1544年(天文13年)4月24日、岩槻太田家を巡る戦いに古河公方軍、立花軍の攻防が始まります。
岩槻太田家当主、太田資正は立花家との同盟を破棄して古河公方家に賭けた直後から波乱の展開に遭遇しました。
古河公方本隊が敗退した結果、岩槻太田領内に立花軍が侵入しました。
古河公方軍も長尾憲長の指揮に従い戦いを挑みます。
1544年(天文13年)4月24日~
─船橋城、高城義春、馬込和長─
殿、不思議ですなぁ、戦いに負けて捕らわれたのに命を取られる事無く、独立した大名に取立てて頂くなんて、夢の様です。
和長、大野城だけは接収されたが、本領安堵、船橋城と周辺の城の増改築の普請から全ての経費が立花家持ちになるなんて夢みたいな話だ!
さらに現金5000貫(5億円)を頂き、将兵達に報償金を与える事が出来た!
笑いが止まらぬ!
はい、皆大喜びでした。
さて、古河公方、足利晴氏の軍勢が万が一にも高城領近くから古河に戻るなら如何いたしますか?
さて、本佐倉城から帰国するなら、まぁ、高城領を避けるだろう?
我らが立花家に服属した事が解ってるなら、印旛沼の北から抜けるだろう。
但し柏に近付くなら排除せねば責任を問われる可能性が有る故、柏城には相応の備えが必要になるだろう。
はい、印旛沼を北から抜けても手賀沼の北に抜けるか?南に抜けるか?
これは追い払うか?脅すだけなのか?
決断出来る武将を配置する必要があります。
解った!香取孝信に託す!
兵力1000、柏城に向かわせる!
手配を頼むぞ!
古河公方の軍勢は本佐倉城まで逃げたらしいが、2日掛かりで昨日到着したばかり、数日は疲労回復と再編に時間が必要だろう。
柏城付近には3日後前後に現れそうだな?
田植えが近いから戦う必要は無いぞ!
それだけ釘を指しておけば良し!
はい、手配致します!
─臼井城、古河公方軍本隊─
古河公方本隊は21日、鎌ヶ谷、船橋の戦いに破れ、追撃を受けて八千代方面に敗走しました。
八千代川(新川)を前にして日没を向かえ、恐怖の一夜を過ごしました。
翌日、八千代川を渡り、8キロ離れた臼井城(佐倉市)に到着、戦場から20キロ離れた地域に入り安心して寝る事が出来ました。
休養が取れて漸く3日目の朝を向かえました。
─足利晴氏、梁田高助、─
高助?
千葉勢と大掾勢は帰国したんだな?
はい、千葉利胤殿、大掾正興殿は帰国しましたが、本日昼過ぎには千葉家の宿老、原胤清殿の嫡男、原胤貞殿が4000の軍勢を率いて到着します!
ほぉ、古河まで帰る護衛に来てくれたのか?
公方様?
負けたまま帰国は出来ませんぞ!
高城胤春が立花家に降伏して臣従しました。名前を高城義春に改名してほぼ領地を安堵されました。
周辺の与力の小豪族も立花家に従属、高城義春の与力になりました。
なんだと?
優遇してやったのに!
裏切ったのか?
はい、高城義春を放置すると他にも裏切る者が現れます。
最低でも、高城義春に痛手を負わせてやります!
公方様!
立花軍は一部を残して岩槻方面に向かいました。高城勢を合わせても、せいぜい10000程度です。
我が本隊は12000、原胤貞殿が率いて来る4000を会わせて16000になります。
恐らく油断してるでしょうから、隙を見て攻撃すれば勝てます!
勝ちを挙げて岩槻方面に参りましょう!
解った!
高助に任せるから頼んだぞ!
─立花軍の動向─
─花畑城攻略部隊─
新納勢12000は前日に松戸から船で江戸川を渡り、中川を船で渡ると夕暮れまで時間が掛かり、亀有周辺に滞陣しました。
翌24日、花畑城(足立区)に向かいます。
午前10時攻撃開始、やがて2時間後、城主、大島紀勝が降伏、開城しました。
この時、北に5キロ、草加城に古河公方軍、野田、一色勢10000が布陣していました。
野田弘明、一色直頼の両者は岩槻太田家の為に立花軍と戦う意義は無しと判断しています。
古河公方軍本隊の足利晴氏に直接指揮されてるなら意欲が湧きますが、山内上杉家の宿老、長尾憲長に指図されている不満があります。
花畑城から援護の要請がありましたが、黙殺しています。
花畑城主は草加城の10000の軍勢が援護に来ると信じて立花軍と戦いました。
やがて見捨てられたと判断した城主、大島紀勝は降伏、開城するに至りました。
立花軍の主将、新納忠義は城主大島紀勝を側近と共に中曽根城方面の立花義秀の本隊へ移送しました。
─中曽根城攻略部隊─
立花義秀の本隊12000は前日の午後から松戸から江戸川を船で渡り、中川河川敷に滞陣、翌24日早朝から中川を船で渡り、小菅周辺に進出します。対岸の北千住から江戸太田勢、畠山勢12000が船で荒川を渡るのを警護しました。
江戸太田勢、畠山勢12000は小菅から3キロの中曽根城(足立区本木)に向かいます。
中曽根城は下総千葉家の一族が武蔵国に逃れ、太田道灌の庇護を受けて築いた城です。
城主、千葉正胤が600の兵力で守備を固めています。
四方が平坦な地勢の為、門前に逆茂木を並べています。
逆茂木とは尖った木材を敵勢に向けて斜めに地面に差し込み、侵入する敵勢を阻みます。
中曽根城は尖った木材の逆茂木と城内で育てたカラタチ、茨の木等、トゲの付いた樹木を逆茂木に組み合わせて設置しました。
畠山勢が北、西、南から、初陣の太田景資の軍勢は東から攻める事になりました。
立花義秀の軍勢は中曽根城の周囲数キロを警戒します。
攻撃開始とともに中曽根城の逆茂木が効力を発揮しました。
高さ、幅1メートルの逆茂木を不規則に並べ、近付くと弓部隊が矢を放ちます。
盾持ちを前に弓部隊が連射して城方の弓に対抗します。長槍部隊が逆茂木を叩き、壊しに掛かります。
初陣の太田景資の軍勢も張り切りますが、逆茂木の守備を簡単には攻略出来ません。
2時間程で日没が迫り、攻撃部隊は撤収しました。
─志木城攻略部隊─
(別名、柏城)
滝山城の大石家の分家の持ち城ですが、扇谷上杉家に臣従しています。
三田勢5000は前日、23日午後13時過ぎに志木城に到着、志木城を包囲しました。
すると城門が開き、城主、大石信吉が近習2名を伴い降伏、立花家に臣従する事を申し出ました。
三田綱重は降伏を受け入れ、後方に控える立花義國の本陣に向かわせました。
大石信吉は隠居して嫡男に家督相続したいと申し入れします。
隠居して滝山城の兄、大石定久に逢いたいと人質覚悟の申し出をして来ました。
─立花義國、立花将広─
叔父上、大石信吉の隠居、嫡男、大石定光の家督相続は問題無いと思います。志木城は大石定光を新城主にする事で父上も承認するでしょう。
まぁ、滝山城の大石定久殿に逢いたいと、人質覚悟の申し出は潔し!
我が次男が滝山城の大石家の養子に入り、大石家の当主になってる関係もある故、まぁ問題無し!
それでは叔父上、しばらくはこの地域に詳しい大石信吉殿は三田綱重殿に預け、案内役を頼みましょう。
後日、父上に逢わせて、正式な手続きを致しましょう。
それで良し!
まずは少し大石信吉殿に手伝ってもらうぞ!
立花軍は浦和城を狙う!と流言を撒いて頂こう!
はい、それは面白そうです。
古河公方軍は浦和に兵力を集めるしかなかろう?
敵の兵力を分散させる!
5000~10000ほど浦和に止めたら我が軍がその隙に他を集中して叩けば良い!
はい、楽しみが増えそうです!
─朝霞城攻略部隊─
(別名、岡城)
佐伯勢7000は前日23日の午後
14時過ぎに朝霞城に到着、周囲を包囲して攻撃を開始しました。
朝霞城主、難波田信春は700の城兵に城門を閉ざして守らせました。
小高い岡に土塁を築き、板壁を高く掲げ、北と東は黒目川の流れが有り、周りは水田に水が張られ、起伏に富んだ岡に本丸と四つの曲輪が連携して守りを固めます。
南側の攻め口が一番広く空いていますが、南側の城門は幅5m、大きく頑丈な作りです。二階建ての上部の弓狭間から近付く敵を狙います。
佐伯勢は見た目以上に防御力の高い城の守りに苦戦します。
夕暮れが近付く頃、佐伯勢は南の門に兵力を集めました。
城門と二階建ての弓矢倉に攻撃を集中します。弓部隊500に徹底的に火矢を浴びせました。
城門に油入りの壺を投げ込み、城門付近に油を撒いて火矢を集中、二階建ての弓矢倉にも油入りの壺を投げ込み、壁板や建物の中に油を撒き散らし、火災を発生させる事に成功しました。
数時間燃え続けた城門と二階建ての弓矢倉は焼け落ちて崩壊しました。
24日、早朝から焼け落ちた南門に兵力を集中すると南門を攻略、城内に侵入すると、次々に城兵が投降し始め、城主、難波田信春が降伏しました。
朝霞城攻略部隊主将、佐伯勝長は難波田信春と側近達を立花義國の本陣に送りました。
義國と将広から、人質を提供して立花家に仕えるなら将兵全員雇うと約束、難波田信春の本領安堵、朝霞城の修復費用を立て替えると申し出ると、大いに喜び、扇谷上杉家と縁を切り、立花家に仕える事になりました。
─赤塚城(板橋区)─
─朝霞城の東南に6キロ─
佐伯勝長が3月の石神井の戦いの勝利後、石神井城主となってから赤塚城主、渋川義孝を調略済みでした。
24日、佐伯勝長から正式に立花家に服属する要請をすると、嫡男を人質を差し出して服属を誓いました。
─戸田城(戸田市)─
─朝霞城の東7キロ─
佐伯勝長が赤塚城の調略後、同じ渋川一族の戸田城主、渋川義昌も調略済みでした。赤塚城~戸田の荒川の渡し船が両家の大きな収入源であり、互いに協力関係にあり、扇谷上杉家に仕えていました。
24日、立花家に正式に服属する様に要請すると、嫡男を人質に差し出して服属を誓いました。
赤塚城と荒川の対岸の戸田城を服属させた佐伯勢7000は難波田信春、渋川義孝を幕僚に迎え、荒川を渋川一族の渡し船で荒川を渡り、戸田城に入城しました。
─蕨城(蕨市)─
戸田城の北3キロ先に蕨城があります。城主、渋川義堯は武蔵国渋川家の当主です。
岩槻太田家に仕えています。
渋川家は足利家の一族で、足利将軍家から要職を任され、代々九州探題を歴任する家柄です。彼の養父、渋川義鏡は室町幕府8代将軍足利義政から関東探題として派遣され、蕨城一帯を支配していました。
関東には古河公方家、伊豆公方家、鎌倉公方家、小弓公方家、関東管領家等、室町幕府将軍が東国統治の要と考えて作り出した役職が乱立、互いに激しく争い、騒乱を作り出す悪循環を繰り返しています。
関東探題など、ほぼ聞いた事が無い役職を与えられても渋川義鏡が活躍する余地はありませんでした。
養父義鏡の逝去から、関東探題を継承も出来ず、渋川義堯は武将として活躍する時を待ち望んでいました。
戸田城主、渋川義昌から義堯に立花家に服属要請がありました。
赤塚城主、渋川義孝からも立花家に服属要請がありました。
同族からの誘いに心が弾みますが、
蕨城の北東8キロ先の赤山城(川口市)に主家の太田資正と山内上杉家の軍勢12000が着陣しています。
岩槻太田家と立花家の支配地域の中間に位置しています。
どちらに味方すれば生き残るか判断しなければなりません。
東から立花家の当主、立花義秀の軍勢数万の軍勢が岩槻太田領に侵入した情報が入りました。
南から戸田城に佐伯勢7000、さらに後続の17000が渡河する情報が入りました。
渋川義堯は蕨城から北に8キロ先の赤山城に古河公方軍、12000の大軍が着陣してる事を知らせます。
蕨城へ支援の軍勢を派遣する事を条件に立花家に服属すると回答をしました。
回答を受け取った佐伯勝長は本陣の立花義國へ報告の使いを派遣、即座に7000の軍勢を率いて蕨城に向かいます。
古河公方軍が近くに存在する事で緊張が高まります。
万が一を考えて先触れの騎馬200を蕨城に送りました。
─蕨城の北8キロ赤山城─
─古河公方軍、長尾憲長は戸田城に入った佐伯勢の動きを捉えていました。前日の23日午後に赤山城に着陣してから荒川を渡り、侵攻して来る立花軍の情報を探っています。
─山内上杉憲政、長尾憲長─
憲長?岩槻太田家を味方に引き入れたのは良いが、立花軍が荒川を渡って次々に侵攻中じゃないか?
大丈夫なのか?
お屋形、岩槻太田家は立花義秀を裏切ったから当然、罰を受けるだろうな?
俺達の役目は適度に岩槻太田領を立花義秀に削らせて面目が立つ程度に満足させて戦いを終結させる!
岩槻太田家を存続させて、防壁を残すのが目的だ!
荒川沿いの城なら幾つ取られ様が痛くも無いからな?
えっ?手抜きするのか?
早く前橋に帰れるなら何でも良いけどなぁ。
まぁ手抜きだな、立花家次第だが、最後は話し合いで決めても良いだろうな?
その時、蕨城方面に配備した物見の知らせが入ります。
渋川義堯に裏切りの兆候が判明、戸田城から立花軍、佐伯勢が蕨城に向かっています。
長尾憲長は太田資正を呼び出し、
太田資正の軍勢4000に憲長の弟、長尾秀長の軍勢2000を付けて蕨城方面に派遣しました。
佐伯勢の先行した200騎が蕨城に到着、城主渋川義堯を安堵させました。
やがて午後14時過ぎに佐伯勢が蕨城に到着しました。
慌ただしく急報が入ります。
赤山城から古河公方軍6000が蕨城方面に接近中との知らせが入りました。岩槻太田家当主、太田資正の軍勢が向かって来るのが判明しました。
佐伯勝長と渋川義堯は対面の挨拶を済ませると急ぎ、対応しなければなりません。
蕨城で古河公方軍を待ち受けるのか?決戦に適した広い場所を選ぶか?
蕨城で待ち受けると城下町や近くの田畑や民家が巻き添えになります。
撃退しても被害が大きくなる可能性が高くなります。
決戦に適した広い場所なら赤山城と蕨城の中間の芝川の河川敷です。
領民への被害も少なく済みます。
太田資正の心情から推測すると蕨城下の町を焼きたくは無いでしょう。
太田資正は芝川周辺を戦場に選ぶ事が考えられます。
佐伯勝長と渋川義堯は芝川周辺を戦場に選びました。
佐伯勝長の軍勢7000と蕨城の兵力600から渋川義堯が200を率いて戦場に向かいました。
僅かの時間差で蕨城は立花軍側になりました。長尾憲長からすれば、荒川に近い蕨城がどちらの陣営になっても大した影響はありません。
戦場に向かわせた太田資正達が負けても構いませんが、援護する姿を見せなければ太田資正達の士気が上がりません。
赤山城から山内上杉勢6000を率いて上杉憲政、長尾憲長も戦場に向かいました。
芝川周辺に先に到着した太田資正と長尾秀長の軍勢6000は芝川を渡り、前川ケ原に布陣しました。
太田資正は芝川を渡らずに対岸に待ち構える策を取らず、芝川を渡り、
前川ケ原の地勢を選び、立花軍を待ちます。
周りには畑と渋川家の馬の育成牧場が広がり、わずかに高台の地に布陣しました。
やがて、畑と牧場の先から佐伯勢が現れました。太田資正からは緩い勾配を上がりながらゆっくり迫る立花軍の軍旗、甲冑の集団が隊列が恐ろしく感じました。
正面から迫る佐伯勢7000の隊列はやがて、向きを変えて太田資正の視線の右に大きく方向を変えます。
傾斜の緩い、ほぼ平坦な方向から迫ります。
太田資正の軍勢は佐伯勢の動きに合わせて右に展開しました。
4月の16時頃の夕陽は立花軍、佐伯勢が接近する方向から視線に入ります。
佐伯勢は地元の渋川義堯の意見を採用して夕陽が背中に当たる方向に軍勢を移動しました。
太田勢は夕陽が眩しく、見辛い状態で接近する佐伯勢の弓の連射をいきなり浴びると混乱しました。
佐伯勢は15mに接近するまで弓の連射を続けます。
崩れた太田勢の前列に佐伯勢の長槍部隊が頭を叩き、脚を突いて崩します。
叩けぇー!突き崩せぇー!
20歩引けぇー!
と声が掛かり、長槍部隊が後退すると弓の連射で太田勢に矢の雨を浴びせます。
弓と長槍の連携で太田勢の出鼻を挫きました。
あちこちに佐伯勢の騎馬隊20騎ほどが移動しながら弓を連射します。
集団の流鏑馬で戦場で狩りをする様に連射を浴びせ、太田勢を圧倒します。
そこに長尾憲長の率いる山内上杉勢6000が現れました。
長尾憲長の指示で佐伯勢の背後に迫り、太田勢の右側から大きく包囲する動きを見せました。
佐伯勢は後退して太田勢から離れて上杉勢の動きに合わせて弓の連射で上杉勢の脚を止めます。
騎馬20騎の集団連射で上杉勢の脚を鈍らせ、後退を支援します。
太田勢が陣形を整え直し、後退する佐伯勢に襲い掛かりました。
佐伯勢は下がりながら弓の連射で
太田勢の接近を阻みます。
夕陽が陰り、間も無く日没を迎える時間が近付きました。
その時でした。
太田資正の目に立花軍の多数の軍旗が風に靡き、接近する姿が見えました。
エイ!トウ!エイ!
エイ!トウ!エイ!
エイ!トウ!エイ!
エイ!トウ!エイ!
掛け声が聴こえ、立花軍に援軍が現れました。
立花将広の嫡男、立花頼将率いる軍勢2000が戦いに間に合いました。泥酔軍師、立花将広が佐伯勢の移動を知り、危機を察知して派遣しました。
長尾憲長は立花頼将の援軍を過大評価しました。
自信に溢れた雰囲気で接近する援軍2000の軍勢の後ろから更に援軍が来る気がします。
日没が迫ります。このまま戦うと更なる立花軍の援軍に出会う可能性があります。
日没後に危険を犯して背後の芝川を渡りたくありません。
引き鐘を打たせました。
使番!各部隊に伝えろ!
本日は我が軍勝利!
安全の為、日没前に芝川を渡り、引き上げる!
以上だ!伝えて参れ!
長尾憲長は巧みに優勢なまま、軍勢を引き揚げ、無事に芝川を渡る頃、背後の立花軍が勝鬨を挙げる声が響きます。
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
芝川を渡り切った古河公方軍に長尾憲長から鬨の声を挙げる様に命令が下りました。
立花軍に負けずに大きな声で鬨の声が響きます。
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
エイ!エイ!おぉーおー!
日没になり、どちらが勝ち?
微妙な形で互いに勝った!?
と思えます。
長尾憲長率いる12000の軍勢と立花軍は9000の軍勢が日没引き分けみたいな形になりました。
岩槻太田家を巡る戦いが本格的に始まりました。
明日以降、互いの陣営に何が起きるのか?
今、一番ノーマークなのは古河公方、足利晴氏です。
船橋城の高城義春以外、ほぼ誰からも忘れられてるかもしれません。
少しは足跡を残さないとヤバい!
と理解してるのは補佐役の梁田高助です。
挽回出来る事が有るのか?
明日からどーなる?
田植えの季節が迫り、本職が農民の兵士達は今頃イライラしてるかもしれません。
さてこれからどーなるんでしょうか?




