1546年(天文15年)4月3日、上総国、木更津に同盟大名家と立花家の軍勢総勢20000が揃いました。
4月1日から立花将広が率いる遠征軍が木更津湊へ向かいました。
3日掛けて全軍の海上輸送が完了しました。
房総半島の状況が次第に判明します。
1546年(天文15年)4月3日
─木更津城─
横浜湊、六浦湊から海路、木更津まで平均3時間掛かります。木更津湊にて兵士と兵糧を運びます。二年前は馬の輸送が出来ませんでしたが、今回は馬専用の運搬船を用意して木更津に送りました。
4月1日から3日掛けて同盟大名家、立花家の軍勢20000が木更津湊に上陸しました。
─里見家支援部隊20000─
主将、立花将広、10000
副将、新納忠久、6000
副将、吉良頼貞、4000
木更津の城下は里見家支援する軍勢と湊で働く人々で大いに賑わいました。
湊一帯には臨時の商店、屋台が連なり、市場を形成しました。海水を利用した風呂屋が幾つも開店しました。海水風呂で体を洗い、最後にお湯、真水で身体を清める事で清潔を保ちます。湊で働く労働者達に大好評になりました。
木更津城内で遠征軍、立花将広、新納忠義、吉良頼貞と里見義堯、義弘及び里見家重臣達と対面しました。
木更津城、本丸にて挨拶を交わすと房総半島の大型地図に城の配置、兵力の配置が解る様に駒を使い説明が始まりました。
下総公方家の軍勢が市原城周辺に14000が布陣しています。
東金方面に古河公方家配下の常陸勢、5000から10000が集結中、対する上総公方家と立花家、里見家、同盟大名家の支援部隊は上総城周辺に13000
安房国の反乱軍の支配地域は安房国全体に及び、上総南部の勝浦まで反乱軍の勢力に支配されている状況でした。
地図上に敵側の支配地域を赤い紐で囲みます。反乱軍は安房国を制圧して上総南部の勝浦を確保して北の要衝、万喜城、大多喜城を脅かす状況でした。
里見義堯は万喜城に土岐為頼の1000、大多喜城に正木時茂の1000の軍勢を向かわせました。
二人の宿老を派遣する程緊迫した状況でした。
立花政将の想定していたのは安房国の反乱を早期に静めて、次期当主、里見義弘の初陣を飾らせ、上総公方家を支援して古河公方家の軍勢を撃退して府中に凱旋する事でした。
想定外の危機的状況に驚きました。
立花将広が尋ねます。
「義堯殿、安房国の城が20、その内14の城が敵の手に落ちています。
兵力が異常に多いですな?
これは千葉勢か、常陸勢が、海路から援軍を差し向けたのではありませんか?」
「はい、稲村城を奪った軍勢に千葉家の軍勢が混じっておりました。勝浦湊に千葉家、常陸勢が海路到着してる様子が伺えます。
今は水軍に警戒させて海路の輸送を阻止しております。」
里見義堯が答えました。
なんと呑気な警戒網!?と言葉を飲み込み、
まさか、水軍まで反乱軍に味方してる?
「義堯殿、安房国の水軍衆も反乱軍側に味方してると考えて対処しましょう。
上総の水軍衆をしっかり把握してくだされ!」
立花将広が即応策を考えます。
「まず、市原城の下総公方軍の動きと東金城方面に集結中の軍勢の情報確認が必要です。
10000の軍勢が動くと想定して監視を強化してくだされ!
この軍勢が茂原方面に南下すると上総城、木更津方面に進出出来ます。
この軍勢の把握が出来ないと我らは安心出来ません!」
里見家筆頭宿老、真里谷信隆が答えます。
「わかりました。東金城方面の監視を強化して報告致します。」
立花政将広は情報収集の為、安房国境に近い久留里城に吉良勢4000を派遣、木更津城の東12キロの真里谷城へ新納勢6000を派遣しました。
真里谷城からは上総公方家の軍勢の近くの位置にあり、敵方の軍勢が茂原方面に来た場合に動き易い場所にあります。
木更津城には立花将広の直属10000が残り、情報収集に時間を取る事にしました。
房総半島が想定外の厳しい状況に驚く遠征軍将兵、楽観的雰囲気が消えてしまいました。
安房国はほぼ反乱軍に制圧されています。
東金方面の敵の軍勢の規模が大きい場合、南北に挟まれ、かなり厳しい状況になりそうです。




