1546年(天文15年)4月6日~、房総半島の状況が判明、立花将広に厳しい報告が入りました。
立花将広は木更津城に到着してから房総半島の情報を集めました。
3日掛けて得られた状況を整理して方針を決めました。里見義堯の対面に配慮して行動します。
1546年(天文15年)4月6日~
─木更津城下、立花将広陣営─
真里谷城に派遣していた新納忠義が東金方面の古河公方家の軍勢の動きを掴みました。
上総城の東、20キロ先の要衝、茂原城の北東へ5キロの本納城に10000の軍勢が攻撃中、さらに茂原城の北西4キロの真名城を4000の軍勢が攻撃中との報告が入りました。
遠征軍主将、立花将広は新納勢には北上して南岩崎城付近から茂原城に向かう様に指示を出しました。
久留里城に派遣した吉良頼貞から上総南部の情報が入りました。
勝浦方面の反乱軍7000が万喜城の南2キロの支城、国府台城を攻撃してる事が判明、さらに万喜城の西10キロの大多喜城の正木時茂が周囲の街道筋を封鎖して反乱軍に加担の可能性有りとの報告が入りました。
大多喜城の宿老、正木時茂が反乱軍側に加担すると万喜城方面の道が閉ざされ、救援が出来なくなります。
孤立した万喜城は極めて危うい状況になりました。万喜城主、土岐為頼は里見家当主、里見義堯の義父であり、序列三位の宿老です。万喜城が落ちれば北の茂原方面まで防御力に優れた城がありません。反乱軍の勢力拡大に繋がります。
大多喜城主、正木時茂は序列二位の宿老です。数世代に渡り筆頭宿老の真里谷一族と対立していましたから、時茂の弟二人が反乱軍側に有り、彼も取り込まれる可能性が有りました。里見義堯は周囲の反対を無視して勝浦から北上する反乱軍を抑える口実で正木時茂を居城に戻しました。
時茂に与えた1000の軍勢の半分は里見家直属の兵士です。口の固い、信頼出来る数名の者に彼が裏切った場合、素直に従い、情報を知らせる様にしていました。
彼らからも正木時茂の裏切りの情報が入り、反乱軍に加担した事が確定しました。
─里見義堯、立花将広─
木更津城の天守閣の最上階から海を眺めながら語ります。
「立花殿、この木更津城は立花家の莫大な援助を戴き、房総半島随一の城と讃えられております。木更津湊も房総半島筆頭の大きな湊になりました。全て立花家の援助でこれだけ立派な物になりました。誠に感謝しております。
この度は我が里見家の不始末の為、本当に申し訳ございません。」
「里見殿、この度の遠征は貴殿の妹君から生まれた松千代から母の実家を助けて欲しいと頼まれましてなぁ、松千代に頼まれた私が好きでこちらから押し掛けたに過ぎません。
立花家は大國魂神社の大神様が導く道を進みます。我が軍勢が海を渡り、房総半島に参ったのは神様の導きですから、気になさらずに頂きたい。」
「立花殿、反乱を招いたのは我が身の不徳の致す処、内政や家臣の扱い方に問題が有りました。深く反省しております。」
「里見殿、里見家は小弓公方家を支援した事で古河公方家と対立しました。里見家の家臣は小弓公方家と里見家の両家に仕える家臣もあり、勢力争いが複雑になりましたな?
小弓公方家の主導権を争う権力争いが里見家に波及、真里谷、正木、土岐、酒井等の権力争いと古河公方家の裏工作が絡み、現在に至ると見ております。難しい舵取りを苦労為されたと思います。
里見家と立花家は互いの先祖が源氏に繋がり、縁があって両家は婚姻により絆を結びました。房総半島の安定は里見家が安泰であってこそと考えております。」
「立花殿、立花家との絆が無ければ里見家は既に滅んでいたでしょう。
北の市原城に下総公方軍14000、東金城方面から古河公方軍14000、南には稲村城周辺の反乱軍5000、勝浦城方面の反乱軍が7000、推定40000の軍勢に囲まれ、本拠地、木更津城にわずか3000しかございません。
どの様な指示にも従います。」
「里見殿、木更津城は筆頭宿老の真里谷信隆殿に任せて貴殿を総大将、私が副将として北へ向かいます。嫡男、義弘殿も連れて参り、どこかの戦場にて初陣を飾らせましょう。」
立花将広は形ばかりでも里見義堯を総大将に添えて行動します。
木更津城の留守番役に真里谷信隆、2000の軍勢を預け、里見義堯、里見義弘親子の軍勢1000は立花将広の軍勢10000と茂原城に向かいました。
茂原城の南20キロに、反乱軍7000に脅かされてる土岐為頼が守る万喜城があります。茂原城から連絡を取り付ければ、万喜城を救える可能性があります。
茂原城が反転攻勢の鍵になる要衝でした。
立花将広の決断は茂原城を中心に反撃を開始する事です。
里見家と上総公方家を窮地から救う為に努力します。




