1544年(天文13年)3月25日、相模の国の戦場が動きます!横浜北部から玉縄城周辺が戦場に!
3月1日、大石家が立花家から養子を迎え、婚礼が行われました。同じく養子縁組みを申し入れた上野の山内上杉憲政、北武蔵の扇谷上杉朝定、二人の怒りに触れて、山内上杉軍が滝山城を攻撃しました。
大石、三田、立花の連合軍が上杉軍を破り、和議を結びました。
扇谷上杉軍は新座の平林寺、東伏見、石神井にて戦場を移しながら戦い、敗北して和議になりました。
立花家に残された戦場は相模、武蔵国境周辺になりました。
相原周辺で戦いが始まり、立花軍が小松城を攻略しました。
立花軍、楢島勢は巧みな策で北条氏康軍を深見城に誘い込み、救援に来た北条幻庵の軍勢を破りました。
北条氏康軍本隊が到着する前に楢島勢は長津田城方面に勝ち逃げしました。
北条氏康は楢島勢を、深追いせず、持久戦に持ち込む決意を固めました。
座間城に本陣を構えた北条氏康軍は周囲の水田に水を満たし、砦を構えて守備を固めました。町田周辺に本陣を構えた立花義國と対峙する事になりました。
北条軍は小松城を失った北条綱成が厚木城で周辺の兵力を集めています。平塚、伊勢原から予備兵力を集めています。
三浦半島から鎌倉、玉縄城周辺の兵力が海老名城に集結すべく動いています。
厚木城、海老名城に集めた兵力を北条綱成に託して座間城の支援兵力結集を図っています。
立花軍は岡津城方面に楢島勢6000を派遣、
久良岐城、蒔田城、横浜城から編成した久良岐康成勢2000と協力して三浦半島、鎌倉、玉縄城周辺からの座間城に補給させない為に、座間城の南方を脅かす任務が与えられました。
厚木城に北条綱成、岡津城方面の楢島正臣は互いの存在にまだ、気がついていない状況です。
先に相手の存在を把握した方が有利になります。
北条軍は立花軍との戦いで先手を指したつもりが、全て先回りされて後手を踏んで来ました。
挽回するには先に楢島勢を見つけて叩く必要があります。
北条綱成が厚木城に集めた兵力と海老名城に集まる兵力を無事に結集出来るでしょうか?
相模の国の戦いは武蔵の国との国境、町田から座間、厚木、海老名、岡津(横浜北部)、湘南方面まで範囲が広がりました。
東伏見城、石神井城周辺の戦いに勝利した立花軍は24日に和議交渉が成立して扇谷上杉軍を事実上屈服させました。
扇谷上杉軍は石神井城と練馬城を立花家に明け渡し、川越城へ帰還します。
立花家当主、立花義秀は次の戦場、相模に向かう!と宣言しました。
戦いは新たな段階に進みそうです。
1544年3月25日の朝を迎えました。
立花家に対して同時多発した3つの戦場は、立花軍が連勝して最後の1つになりました。
滝山城の戦いは総大将同士の一騎討ちに持ち込まれましたが、和議が成立、大石、立花、三田の連合軍の勝利になりました。
東伏見城、石神井城周辺の戦いも有利な形で和議が成立、勝利が確定しました。
相模、武蔵の国境に立花家の次期当主、立花義國が原町田を本陣にしています。
座間に本陣を置く北条氏康と7キロ離れて対峙しています。
原町田の本陣は小高い丘にあり、南側に境川が流れ、古代から境川が削り続けた崖の上にあり、彼方の7キロ先にある座間城が見えています。
■原町田本陣、立花義國、立花義広
叔父上!石神井城周辺の戦いが終わりました。
父上達が勝ちました!
東伏見城から石神井城周辺の攻防戦で有利に戦い、敵方の総大将、上杉朝定を石神井城に追い詰め、和議を勧告しました!
上杉朝定は事実上屈服しました!
石神井城と練馬城を明け渡し、川越に引き上げるそうです!
よっしゃー!流石!(さすが!)兄上らしいわ!
消耗を避けて、和議を持ちかけ、事実上の降伏に追い込んだな?
滝山城の戦いも同じだ!
体力を残して勝ちに持ち込めば和議で良いのだ!
落城させて、逃げる敵を新座の先の川越近くまで追い込んだら、周辺の田畑や民家に迷惑が掛かる、味方の消耗も桁違いになる!
石神井、練馬周辺の領民が巻き添えになるだろうからなぁ。
和議が正解だ!
なるほど、叔父上の仰る通りですね。
後始末を考えたら、力づくより、交渉で勝ち取る方が遥かに経済的かもしれません。
手柄が欲しい兵士達には不評かもしれませんが?
そうだな?滝山城の戦いでさらに手柄を立てる機会を奪ったからなぁ、上杉憲政と盛将の一騎討ちの勝負が決まり、半ば強引に和議に持ち込んだからなぁ。手柄を挙げ損ねた兵士達の不満は仕方なかろうな?
でもなぁ、あの時、和議に成らず、追撃戦になっていたら、上杉憲政軍の総勢18000が滝山城、高月城、福生、羽村、入間から追撃を受けて、大石領、三田領、立花領の田畑や民家を巻き添えにして、川越の先、前橋まで逃げ回る。
その悲惨な状況にならず、未然に防げた事を喜ぶべきなのだ。
戦は必ず面倒な後始末がある。
勝ち負け双方に後始末があり、表に立つ者がある。
裏方で目立たぬが大事な後始末をする者が居る!
その全てに気を配らねばならぬのが上に立つ者の勤めなのだ。
しかしながら全てを見届けるのは難しい。
上に立つ者は人を信じて、感謝して褒めて使え!
良くやった!見事だ!頼んだぞ!
こんな、言葉でさらに働いてくれる。
やがて立花家当主になるのだ、経験を重ねて大いに学ぶべし!
はい!叔父上、父上や叔父上、宿老達から学び、ご先祖の名を汚さぬように精進致します。
よっしゃー!それで良し!
さて、岡津城に向かわせた楢島勢と玉縄城から三浦半島の補給路を脅かす久良岐勢の働きがどうなるか楽しみだな?
北条氏康の補給路と背後を脅かすかなり重要な役目だ、娘婿の楢島正臣の器量を試す良い機会だな?
先日は深見城に北条氏康軍を引き込み、先陣を任せた北条幻庵の軍勢を蹴散らし、長津田城へ見事勝ち抜けしおった!(笑)
すでに1度北条氏康に負けを着けたからなぁ、次に何を考えるか?
叔父上、かなり楽しそうですね?
楢島正臣の手腕に期待しましょう。
岡津城から発進した楢島勢は3月25日早朝から東海道を進みます。
午前9時頃戸塚に到着しました。
■戸塚、楢島正臣本陣
楢島正臣(小机城主)兵力2000
長尾政頼(岡津城主)兵力2000
平山信季(長津田城主)兵力2000
3名は日頃から隣接する城の城主として親交があり、兵士達も日頃から交流が有りました。
先日の深見城の戦いで北条幻庵勢に勝利したのは日頃の交流の成果でした。
戸塚の本陣から補給路を封鎖する第一目標の玉縄城まで6キロほどの距離があります。東海道沿いに兵力を展開しました。座間方面に向かう街道筋を塞ぎました。
さらに、4キロ先の早川城周辺や、海老名城、厚木城、平塚城周辺に斥候を放ちました。
楢島正臣は配下に配属された久良岐康成勢2000を鎌倉、玉縄城の北2キロ地点に布陣させます。
久良岐康成の本拠地、久良岐城は横浜南部にあり、玉縄城まで12キロ、わずか4時間で到着する距離です。久良岐城、蒔田城、横浜城から選抜した2000を預けられた久良岐康成は3月25日、早朝に久良岐城を出発しました。
午前10時頃、玉縄城の東2キロの大船に到着、軍勢を北と西に展開します。軍旗を挙げて東、北、西を包囲、意図的に南側を空けています。
玉縄城主、北条氏尭(氏康の弟)は
10キロ離れた早川城(綾瀬)に伝令を送りました。
早川城から座間城の北条氏康本陣に伝令が立花軍、楢島勢6000、久良岐勢2000、合計8000に包囲された!と急報を伝えました。
■座間城、北条氏康、北条幻庵
正午過ぎに伝令が到着しました。
氏康!不味いぞ!三浦半島から鎌倉周辺の兵力が封じられた!
叔父上、厚木城の綱成に後詰めをさせましょう。
伊勢原、平塚周辺の兵力を集めて本日中に海老名城に入る予定でしたから、厚木城の5000、海老名城の2000、合計7000を綱成に任せて玉縄城を支援させます。
そうだな、玉縄城の氏尭の軍勢は鎌倉、三浦半島の兵力が集まり、3000ほどになるか?
北条軍10000対立花軍8000になる!玉縄城の防御力を考えたら我が軍が有利だぞ!
叔父上、本陣から笠原勢1000、南条勢1000、合計2000を海老名城に送ります。
彼らを綱成に託して玉縄城を包囲する立花軍を粉砕しましょう!
良し!我が北条軍は12000になる!立花軍は8000、しかも背後に玉縄城を抱えて挟み撃ちだ!
■北条軍の動きが氏康、幻庵の思い通りに進行すると北条軍が有利になりそうな展開になりました。
厚木城で伊勢原、平塚周辺の兵力を集めた北条綱成軍5000は水温が高まる正午過ぎまで待機して相模川を渡りました。
浅瀬から渡る際に腰まで水に浸かります。3月下旬でも水温はかなり低く、渡河するには厳しい条件です。腰まで水に浸かると甲冑からほぼ全身に水が染み込みます。やがて3キロ先の海老名城に到着しました。
海老名城に到着して初めて玉縄城が包囲された事を知りました。
座間城の氏康から2000の援軍が送られます。2時過ぎに海老名城に到着すると連絡が入りました。
海老名城の兵力を合わせて9000を率いて玉縄城を救うように命令が下りました。
この日は晴れていましたが、気温の低い1日でした。
本来なら甲冑を乾かしてから戦場に向かいたいのですが、命令が下されたら絶対に従わなければなりません。
北条綱成は各部隊の将校を集め、状況を説明します。
少しだけ休息すると玉縄城に近い、藤沢方面に向かうと通達しました。
■戸塚、楢島正臣本陣
楢島正臣、長尾政頼、平山信季
斥候から海老名城に大軍が集結中と第一報が届きました。
詳細を調べると北条綱成軍が玉縄城の後詰めに向かう事が判明しました。
北条軍の玉縄城救援に向かう軍勢は楢島正臣の予想を越える規模に膨らみました。
政頼!信季!北条軍が本格的な反撃に来るようだが、どー思う?
楢島正臣が二人に問いかけます。
やたら、数が多いみたいだが、予備兵力を無理に集めても、練度や装備が貧弱な気がするぞ!
長尾政頼が答えました。
だよなぁ、そうなら、怖くないよな?平山信季がニヤリとしました。
楢島正臣は腕を組ながら考えを伝えます。
最初に北条氏康が率いた軍勢が主力軍10000だよな?
次に小松城から相原城を狙った北条綱成軍が3000、合計13000が主力の正規軍だとしたら、残りは訳有りの二流、三流の兵士じゃないか?
北条家の領地は推定だが、駿河5万石、伊豆8万石、相模17万石、合計30万石、小田原の商港の交易が盛んだとして20万石足して50万石の経済力があったとする。
1万石に300名動員可能としても15000が動員の限界だ。
北条氏康の軍勢は最初に13000を動員したから、残りは二流以下の練度、装備だとしたら大軍が玉縄城の後詰めに来たとしても恐れる必要がないよな?
こちらからも仕掛けるぞ!
駿河の今川義元が駿河の国境、富士川を超えて沼津方面を侵略する!と
流言をばら蒔く!
手分けして座間城方面、厚木城、平塚城、海老名城周辺に流布してくれ!
それから、玉縄城の押さえは久良岐勢に任せる!
我が軍勢6000は北条軍の来るのを待ち構えるぞ!
西から来るであろう北条軍に備えて右翼に長尾勢2000
中央が楢島勢2000
左翼に平山勢2000
右翼が前に出た斜陣の構えで中央、左翼に敵兵を誘導して崩す!
馬防策を斜めに配置、敵兵の流れを崩せ!
楢島正臣の指示で玉縄城の包囲陣形から北条軍を迎撃する陣形に変更しました。
北条軍の集結する海老名城から立花軍の戸塚陣地まで12キロ、4時間程度で到着する距離です。
海老名城から慌ただしく玉縄城救援に向かう事になった北条綱成は玉縄城周辺に斥候を放ちました。
先発部隊を先に進ませると、藤沢北部の長後周辺に布陣させました。
立花軍の戸塚陣地まで6キロの地点でした。
綱成は海老名城と周辺から燃えやすい木材を多数集めました。
長後周辺に布陣すると兵士の甲冑や全身を乾かす為に多数の篝火、焚き火をさせました。
長後周辺に全軍が到着する頃、日没となり、気温が下がり、風が強く吹きました。
綱成の配慮で兵士達の甲冑と身体が乾くように多数の篝火、焚き火をしましたが、低温と、強い風の影響で十分に乾かす事が出来ません。
さらに急な命令の為、暖かい兵糧が十分に確保出来ず、大半の兵士が携行食や、乾燥軽食で済ませ、寒さに凍えながら朝を迎えました。
対する立花軍は豚汁、暖かいお結び、寒さを凌げる幕舎で快眠しました。
■同日、夕方の府中城
立花義秀、三田綱重、(義秀の娘婿)大石盛将(弟、将広の次男、滝山城主大石定久の婿養子)
義秀が府中城に帰還する情報を聞きつけた二人が連れ添って訪問しました。
石神井城の勝利のお祝いの挨拶プラス、戦に出たい!と直訴に来た様です。
だはははは!二人して何だ?
すでに祝杯で酔っ払いの義秀ですが、青梅澤乃井酒造の大吟醸を呑みながら、ご機嫌です。
義父上!我らに津久井城攻めをお任せ願いたく!お願いに上がりました!
だはははは!綱重、良い所に目を付けたな?盛将が探りを入れたのか?
叔父上!当たりです。
小松城から相原城を狙った北条綱成は小松城を攻略され、津久井城へ敗走しました。
忍びの報せによると津久井をほぼ空にして厚木、座間方面に移動しています。
ほぉ、しっかり探って来たな?
こちらにも同じ情報が来ている。
これから橋本、相模原に軍勢を出すつもりで準備しておった。
良いだろう!
津久井城攻めを許可する!
それで、綱重の兵力はどれだけ率いるんだ?
はい!3000名です!
良し、盛将は?どれくらいだ?
はい!2000名です!
決めたぞ!
総大将、三田綱重3000
副将に大石盛将2000
軍師に新納忠義2000を付ける!
総勢7000
小松城の愛甲隆時が2000の兵力で周囲を固めておる、相原から津久井方面に詳しいから協力して津久井城を攻略せよ!
津久井城を攻略したら山沿いに南東に進み、厚木城周辺で北条軍の退路を脅かせ!
厚木城を無理に攻める必要は無い!
北条軍が退路を断たれる不安に追い込むだけで十分だ!
八王子方面からの進路だが、椚田から相原城へ抜けて小松城経由で津久井城へ進め!
取り敢えず、小松城の愛甲に連絡しておくから準備出来次第出発だ。
義父上!実は福生に3000の軍勢を待たせてあります。明日早朝から出発出来ます!
だはははは!用意が良いな!
叔父上!
我らも明日早朝に出発出来る体制です!明日正午には相原城、小松城周辺に参ります。
吉報をお待ち下さい!
良し!任せた!行って参れ!
二人は挨拶すると笑顔で帰りました。
岡津城を起点にした楢島勢は、座間城の北条氏康を脅かす為に三浦半島や鎌倉周辺の補給の要、玉縄城を包囲する態勢を取りました。
楢島勢の玉縄城包囲に対して北条氏康が逆襲の一手に出ました。
北条綱成が率いる9000の軍勢が楢島勢の布陣する戸塚を目指して南下します。
楢島勢は6000の軍勢で決戦の覚悟を決めました。
明日には激突する状況です。
立花義秀は若き武将二人から津久井城攻めを提案されて攻撃許可を出しました。
相模の戦いがさらに熱くなりそうです。




