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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある悪役令嬢の軌跡、あるいはヒロインの独白

作者: 富士壺


 ――死んでしまう、死んでしまうのだ。


 

 突如として一つの予感が背筋を駆け上った。神経を直接撫ぜられる様な不快感に内臓の内側が泡立つようだ。

 深く、深く息を吸って、そして吐く。急上昇した心拍数を抑え込む。そうしてひとまずの平常心を取り戻すと徐々に周りの音が戻ってくる。鼓膜を震わせるのは愛らしい鈴の音。その出所は、()()()の義姉となる幼い少女だ。高くこちらを詰っていた彼女が段々と不安そうな声色になるのが分かる。心配気な様子に泣きそうな声、それに答えるべくわたしはゆっくりと目を開けた。


「ねぇ。ちょっと。あなた、だいじょうぶなの?わたくし……わたくし、あなたにちょっとイジワルを言いたかったの。ちょっとわたくしと同じになってほしかったの。ねぇ、本当にごめんなさい……ねぇ、おねがいよ。こちらを見て、泣かないで」

「大丈夫です、お義姉様。わたし、泣いていません」


 定かではなかった焦点が合う。


 

 ――美しいと思った。愛らしい、可愛らしい、ではなく美しいと思った。

 紫水晶の瞳に金色の光がちかちかと輝いている。豊かな黒い絹糸のような髪が光を反射して暗く、穏やかに輝いている。どこもかしこも眩しい彼女を、まるで夜の女神のようだと。確かにそう思ったのだ。


 

 はっとする。惚けていつの間にか開いていた口を引き結ぶ。

 よくよく見てみれば目の前の少女の顔が想定よりもずっと低いところにある。なんということだろうか。どうやら公爵家の一人娘たる彼女が、私の様子を伺うために膝をついている。柔らかで清潔な絨毯が敷かれてはいるが、決して貴族のお嬢様が座り込んでいい場所ではない。


「あの、お義姉様。わたし本当に大丈夫ですから。だからどうかお立ちになってください」


 いつの間にやら握り込まれていた手をそっと引き上げて立ち上がるよう促す。泣かないでと言いながら、実際目に涙が浮かんでいるのは彼女の方だ。興奮のためか、僅かに赤味の滲んだ瞳は梅雨時の紫陽花を思い出させた。


 

 ――わたしの中の()()()が初めて耳にするやさしい声に聴き入っている。

 わたしの中の()が初めて目にする美しいものに魅入られている。


 

 目蓋を何度か瞬かせながら膝を上げた義姉はわたしよりもいくらか背が高い。背中を覆い隠すように流れる緑の黒髪がシャープな印象に拍車をかけている。このまま順当にいけばスラリとした美しい女性になるだろう。――いや、そうなるはずだ。


「……泣いていないのなら、いいの。()()()()()をしてしまってごめんなさい。ゆるしてもらえるかしら」

「はい、もちろん」


 そっと首肯したことで漸く義姉もぎこちなく微笑む。居た堪れない、という訳ではないだろう。貴族として胸を張れない言動をしたことを恥じているようだった。すらりと伸びた背筋に彼女の育ちの良さがよく現れていた。

 咳払いを一つ。居住まいを正した彼女がこちらに向き直る。


「あらためて、初めまして。わたくしの妹。わたくしのあいすべき宝。わたくしはユークス・ラウクォーツ。そしてようこそ、わが家へ。ここはゆいしょある名家、クォーツの本家たるラウクォーツのやしきです。これからはわたくしの妹として。そして名家のむすめとしてはげむように」

「……へメラ・ベリル改め、へメラ・ラウクォーツと申します。これからよろしくお願いします、お義姉様」

 

 美しい礼と共に口上をあげられる。何度も、何度も練習したであろうそれらは一切の澱みがない。わたしも精一杯の礼をもってそれに応える。どうだろうか、と義姉を見上げて窺えば満足気に笑う彼女がいた。

 

 ()()()()()の展開よりもずっと穏やかな今を、暖かに感じる自分がいた。


 

   ◇


 

 つまるところ、ここは()がかつて見聞きした物語、その過去の一幕である。

 詳細など覚えているべくもないが、大筋は先の衝撃で――義姉との出会いのことである――薄らぼんやりとした記憶が戻ってきていた。

 この世界で何をしたいのか。何をすべきなのか。天蓋のついた寝台の上。きっと雲よりも軽く、陽光よりも暖かな布団の中で、わたしはしばし思案することした。


 

 魔女というものが存在する。魔力の澱に侵され、莫大な力と引き換えに感情の制御を失った人間のことを、この世界では魔女と呼称している。

 そして思い出した物語によれば、義姉は魔女となり主人公である英雄――へメラの婚約者となる人物に討たれる(さだめ)にある。今のわたしはさしづめヒロインといったところだろうか。性に合わないにも程がある。

 

 人が魔女になる原因とは、はたしてなんであっただろうか。記憶を探るも不快な浮遊感に吐き気を催し始めたため後に回す。

 

 問題はそこではなく、義姉が初めて殺される魔女である点にある。これまで現れてきた魔女達が暴れ回ったことにより、この世界の内側は腐り落ち始めている。それを癒し、元の美しさを取り戻すためには、魔女を殺して身のうちの魔力を解放する必要があった。

 世界を想えば義姉を見捨てるのが最善であるが、そうは問屋が卸さない。わたしは既にあの子供らしく感情的で、しかし義妹を思いやる心を持つ、美しい彼女を好きになってしまっていた。一目惚れといえばそうなのだろう。

 

 始めに思い出した一枚の絵を思い出す。細い身体は剣によって縫い止められ、紫水晶の瞳は狂気を帯びて血走っていた。広がった黒髪は徐々に染み出した赤に染まっているのに、それでもなお彼女は動きを止めない。止めないのだ。

 そして最期には大粒の涙を流して絶命する。

 今思えば、あの涙は子供の頃の彼女とまるで同じ性質のものだったのだろう。先程の涙の滲んだ瞳を思い出す。あれからこぼれ落ちる滴はきっと記憶のそれと相違ないと確信できた。物語の一人物にすぎない彼女は、子供のまま死んでしまったのである。幼いまま、殺されてしまったのである。


 なんであれ、彼女が魔女になる事はどうしても受け入れられない。しかし滅びゆき、災いの訪れが定められている世界も看過できない。そんな世界では義姉が生き残っても、幸せになれるか分かったものではない。

 せめて魔女になる条件だけでも思い出せないものだろうか。言ってしまえば義姉以外がどうなろうと興味はないのだ。身代わりが用意できるのならばそれが一番手っ取り早い。

 

 ふと頭痛がする。一瞬で過ぎ去ったそれは、雷のように鋭く走り、そして強かに脳を打ちつけた。そしてその軌跡によって記憶を覆い隠す霧が僅かに晴れる。


「……ああ。そう、そうだった。感情……それなら」


 

 ――強い感情を持つ人間が、先代魔女の死地に訪れる。そこで澱の誘惑に乗り、囁きのままに身を委ねる。そうして魔女は出来上がる。そうすれば誰だって魔女になれる。


 強い感情ならば、いまこの胸にだって灯っている。


 

   ◇


 

 公爵家の養子として分家より引き取られたあの日からもう何年もの時が経つ。人質よろしく、反逆の意思のある家々から連れてこられるのに諸々都合が良かったわたしだったが、本家の人々は義姉であるユークスを始め善良であった。そして初めて出会った時のように、ちかちか金色が瞬く瞳を優しく緩ませて見てくるのだ。よってわたしも順調に彼等に入れ込んでいき、順調に本筋たる物語を瓦解させて行った。

 

 義妹の存在により両親に寂しさを抱く。不幸な行き違いにより、初恋の君が義妹の婚約者となる。不慮の事故により仲違いした両親を失う。……魔女となり徐々に狂い出す自分に恐怖する。

 義姉を襲う問題は多岐に渡って存在しており、その尽くの芽を潰して回る。時には何かしらに勘付いた義姉から心配気なお説教と『ありがとう』を貰う。穏やかに微笑む彼女を見ると、心の奥の方から春の陽射しのように穏やかな幸福が湧き上がってくるのだ。

 

 同時に暗く冷たい悲しみと怒りもじわじわと染み出してくる。何故この優しい人があのような目に遭わなければならないのか。何故この美しい人があのように惨めに死ななければならないのか。何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ…………


 

「へメラ?」

 

 はっと我に帰る。

 鳥の声が頭上をふわりと通り過ぎ、風が優しく頬を撫でていく。燦々と降り注ぐ陽射しに自分が何処にいるか自覚した。

 今は義姉とお茶を飲み談笑していたはずだ。近頃は澱の影響で不安定でいけない。顔を上げれば、深く考え込むわたしを、眉を下げて不安気に眺める彼女がいる。相も変わらずその瞳の中にはちかちか星が瞬いていた。

 繊細で心配性な彼女のことである。このままではお茶会を切り上げ寝床に放り込まれかねない。せっかくの楽しい義姉との団欒の時を続けるべく、彼女に大丈夫だと微笑んでみせた。

 

 

 実に満ち足りた日々を送りながら、わたしはクライマックスへの準備を着々と整えていく。あの物語が完結するように。ユークスの物語がハッピーエンドで終わるように。

 

 魔女が無事英雄に殺されるためには世界中に厄災をばら撒かなくてはならない。

 金を使い、後ろ暗い人間を使い、時には自らを使いながら少しずつ事は進む。悪徳を促す事で国家に腫瘍を作り、犯罪を横行させて罪のない人々を追い詰め、時には有り余る魔力をもって貴賤を、善悪を選ばず虐殺を行う。魔女の身内は基本的に被害者と看做されるため、わたしの死後を考えた遠慮は必要ない。

 

 そしてそれら全ての起点が魔女であると分かるように、来るべき時に魔女を殺す英雄に伝わるように、慎重に情報を張り巡らせていく。最後の仕上げとして英雄(かれ)に所業の情報、その一端を握らせれば――あとは芋づる式である。優秀な主人公の手にかかれば決して違える事なく辿り着いてくれるはずだ。


 

   ◇


 

 やっと終わったな、としみじみ実感している――なんて余裕はなくわたしは痛みと苦しみに呻いていた。

 ようやくたどり着いたクライマックス。かくして訪れたエンディング。しかしこれはあくまで物語ではなく現実である。荒廃した町の片隅。地に落ちた瓦礫に縫い止められたわたしは瀕死で喘ぐ羽目になっていた。思うことはただ一つ。義姉にこの苦しみを味合わせることにならなくて良かった、ただただそれだけである。


「何か、言い残すことは?」

「……お前に言うことなど、無い」


 主人公の事をかつてはそれなりに好きだった記憶がある。なんせ別の世界で目覚めてまで覚えている物語の人物だ。嫌いなわけがない。

 ところが人間とは現金なもので、彼の前でだけいつもより華やかに笑う義姉を見た途端急に腹が立ってきてしまったのだ。義妹にすぎないわたしではきっと見ることの叶わない笑顔。それを引き出せる彼のことは、なるほど。結果としてこの殺し合いを果たせる程度には憎く思えていた。

 

 ぼんやりと焦点の合わないまま他愛のないことを考える。後は死を待つのみである。

 そこにもう一つ足音が響く。優雅に、静かに、穏やかに。その特徴的な歩き方をわたしが分からないはずがない。


「お義姉様……?」

「……へメラ。貴女、貴女そんな大怪我をして……

 レオス、退いてちょうだい。私の妹にお話があるのよ」

「ユークス、彼女はもう助からないよ」

「ッそんな事は、そんな事はわかっているのよ!だからこそよ!さあ今すぐそこを開けて。そしてしばらく他所へ行っていて」


 突き立てられた剣はそのままに主人公が去っていく。わたしが義姉を傷つけないと信じている……というわけではないだろう。瀕死な上に瓦礫に留められている以上身動き一つ取れないだろうと判断されたらしい。全くもってその通りである。

 今しばらくの猶予を与えられたのは癪に障るが、義姉と最期に話す機会を得られたのは幸いだ。――こんな姿を見せて幸いと言うべきではないないが、こうなってはもう自棄である。

 


「ねぇ、へメラ。私の可愛い妹。私、貴女のしたい事は今でもわかっていないの。でも、時間がないのよね?だから教えてちょうだい。貴女のしてほしい事はなに?どうか、お義姉様に叶えさせて」


 わたしの隣にそっとお義姉様がしゃがみ込み、動きやすさを重視したであろうドレスに血が染み込んでいく。初めて見る格好なのに汚してしまうのが忍びない。

 こちらを覗き込む瞳は今日も星空のようで美しかった。

 息をするのも苦しいがお義姉様の問いかけには答えたい。しかしこの醜く、厚かましい願いを口にするわけにもいかない。浅く短い呼吸を繰り返す。後ろめたさを隠すためにそっと口を開いた。


「……わたし、の願いなどありません。ただ……そう、ただむしゃくしゃしただけです。急に知らない家に引き取られて、そこの娘は呑気に笑ってて。世界中、幸せな、人だらけで。それで、腹が立ったので、やりました」

「嘘おっしゃい」


 ばっさり。一瞬で看破されてしまった。表情まで取り繕える自信がなくてそっぽを向いていたのが悪かったのだろうか。


「何年の付き合いだと思っているの。それくらい分かるわ。

 ……ねぇ、お願いよ。こんなの嫌なの。貴女が笑えないなんて。そんな顔でいってしまうなんて受け入れられないの。私の愛しい、大切な妹。貴女に笑ってほしいの、貴女を笑わせたいの。お姉様のお願い、叶えてくれないかしら」


 お義姉様が苦しくて悲しくて、痛いくらい優しい目でわたしを見つめている。泣きたいのを我慢して涙が滲むのが子供の頃から全く変わっていない。見ている方が痛々しくて泣けてくるのを分かっているのだろうか。

 ――ああ、思い出すべきじゃないことまで思い出してしまった。初めて会った時のこと。美しくて、やさしい人だと思ったこと。この人に愛されたらどんなに素敵だろうか……なんて思ってしまったこと。こんなのは死期が近いせいだ。堰き止めていた感情が波打って溢れ出す。冷たくなって動きの鈍る体とは裏腹に、この感情が、想いがどこまでも熱い。

 

「……ッわたし!わたし、()()じゃなくて、()になりたかった……!貴女の、お姉さまの妹になりたいっんです。それで、お姉様が笑っている世界で、私も笑いたかったっ。厚かましいけど、そう思った!でも駄目なの、そんな未来は、無いの」

「……そう」


 喉が引き攣り唇が震える。子供でもあるまいにしゃくりをあげて泣き始めたわたしを撫でる掌が暖かい。こんな状態で抱きしめたら死んでしまうと分かっているのだろう。その気遣いすら嬉しかった。


「あのね、へメラ。私はずっと……そう。初めて会った時から貴女の事を()だと思っているし、()と呼んでいたのだけれど」

「……えっ?」

「気付いてなかったのね……私の可愛い妹、愛するへメラ。心配しなくても貴女は最初から私の妹よ」


 想定外、想像外である。長年思い悩んでいたことが一瞬で解決してしまった。わたしはずっと()()()と笑い合えていたのだ。


 なんだ。


 ふ、と気が抜けた。同時に強張っていた体からも力が抜けていく。そうであるならば本当の本当に悔いなどない。お姉様のこの先をあの男に掻っ攫われるのは、まあ、諦めるしかないだろう。事実としてレオスの隣でならばお姉様はあんなにも綺麗に笑えるのだ。


 なんだ。よかった。わたしの人生、お姉様と出会って始まったわたし、最初から最期まで満たされていた。

 

 じゃあ悪役はそろそろ退場のお時間である。物語はハッピーエンドでなければならないし、そこに諸悪の根源がいるなど言語道断だ。


 

「……おねえさま」

「なぁに?」

「……わたしを、妹にしてくれてありがとう。私に、満たされた人生をくれてありがとう」

 

「ええ

 

 ……へメラ?」



 瞼を閉じる寸前に見えたのは、いつも通り金色の星が瞬く紫水晶だ。ちかちかと煌めく星が私の脳裏に焼き付いている。

 きっと、いつまでも。

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