1544年(天文13年)10月下旬、小田原から立花将広が八王子に帰国します。
小田原を出てから呑んでなかったのに、高尾山の紅葉を眺めたら呑み出した立花将広。
立花義秀が待ち構えてる事を知りません。
(笑)
1544年(天文13年)10月下旬
立花将広が小田原から行列を率いて八王子城に戻りました。
3日間呑みながら外交折衝を果たし、成果を挙げての帰国になりました。毎日泥酔したので呑まないつもりで帰国します。
小田原→勝沼に宿泊、→上野原に宿泊、→高尾山に差し掛かかり、馬から馬車に乗り換え、高尾山の紅葉を見ながら、我慢出来ず、呑みながら八王子城に戻りました。
─八王子城─
酔いが周り家臣達の出迎えを受けて本丸に向かいます。
出迎える留守居役から当主、立花義秀が待ってる事を知らされます。その先に手招きする義秀の姿が見えました。
─立花義秀、立花将広─
「将広!小田原の報告が待ちきれずに逢いに参ったぞ!小田原の酒を呑み干して来たんだろ?」
(笑)
「ぶははは!兄上、小田原の酒は呑み干して来たぞ!まだ足りぬから呑みながら帰って来たぞ!」
(笑)
高尾山から呑み始めましたから泥酔はしていません。
小田原の街の様子から婚礼の様子や、経済交流の話題や里見家との経済交流については好感触であり、今後は北条家の座間城に経済、財務関連の奉行を派遣して煮詰める事になった様です。
一通り将広から報告を聞き出すと
将広は睡魔に導かれ、寝てしまいました。
義秀は事務方の者から報告を聞きます。
事務方の報告書には具体的な事が記されていました。
得に相模川、境川から用水路を引いて相模原から座間周辺に田畑を増やす計画に北条家が大乗り気な事がわかりました。
相模川の東西に用水路を広げて相模国の米の生産高をあげるのが北条家の悲願です。
相模国の石高は20万石、武蔵国は立花家の開発が進み、70万~80万石になっています。
しかし、北条家と武田家の同盟は無理な事が判明しました。
8年前、今川家は相続争いになり、北条氏綱(氏康の父)が軍勢を率いて今川義元に相続させる事が出来ました。今川義元は感謝と同盟の証に娘を氏康に嫁がせました。
しかし、翌年、仇敵の武田信虎から娘を貰い、今川義元が武田信虎と勝手に同盟してしまいました。
その時から今川家との同盟は破棄され、武田家とはさらに険悪な関係になりました。
氏康は父から重臣まで今川義元の娘を離縁する様に迫られますが、離縁する位なら切腹する!と宣言して拒否を貫きました。
そんな、事情から、北条氏康は武田家、今川家が大嫌いでした。
以上が3日間の宴会中、今川家、武田家との揉め事の原因を探った結果判明しました。
義秀は随行した家臣達を労い、満足した様子で府中へ戻りました。
北条氏康が武田家と手を組めない事情が判明しました。
立花家は両家の事情を理解しながら付き合う事になりました。




