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戦国立花家三代、新日本国戦記、大國魂神社の大神様に捧ぐ!織田信長を倒して全国統一を目指します!  作者: 近衛政宗


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1541年(天文10年)6月、立花将広、甲府親善訪問記

立花家当主の弟が武田晴信の家督相続を祝う為に使者として豪華な行列で甲府まで旅をします。


立花将広一行は府中城→日野城→大和田城→八

王子城→高尾城など史実に無い城、史実と異な

る位置に築城した城を通過して進みます。


コツコツ空想した立花家の領内の紹介みたいな展開になります。


文章力無いので優しく緩い視点でご覧ください。





数日前、立花家当主、立花義秀は信頼する弟、将広に甲斐国へ親善訪問の大役を与え、無事に大役を果たして帰国しました。

時が少し遡ります。


─1541年(天文10年)6月─


八王子城主、立花将広率いる親善訪問団1700名の行列は府中から甲州街道を立川方面、柴崎城前の多摩川に架かる立日橋たっぴばしに差し掛かりました。


柴崎城は信濃諏訪氏の血脈を継ぐ諏訪頼宗の居城、古代多摩川が大地を削った崖の上に築城されています。


北側500メートル先の諏訪神社を守護する位置にあり、柴崎城の西側500メートル先の立川城と連携して南に見える立日橋たっぴばしを守る重要な城です。


立日橋から多摩川河川敷の広大な絶景、足柄山脈から雪景色の富士山が現れます。

八王子から秩父までの山脈が連なる絶景はなかなか見る事が出来ない光景です。

一行は景色を楽しみながら街道を進みました。


多摩川を越えた行列が日野宿に入り、左前方、宝泉寺の小高い山に日野城が見えます。

長く続く甲州街道の坂道を抜けて3キロ先の大和田城前を通過。


やがて浅川に架かる大和田橋を渡ると立花将広の居城八王子城が現れます。

立花家の八王子城は令和の時代の元横山町、八雲神社から八王子警察署周辺の四方1キロ弱の平地に築かれ、絹織物が盛んな町を守る重要な城です。親善訪問団一行は八王子城下に宿泊しました。


二日目早朝、親善訪問団一行は甲府に向けて出発。やがて高尾山が見えると東方に高尾城が堂々と姿を表します。

史実では北条家がここに八王子城を築城、小田原征伐で豊臣軍と戦う場所になります。

高尾城と八王子城の北側数キロ先には緊張関係にある大石家との国境になっています。


やがて行列は小仏峠を通過。この辺りは相模の北条家の津久井城から数キロの距離で緊張しながら善勝寺城、小原城を通過。


無事武田領内に入ると大月の領主、小山田信有殿に迎えられ、甲府まで同道して頂きました。


甲府に着いた行列は菊の紋章の軍旗100本を先頭に笛太鼓の演奏しながら1キロ半の長い行列です。

500騎の儀仗兵と山のような祝いの品、弓と槍の武装歩兵1000の美装に見物する甲府の民や国人領主や兵士達は沸き立ち、立花家の実力を高く評価する事になりました。


立花将広は無事に新当主、武田晴信に面会、立花家当主、立花義秀からの書状と祝いの品を引き渡しました。


立花将広は同行している小山田信盛を武田晴信に紹介します。

彼は武蔵国、町田南部の小山田城主であり、大月領主の小山田信有殿と先祖を同じくする親戚関係です。

相模北条家の国境、津久井城を押さえる共通の任務の責任者同士でありました。


面識ある二人は意気投合して楽しく酒を酌み交わす事になりました。

立花家より持ち込まれた清酒、焼酎の旨さに感激する武田家の国人領主達、新当主晴信と立花将広は泥酔して楽しく歓談が続きます。


宴席が深夜まで続き、立花家の楽士達が笛と太鼓の演奏を行い、武田家から美女達の舞いが披露され、深夜まで歓迎の宴が続きました。


翌日も和やかな歓談が続き、立花家と武田家の新たな友好関係が深まる事になり、立花将広一行は翌日、甲府を出発して帰路につきました。




─立花将広の余談─

清酒、焼酎は薩摩から学んだ製法です。

そのきっかけになった歴史的事件がありました。


古来より、品川湊を共同経営する立花家と大國魂神社大宮司猿渡家に鎌倉幕府将軍、源頼朝公から隠し子の若君を警護して薩摩に逃がして欲しと依頼が来ました。


鬼嫁北条政子に頭が上がらない頼朝公の依頼に立花家、猿渡家が品川湊より200名の精鋭を護衛に薩摩に送り出しました。


薩摩に着いた若君と200名の精鋭は時に血を流しながら薩摩の豪族達を従える事に成功。

その隠し子の若君が島津家の創始者、島津忠久公となりました。


薩摩島津家と立花家、猿渡家はこれをきっかけに品川湊を通じて交易を始めました。

やがて、薩摩から焼酎造りの技術が伝わり、清酒の製造に繋がりました。


薩摩から人材も頂きました。

島津のお殿様は恩返しに薩摩に残った200名の精鋭の子孫の中から勇敢な若武者と工芸技術者を武蔵府中まで送り出してくだされた。


伊集院氏、新納氏、東郷氏、霧島氏などの若武者と従者達が薩摩文化を持ち込んでくれました。

今では重要な城を任されたり、数々の、合戦で活躍しとるから感謝感謝でございます。


ついでながら、大國魂神社は朝廷から品川湊を任される領主であり、武蔵国府の貿易を任される商人でもありました。


一族の娘が源氏嫡流、源義家公の御子を授かり、立花家を創立して以来、我が立花家は大國魂神社大宮司、猿渡家から信頼されて品川湊の共同経営を任せて頂きました。


利益の独占などせず、分け与えて頂いた恩を忘れてはならぬと思います。

平清盛の平家政権に府中を奪われた時、鎌倉幕府、執権北条家に府中を奪われた時も品川湊には手出し出来ずに立花家の財政を救って頂きました。

時の権利者さえ、朝廷から託されたみなとだと知っていた為、手出し出来なかったのです。


何度も領地の大半を奪われながら復活出来たのも大國魂の大神様おおくにたまのおおかみさまと大宮司猿渡家のご恩にございます。

忘れてはならないと心に刻んでいます。


─立花将広(談)─


立花将広が甲斐国から帰国して数日後、相模国、小田原北条家当主、氏綱が重体という情報が流れました。

やがて7月中旬、北条氏綱が他界しました。

北条氏康が家督を相続した事が発表されました。


立花家と領地を接する武田家、北条家に相次ぎ若き当主が家督を相続しました。

武田晴信20歳、北条氏康26歳、立花家は二人の名将と戦国時代を歩みます。

手を結べるなら頼もしく、敵対するなら大きな脅威になります。


第8話完

武田家と良好な関係を維持する為に立花将広が親善訪問しました。

武田家は今川家、北条家、立花家と隣接しており、父親を追放後の難しい状況にあります。

立花家は武田家と信頼を高め、将来は同盟関係を結びたいと考えています。


北条家と立花家は対立関係にあり、若き当主、北条氏康に代わっても、関係改善は難しい状況です。





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