いないはずの猫
England confides that every man will do his duty.
意味としては「英国は諸君がその義務を尽くすと信ずる」というナポレオン戦争の最中に鼓舞に使われた一言であるが、自身にあてはめるとどうなるのであろうか。
「〇〇は諸君がその義務を尽くすと信ずる」
〇〇に入る人物はなんなのだろうか。
治験のことを義務と考えるのであれば、○○には運営の誰かの名前が入るのであろうが、自身に当てはめるというのであれば、こうなるだろう。
「私は私がその義務を尽くすと信ずる」
いや、しっくりこない。
「私は私がその義務を尽くすと確信する」
_______________________________________________________________________________________________
きっと多少なりとも罪悪感や背徳感は心のうちにあると思う。
だがそれ以上に、今からやることへの緊張感が勝っている。
ゆっくりと指を動かして白い馬を動かす。
それに反射的とも言うべき速度で黒い城が動かされる。
「はい、チェックメイト」
「う……えぁっとー。参りました」
そもそも白のナイトを動かす前から負けていた。
というよりも、この勝負が始まる前から既に勝敗がどちらになるかなど決まっていたのだ。
なんせ、目の前にいるのは俺の才能という才能を母の胎内で吸い上げて生まれてきた正真正銘の天才である、如月家の天才であり、異才であり、鬼才であり、異質である如月 冬馬であるのだから。
クソ兄貴とはテーブルを囲んで一個の勝負を一回する。
月に4回か5回。
何故このようなゲームに興じているかと言えば簡単なことだ。
家事の当番決め。
あいにくと、この家には実家のようにハウスメイドや使用人の類はおらず、如月 樹と如月 冬馬の二名しか住んでいない。
そのため、一週間の間の当番を決めるためにゲームをするのだが。
今のところ、一度もこの天才に勝ったことがない。
ニコニコあるいはニヤニヤしたその横面を殴ってやりたいが、この兄には喧嘩でも勝てる気がしないので止めておくことにする。
「んん?別に喧嘩でなら勝てる可能性もあるんじゃないかい?」
「……なんで心の声まで聞こえてるんだよ」
「ふふふ。こればっかりは当てずっぽうだよ」
兄のこの粘っこい喋り方も癪に触って嫌いではあるのだが、矯正なんて求めたところで無駄に理論だてられた説明をされて拒否されるだけなので、これもやらない。
やりたくないというのが正しいかもしれないが。
「それじゃあ、明日からまた一週間よろしくね~」
「うん」の一言も、頷くなどの行為もしないが既に確定事項となったことで冬馬が席を立ちあがる。
俺自身も特にこれに反対するわけではない。
公正で公平なゲームを用意して勝負をしている以上は、俺にも十分な勝機が与えられているのだから反対するほうが可笑しいというものだろう。
チェスの駒と盤を片付けながら明日の朝食の献立を考える。
ん?病院の件はどうなったのかって?
落ち着けよ。
別に何もなかったことになったとか、過去のお話を忘れているとか、そういう話じゃないんだから。
病院での会話が終わった後は、お互いゆっくりと家に帰ったよ。
そもそも、あの場では会話以外のアクションなんてものは取ろうと思っていなかったし、考えてもいなかった。
あれ以上のものを求めてしまっては、それこそ天罰なんてものがあたってしまうかもしれない。
「それは随分とウソにまみれた言葉だねぇ。君は考えていなかったんじゃなくて、そうした方がいい
と考えていたからそうしたんだ」
ともあれ、今日はゆっくりと眠って、明日の治験に備えなければいけない。
今になって考えてみると、これはなかなかにハードなスケジュールじゃないか?
18時に終わって、最速でも0時に始まる。
夜の間も被験者は起きているものなのだろうか。
そうなれば、睡眠不足と疲労困憊によって倒れる被験者が出てきてもおかしくないように思えるが、それなりの工夫くらいは当然のようにするのが被験者なのだろうか。
「ボク達はゆっくりと眠っているけどね」
「今日はよく眠れていないけどね」
「それは下下」
とにもかくにも、片付け終わってから自室のベッドに沈み込む。
枕と布団と毛布の柔らかさが、疲れ切っている体に本当に染みてくる。
アリスに殴られたところは随分と痛んでいるが、耐えられないわけではない。
それもこれも、あの天才様のクソ兄貴のお陰ではあるのだが、素直に感謝をする気には到底なれないもので。
「そりゃあ痛むよね」
「それが動けるようになるなんて、あの人間はどういうことなんだろうね」
「ボク達は医学には点で通じてないからね」
ところでもところで。
先ほどからのこの声の主は一体全体誰なのだろうか。
どこかで聞いた覚えもあるし、全く聞いたことのない声のような気もするし。
「気にしなくていいよ」
「ボク達としても、そうしてくれたほうが都合がいい」
じゃあ気にしないことにしよう。
「それは上々」
ってなると思う?
「思わないねぇ」
横に倒していた体を勢いよく起こして周りを見渡してみるが、人の影もとい声の主の姿は全く見えない。
摩訶不思議な出来事ではあるけれど、不審者の正体を突き止めない限り、安眠という文字が俺のもとにやってくることはない。
不意打ちで殺されることがないようにベッドから立ち上がる。
(はたして立ち上がったところで不意打ちを回避できるかと言われればできないだろう)
扉の方向に目を向けると背がスラっと高く、いや小さいのか?
脂肪で太っているようにも見えるし、細いようにも見える。
というよりも、どこかで会ったことがあるような気がするし、ない気もする。
そんな存在が扉のそばで、立ったまま、眠っていた。
「寝言だったんかい!」
「にゃはは。寝言じゃないよ?寝言と思われるのは存外心外だね。本当に下下」
下下。
下々と同じような意味だった気がするが、使い方としてその使い方はあっているのでしょうか。
気持ち的な意味を指しているのだとは思うけれども、気持ちが下の下という意味なのだろうか。
等の本人が一切気にする様子もなく、広角が上がり切っているであろう程度まで歯を見せながら、笑いながら寝ているので、気にしない方向性の方がよさそうだ。
それよりも重大なことがあるだろう。
この人物がどこから入って来て、何が目的かということだ。
「目的ねぇ。ボク達としては黒いお兄さんの様子を見ているだけだから、それ以上でもそれ以下でも
ないんだよねぇ」
「”ボク達”ってことは、他にもいるってことでいいのか?」
「んー。それは難しいねぇ。他にもいるけど、群れでも個だから」
群れでも個。
その一言で大体わかった。
大胆不敵、神出鬼没、存在自体がいるのか分からない。
親愛なる全ての隣人。
「第二位”チェシャ猫”アジェリか」
「おお。本当にリサーチしてるんだ」
「ボク達としても知ってもらえて嬉しいよぉ」
「これはこれは非常に上々」
閉じていた瞼をゆっくりとあげて被っていたフードを後ろにどける。
そこで目を見開いてしまった。
中性的で芸術品と言ってもいい、男性か女性かと問われてもハッキリと答えを出すことは不可能な顔立ちではなく。
その上。
チェシャ猫の二つ名に相応しい紫髪のさらに上。
ケモミミだ。
詳しく言えば猫耳だ。
人生で一度くらいはケモ耳っ子に会いたいと、一目見たいと考えていたが、今この場所で拝見することができるとは思わなかった。
もしや、お尻のほうには尻尾が!
一抹の不安ならぬ、一抹の希望を抱いてそーと体を傾ける。
「ボク達も流石にジロジロ見られるのは恥ずかしいんだけど……」
「ボク達が見られ慣れているとはいえ、流石にお尻とかは……」
「本当に本当に下下」
三種類。
声が三種類聞こえてくる。
男性とも女性とも言えない声色で。
幼児とも成人が入り混じった声で。
両声類とかいう次元の話ではない。
それぞれが別の個人のような、そんな感覚だ。
「悪かった。少し興奮しすぎた」
「心からの謝罪じゃないくせによく言うよ。ホントに下下」
その通りである。
というよりも、実際人間というものは相当な失敗や罪悪感を抱かなければ心の底からの謝罪などでるものではない。
そんなことはともかくとして。
率直な疑問はいくつかある。
一つ目として、どのようにしてこの部屋に入ってきたのかという点。
人間一人の侵入を気づけないほど落ちぶれているつもりはないし、なんなら窓はしっかりと施錠されている。
鍵のかけ忘れなんていうこともない。
二つ目、何故思っていることが筒抜けになるのか。
兄貴の場合は相手の動作などを見抜いて、大体の思考を把握する読唇術だったり読心術の類の極致ではあるのだが、こいつの場合は薬の影響による能力と解釈してよさそうだ。
三つ目、その仮説が正しいとおいたとき、何故こいつは治験が終了した現在でも能力を使用できるのか。
治験が終われば元居た地点に戻されるが、能力の使用も同時に行えなくなってしまう。
何度か【固定】を使おうとペンを空中に投げたり砂をバラまいたりしてみたが、能力発動の兆候は見られなかった。
「一つずつ答えていくとね」
「1!」
「ボク達は能力を使って入ってきた。人に気づかれずに侵入するのなんて楽勝だ」
「2!」
「ボク達は能力を使って黒いお兄さんの心の中を読んでいる。正確には心の中ではないんだけど」
「3!」
「詳しく言うことはできないかな。黒いお兄さんに興味はあるけれど、まだこっち側の人間ではないし」
こっち側ね。
それが被験者の中でも上位の存在の事を言っているのか、はたまた他の物を指しているのか。
というよりも、こいつも能力を複数種類持ってるとすれば、アリスが複数種類の能力を行使していたことにも説明がつくんだが。
「いんやぁ。アリスの能力は一種類だけだよ。特性も特質もすべて同じ能力だ」
「ふーん。つまり、お前は複数種類持ってるってことだな」
「にゃは。そうなるねぇ」
「そんなことを話してもいいのか?」
お構いなしと、瞑っている目を右手でこする。
実際、口封じをするというのであれば、一般人レベルの今の俺を殺して逃げるなど朝飯前であろう。
「にゃはは。確かに真夜中で朝飯前ではあるけどねぇ」
「冗談を言ってくれるということは、好意的な印象を持ったお友達と捉えてもいいのかな?」
まだ外していなかった指輪からピアノ線を伸ばし、最後の抵抗くらいはできるように身構える。
別に死んでもかまわないが、こんなところで死ぬのは味気がない。
以前も言ったように、死にたいとかの自殺願望に近しいものは持ち合わせてはいないのだ。
アジェリは相変わらず眠たげにしているが、こちらの構えに合わせるようにして床に倒れこむ。
膝を腹につけるようにしており、腕は組むように頭の側面へ。
さも、猫が眠るかのように。
そしてけだるげな声で一言。
「最初に言ったとおりボク達はお兄さんの事を好意的に捉えているんだから」
「そんなこと言ったか?」
「言ったよぉ」
確かに言ったような気もするし、言われなかったような気もするが、些細な事である。
無防備に寝そべる目の前の少年、少女、青年、淑女、老人にピアノ線を巻き付けてやれば、少しくらい脅しになるだろうか。
「無理だな。どうでもいいや。おやすみ」
「おやぁ?随分あっさりだね」
「ボク達も眠かったしいいんだけどさ」
「これは上々」
「「「「おやすみなさい」」」」
_______________________________________________________________________________________________
ピヨピヨと、電柱や電線の上で今日も陽気に近隣住民の安眠を妨げているであろうスズメに起こされて、布団を思い切り薙ぎ払う。
扉の前を見るが、そこには何もいない。
昨夜、話した気もするが、その場には誰もいない。
そもそも夢であった気もする。
昨夜に関しては相当疲れていたはずだから、ベッドに横になった途端に夢に落ちてしまった可能性も捨てきれない。
いや、確かに会話の内容は覚えているが、その人物の人相が思い出せない。
姿かたちが。
いや、これも違う。
「親愛なる全ての隣人ね」
神出鬼没、大胆不敵、いるはずのない、しかしそこに存在していなければならない。
「厨二病の俺からしたら、身震いしちゃうね」
自己満足の独り言を放ったあと、服を着替えて下に降りていく。
少々今日は豪華な朝食にするとしよう。
素晴らしい人間に出会えたことを祝福して。
兄貴にも伝えてやろう。
あれでも知識に飢えているような異常(本人曰く正常)な人間なのだから、この話にだって嬉々として食いついてくるだろう。
フライパンに油を敷き、卵を投下したところでふと気づく。
一体今は何時なのだろうか。
壁にかかっている時計に目を向ければ、5時55分を指している。
毎日三時間置きに始まる可能性のある治験。
油がはねたことによってフライパンから思わず手を放す。
火を止めて白身がまだドロドロの状態の目玉焼きを皿の上に盛り付ける。
何も、俺は予知能力が存在するわけではないが、人間の防衛本能というものは侮れないもので「何となくそんな気がする」というのは大体あっている。
そして、現在の俺はその何となく来る気がするが来ている気がする。
5:58
二階で物音がしたが今はそんな場合ではない。
治験が始まってしまえば、何もかもを気にすることが無意味なことへと変貌する。
「じゃ、今回はボク達と遊ぼう」
5:59
いないはずの猫が。
俺の耳元で、そこに居るかのように囁いてくる。
「キサラギからの了解が得られればな」
そこに、出会えるはずの女王の名を使って答える。
キサラギであれば俺からの提案に対して、対話をしに行くとでも言えば賛同してくれそうなものだが。
6:00
目の前には海。
足元には金色の砂浜。
隣には紫色の髪をたなびかせながら広角を人の限界程までに釣り上げた、不気味な笑顔の少女が水着姿で立っていた。
「え……こんな雑に水着回に入ることある?」
_______________________________________________________________________________________________
海の匂いはあまり好きではない。
海の匂いというか、海藻の匂いというか、魚の匂いというか。
日照りは好きではない。
眩しくて目の前も見えないほどのスポットライトを浴びたいだなんて誰も思わないだろう。
ところで現在の状況ではあるが、魅力的なボディラインを見せびらかすようにして海ではしゃぎまわる少女と一緒のシチュエーションだ。
男としてこんなにも素晴らしく、情欲をそそられる場面はそうそう拝めないと思うが、それでもこんなに煩悩を殺せているのは、今現在「治験」という殺し合いの場に居ることであり、目の前には”怪物”程ではないものの正真正銘の化け物がいるのだから。
最初のうちは逃亡することも考えていたが、無意味であることを悟って体育座りをしている。
まさか、本当に考えることが無意味になるなんて誰が想像しただろうか。
「ボク達と一緒に遊ばないのぉ?」
「最初はあんなにやる気だったのに」
「お兄さんのやる気がなければ、ボク達のやる気が削がれるよぉ」
「これはかなりの下下」
やる気もクソもあるものか。
周囲の植生を確認軽く見てきたが、どうやらここは日本ではないらしい。
土地勘が一切ないこの状況で、化け物と一対一とかいう状況で、どうやってやる気を出せと言うのであろうか。
「戦うだなんて考えないでよ」
「この状況こそが」
「遊んでくれることこそが」
「ボク達にとっては」
「上々なことなんだから」
気分が上々なようでなによりだよ。
だけども、これはどういうことだろうか。
以前部屋で会った時というか、その後もだけれど、目の前の猫の姿は一切思い出せなかったはずだ。
思い出せなかったし、視認もできなかった。
それがほれ見て見ろ。
美しく、かわいい美少女の名を冠するにふさわしい女の子が目の前にいる。
いないはずの空間に。
「にゃはは。いないはずの空間ね」
「ボク達は居るけどいないように見られているだけだよ」
「それにボク達は美少女だなんていう大層な二つ名は冠せないよ」
「冠する気がない」
「冠せるのは”チェシャ猫"だけだ」
「それ以上でもそれ以下でもない」
二つ名を冠す。
彼女たちにとってそれがどれ程重要なものであるというのか。
首元に無数の刃物を突き付けられて、首筋に伝う血を感じながら笑う。
なんだ。
化け物にだって人間らしいところがあるじゃないか。
何かに必要以上に迫られているのか、期待していた焦りや不安はないのだろうけれど、その顔に初めて笑顔以外の感情が、「怒り」という感情が見えた。
「何に対して怒っているのかさっぱり分からないんだけど。この刃物は降ろしてくれると非常に助かる」
「怒ってはいないよ。ボク達は君に対して怒るという感情を向ける必要もないほどに、君は弱いん だから」
「俺の呼び方がお兄さんから君に変わっているけれど?」
そのことに気づいたのか、横目でこちらを覗いて刃物が霧散していく。
刃物そのものが霧でできているのかは知らないが、やはりこの距離を以てしても必殺の距離からは距離を置けないわけだ。
距離距離距離距離うるさいかもしれないが、先程から気にしているのはそこしかない。
チェシャ猫の能力がいかがなものか、探りをいれる意味と、殺されないように行動する。
両立するためにジリジリと砂の小さな丘を作りながら後方に動いていたのだが。
目的を一つも果たせることもなく終わるとは。
「そんなにお前にとっては二つ名が大事か?」
「……黒のお兄さんは本当に嫌な人だね」
「嫌な人間を嫌いになる人間ではなかったんだけど」
「ボク達ですら嫌いになりそうだよ」
波打ち際から浜辺へと歩いてきて、その足取りは俺の目の前で止まる。
仁王立ちしたその姿に畏敬の念を覚えることなど一切ないが、それでもやはり恐怖というものは拭いきることができない。
少女は水着から以前も俺は見たのであろうパーカー姿へと変わる。
こちらも原理など微塵も分からないが、さも手品でも見るかのようなドキドキ感は十分であった。
そんなドキドキ感をくれた人物は口を開いてこうまくし立ててくる。
「当たり前でしょ」
「ボク達にとってそれは何より大切なものだ」
「お兄さんだって多少なりともあるでしょうぅ?」
「名前とか物に対しての執着」
「それと同じようなことだよ」
「ボク達はこの二つ名を心の底から大事にしている」
「本当の名前なんかよりも」
「お兄さんが思っているよりも」
「山よりも高いし」
「海よりも深い」
「訳があるんだよ」
「これは決してお兄さんに乗せられたことに対しての恥ずかしがりとかでも」
「まんまと乗せられてしまったことに対しての言い訳でもない」
「そんな訳がないとお兄さんは言うかもしれないけれど」
「今回ばかりは本当に意味不明で、当たり前で、それに対して疑問を抱く方が失礼で」
「こちらこそ、そんなことを聞くことがありえないレベルなんだぜぇ?」
「ボク達の宇宙並みの寛容な心で今日のところは許してあげるけど」
「次にそんなことを言ってみてよ」
「その時には」
「「「「「「「「「ボク達」」」」」」」」」
「「「「「「「「「全員で」」」」」」」」」
「「「「「「「「「殺すね」」」」」」」」」
気持ちのいいほどの笑顔を浮かべて、愛情を持った殺人宣言。
それに対してこちらも、心の底から愛を込めた何かの宣言でもしなければいけないかと、頭の中で文章を組み立ててみたが、目の前で仁王立ちする少女に何かを囁いたところで、それは空気よりも軽く飛んで行ってしまうような言葉だ。
そんな会話を交わしても意味がない。
そんな事よりも、もっと大事な用事が今来てしまったから。
徐に立ち上がりゆったりとした歩みで波打ち際まで歩いていく。
「お?遊ぶ気になったのぉ?」
「それは上々」
水着姿の女の子と海辺を走るシチュエーションも体験してみたい気もするが、どうやらそれは叶わない願いのようだ。
「チェシャ猫。強風警報だ。少し離れてな」
恰好つけた一言の直後に、砂浜にけたたましい轟音と銀の杭が降ってきた。
柔らかい砂浜にそんなものが降ってきたら言わずもがな、風圧によって周りの砂が飛び散るわけで。
チェシャ猫は離れた位置にいたし、能力か何かで防いだようだが、俺の【固定】では触れない限りは発動条件を満たすことができないため砂粒が目や口に入りまくる。
歯についた砂の味を噛みしめながらそれでもダサくないように姿勢は崩さない。
それが男の姿ってもんだ。
「いや、どう考えても砂まみれで立っている変人でしょ」
「……同じこと考えてた」
;;
「にゃは。黒のお兄さんの狙いはそれだったのかぁ」
「ボク達にとっても予想外」
「予想外からの登場でびっくりだよ」
「杭に搭乗しながら登場ってね」
「笑えない冗談だね」
「ホントに下下」
チェシャ猫の方も警戒態勢にはいったようで、水着姿から真夜中に出会ったときと同じパーカー姿に変わっている。
この姿に変身したことを警戒態勢と捉えていいものかは不安であるが、それでもこちらに敵意を向けてきたのは今日二回目だ。
指のリングからピアノ線を引っ張り出して手で握った状態で形を固定する。
キサラギのレイピアのように綺麗な形ではないけれど、ある程度はマシな剣として働いてくれるはずだ。
あらかじめもう片方のリングからも少しだけピアノ線を出しておく。
「さて、3対1なら勝算があると思うんだが」
「”怪物”1人に4人がかりで負けておいてですか?」
「安心しろよ。今回は怪物討伐じゃなくて、化け物狩りだ」
ニュアンスが変わっただけで対して変わらない現実ではあるが、あの怪物なんかと比べてしまえば目の前の化け猫一人は可愛く見えてくる。
「……くる」
パイルバンカーの小さな一言で天から小さな杭がスコールさながらの勢いで局所的に、大量に、チェシャ猫に死をもたらさんと降り注ぐ。
砂煙があがってチェシャ猫の姿は見えなくなるが、ここからは少年漫画あるあるだ。
こんなもので敵は死なない。
相場はそう決まっている。
煙が薄くなってくると四人の影が見える。
ん?4人?
「にゃはは。多少ビックリしたね」
「本当に多少だけどね」
「楽しかったよ。気分は上々」
「それで。三対一なら何とかなるかもだっけ?」
「ボク達は群れで一つの個体だよ?」
「4人で1人」
「それ以上居るけどね」
「居ないようなものだけどね」
パーカー姿の少女、杖をついた老婆、スーツの青年、ハーフパンツの幼年男子。
居なかった存在が目の前に現れたのだ。
まさに老若男女。
一般人と違うところは、そうだな。
スーツの男はククイナイフと呼ばれる、先端が太っちょで刀身が前に若干曲がっている剣を手に2つ、腰に3つ。
少年は虫取り網を持っているかのように大ぶりの鎌を持っているし、老婆も何故か立ち振る舞いで圧倒される。
そしてこれまた不気味な事に、全員が口角を釣り上げて笑っているのだ。
「そこまで笑顔だと、逆に気持ち悪いな」
「……同感」
パイルバンカーと意見を合わせたところで、キサラギがレイピアを正面にまっすぐと向け、踏み込みを態勢に変える。
雑談はそこまでだと、言葉にせずとも伝わる雰囲気を放ちチェシャ猫を見据える。
「はいはい。キサラギちゃん」
「気持ち悪いのが増えたので間引きますか」
「やめてよ!怖いわ~」
冗談で手の震えが止まればよかったが、そう人生はうまくいかないらしい。
初手で形勢逆転される試合など稀に見るものではあるが、ここまで綺麗にボスムーブをされるとね。
そんなヒリついた中でも、両の手を大きく広げて笑うチェシャ猫は、声高らかに言うほどの事でもないことを言い放つのだ。
「調子はどうだい?」