1546年(天文15年)12月中旬、勅使の行列は前橋上杉領館林から前橋へ!
勅使の行列は館林城に向いました。
前橋上杉家は世襲の宿老、長尾一族が大きな勢力を誇ります。
筆頭宿老は殆どが長尾一族から選ばれていました。
今年の4月、筆頭宿老、長尾憲長は立花家との戦いの最中に川越城の攻防戦で不測の事態にて死去、嫡男、長尾元長が僅か23歳で父の跡継ぎになり、宿老と館林城主の地位を引き継いでいます。
そして父、憲長が館林城に幽閉していた長野業政が新たに前橋上杉家の筆頭宿老になりました。
父が政敵として幽閉していた人物が筆頭宿老に就任した事で、長尾元長は複雑な状況に立たされていましたが、勅使が宿泊する事は長尾家に大変名誉な事になりました。
1546年(天文15年)12月中旬
12月16日、古河城から出発した勅使、万里小路頼房の行列は関東管領、前橋上杉家の領内に入り、出迎えに現れた宿老、長尾元長の手勢に導かれて午後14時過ぎに館林城下に入りました。
古河城の投石事件は館林城にも伝わり、厳重な警備態勢で勅使の行列が迎えられました。
館林城は東西1里(4キロ)、南北2町(220m)の大きな沼地の中に浮かぶ堅城です。
城の西側に水堀に囲まれた大きな城下町があり、城の大手門に繋がります。
勅使、万里小路頼房の脇には護衛指揮官、加賀美利久が控え、馬の背中から見える周囲の風景を楽しみながら雑談しています。
「加賀美殿、館林城は沼の中に有り、城下町も水堀で囲まれ、寺院が砦の役目を果たすべく堅牢な高い壁になっている。城下町も城の防備の役目を果たす見事な造りであるのぉ、此の度は事前に目する事になり、将来に役立ちそうで良かったであろう?」
「はい、岩槻城、栗橋城は立派な城で御座いました。さらに古河城も壮大で見事な城でしたが、館林城も堅牢で、見事な造りになっています。
武家に生まれた男として見るだけで目の保養になります!」
「ほぉ、謙虚だな?これから先は太田金山城、伊勢崎城、前橋城に滞在する予定だからのぉ、立花家は将来戦う相手の重要な城を安全に観察出来るから恵まれておるぞ!」
「はい、朝廷の皆様のご厚意に感謝致します!」
万里小路頼房と加賀美利久は周囲の風景を楽しみながら道を進みました。
城下町では勅使の行列を見る為に多数の領民が集まりました。警備に就いた兵士達は領民を跪く様に命じ、失礼の無い様に両手で拝む姿勢を取らせ、立ち上がる事を禁じました。
大手門前に城主、長尾元長と重臣達が整列して出迎えて行列は館林城内に入りました。
本丸御殿、大広間に通された勅使一行は改めて長尾元長と重臣達の挨拶を受けました。
万里小路頼房は上座から長尾家の家臣達を眺めて話を始めます。
「既に古河公方家に謹慎と停職の沙汰が下されたと聞いているだろう。
関東管領、前橋上杉家にも同じく厳しい沙汰を申し渡す事になる!
それ故、長尾元長に申し渡す!其方の主、前橋上杉家に伝えよ!
古河公方家には関東を騒乱に導いた謝罪文と謹慎、停職期間中の誓約書を提出させた!
前橋上杉家にも同様に書状の提出をさせる故、準備せよ!良いな?申し付けたぞ!」
「ははっ!畏まりました!早速に手配致します!」
長尾元長は素直に指示に従いました。
対面の儀式が終わり、勅使一行を迎える宴になりました。館林城の長尾家の軍勢と勅使の警護役の加賀美利久の軍勢は直接戦った事が有りません。
長尾家の重臣や若手の代表が宴の接待に侍り、酒が進むと、直接長尾家の軍勢と加賀美利久の軍勢が戦っていない事が幸いしました。
立花家の中で加賀美利久の軍勢は下総国、柏周辺の駐留軍に派遣され、古河公方家の本隊と何度も戦いました。長尾家の重臣や若手の家臣達は下総国での激戦の様子を聞きたがります。宴は戦場の話題で盛り上がり、歓迎の宴は和やかな雰囲気に包まれて終わりました。
翌朝、12月17日、城主、長尾元長と重臣達に見送られて館林城を出発、6里(24キロ)先の太田金山城に向いました。
勅使、万里小路頼房の行列は午後15時過ぎに太田金山城に到着、山麓には城主、由良成繁と重臣達が出迎えました。絶景を是非ご覧に入れたいと勅使の一同を山頂や絶景の本丸御殿に招きました。
由良家は太田金山城周辺の領主、岩松家の筆頭宿老でしたが祖父の代に下剋上に成功、前橋上杉家に巧みに取り入り、重臣の列に加わえられました。
勅使の行列に立花家の護衛が居ると知りながら歓迎している姿に違和感がありました。
万里小路頼房が加賀美利久に問いかけます。
「加賀美殿、曲者と噂されている由良家が立花家の護衛が同行してると知りながら、本丸御殿に招いたのは魂胆ありだな?」
「はい、山麓の館にて宿泊するだけで十分なれど、我らを山頂周辺まで案内した故、防御設備を平気で見せびらかした様に思えます。
何を考えているのか?相手の出方を待ちましょう!」
本丸御殿にて対面の儀式を済ませると勅使の一同を歓迎する宴になりました。
酒が入り酔が回った頃に城主、由良成繁が加賀美利久に酒を勧めながら語りました。
「加賀美殿、由良家が誇る山城をご覧頂きましたが、貴方が総大将ならこの城を如何にして攻めますか?」
「ははは!無理無理!城門を突破してもこの城は落とせません!私なら戦いません。
父の許可を取り、和議を結んで味方になって頂きます!」
社交辞令を含み、敵対するより味方になって欲しいと半分本気の答えを語り掛けました。
由良成繁は気持ちを察したかの如く笑顔を見せました。
「では、其の時は宜しくお願い申し上げます!」
由良成繁は満面の笑みで頭を下げて挨拶すると、席を離れました。
由良成繁は難攻不落の山城の内部の堅牢な様子を敢えて見せ付けて味方にした方が良いと悟らせました。
加賀美利久が父、立花義秀に報告すると見据えて、弱小の国衆が生き残る為の生き様を示しました。
歓迎の宴は和やかに終わり、翌朝を迎え、12月18日、勅使の行列は8里弱(30キロ)先の伊勢崎城を目指して出発しました。
夕刻には伊勢崎城付近に到着、伊勢崎城主、那波宗俊の出迎えを受けました。
伊勢崎城が手狭な為、伊勢崎城近くに広大な敷地を持つ、養寿院に案内され、対面の儀式、歓迎の宴を受けて、翌12月19日、勅使の行列は6里(24キロ)離れた前橋城に向かいました。
関東管領、前橋上杉家は今年の4月、立花家と戦う最中に独裁的に君臨していた筆頭宿老が死去、それにより、失脚していた長野業政が筆頭宿老に返り咲きしています。
立花家は勅使の護衛をするついでに前橋上杉家の様子を伺う機会に恵まれました。
勅使の行列は館林城、太田金山城の要衝を通り、伊勢崎養寿院から前橋城に向かいました。
関東管領、前橋上杉家の様子は不明、立花家に反感を持っているのは確実です。
護衛を託された加賀美利久と兵士達に緊張が高まります。




