1545年(天文14年)11月中旬、朝廷から近衛中将府に使者が到着しました。
立花家は近衛中将府の存在意義を高める為に1年間軍事行動を控えていました。
コツコツ朝廷に報告書を届けた事が運を引き寄せました。
1545年(天文14年)11月中旬、
─府中─
近衛中将府が始動して7ヶ月目になりました。立花家を中心に同盟大名家の産物の交流から内政での困り事などに知恵を出し合う関係を築きました。米作り、農産物の作り方や農政に関わる相談や法律に関わる事など、立花家が進んで行ってきた事を同盟大名家が見習って実施する事が増えました。
立花家の全ては生まれると街や村に戸籍を登録する事からはじまります。武士、農民、町民全てに教育を与えます。5歳から18歳までの男女に無料の義務教育を実施します。読み書き、計算や道徳、基本的な法律、武道、騎馬、弓、槍などの扱い方をを習います。
16歳から18歳は男女共、集団的軍事訓練を受けます。
立花家では地域別に防災訓練、防戦訓練が定期的に行われます。農村や街の防災、防戦の基本を学びます。
立花家の軍政は武士階級は義務として徴兵されます。その他の階級からは志願者が軍に配属されます。立花家では予備役登録希望者に定期的に訓練が実施され、武道道場が多数存在します。
立花家が戦時に大軍を動員出来るのは予備役登録の兵士が多数存在する事が最大の要因です。
同盟大名家は立花家の統治政策を手本として少しずつ導入しました。
近衛中将府は4月に開府して以来、立花家と同盟大名家の活動報告に加え、関東の情勢から出来事を朝廷に報告書を提出していました。
朝廷は昨年1年間、関東争乱の最大の要因が古河公方である事に唖然としました。
昨年、1月、古河公方家、足利晴氏と川越上杉朝定は立花家の品川城と品川湊を奪う計画をした事、
立花家が事前に察知して岩槻太田家、江戸太田家を切り崩し、味方に加え、同盟を組んだ事で未然に防いだ事。
さらに滝山大石家の嫡男が亡くなり、関東管領家、前橋上杉憲政と川越上杉朝定が養子を送り込み、大石家乗っ取りを計画するが拒否され、大石家は立花家から養子を迎えた。
怒った前橋上杉家は大石家の滝山城に侵攻して大敗。
同じく川越上杉家も怒り、立花領に侵攻して大敗。
古河公方家、足利晴氏は下総、小弓公方家の領地を侵略、さらに下総船橋方面に侵攻して立花家の軍勢に大敗、さらに岩槻太田領に侵攻して立花家に大敗。
朝廷に近衛中将府からの報告書と近隣の寺院、神社からの報告書が届き、大筋一致していた事で事実と認定、関東争乱を古河公方家、関東管領家が争乱を招いたと判断、両家には朝廷から叱責の書状が届きました。
近衛中将府には朝廷から改めて使者が訪れ、関東の争乱を沈め、関東を静謐に導く様に綸旨が降されました。
朝廷から昨年に続き綸旨が届きました。府中の街から立花領、同盟大名家の領域に紙芝居にて広域に流布される事になりました。
綸旨とは帝の意志、命令です。室町幕府の指導に抵抗してきた古河公方家、関東管領家は存在を否定
されたも同然です。
綸旨を戴き、立花家と同盟大名家の近衛中将府は大義名分を獲得しました。関東静謐の為なら軍事行動が正当化されます。
立花家は2年連続で朝廷から帝の意志、綸旨を戴きました。古河公方家、関東管領家は朝廷から叱責する使者が訪れ面目を失いました。




