1544年(天文13年)11月、立花家は近衛中将府と大使館設立に動きます。
近衛中将府と大使館の設立に動き始めました。立花義秀は大國魂神社の先の大宮司、猿渡のご老公様に相談すると、意外な展開になります。
1544年(天文13年)11月
立花家は鎌倉幕府を倒した小手指、久米川の戦い(史実ながら省略されて学校では教えません。Wikipediaに載っています。)さらに分倍河原の戦いで新田義貞を支えて戦い、鎌倉を攻略した戦功を評価され、後醍醐天皇から武蔵守護代の称号と従四位下、左近衛中将を与えられました。
立花家は鎌倉幕府を倒して執権北条家に奪われていた領地を回復しました。
府中、国分寺の皇室と近衛家の荘園、八王子の石川牧(朝廷からの命令で開設した馬の育成牧場)、舟木田荘(日野、八王子)の九条家の荘園を奪回して先祖代々の荘園管理業務を再開しました。
立花家はそれ以来200年余り都の皇室、近衛家、九条家に収穫した年貢や生産品を都に届けています。最近は泉州堺の街に皇室、近衛家、九条家、立花家が共有する商館を通じて年貢、清酒、焼酎、和紙、絹、馬、貢物を届けています。立花家が荘園と牧からの年貢を納めている為、史実より皇室、近衛家、九条家は裕福です。
室町幕府と足利将軍家は創設以来直轄地が少なく、家臣の大名の方が裕福でした。史実では240年続きますが、在任中の足利義晴は
三好家、細川家、畠山家、六角家等の争乱の中、京の都から脱出しています。
最近は琵琶湖近くの坂本に退避してる状況です。
これでは近畿地方だけで無く、日本全国が乱れます。
関東も当然乱れました。関東には室町幕府から関東に足利一族が何名も派遣されました。鎌倉公方、伊豆公方、古河公方、小弓公方、
さらに足利家の重臣の上杉家から関東管領職を与えた山内上杉家、扇谷上杉家が誕生しましたが、相続争いに明け暮れ、関東を争乱に導きました。
立花義秀は関東の争乱を招いた原因は室町幕府、足利家に有りと考えています。そこで義秀は大國魂神社の大宮司、猿渡家の先代当主、猿渡盛胤のご老公を訪ね、近衛中将府設立について相談しました。
義秀は足利一族が関東を制御出来ないなら、源氏の棟梁、源義家の子孫、立花家が制御する為に立ち上がるべきだと使命を感じています。ご老公は理解を示します。
創案したのが松千代だと知ると驚きました。
「はははは!なんと!松千代が考えたのか?おぉー!なんと凄い事を思い付いたものだ。」
「松千代が考えた事なら、大神様の想いと源義家公のご意志かもしれぬぞ!」
「義秀、近衛中将府と大使館、見事だな、ならば、朝廷から戴いてる武蔵守護代、近衛中将府としたらどうだ?名前の響きが良いだろう?」
「武蔵守護代、近衛中将府!ご老公様!有り難うございます。名前の響きが良いと感じます!」
「義秀、武蔵守護代、近衛中将府と大使館設立の経緯を纏めて朝廷に申請するなら、わたしから近衛家、九条家に話しを通す!久々に堺の街に参るぞ!状況しだいでは上洛して近衛家、九条家に挨拶して参るぞ!」
「ご老公様!お待ちください!それならこの義秀が上洛して参ります!」
「義秀、お前が留守にしたら古河公方家が何を仕掛けてくるかわからん、ダメだ、鹿島政家を連れて参るぞ!お前の代わりに筆頭宿老なら良いだろう?」
「ご老公様、代わりに嫡男、義國を行かせますから、ご老公様は府中にてお待ちください!」
「いや、それなら、わたしと義國、鹿島政家の3名が代表で堺と都に上洛して参るぞ!これは未来を切り開く為だから譲らぬぞ!」
「ご老公様、それほどのご決心なら義秀、従いまする。」
「それで良し、品川湊から堺までは大丈夫だが、都の様子次第では上洛は見送るぞ。なんせ、将軍家は都から追い出されてるらしいからなぁ?さぁ、支度を急げ!真冬前に戻りたいからな!」
立花家は慌ただしく請願書の作成と貢物等の支度に掛かりました。
ご老公様が立花家の為に堺に行くなんて、まさかの展開になりました。




