しえすた
タンタンタンタン…
午前の仕事が終わり、1度アパートに帰ってきた。
赤紫色の地に瓢箪が刺繍された草履を鳴らし階段を上がる。
叔母さんお手製のバッグから鍵を取り出す。
鍵をさそうとした時、ドアがカチャリと開いた。
「おかえり」
ドアの奥からクマのような体格で、エアリズムにひまわりパンツの男が現れた。
「ただいま」
大和は職場の同僚で、歳は4つ上だ。
付き合って3年半目、一緒に住んで3年目になる。
唇が触れるだけの軽いキスをし、草履を脱ぐ。
その後素早く着物を脱ぎ、ハンガーにかける。
長襦袢や帯締め、裾よけはリビングに脱ぎっぱなしで放置する。
どうせ3時間後にはまた着ることになるし。
家に着いたらすぐ着物を脱ぎたい。
仕事の時間を終わらせ、プライベートな時間に切り替える。
帯で締め付けられていたお腹が開放された。
この瞬間が1番気持ちいい。
「はああ、疲れた」
叫ぶように言いながら、水道の水をコップに注ぐ。
唇にコップを当てて一気に飲み干す。
私はいつでも水分不足だなあとよく思う。
「おつかれー」
ひまわりパンツの彼はその格好のまま、あぐらをかいてご飯を食べていた。
「何食べてんの?」
彼の前には半分ほど減った麻婆豆腐があったが、脳みそを通さず、言葉が口をついてでる。
「賄いの麻婆豆腐」
「へえー、美味しそうだね」
「食べる?」
「んーん」
彼は大きな口にレンゲを運びながら「だよね」と笑う。
私は、彼のあげる気がないのに「食べる?」と聞くところが好きだった。
食べるペースや量をベストに分配しながら食べているらしく、途中で持っていかれるのが嫌いなことを知っている。
まあ、元々麻婆豆腐の花椒の香りが苦手だから食べないのだが。
彼の隣に座り、スマホを開く。
「ご飯食べないの?」
口に頬張りながら聞いてくる。
「うーん、起きたら食べる」
この後は午後の出勤に向けて、お昼寝をする。
多くて2時間眠れるので、夜の睡眠不足はだいぶ解消されている…と思う。
「今日は結構入ってるね」
夜の入込を客室係のLINEグループで見ながら呟く。
「まあ、金曜だからね。美桜は部屋食?」
「うん」
「じゃあ明日の朝も早いんだね、かわいそう」
「大和だって30分しか出勤時間変わらないじゃん」
「でも俺は起きて5分で出発出来るし」
「確かに」
「ご馳走様。そろそろ寝るか」
「そだね」
彼は食べ終わった容器と、昨日私が放置したゴミ袋を持って炊事場に行った。
「あ、ごめん」
「いいよー、洗濯物ありがとう」
片付けができない私を責めもせず、干された洗濯物のお礼をしてくれる。
一足先に布団に入り、目をつぶる。
「ねえ、シエスタって知ってる?」
ふいに朝の香菜ちゃんの話を思い出した。
「なにそれ」
彼は布団に足を入れながら答える。
「中抜けのこと、どっかの国ではシエスタって言うらしいよ」
「へえ、なんかオシャレだね」
「ね」
「これからシエスタって言おうかな」
シエスタは、営業の間の長めのお昼休みのことらしい。
うちの旅館のシフトでは「中抜け」という1日で2回出勤するものがある。
朝早くに1度出勤し、お昼頃退勤。
夕方にまた出勤し、夜に退勤だ。
サービス部である客室係とレストラン担当の料飲部が主にこのシフトだ。
シエスタという響きを聞くといいなあと思うけど、旅館業の中抜けはどこか違うような気がする。
首元まですっぽり毛布を被った彼が「あ」と声を漏らす。
「タバコ吸うの忘れた」
ガバッと起き上がりベランダに行った。
せわしないなあと思いながら、布団の中から見える空を見つめていた。
手術のメスのように、一機の飛行機が青空を割いて進んでいく。
ベランダから漂ってくるタバコの煙と相まって、みみずばれのような雲が何となく切なくなった。