」
カーテンをくぐると、すぐに大きな木製のテーブルがあり、その手前には背もたれの無い小さな椅子が置かれている。
そこは、案内所とは名ばかりの、通路をカーテンで仕切っただけの狭い空間だった。
光源はテーブルの上のローソクと、天井からぶら下っているランプの明かりだけだったが、薄暗いという事もなく、ゆらゆらと揺らめく光が幻想的な雰囲気を演出している。
魔女はテーブルの向こう側に座ると、足元から水晶玉を取り出し、それをテーブルの上に置いた。ドラマなどで占い師が使うような、いかにもな水晶玉だった。
「私の名前は、ミザリア。あなた達の言う、異世界から来た魔女よ。貴方のお名前は?」
「え、えっと今田……だけど。今田時男……」
「時男。面白い名前だわ。フフフ……良い意味でね。面白いわ」
「あ、あの、本当に俺を異世界に連れて行ってくれるのかよ?」
「貴方が望むなら、それが私の仕事よ。でも条件はあるわ」
「条件? そ、それは、なんだよ……」
条件と聞いて時男は身構える。お金はもちろん、自分が与えられる物なんて何も無いのだ。
「まず、時男はどうして異世界に行きたいのかしら?」
「俺は、もう死にたいんだ。この世界では生きている意味を感じないんだ……」
ミザリアは首を傾げて不思議そうに時男に尋ねる。
「あら、それじゃ死にたいから異世界へ行きたいの? 随分と変な事を言うのね」
「そ、そうだよ。俺は、もうこの世界には未練が無いんだ。もし本当に異世界って所があるのなら、冥途の土産に見てみたいんだよ」
「時男の言う、異世界……。私達の世界は、そんなに特別な場所じゃないわよ。北海道の山奥に行けば近い景色が見られるわ」
「で、でも! 魔物とかは居るんだろ? この世界でビルから飛び降りるより、異世界で魔物に襲われて死ぬ方が、面白い人生な気がするじゃないか!」
「時男がそう思って満足に死ねるなら止めはしないけれど、私からしたら、どっちにしろ、つまらない死に方よ。北海道に行って熊にでも食べられた方がマシだわ」
「な、なんだよ! 結局あんた、俺を異世界とやらに連れていけないんだろ!」
「そうね。時男は連れていけないわね。いえ、正確に言うと、連れて行きたくないのよ。生きる事を諦めている人を連れて行っても時間の無駄じゃない?」
ミザリアは時男の目を真っすぐに見つめ、毅然と言いきると、キセルを咥え煙を吐き出す。
「く、くそ! なんだかんだ理由を付けて、結局、異世界なんて無いって事だろ! くそが! バカにしやがって!」
時男はカッとなり、ドカドカとコンクリートの床を何度も踏みつける。
「別に、そう思われてもいいわ。でも、まぁ、折角ここに来たのだから、どうしてそんなに死にたいのか、教えてもらえないかしら?」
時男は「はぁ~」深いため息をついた。いつの間にか興奮して、感情的になっていた自分に気付いたのだ。
「ま、まぁ、話くらいは……してもいいけど……」
時男はミザリアから目を逸らし、バツが悪そうに答える。
最後だし、死にたい理由くらいは誰かに話してもいいだろうと、時男は思った。
――いや違う。むしろ聞いて欲しかったのだ。時男の話を聞いてくれるなんて言ってくれる人は、今まで居なかったのだから。
「えっとだな、まず俺が死にたい理由は、この世がくそだからだ! 生まれた時にすでに、勝ち負けが決まってやがる。努力なんてしても無駄だし、頑張った所で平均以下の負け人生確定だからだ! 生まれた瞬間に勝ち組じゃない奴は、一生負け続けるんだ。だから俺は、もう今の人生を諦めて、来世に賭ける事にしたのさ。でももし、異世界って所でやり直せるなら、それも有りだと思っている。実は隠された才能とか、俺にもあるかもしれないし……」
はぁはぁ……一気に捲し立てるように思いを吐き出して、息を切らしている時男に、ミザリアは言う。
「良くわからないわね。貴方の言う勝ち組? それって何なのかしら?」
「え? そ、それは……け、結婚して子供が居て、それでマイホームにマイカーを買う経済的余裕もあって、毎日人生を謳歌している奴らだよ!」
「思ったよりも普通なのね。この辺を歩いている人達の、半数以上が当てはまりそうだけど」
「そ、そりゃ、こんな都心で働いている奴らは勝ち組に決まっている。俺みたいに場違いな奴は、この街には少ないだろうさ」
時男はそう言って両手を広げてダボダボのグレーのスウェット姿をミザリアに見せる。
ミザリアは再度キセルを咥えると、天井に向かってゆっくりと煙を吐き出す。
「貴方の……時男の両親は、どうなのかしら? その条件に当てはまらないの?」
そう言われて、時男は口元に手を当て少し考える。
確かに、結婚して子供も居て、一軒家に車もあるな……。でも全然裕福じゃないし、毎日大変そうだし、子供も俺みたいな奴じゃ、到底勝ち組とは思えない。うん、絶対に違う。
「ウチの親は、人生を謳歌するほどの余裕も無いし、家や車もローンで無理して買っただけの、勝ち組に成れなかった奴らだよ」
「そう……まぁ、分かったわ。時男の死にたい理由ってのが、くだらないって事がね」
「な! なんだと! そう言うあんただって、こんな所でインチキ魔法使いみたいな事をして、完全に負け組じゃねぁか! くそが!」
そう言って立ち上がろうとする時男に、ミザリアは杖を向けてそれを制する。いつの間にか、自分の肩に杖を乗せられていた事に気付いた時男は、驚き身動きが取れなくなる。
「落ち着きなさい。冷静に……」
杖の先が不気味に光ると、時男は驚く程冷静になった。そして寒さに身震いする。
「あ、いや……その、すまなかった。ちょっと興奮していたみたいで……」
「いいのよ。それよりも、時男にオススメの良い品があるわ。フフフ」
「え? 良い品って? 何か売っているのか?」
時男は店の中をキョロキョロと見渡すが、そこに、商品と呼べるような物は何一つ見当たらなかった。古ぼけた本がいくつか棚に並んでいたが、売り物には見えない。
「フフフ……これよ。取って置きの一品なの」
そう言うとミザリアは透明な液体の入ったガラスのコップをテーブルに置いた。
「水?」時男は呟くようにそう言うと、ミザリアの言葉を待つ。
「これは、毒よ。飲んだら絶対に3日後に死ぬわ。苦しみも無く、突然ね。どう? 今の時男に必要な物じゃない?」
「ど、毒? 俺に、毒を飲んで死ねと言うのかよ!」
「あら? 時男は死にたいのでしょ? その為に、ここまで来たのじゃなくて? この毒なら、苦しまずに眠るように死ねるわ。心の準備の為の時間も充分に取れるし」
「あ、まぁ……確かにそうだけど……。でも、これを飲めば本当に3日後に苦しまずに死ねるのかよ?」
「ええ。今なら格安で時男に売ってあげるわ」
そう言って、ミザリアはガラスのコップを両手で持ち、時男の顔の前に差し出す。
フードコートの水飲み場に置いてあるような、安っぽいガラスのコップに入った透明の液体は、特に変わった匂いなどもせず、水にしか見えない。
「え、えっと、格安っていくらだよ? ただの水にしか見えないけど……」
「時男になら、そうね……。五十万円でいいわ。特別にね」
そう言ってミザリアはウインクして微笑む。
「ご、五十! 高すぎじゃないか! そんな金、持っているわけ無いし!」
「カード払いでもいいわよ。限度額まで使えば、きっと払えるわよ。実際には、支払いの前に貴方は死んでいるのだから、全く気にする必要は無いわよ。つまりタダと同じね。フフフ」
そう言われて、時男は考え込む。
本当に、そうなのか? 確かに来月に金が無くて支払いが出来なくても、もう死んでいたら俺には関係ないけど……。
引き落としが出来なくて未払いになった場合、親に請求が行くのか? 迷惑を掛ける事になるけど、今後、俺がダラダラ生きているよりもいいか? 手切れ金だと思って、払ってもらうか……。
いや、そもそも、あの毒というのが実はただの水で、死ななくて困るパターンもあり得るか?
――でもその場合は、別な方法で死ねばいいか。どうせ俺は今日、死ぬつもりだった訳だし……。来月には居ない筈だ。今更、金に固執する理由も無いかもしれないな……。
ミザリアは、考え込んでいる時男に、そっとコップを持たせると、囁くように言う。
「誰にも迷惑を掛けずに、なおかつ、苦しまずに死ぬのは、中々難しいわよ。でも、この毒なら、それが確実に出来るのだから、良い買い物だと思うけれど」
ミザリアは優しく時男に顔を寄せて呟く。時男にとっては、女性の顔をこんなに近くで見た事が無いという程の距離だった。何とも言えない良い香りがする。
時男は、手渡されたコップを眺めつつ尋ねる。
「こ、これは、本当に毒……なのか? ただの水じゃないか? いくら俺が人生を諦めていて、死ぬつもりだったとしても、誰かに騙されるのは嫌なんだが……」
時男はミザリアの様子を伺いつつ、恐る恐る本心を言ってみる。時男の目には、無防備にコップに入っている透明な液体が、そんな恐ろしい毒には見えなかった。
「飲んでみれば分かるわよ。まぁ、正確には3日後に死ぬ瞬間にわかるのだけれど」
ミザリアはカードを読み取る機械のような物を持ってきて、テーブルの上に置く。
言われるがまま、時男は財布からカードを出した所で、金額の大きさに思いとどまる。
「お、俺は……異世界って所に興味が有ってここに来た訳で、別に、死ぬ手伝いを求めて来た訳ではないんだけど……」
「時男は私達の世界に連れて行く価値が無いから、それは諦めてね。でも、折角ここに来たのだから、私からのサービスよ。これでも、大奮発なんだから」
ミザリアはそう言って微笑む。到底、人に毒薬を進めているとは思えない笑顔だった。
そんなミザリアを見て、時男は、間違いなく今までの人生で見かけた女性の中で、一番の美人だと思った。そして、その美人に進められた毒で死ぬのも、悪くない気がして来たのだった。
「これを飲めばいいのか? 一気に?」
「そうね。一口でも充分だけど、残されても処分に困るから、飲み干してもらうと助かるわね。味は水と変わらないと思うから、普通に飲めると思うわ」
「こ、これを飲むと3日後に死ぬのか……本当に……」
「そうね。正確には、死ぬ、ではなくて死ねるのよ。だって、時男が自ら死にたくて飲むのよ?」
「あ、ああ。まぁ、そうだけど……。一応、自殺ほう助って罪になるけど……大丈夫なのか?」
「フフフ、大丈夫よ。これは毒と言っても魔法の毒だから、呪いみたいな物ね。突然心臓が止まるの。証拠も何も残らないし、苦しむ事も無いわ。もし、時男が誰かに、この毒を飲んだ事を言ったとしても、信じてくれる人は、この世界には居ないでしょうしね」
ミザリアは、まるで自慢の一品をアピールするかのように流暢に、そしてにこやかに説明をする。
「確かに、魅力的な商品だな……ははは……」
時男は本気で今日、死ぬ為に家を出て来たつもりだった。決して酔った勢いだけの事ではなく、世の中に絶望して本気で死んでやろうと思っていたのは事実だった。
――でも、今になって分かった。俺は……俺には、死ぬ勇気なんか無いんだ。
多分、今夜も飛び降りるのに手ごろなビルが見当たらないとか、自分に言い訳をして、帰ったに違いない。家に帰って今までと同じく部屋に引きこもって、世の中に文句を言いながら毎日飲んだくれて過ごす事になっていたんだ……。
死ぬ気は有っても死ぬ勇気が無い俺には、これはピッタリの商品じゃないのか?
「よし! 飲む! 飲んでやる!」
そう言って時男は、ミザリアの持つコップに手を伸ばす。しかし、ミザリアがさっと手を上げた為、時男はお預けを食らったような顔でミザリアの表情を伺う。
「まずは、お支払いをお願いするわ。商品を口にするのはそれからよ」
ミザリアは微笑み、そして時男に右手を差し出す。
「あ、ああ。そうだな。一応、売り物だし……」
ミザリアは、時男が財布から取り出したカードを受け取ると、代わりに何かの機械を時男に差し出す。時男がその機械に暗証番号を入力すると、ミザリアは満足そうに頷き、白いレシートのような紙を手渡した。
そして、やっとコップを時男に手渡す。
「こ、これを飲めば本当に……いや!」
時男は何かを言いかけたがやめて、コップの中の液体を一気に飲み干した。色々と考えると、実行できなくなる。勢いでやるしかないと思ったのだ。
「うわっ! 本当に飲んじゃった! 死ぬってわかっているのに!」
突然ミザリアとは違う、子供のような声が聞こえ、時男は辺りを見渡す。
「マカロ! ちょっと黙ってなさい!」
ミザリアが後ろに向かって小声でそう言って帽子を脱いで、後ろの暗がりに置く。
金色の髪がローソクの炎に揺れて、キラキラと輝く。時男は、思わず見とれてしまっていた。
「ごめんなさいね。私の妖精が勝手な事を……」
「妖精……そんなのが居るのか……見てみたいな」
「そうね。死に行く時男の最後の願いなら、少しくらい……どうかしら? マカロ?」
「え~ ちょっとだけだよ~」
そう声が聞こえたと思った瞬間、握りこぶし程の光の玉がクルッとミザリアの後ろで宙を舞い、部屋の奥へ消えて行った。
「え? 妖精? 今の?」
「そうよ。妖精は光るの。こちらの世界の蛍みたいな感じかしら? 見た事はないけれど」
「い、いや、蛍は、あんなに光らないし、もっと小さいし……いや、でも最後にいい物を見せてもらったです。冥土の土産になるな……」
「フフフ……それは良かった。――時男。貴方の命は、あと七十時間よ。命日は二十三日ね。有意義な余生をお過ごしなさい」
「あ、ああ……どうも」
自分を殺す毒をくれた人にお礼を言うのも変な気がしたが、他に適切な言葉も思い浮かばなかった。
時男が頭を下げた時に、ポケットから一枚のチラシが床に落ちる。繁華街で見知らぬ女性に貰ったものだ。確か、女子校生が行方不明だとか書かれていた奴だ。
「あら? これは流花?」
その落ちたチラシを拾いながらミザリアは呟くように言う。
屈んだミザリアの胸元に思わず目が行ってしまい、時男は誤魔化すように尋ねる。
「し、知り合いなのかよ? その子?」
「まぁ、少しね。以前、この店に来たお客さんなの。詳しくは言えないけれど」
ミザリアは、チラシを時男に手渡しながら言う。
ひょっとして、自分とは違い異世界に連れて行ってもらったのだろうか? だとしたら羨ましいな。今更もう関係ないけど……。
時男は、複雑な表情を浮かべ、ミザリアに再び頭を下げて、店を出ようとする。
「ちょっと待って。最後に、この水晶玉に手を乗せてみてくれないかしら?」
「え? ああ、別にいいけど」
時男は、水晶玉に両手を乗せてミアリアの表情を伺う。少し驚いたような表情を見せたミザリアだったが、すぐに微笑み、小さく頷く。
時男は水晶から手を外して店の外に向かった。カーテンをくぐり暗い通路を暫く歩くと、いつの間にか繁華街の大通りに出ている事に気が付いた。
驚いて振り返ると、そこには雑居ビルの隙間の暗がりが有るだけで、今までの通路やミザリアの店などは、跡形もなく消えていた。
いつの間にビルの外に……。いや、そもそもビルの中ですらなかったって事か?
時男は、終電に間に合うように急ぐ人ごみの中に入り、駅に向かう。
「あと、三日か……」
ビルの立ち並ぶ四角い空を見上げて時男は呟いた。
――時男が自宅前に到着したのは深夜一時を過ぎた所だった。家族が寝静まった家に忍び込むように入り込み、自分の部屋向かう。
「三日か……」時男は、帰宅するまでに何度もこの同じ言葉を呟いていた。そしてその度に、残りの時間で何をするべきか考えていた。
まずは自分のパソコンの見られたくないデータを削除だ。これは絶対にやらなくてはいけない。次に部屋の中にある親に見られたくない物の処分だ。捨てるのが忍びない物も多いが、それ以上に誰かに見られる方が恥ずかしい。
押し入れの中から取り出してきた美少女のフィギュアを床にそっと置き、多くの雑誌や同人誌をフィギュアの周囲に並べる。
やっぱり、誰かに譲るか売るか……SNSで呼びかけてみるかな。すぐに取りに来てくれる人限定なら……。いや、残された時間は少ない。もっと他に何か、しておくべき大事な事があるんじゃないか?
そんな事を漠然と考えつつも、最後に観ておきたいアニメや読んでおきたい漫画を読みふける。いつものように母親がドアの前に置いてくれている食事を三食平らげて、気が付けば、二十一時を過ぎていた。
――あれ? ヤバい……もう一日が終わってしまうのか? しかも、さほどいつもと変わらずに過ごしてしまった。バカな……こんな筈じゃ……。
時男は我に返り、読んでいた漫画を床に投げ捨て、パソコンの前に駆け寄り匿名掲示板に書き込む。いつもは見る専門だったが、初めて自ら書き込んでみた。
(2日後に死ぬとしたら、残された時間に何をするべき?)
書き込んだ後、しばらく画面を眺めていても、画面には何の反応もなかった。今となっては利用者も少ないネットの掲示板である。時男もさほど期待はしていなかった。
取りあえず、パソコンの中から親に見られたくない画像や動画などを、まとめて消せるように一つのフォルダに集める。
あと二日で死ぬのか? 俺……。本当に? 全然実感が無いな……。でも死ぬんだよな、多分。
パソコンの前で、次に何をするか考えていると、先ほど時男の書き込んだ文章の下に新たな文章が追加された。
(どうせ死なないんだろうけど、本当に死ぬ気なら、誰にも迷惑を掛けるなよ。電車は絶対にやめろ! あと、世話になった人にお礼くらい言ってから氏ね)
何時もだったら、ふざけんな、と相手をあおる言葉をすぐさま書き込んでいただろう。だが、実際にもうすぐ死ぬとなると、不思議と素直に相手の忠告を聞けた。いや、怒っている時間さえ勿体なく無駄に感じたのかもしれない。
お礼なぁ……。まぁ、そうだよな。最後くらいは……。
時男は顎に手を当てて考えるまでも無い事を考える。そもそも、世話になった人と言っても、時男は両親以外思い浮かばなかった。特に母親には、毎日お世話になっている。明日も食事を部屋まで運んで来てくれる事だろう。
両親に感謝する。――そんな当たり前の事を、当たり前に受け止められるのも、死を覚悟したから出来た事かもしれない。もはや変に格好をつけたり、強がる意味も無いのだ。
しかし時男には、感謝するというのが何をどうすればいいのかがわからなかった。考えてみれば、人に感謝の気持ちを伝えるという事をした覚えがないのだ。それこそ「ありがとう」の一言ですら言った記憶がない。
何かしてもらう度に、ありがとうって言えってか? そんなバカな……。
そんな事を想いつつ腕を組み、時男は少し考える。
あれ? 俺の好きな漫画のキャラやアニメの主人公なんかは、当たり前にしている事だな? ひょっとして、それって世間的には当たり前の事だったのか? いや、さすがにそれは極端な考えだな。日々暮らしていく中で、知らない誰かに感謝していたらキリがない。
まぁ、知らない誰かじゃない両親くらいには、伝えるべきかもしれないけど……。
時男は、新聞配達のバイクの音を聞きつつ、同人誌やフィギュアなどをダンボールに詰め込む。窓の外が明るくなって来たが、一向に眠くはならなかった。
今まで生きて来た結果、大事な物はこのダンボール箱の中身くらいなのか。本当にくだらない人生だったな。
時男は、先ほどのダンボールを慎重に抱えて、部屋から出る。
階段を降り、そのまま玄関まで行くと、なるべく音を立てないようにドアを開けて、近くのゴミ捨て場にダンボールを置いた。外は既に明るく、ハトが低い声で鳴いている。
家に戻った時男は、久しぶりにリビングのソファーに腰を下ろしてみた。
テレビをつけると生放送のニュースが流れる。まだ朝の6時前だったが、この時間にもう、当たり前に働いている人が居るという事を、改めて思い知る。
程なく、階段から足音が聞こえ、母親が下りて来た。
「あら、おはよう。どうしたの? 今日は……」
母親は、時男が朝早くに起きている事よりも、部屋から出て来てリビングに居る事に驚いている様子だった。
「あ、うん。まぁ……なんとなく」
時男は適当に答える。
「あ、ちょっと待っていてね。今から朝ごはんを用意するからね」
そう言って母親はエプロンを腰に巻き、台所に向かう。
お母さんは、何時もこんなに早く起きているのか? 知らなかったな……。
「今日は天気が良くて暖かそうね~」
母親が、独り言のように言う。その言い方は返事を期待している感じでは無かった。
時男は、テレビの画面を見ながら、ミザリアに言われた事が気になり少し考える。
――俺の両親は、自分達を勝ち組だと思っているのだろうか?
時男は大きく頷くと、意を決して、台所に立つ母親に話しかける。
「なぁ、母さん。母さんは……自分の人生を幸せな人生だと思ってる?」
「えぇ? 何よ? 急に。でも、そうね……。充分幸せな人生よ。ふふふ」
母親は馬鹿にするでもなく、当たり前のように答えてくれた。それは、時男にとっては意外だった。 こんな恥ずかしい質問、まともに取り合ってくれるとは思っていなかったからだ。
「俺が……俺なんかが、子供なのに?」
時男は、チラリと台所の母親の背中を見て、そして呟くように答えた。
「何言っているのよ。とっ君がお母さんの子供だから良かったのよ」
「そんな! なに馬鹿な事を……俺なんかが? あり得ない!」
時男は下を俯き、リビングの床を「ドン」と、踏みつける。
「あら? 本当よ。今は、ちょっとアレだけど、十歳くらいまでは本当に可愛くて、毎日が楽しくて、お母さんはこの子の為に生まれて来たんだって思ったものよ。ふふふ」
母親は、おにぎりをテンポよく握りながら時男の方を向いて、微笑む。
「ふん、今はアレで悪かったな……」
時男はそう絞り出すように言いつつ、涙をこらえていた。早く働けとか、家から出て行けとか、そんな事を言われるものだと思っていた。母親が、そんな風に自分の事を想っていてくれたなんて、思いもよらなかった。
「だからね、お母さんは、その十年間で、もう充分なのよ。一生分の幸せな時間を過ごしたから、今はとっ君が元気になるまで気長に待っているわ。ちょっと迷っているだけだってわかっているから」
「もう……遅いんだよ……」
時男はそう呟いて部屋に向かう。
「遅くなんてないわよ! まだまだ、これからよ!」
母親が後ろから声を掛ける。その言葉には答えずに、時男は二階の自分の部屋に向かう。
――確かに俺の両親は、俗に言う毒親とかとは違い、普通の良い親だった。元々、両親に対しての不満は無かった。いや、細かい文句は有ったけど、自分の不甲斐なさを考えたら大したことじゃない。俺がこんなじゃなければ、勝ち組って奴だったのかもな……。
一体、俺は何が不満で、死にたいと思うほど悩んでいたんだ? いや、不満があったんじゃない。漠然とした不安に押しつぶされそうだったんだ。夢も希望無い人生に、勝手に絶望したと思っていた。
――でも、生き続けられるのが当たり前に思えていたなんて、それは実は幸せな事だったんじゃないのか? でも、俺は……もう死ぬんだ。
背中の辺りがゾワっとして、リアルな死の恐怖を感じる。どことなく現実味の無かった、自分の死という物が、確実に近づいてきているのが解る。
くそっ! 苦しまずに死ねるなんて、嘘じゃないか。この何とも言えない恐怖は、充分に苦しみじゃないか。
時男はじっとしていられず、部屋の中をウロウロと歩き回る。死ぬのが怖いと言うよりも、信じられない気持ちの方が強い。ただ、漠然と死ぬかもしれないというだけで、恐怖を感じるのだった。それは、無意識に生きたいという本能的な物なのかもしれない。
落ち着きなく部屋の中を歩いていた時男は、ふと、床に置かれたチラシに目が留まる。行方不明者の情報提供を募っているチラシだ。時男は、配っていた女の人が必死だったのを思い出した。
このチラシを見て、たしかミザリアがお客と言っていたな……。一応情報として教えておいてやるか。どうせ信じて貰えないだろうけど……。
時男はチラシに書かれたアドレスにメールを出した。
((異世界案内所に居るミザリアという魔女が、チラシの女の子を異世界へ連れて行ったかもしれない))と。
「ははは……」時男はメールの文面を改めて読み返し、乾いた笑いをこぼした。こんなの悪戯にしてもレベルの低い、あまりにも馬鹿らしい文章だった。
しかし、その直後、スマホが震え、メールの着信を知らせる音が軽く鳴る。「うぉ」時男は声を出して驚くと、すぐにメールを確認した。
((情報提供ありがとうございます。私は都内で行方不明者を探す活動をしている山川という者です。ぜひ、会って詳しいお話を聞かせて欲しいのですが、ご都合の良い日を教えていただけませんか? なるべく貴方の都合に合わせます))
「え? まじで? 会いたいだって? 俺に? 本気かよ……」
時男は独り言を呟き、どう返事を返そうか考える。
時計を確認すると、まだ朝の七時過ぎだった。
相手は随分と早起きなのだろうか? いや、それとも普通の生活を送っている人は、起きているのが当たり前の時間なのだろうか?
考えても時男には分からなかったので、取りあえず早い時間に来てもらおうと考え、返事を書く。
((明日の午前中に下記の住所に来てくれれば、少しなら話し出来ます))
そう書いて、自分の家の住所を書いて送った。
明日は死ぬ予定の日だ。家から出る訳にはいかないし、来られないならそれでもいいし。
手に持ったスマホから着信を知らせる音が鳴る。
((それでは、明日、二十三日の午前九時に伺います。よろしくお願いします))
「マジで来るんだ……」独り言を呟いて、嬉しいような困ったような何とも言えない感情が沸き上がる。
理由はさておき、女性が時男に会いに家を訪ねて来るというのは、初めての事なのである。母親はきっと喜ぶだろう。ぬか喜びだろうけども……。
そう言えば、俺……明日、死ぬんだっけ?
――そう。もう明日である。ミザリアは七十時間後に死ぬと言った。薬を飲んだのは昨日の零時前後だっただろうか? もし死ぬと言うのが本当の話であれば、明日の二十二時には死ぬ事になる。
「はぁ……」時男はため息をついた。後悔とか怖いとかの感情も勿論ある。
でも、それよりも、人生の最後残りの三日間で、親に見られたくない物を処分するくらいしかやる事がないというのが、情けなくなったのだ。
時男にはリアルな友人や、もちろん彼女なんていた事もない。――いや、だからこそ、死んでしまいたいと安直に思ったのだろう。今まで生きて来た人生で、得た物が少ないという事は、すなわち失う物も圧倒的に少ないという事だった。
今朝、母さんに話を聞くまで、俺なんか死んだ方が世の中の為だと思っていた。その方が親も楽になるに違いないと決めつけていた。
――でも、母さんが言った言葉は違った。こんな俺を、まだ信じて応援してくれていた。もっと早く会話していれば……その言葉を聞けていれば……。
でも、もう遅い。――それに、以前の俺は、親の話なんて聞く耳を持たなかっただろう。
本当に駄目な奴だった。誰にも迷惑を掛けずに死ぬ事が、唯一の親孝行かと勘違いしてしまった。
――今更、どうすれば……。ミザリアに会ってキャンセル出来ないだろうか? いや、もう一度会うにしても何処に行けば会えるのか分からない。この前は偶然だったし、それに……もう時間がない。俺が死ぬのは明日だ……。
「はぁ~」時男は天井を見上げて再びため息をついた。最後の最後まで中途半端で何をしていいのかわからない。本当に俺は駄目な奴だ。
時男は部屋に有った、ぬるいビールを一気に三本開ける。
――でも、自分が駄目な奴だって事に最後に気付けたのが、唯一の救いかもしれない。今までは、環境や、世の中、自分以外の何かが悪いと思っていたんだからな……。
そんな事を考えている内に時男は、強烈な睡魔に襲われる。二日ほど眠っていなかった事もあり、気を失うように眠ってしまった。
「将来何になりたい? 私はお医者さんになりたいの!」
「俺は警察官かな。時男は?」
「え? あ、まだわからない……」
「なんで? 夢や目標はないの?
「それって生きている意味ないじゃん?」
――多分、これは夢だ。何となくわかる。
小学生の時の、学級会か道徳の授業か忘れたけど、そんな感じの時に、将来の夢についてグループで話をしたんだ。
俺はその時、何もなりたい職業も、やりたい事も言えなかった。
小学生の夢なんて、何でも適当に言えば良かったのに……言えなかった。
その後も、中学や高校でも、必ず聞かれた。高校受験の時には両親にも聞かれた。
「将来何になりたい? 夢は?」
何かある度に、毎回のように聞かれるその問いに、俺は答えを持ってはいなかった。
ただ、目的も無く生きているのは、悪い事だと思えたんだ。
――今見ているのは、その時の記憶? 死を間近に感じての走馬灯かもしれない。
「今更だけど……死にたくない……」
小さく呟き、時男は部屋を出て階段を駆け下り、リビングに飛び込む。
テレビを見て寛いでいた両親がビックリした顔をして、時男を見つめる。
「お、俺! 死にたくない! 二人にはまだしばらく迷惑を掛けると思うけど……いつか、いつか、ちゃんとするから! だから……」
「ど、どうしたの? とっ君。怖い夢でも見たの? 死んだりしないわよ」
母親が笑いながら飲んでいたお茶を置いて時男に歩み寄る。
「なんだ、なんだ? 寝ぼけたのか? 脅かすなよ」
父親も笑いながらお茶をすする。
「お、俺! 死ぬんだよ! 明日の夜に! 死にたくないけど、死ぬんだよ! うぅ……」
時男は泣きながらその場にうずくまる。
「ちょ、ちょっと! どこか痛いの? 病院行く?」
尋常じゃない様子を見て、母親は心配になり時男の背中をさする。
父親は携帯を持って立ち上がるも、何をしてよいかわからずウロウロしだす。
「うぅ……俺……駄目な奴だった……何も出来ない奴でごめん……」
ピンポーン
時男が床に額をこすりつけ、絞り出すような声でそう言った時に、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン
再びのチャイムに、時男は我に返り「ごめん」と呟き、立ち上がる。
「誰か来たみたいだから、一旦部屋に戻って、落ち着きなさい。ね?」
そう言って、母親は玄関に向かう。しかし、すぐに叫び声に近い声で時男を呼び戻す。
「ちょ、ちょっと、とっ君! お客さんよ! 山川さんという女性の方!」
「え?」時男は声を出して驚く。
馬鹿な! いま何時だ? いや、今日は何日だ? もう二十三日? 俺は、そんなに寝ていたのか?
寝起きな事もあり、頭の中が混乱する。
「あ、あの、俺の部屋に来てもらって」
時男は、母親にそう告げると、自分の部屋に戻り、床に座ると深呼吸をした。
幸い、部屋の中の見られて困る物は、片付け済だった。
直ぐに部屋のドアがノックされる。
「山川です。失礼します」
そう言うと同時にドアを開け、グレーのスーツを着た女性が躊躇なく部屋に入って来た。
時男は、床にあぐらをかき、緊張した顔つきでその様子を眺めていた。
女の人が自分の部屋に入るなんて初めての事だし、今後、もう無い事かもしれない。
「初めまして時男さん。私、山川 美海と言います。今日はよろしくお願いします」
山川はそう言って、時男に名刺を手渡す。その名刺にはフリーライターと書かれていた。
「あ、あの、初めまして……今田時男です」
「ちょっと、とっ君。山川さんに、何か情報提供するんでしょ? 凄いじゃない!」
母親がお茶とお菓子をお盆に乗せ、部屋に入って来て、そのまま床に座る。
「あら、お構いなく。突然押しかけて来たのにすみません」
山川は会釈をしつつ、お盆を受け取り床に置く。
「いいのよ~。ゆっくりしていって。何ならいつでも来て良いのよ~」
にこやかに話し出す母親に、時男は俯きながらもハッキリと言う。
「あの、母さんは悪いけど、出て行ってくれないか。聞かせたくない話なんだ……」
「あら? あらあら、じゃ、山川さん。ごゆっくりね」
「ありがとうございます。頂きます」
そう言って、山川はお茶を手に持ち、母親に頭を下げる。
ドアが閉り、母親の足音が下の階まで行ったのを確認すると、時男はゆっくりと顔を上げ、山川の顔を確認する。
黒髪を後ろで結び、派手ではないがちゃんと化粧をした、まともな仕事をしている人という感じで、気の強そうな感じもあるが、愛嬌の良さも感じる……そんな印象だった。
「あ、あの。わざわざ今日は、朝早くからすみません」
何を話して良いのか分からず、時男はとりあえず適当な事を口走る。
「いえいえ、有力な情報の為なら、何処にでも行きますよ、私! えへへへ」
山川はおどけて笑って見せる。その笑顔に時男は緊張が解け、ほっとする。
「それで、ですね。早速お聞きしたいのは~、今田さんのメールにあった魔女についてなのですが……」
時男は大きく頷いて、ゆっくりと思い出すように話始める。
「ミザリアには、一昨日に会ったんだ……。いや、今日は二十三日? その前日か? とにかく、確か二十日に会ったんだ。――酔っていたからどうやって店にたどり着いたかはわからないけど……」
時男は山川にミザリアに会った時の事を、覚えている限り詳しく話した。
「――え? ちょっと待って? それって、今田さん! 今日にも死ぬって事じゃないですか!」
時男が話を終えると、それまでメモと取りながら黙って聞いていた山川は、身を乗り出し、時男に言いよる。
「ま、まぁ……。でもそれは俺が望んだ事なので仕方ないというか……」
「何言っているの! 駄目よ! 病院! 救急車!」
「ま、待って。今は全然具合とか悪くないし、病気じゃないんだ。魔法の薬なんて医者に言っても信じてもらえないし、それに……本当に死ぬのか、わからないし……」
「ちょっと、どういう事です? 騙されたって事? 五十万払ったんでしょ?」
山川は少し冷静になり、時男に状況を確認する。
「まぁ、その時は本物だと思ったし、そのつもりで出された液体を飲んだんだけど、今となっては夢のような出来事で、本当だったのか自信が無いんだ……わざわざ来てもらって、悪いけど。酔っていただけなのかもしれない」
そう強がって言いつつも、時男の両手は震えて目は涙を貯めて真っ赤だった。
「でも、そのミザリアって魔女は、チラシの女子校生の名前を言ったのよね?」
「あ、ああ。確か、ルカ? とか……」
山川は鞄からチラシを取り出し、時男に見せる。
「このチラシには写真は印刷しているけど、名前までは乗せていないわ。だから流花と言う名前を貴方は知らない筈だし、そうなると、やはり夢や幻なんかじゃなくて、本当にミザリアという魔女に会っているという事なのよ」
「そ、そうかもしれないけど……」
「ねえ! 死ぬかもしれないのに! 何とかならないの? これじゃ殺人じゃない!」
時男は覚悟を決めたように、俯き大きく息を吐いてから話し出す。
「ど、どうして山川さんは、そんなに必死に……いや、そもそも、俺のメールなんか、よく信じてくれたよな……魔女が居るなんて……」
「それはね、ミザリアという名前が、他の人から聞いた魔女の名前と同じだったからよ。偶然とは思えなかったわ」
「そ、そうなんだ。俺以外にもミザリアに会った人が……」
「私、その人の話を聞いていたから、ミザリアさんが悪い魔女だとは思えないの。きっと今田さんが飲んだ薬も、死にたくないと思ったら、効果が無くなるんじゃないのかしら? 三日間の猶予を与えたのは、その為だと思うの。三日間考えて、それでも死にたいと思っていたら、効果を発揮するとか……まぁ、あくまで、私の想像だけど……」
「今は……確かに死にたくない。いや、死ぬのが怖いんだ。でも、俺は生きる理由も見つけられない駄目な奴なんだ。夢も希望も無い……。未来に絶望と不安しかない。生きていても仕方ないんだ」
「あ、あのね!」山川が時男の両肩を掴み、叫ぶように言った。
「死ぬのには理由や原因が必要だけど、生きるのに理由は必要ないのよ!」
時男はその言葉に雷に打たれたような衝撃を覚える。
「え? そうなの?」時男はそれだけ言うと、茫然と天井を見上げる。
生きるのに理由が必要無い? 本当に? じゃあ、どうして俺は……。
「私は知っているわ。世の中には毎日食べる物に困っていて、それでも必死に生きている人もいっぱいいる。日本なんか良い方よ。世界なんか、寝る所が無い人だって沢山いるの! それでもみんな、今日を生きるのが仕事だと思って、毎日を必死に生きている。生きようとしている。」
大きく息を吸って、続けて山川は時男に言う。
「理由なんか無くても、死にたくないから生きている! この世に生まれたから生きている! それでいいのよ! それで充分なの!」
「そ、それじゃ俺は……今まで……」
時男の両目からは、あふれるように涙が流れ落ちる。
「きっと、大丈夫。貴方は死んだりしないわ。生きたいって思っている人は死なない魔法だと思うわ。きっと流花も生きている。私は、そう信じている」
「あ、ああ。そうかもな。確かに悪い人には見えなかったよ。ミザリアは。妖精なんかも連れていたし……」
「え? 妖精? 凄い! ねえ、今田さん! もし、明日の朝、元気で居られたら、私達の活動を手伝ってくれない? ミザリアさんの事を実際に見た人は貴重だし、人手も足りないの。まぁ、お金が出る訳じゃないんだけど……えへへ」
まだ上の空で考え込んでいる時男に、それだけ言うと、ポンポンと肩を叩いて山川は帰っていった。
「――なんだ、生きるのに理由なんか必要無かったんだ……。いや、死ぬのが怖いって理由だけで、生きる理由として充分って事なのか……」
勝手にみんな、凄い理由や目的を持って生きているのかと思っていた。そして、それが無い自分は駄目な奴だと……。死んだ方がマシだと思っていた。
――でも、俺はもう死にたくない。母親の想いを聞いたし、俺に手伝って欲しいと言ってくれる人もいる。だから死なない。きっとそうだ。
時男は確信し、いつもと同じように母親の用意した食事を取り、パソコンを眺め、アニメを見てゲームをして過ごした。
俺は大丈夫だ。生きたい!
気が付くと、いつの間にか日付は変わり、ミザリアの言っていた七十時間を過ぎていた。
時男の体には、特に異変は無く、実は死んでいる事に気付いていない……という事でも無さそうだ。
何の事は無い。要は何も起きなかったのである。
しかし翌日、目が冷めた時男には、世界が変わって見えた。ひょっとしたら、異世界に来てしまったのかと感じる程に。
「やった! 生きている……」
一応、スマホで日付を確認すると、メールが来ている事に気付く。
それは山川からのメールで、気付いたら連絡をしてほしいとの事だった。
時男は返信の文章を考える。
大げさな話をしたにも関わらず、しれっと生きている自分が恥ずかしくもあり、心配してメールをくれた事に感謝の気持ちもあり、何より生きている事を嬉しく感じる自分が居て、上手く表現出来そうになかった。
なので、とりあえず、一言だけ書いて送った。
「何か手伝いたいです」
直ぐに返事が来た。
「これから、よろしくね。とっ君!」
「くは!」時男は、声にならない声を上げて天井を見上げる。
くそ! 生きる理由に、充分すぎるじゃないか……。
――ハロウィンの前日。夜の繁華街で、ミザリアは見覚えのある男を見かけた。
「あれは……時男?」
その男は、似合わないスーツ姿で道行く人にチラシを配っていた。
「やっぱり死ななかったんじゃ~ん」
帽子の中で妖精のマカロの声が響く。
「そうね、まさかピンポイントで毒無効のスキルを持っていたなんて……水晶玉を見た時は、目を疑ったわよ。運が良いんだか、悪いんだか……」
「お金は貰っちゃえばよかったのに~ 勿体ないね~」
「そうも行かないわ。結果の出ない事が解っているのに、お客様からお金は取れないわよ。私の信念って奴ね」
「でも、誰も連れて帰ってないし、お金も無いし、どうするの~」
「分かっているわよ。少し黙っていなさい。周りの人に見つかったらどうするのよ」
「認識疎外魔法を使ってるんでしょ? それに見つかってもハロウィンが近いから大丈夫だよ~」
「貴方の声は、目立つのよ。静かにして!」
ミザリアは苛立つように、杖を地面に強く付いて歩き出す。
それにしても時男……。数日の内に、随分とまともになったじゃない……。
「ふふふ。一度でも死ぬ覚悟を決めただけはあるわね」
とんがり帽子の魔女は、そう呟くと夜の街に消えて行った。
おしまい