ワンダーランド
大学の講義というものは、まじめに受けなければならない。
しかし、私のように無能のレッテルを幼少期から貼られ、やる気を無くしている者にとっては、それが最も難しいのです。
「誰に対しての言い訳してんの?」
「しいて言うなら俺を生み出した神様に対して」
「お前無神論者だろ」
人の信仰を憶測で語るのはよくない。
まあ無神論者ではあるけど。
カフェテリアのテーブルに顔を突っ伏して、正面に座る友と冗談を言い合う。
言い訳は満更冗談でもないけど。
「和樹さーん。どうか私のレポートのご助力を~。できれば見せて~」
「お前そうやって高校の時もほとんど写してたでしょ」
「いいじゃん~減るもんじゃない」
「お前の知能がどんどん減ってくよ」
屁理屈だ。
レポートを写したところで学力に大した変化はない。
高校の時の課題は、まあ、多少はあるかもしれないが。
夏休み直前ということもあり、絶賛レポートや試験に関しての学習をしなければいけない時期ではあるが、レポートは最初の数枚ははかどっても、残った物がだるくなってくる。
適当に書いてもいいが単位を落とすのは面倒だ。
だから優秀な友に写させてもらおうと思ったのだが。
「友達思いだな」
「だろ。一緒にカフェテリアに来て、課題をやってる友に感謝しろよ」
「かしこまりました。西浦 和樹様」
「キモイから止めて」
「すんません」
真面目なトーンでキモイとか言われると、ガラスの心に刺さってしまうのですが。
現在時刻14:56
やる気を出してパソコンに向かい、レポートの続きを入力し始める。
長文を書いていると、段々と脳がバグってきて意味の分からない文章を書き始める。
だから嫌いなのだ。
この後は講義が入っていないから救われたものの、この期間は地獄だ。
現在時刻14:58
小腹が空くだろうと思い購入しておいた菓子類と、眠気覚まし用に買った大き目のコーヒーを飲みやる気をいれるが、それも数秒で萎え始める。
現在時刻は14:59:30
「和樹」
「ん?」
「レポートどんくらい終わった?」
返事はない。
というより、周囲の音が消えた。
現在時刻15:00
スマホを確認すればアイコンが増えている。
ということは始まったのだろう。
治験が。
この大学の敷地内を範囲に含んで。
「場所はランダムで選ばれると考えるべきか」
ますは大学敷地内に同じく被験者がいないことを確認する。
研究棟や大講義堂もくまなく探すが人の姿はない。
次にスマホの中からキサラギとイノリの連絡先を探す。
同盟の関係(正しくは主従の関係)になっているのならば連絡くらいできるのではないか。
あっさりと二人の連絡先が表示され、コールをかける。
電話はすぐに繋がり、記憶に新しい声が響く。
『もしもし』
「もしもし。こちらはイツキなんだけど」
『ええ。分かってるわ。今はどこにいるの?』
「翔前大のカフェテリア。そのままエリアになるとは思わなかったけど」
『……年上?』
「だろうなJK」
年上ではないだろうと思っていたが、まさか年下に思われてるとは考えていなかった。
てっきりそういうロールプレイだと思ったんだけど。
というか、身長の大きさからして年下と思う要素がないだろう。
『喋り方が終始ふざけていて落ち着きがなかったから、てっきり』
どうやらふざけすぎらしい。
年下の高校生に言われると中々堪えるな。
いや、新しい扉を開くキッカケにでもなるか?
Mの性癖はないから、開拓していくのもありではある。
『……今ろくでもないこと考えていません?』
「いえいえ全く。自身を振り返っていたところ」
『まあいいでしょう。兎にも角にも、まずは合流します。翔前大の近くには公園があったわよね。そこで』
「了解しやした」
電話を切り足早にカフェテリアを出る。
ここら辺の地理に詳しいということは、近くの高校にでも通っているのだろうか。
それとも爆速で調べたか。
対して関係のないことを考えるよりも、今は他の事を考えるべきだな。
俺は和樹と一緒にカフェテリアに居た。
しかし、15:00ピッタリに忽然と姿を消した。
それも一瞬にして。
運営を行っている人間も、投薬しているのだろうか。
すると、瞬間移動的な能力持ちか?
だとすれば、被験者の位置はスマホを探知でもすれば把握できるとして、エリアにいた被験者以外の人間の位置をどうやって把握したんだ?
監視カメラ、スマホのハッキング、目視。
オートで分別できる可能性。
様々な方法が考えられるが、どれも確証はないものだし、断定はできない。
洗脳の類の可能性は?
ないな。
治験が終われば時間は過ぎているし、周りの人間が3時間も動かない人間を放っておくはずがない。
当然と言えば当然だが、公園にも人影は一つもなく、無人の遊具達が空しく佇んでいる。
キサラギとイノリはまだ着いていないようなのでブランコに腰をかけてゆっくりと足で動かし始める。
小学生いらい乗っていなかったブランコは、軽く動かしているだけでも楽しいものだ。
風は優しく体を撫でてくれるし、太陽はほどよく暖めてくれる。
目を閉じて眠いたい欲求が出てくるが、今寝たら女王様の機嫌を損ねることになりそうだし、我慢して起きていることにしよう。
家の物置部屋にハンモックが眠っていたはずなので、それをベランダに出してみるというのもありかもしれない。
おお、帰りたくなってきた。
「お年寄りにでもなりました?」
「そんな老けて見える?」
「ええ。今にも永眠してしまいそうです」
「言い過ぎだろ」
余計な一言以上を言いながら近づいてきたのは、制服姿の少女が二人。
眼福眼福。
「変態」
「お前そんな罵倒しまくるキャラだっけ?」
「事実を言っただけですけど」
否定してやりたい気持ちは強いが、事実を事実と認められないような子供ではないのでぐっと我慢する。
ブランコの勢いをつけて、飛び降りる。
着地点には丁度良く水溜まりがあり、着地と同時に周囲に泥水が飛び散る。
少女二人にはかからなかったのが幸いであり残念だった気もするが、今は靴下が若干濡れたことに対しての不快感と憤りが上回っているので、それを考える暇はない。
というより、水溜まり?
「全く、貴方は何をしているのですか」
「危うく濡れるところだった」
無言であったイノリが、今日初めて口を開いたことにツッコミをいれたかったが、不思議な現象に首をかしげる。
「なあ、お前ら、今日は傘を持ってきたか?」
「? いえ、予報では一日中晴れでしたから」
「そして、今の今まで雨は降ってない」
なのに、水溜まりは足元、鉄棒の下、滑り台の終点、木陰、砂場。
そして、キサラギとイノリの足元。
「なあ、これもう攻撃されてね?」
「?何を言って……」
「あっ!?キサラギちゃん!」
キサラギよりも半歩ほど後ろに立っていたイノリが、肩を勢いよく突き飛ばす。
そのまま前方にキサラギは飛び、イノリには水溜まりからの串が突き立っていく。
肩、腹、足に三本の半透明の串。
おそらくではあるが水溜まりがそのまま串の形状となり、突き穿ったのだろう。
水溜まりの面積がかなり減少している。
串が消えると傷口から赤い血が溢れ出す。
「いっつっ」
「イノリちゃん!」
少女らしく「ちゃん」付けで駆け寄っていく。
が、流石に気が動転しすぎだろう。
そのまま行けば、キサラギは再び出現するであろう凶器で串刺しだ。
少し遅れて走り出し、キサラギを追い越して水溜まりに触れ、串が出現した瞬間に【固定】する。
喉ぼとけに届く寸前で水が固定され冷や汗が垂れてくる。
水溜まりのすべてが、全て罠だとすれば、公園中が危険地帯と化しているのは間違いない。
「とりあえず水溜まりに注意して公園の外に運び出すぞ」
「え、ええ」
イノリを抱えあげ、足元に注意を向けながら公園の入り口を飛び出す。
幸い、水溜まりの面積から生み出される串は細く、致命傷になっていなかった。
バッグに入れていたガーゼを使用して止血を行う。
「用意がいいんですね」
「まあ、始まる時刻が大体でも分かれば、自分の行動に合わせて準備をするさ。それよりも、女王様はと
もかく、パイルバンカーもうちょっとクールなキャラかと思っていたが、なあイノリちゃん」
「……っ茶化すな。それよりも敵は」
「止血が優先でしょうよ。周りは女王の罪隠しの兵隊が守ってるし」
出血しているだけで、人は思考能力が思ってる以上に低下するし、パニック状態になる。
感覚は痛くないのに何をしたらいいか分からなくなる状態になる人間は、割かし多いのだそうだ。
何がとは言わないが、役得だしな。
おっと、こちらが考えをまとめなくてどうする。
水溜まりは突然現れた。
少なくとも、キサラギとイノリが来てからのものだと思う。
それまでは人影は確かになかったし、陽だまりとブランコの揺れでゆったりとした気持ちにはなっていたが人が近づけば気づける程度に感覚は張っていた。
今も止血を行いながら足元に気を付けてはいるが、いつ仕掛けてくるかもわからない。
遠隔操作を行える能力と考えるのが自然だろうなぁ。
「キサラギ。人影はあるか?」
「いえ、敵影らしいものは」
「水は?」
「水も、今のところは見えない」
一人負傷している人間がいるのなら次の攻撃を早くしてきそうではあるが、条件があるか、戦いなれていない人物か。
どちらにせよ、先手を打たれてしまったのはこちら側なのだ。
相手の動きをいなしていくしかない。
血が大体止まったところで三角巾で縛り上げる。
【固定】を使えば止血ももっと簡単にできただろうが、腕や足が動かなくなる可能性が高い。
一通りの処置を終えて立ち上がり一息つく。
今すぐ病院に連れて行ってまともな処置を施させてやりたいが、2時間と40分ほどは一般の病院も動かない。
病院から盗ってきたところで、医学はからっきしなので対処のしようもないしな。
「俺としてはパイルバンカーを置いていきたいんだが」
「それを私が許すとでも?」
半分は冗談のつもりで言ったが、怒気を滲ませた声で返されたので黙って首を振る。
言った通り半分だ。
半分は本気。
先ほども言ったが、負傷者は足手まといだ。
生き残る確率をあげるためにも、最善手としては見捨てることなのだが、この正義の二文字と一般論の三文字に侵されきっている女王は絶対にそれを是としない。
アリスの物語のように、頭でっかちで傲慢であれば多少は御しやすいのだが。
共に生き残ると言うのであれば最大限協力しなければならない。
と、近くの水路に目が移る。
単純に相手を見失っていたとしたら?
縦横無尽に走る水路や下水道を使うのでは?
指輪からピアノ線の一方を空中で固定し女王含め自分の周りを囲む。
直後に水路と反対側のマンホールから同時に水の串が襲ってくる。
ピアノ線に数本があたり、枝分かれして他の串を妨害したり、地面に刺さるが、全てを防御することはピアノ線では難しい。
間を通り抜けてきた串をイノリを抱えた状態で転がりなんとか回避する。
キサラギは兵隊を動かして防御したようだ。
「成程ね。目をつけられたら終わりな訳だ」
「能力者を見つけないとどうしようもないですね」
それを見つける術がない。
だが、能力について分かったこともある。
水自体は特性を失っておらず柔軟だが、能力の方が柔軟ではない。
複雑に操作できていれば防御など意に介さない強力な能力ではあるが、先ほどは操作を行うことは出来ていなかった。
「これが能力隠蔽だったら、とんだ策士だな」
「笑ってる場合ですか。移動しないと」
「ああ。だなっと」
イノリを背負い追撃から逃れるように走り出す。
直線に逃げるのは マズイと判断し道を曲がりながら走り続ける。
何リットルの貯蔵があるかは知らないが、しつこいな。
イノリの疲弊も心配なので早急に見つける必要があるが、近くにいるのかすら分からないとなると、現状使える手札では何の効果も得ることができない。
「一時的にしか効果がないでしょうけど、使いましょう。兵隊たち、色を」
水の攻撃を凌いでいたキサラギが兵隊たちに指示をだし、それに合わせて三人の兵隊はペンキのバケツと筆を取り出す。
そこから一掬いのペンキを筆にのせ、三人に向かってかける。
突然ペンキをかけられた事に驚いて「ぷあ」という変な声が出てしまったが、男子大学生のそういう声は自分でもあまりに気持ちが悪いと感じたので、心の中にしまっておく。
「なんだこれ」
「静かに、あくまでもトランプの兵のペンキです」
アリスの物語では、白のバラを植えてしまった兵隊が赤のペンキで誤魔化そうとするんだったか?
すると、これは周りの風景に偽装する能力とかか?
こいつの能力の幅が些か広すぎて不公平にも感じるが、不満をここで垂れたところで意味はないのでこれもしまっておく。
水の串達は突然消えた対象に戸惑ったのか一瞬の硬直の後に、むやみやたらと攻撃を始めた。
見失ったことによって当たればラッキーの方針に変えたんだろうが、すでにその地点にはいない。
派手に動けば迷彩の効果が薄れるそうなので、静かに移動を始めたが、その判断が早かったのが功を奏した。
だが現状に変わりはない。
イノリを応急手当で放置するわけにもいかないし、ビギナーとお荷物持ちではキサラギは自由に動けない。
ここで死ぬ気もサラサラないので、脳を死ぬ気で動かす。
見失ったということは呼吸や熱などでの探知を行っているわけではないのだろう。
そして、公園からジグザグに逃げ続けても追尾して襲ってきたということは目視での確認を行える範囲に敵が存在しているということだ。
だが、人っ子一人おらず気配もなかった公園で、突如として水溜まりを出現させ攻撃を仕掛けてきた件に関してはどう説明すればいいのだろうか。
ゆっくりと移動を続け、曲がり角から顔を出してみるが人影はない。
と、視点を反対側に向け少し上に向けると、少し遠くに大学近くにある展望台が見える。
あそこからなら、見下ろせるか。
だが、公園は近くの木で遮られるだろうし……。
「いや、そういや、カフェテリアの一階は見渡したけど、二階に関しては見てなかったな」
もし電話の声を聴かれていたとしたら。
事前にどこに行くか分かっていれば設置も可能か?
思えば、水溜まりはピンポイントに人物の足元に存在したわけではなく、目ぼしい遊具の下に配置されていた。
だが、それではキサラギとイノリの足元に出現した意味が……あぁそっか、来るまでの時間に展望台に移動したわけだ。
確かに10分程度もあれば、車両で行くことは可能だ。
自転車であった場合は音が聞こえなかったのもある程度の説明がつく。
展望台ね。
「イノリ。負傷者に頼むのは本当に申し訳ないんだが。あの展望台に向けて杭を準備してくれないか?
なるべく大き目で」
「いっつ。…分かった」
痛がりながらも目の前の地面に発射装置を出し、杭をセットする。
周りの建物に隠されていると信じて杭にピアノ線を巻き付けて【固定】する。
さて、空想上の産物であるパイルバンカーではあるが、推定でもこの杭は一体どのくらいの速さで飛んでいくのだろうか。
電磁力で動いているのは大体予想がつくが、だとすると既存の物ではレールガンでも想像しよう。
確か、米軍が開発している物でM7とかそこら辺だった気がする。
人間がその速度に耐えれるかどうか、それもむき出しで。
不可能だろうな。
「だから、体を【固定】してみる」
その場から動かないように【固定】するのではなく、体がこの形で存在しているという事象を【固定】する。
さらに、足元の数少ない砂利や小石を集めて目の前にまき、防御壁になってくれるように杭と連結するように【固定】する。
さて、これだけやって死ぬようだったらそれまでのことだな。
死ぬ気はないが、手を尽くして死ぬなら運命様皮肉なもんだな、と笑い飛ばして死を受け入れる。
それだけのことだ。
「イノリはここに置いていく。念のためにゴミ袋とか使って隠していくけど、死んだらごめんな」
「っつ、問題、ない。我慢、する」
「いい子だな。んじゃ、飛ばしてくれ」
キサラギにも同じような対処をしているが、まあこの少女はその他にも身体強化の類をかけているようなので、俺よりも心配する必要はないだろう。
ゴミ袋に埋まりながらもイノリがその右手の人差し指を銃のトリガーを引くようにすると、轟音とともに杭が放たれる。
別のピアノ線でしがみついているが、血が噴き出さないものの食い込んでかなり痛い。
事象の【固定】なんて初めてやったことではあるが、これなら成功していると言っても問題ないだろう。
とは言っても、所詮は自分の体に触れて【固定】するイメージをしただけなのだが。
一瞬にして展望台につくと、そこには双眼鏡で住宅街の方向を望む人影が1つ。
速さについてこられず、振り向きかているところへ【固定】していたピアノ線を解除。
「はあぁ!」
「グッ、おえ」
女王の横殴り一閃。
続いてどこから現れたかレイピアを抜き放ち、九つの斬撃。
「九つの刺!」
よくもまあ厨二臭い技名を言えるなと思っていたが、どうやら発動条件が発生にあるらしく、それに勇んでいるのも併せて主人公さながらの叫びになっているそうだ。
双眼鏡の男は九か所から血を少し流して蹲っている。
痛覚はそのまんまなんだから相当痛いだろう。
かわいそうだ。
「おとなしく投降してください。心臓の女王の二つ名にかけて、ここで殺さないと約束します」
「わ、分かった。分かったから。どうか、殺さないでくれ!」
あら以外、足元に用意していた水で反撃してくるかと思ったけど、精神的に弱いようで女王様の一撃(正確には9撃)で心を折られたようだ。
まあ、もとから接近戦に持ち込まれてしまえば分が悪いのを理解しているのかもしれない。
とは言っても、既に水を【固定】しているから動かせないだろうけど。
その後、女王は色々と個人情報を聞き取り、ポイントを献上させ放置することにしたらしい。
目指すべきは一位をとり治験を終わらせることのようなので問題はないだろうが、一位を目指している間にこいつが何人殺すかは考えていないんだろうな。
「じゃあ、戻りましょうか」
「ん?ああ、ちょっと待ってくれ。こいつ大学で見たことあるから聞きたいことがある」
「……まあ、分かりました。すぐに戻ってくださいね」
「へーい」
展望台から飛び降りて駆け出したキサラギの姿はすぐに小さくなっていった。
あいつ一人でも十分に迅速な対応ができたのではないだろうか。
視線を双眼鏡の男に移すと、傷が痛むのかうなり声をあげるばかりだ。
「あー。初めまして。俺はイツキだ。翔前大に通ってる。あんたもだろ」
「う、ああ。フジモトだ。話せることは全部話したぞ」
「ああ。それに関しては問題ない。有益な情報はクソもなかったしな」
実際、キサラギは情報を聞けて満足しているようであったが、その中身は大した情報は一つもなかった。
そんなことよりも重要なことがある。
「俺はお前に恨みとかはないんだけどな。ライバルが減ってくれると嬉しいんだよね」
「は?それはど……」
突然喋れなくなったことに動揺し口を触ろうと男は手を伸ばすが触れない。
その前の空間に見えない壁があるのだ。
「冥途の土産ってわけでもないけど教えとくと、お前の口元と鼻の前にあった空気を固定した。窒息
死は如何せんスマートな方法じゃないが空気の【固定】しても、その空気は呼吸によって消費され
る可能性が一応考えられたから試したんだけど、杞憂だったみたいだな。んじゃーね」
手を振って別れを告げる。
男は助けを求めるかのようにこちらに這いより掴もうとしてくるが、正味俺はキサラギのような聖人君主にはなれないので蹴り飛ばす。
すると、後方の住宅街から爆発音が突如として聞こえる。
双眼鏡の男の持ち物であろう自転車に飛び乗りすぐに街へと降りて行った。
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「これは一体どういう状況で?」
「見りゃ分かんだろ。最悪の状況だよ」
どこから現れたのか、そこには全身から血を流している変異種。
その横で、後ろにいるイノリを守る形をとっているキサラギが立っていた。
地面は隕石が落ちてきたとでも言わんばかりに大穴が開いており、住宅も潰れるどころか消え去っている。
そして、二人の視線の先。
空中にそれはいた。
金の髪をたなびかせ、こちらを何も感情がない人形のような、しかして美しいの一言しかでない双眸で見下ろす女。
この規模の攻撃と外見的特徴から察せられるのは1人しかしらない。
否、イツキに措いてはその女の外見からすでに正体を知っていた。
怪物、アリス
「こりゃ、また、ビッグゲストの登場で、俺は泣きそうだよ」
「冗談を言っている場合ですか!」
「そうだぜ小僧。一位のあれは、もはや災害だ」
災害。
クレーターを軽々と作るような人物だ。
そう言い表すのは適切なのかもしれない。
さてさてさて。
どうにかして逃げ出したい気持ちが高まってくるが、逃げることはできない。
実力の問題ではない。
これがイツキにとって、またとないチャンスであり、約束であり、やらなければいけない義務を果たす機会であるのだ。
アリスが動く。
右手には懐中時計が握られており、それをゆっくりと開く。
目を開ければ近くに残っていた石塀にめり込んでいた。
突然襲ってきた激痛に悶え、喉元から込みあがってくる血を吐き出す。
見えなかったなんて範疇じゃない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
あばら骨は間違いなく逝っている。
足は折れていないから立ち上がることは可能だ。
両手両足を使って必死に立ち上がろうとする。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
視界は点滅を繰り返す。
漫画や小説の中でしか聞いたことはなかったが、あながち星が宙を回るような表現は間違っていないんだな。
相変わらず口からは血が出てくる。
それでも考えなければ、この状況をどうにかする方法を、変異種とキサラギはどうなった。
まだ立っているのか。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
自分に痛みという感覚があることが今は本当に腹立たしい。
子供のように頭の中で痛みを反芻し続けることが、これほどまでに思考の邪魔をしてくるとは。
視界の点滅が収まってきたころに顔をあげると、目の前には金髪の怪物が。
ここにいる、ということは、ほかの二人もあえなく撃沈したということだろうな。
この中で優先度が二番目に低いのは俺だ。
一番はイノリ。
「う、えぇ。ガチで、死ぬって、こ、グ、ウエェ」
胃の内容物まで逆流してきやがった。
目の前の怪物は静かにこちらを見ているが、何をしてくるか分からない以上、能力だけでも使わなければ。
体に触れてまずは【固定】
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
瞬きの後、今度は体が浮き上がっていた。
眼下に倒れている三人の人影が見える。
何が起きている。
死ぬ気で脳を働かせる場面はここだったようだ。
幸いと言っては何だが、アドレナリンかドーパミンのせいか、痛みをはねのけて思考できる。
気づけば攻撃を受けているということは、ありがちなのは時間の停止。
これであるとするならば攻撃を受ける前と受けた後の時間を見ればわかるが、それは不可能だ。
今のでスマホが壊れた可能性があるし、思考できても体が動かない。
時間系なら加速もありうるか?
そこで別の疑問が出現する。
いや待て。
だとしたらあのクレーターはどうする。
時間を停止させても、少女の力で変異種と女王を倒す、ましてや地形をここまで変えるほどの力はあるか?
それに登場時に宙に浮いて見下ろしていた件はどうする。
複数の能力があっても、その能力は一貫しているはずだ。
心臓の女王は「不思議の国のアリス」の赤の女王近辺の話が元になっている。
しかし、アリスは怪力を持つ少女でもないし、宙に浮かべる人間でもない。
二つ名から連想しようにも”怪物”の二文字で説明できない。
地面はドンドンと近づいてくる。
空を飛び、瞬きのうちに壁にめり込み、次は空中から真っ逆さま。
分からない。
理解できない。
何も掴めない。
まるで
「ワンダーランド」