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32再発


 幸せな夜。

 私は縁側の柱の陰にこっそり潜んで、静謐な空気を吸い込んだ。誰もいない。鬼もその他の獣も、今は物陰や森の中に散って、誰も屋敷からうかがえる場所にはいなかった。私一人きりが、こうして月を見上げている。


 ――月。


 黄色くて、丸く満ちている。

 初めて見た。

 私、ここにきて、満月、初めて見たよ。

 胸に暖かく期待が沸いた。


 きっと今夜、私の望みは叶う。


 誰も足音ひとつ立てず、息を潜めて、成り行きを見守っている。

 きっと、出歩くなと言った館さまさえも、どこかで見ているんじゃないだろうか。そんな想像をしてしまう。だってあまりに静かだもの。

 これから起きる普通じゃないことを、世界みんなで待ち受けているみたい。


 それはきっと私にとって、何にも代えがたいできごとなんだ。


 ――ねえ、待ちきれないよ。



 とんっ、と、それは唐突に私の身体を横から押した。その気配は彼に似て、けれど違うもの。ここにくるはずのないもの。いつもだったらびっくりして、声でも上げたかもしれない。けれど今の私は不思議なくらい落ち着いていた。もっと大きな興奮ごとを前にして、あらゆる動揺を取っておいてるのかも。

「ニキ」

私は肩に押し付けられる獣の鼻先を撫でた。

「ごめん、ハル」

 ニキは地べたにしゃがみ込み、それでも私より大きな体を折って、すがるように声を出した。

「みんながねているところ、あれはね、人をだますため。鬼がなまけていると、あざむくため。ゆだん、させる」

「うん」

「なかましかしらない。ハルはそれをしったら、もうかえせない。人のところにかえせない。ハルが、人をすきだったらごめん」

 でも、そういう約束、とニキははっきり私に伝えた。叱責を待つようにうなだれている横顔に、私は額を預けた。

 そうか、あのひなたぼっこ、回り道までして見せてくれたのは、獣の秘密を、私に明かすためか。


 それはこの仔が、私を手放したくないと思ってくれていたということだ。そういう嬉しい報せに、喜び以外の気持ちが湧かなかった。


「じゃあこれで、本当に、私は鬼の仲間になれたね」

 ニキが、すん、と鳴いて、私の首に鼻をすりつけた。親愛のしるし。そうしてから、すっと体を引いた。少し名残惜しそうに、けれど、すばやく。

 私も感じ取っていた。

 気配が、確かに里の入り口からまっすぐこちらへ踏み入るのを。

 それは土の上を引きずるように、重たく足を運びながら、決して痛みを顧みない無謀さでやってくる。自分自身を蹂躙するように、体を左右に揺らしながら、帰ってくる。


 おかしいと思った。理性は大きな違和感を叫んだけれど、でも心は、私の期待にあふれる胸は、些細なことと取り合わなかった。

 だって。


 だってほら、帰ってきた。

 私のところへ!


 私は縁側をおりた。履き物を引っかけるのももどかしく、裸足が乾いた土を踏む。獣が踏むのと同じように、そう思うと急に足の裏の痛みが愛しくなった。近くへ、もっと近くへ行きたくて、目前の距離が永遠のように思われて駆けた。

 私のもとへたどり着く前に、獣の足は止まった。音を立てて腰を地面に落とす。


 ――なんで。


 重たげにうずくまって立ち上がらない様子に、私も足を止めた。置いてけぼりの頭が追いつく。それで、ちゃんと見た。再会の感激に曇った眼が、大事なものを見落とさないように。それから一歩一歩、近づいた。今度は確実に、彼の姿を捉えながら。


 その身体が、傷ついていることを、きちんと知りながら。


 カラ、その名を口にする。小さく囁いた声は、獣の耳に届いただろうか。荒い息が、崩れ落ちたままの獣から地響きみたいに私の足元までも揺らすような錯覚。


 おかしいの。私。

 怪我をしてるのに、それでも、ここで会えたことが嬉しくて、息もとまりそう。


 私はふらふらと近寄った。毛並みはどす黒く固まり、地を削り取るその爪も同じ色をこびりつかせていた。血走った目をしている。


 だから、悪いのは明らかに私だった。

 そんな不安定な獣に、正面から手を伸ばしたから。


 切り裂く音がした。蛇の反射神経も、我を失う鬼には敵わない。そうわかって、私は胸の底でほっとする。鬼は蛇になんて負けない。すごく強いんだから。


 ばかだった。


 私にとっては少しだけ。森で枝に引っ掛けた程度で、深い傷じゃない。

 でもカラは、ギラつく目でこちらを睨んでいた優しい獣は、私のうめき声と、腕から滴る鮮血とをしっかり捉えて、その口で「ハル」と確かに私を、この私を呼んだ。



 繰り返すけど私は本当に間抜け、本当にばかで、そのことに全身で喜んで、カラの名を口にする。

 そしたら、獣は目を見開いて、ああと呻いて、あとずさる。そしたらもう、素早く身を翻して、門の外へと一瞬で消えた。

 私は呆然とする。

 そしてカラの残していった傷を見つめ、痛みを思い出した。だけど、そんなことより、カラ、カラは、なんでいっちゃったの。

「嫌われた……?」

 涙目になる。

「ばかだ」

 聞き覚えのある声。気づくと黒い獣が、すぐそこで私をなじる。

 この姿、

「クノマリさん……」

 この獣も久しぶりだ。元気でしたか? って聞いたら、苛々も露わに尻尾で地面をびたびた叩く。

「はやくさがせ」

「でも、私を嫌がってるんじゃ」

「ばかめ」

 ああ、なんだかごめんなさい。

 でも、嫌われてないのかな。嫌われてるなら、仲直りしたい。


「探さなきゃ」

 傷だらけだった。獣は丈夫だけど、怪我をした分は相応に辛いに決まってる。

 嫌われたのかなって思うともう、半ベソだけど、それは置いといても、あのままのカラを放っておくべきじゃない。

 私は門に向かって駆け出した。



 息があがるのもわからないくらい、必死に追いかけた。急ぐあまりにやぶに顔から突っ込んで、ぬかるむ土に足を取られて転んで、坂をずり落ちて、もう、カラにつけられた傷なんてたくさんある中のひとつだった。それでもひとつだけ、熱を持つのはカラの爪に浅く抉られたものだけ。傷に寄り添うように、私はカラのにおいを探した。古い血と、新しい血と、腐った肉と、泥と、火薬と、引きちぎられた草のにおい。

 どんなに遠くても、私にはにおいが残ってる。絶対に見つけるんだ。


 そしてとうとう、月下に見出した。

 煌々と雲の晴れた明るい夜。その光から逃げきれずに、力を失って崖下にうずくまる巨体。私の尋ね人。お腹の底から震えて、堪えきれずに名前を叫んだ。


「カラ!!」


 掴んでいた枝を離して、岩場を駆け下りる。傾斜も構わず突進したので、頭から転がり落ちた。それでもなんとか同じ高さまでたどり着くと、顔をあげた私に獣が身じろぐ。

びっくりさせたね。ごめんね。

 全身痛いけど、いいんだ。もう、何が何でも、離したくないんだ。カラは私よりずっと早くて、道を選んだらおいていかれるから、こんな無様なことになったけど。

 蛇で良かったと、今一番、そう思うかもしれない。


 這うように体を起こして、カラ、と呼んだ。

 あ、引かれてる? 大丈夫? 

 私、しつこい?


「ただいま」

 それでも言葉は口をつく。

 彼の「お帰りなさい」が聞きたくて、私はついつい先走る。

 でもカラは、なんで、と小さく吠えた。


 私は近づいた。獣はもう逃げずに、かすれた声で繰り返す。

 改めて見れば、毛並みが悪い。瞳は充血して、歯茎は赤黒く腫れ、流涎がある。なのにそれでも優しい声色は変わらない。カラ、呼びかけると、耳を震わせた。そのしぐさに胸が熱くなる。

「触りたい。触っていい?」

 獣は目を見張る。

 答えを聞かずに私はかさかさした鼻に触れる。熱を持っている。傷から菌が入ったのかもしれない。

「カラ、ごめんね」

 無理させた。追いかけて、辛くさせた。

「痛いよね。私が嫌なら、姿見せないようにする。だから、里に帰って、手当てしよう」

 ほんとはそんなの嫌だ。離れたくない。一秒だってもう、離したくない。

「ハル」

 だけどしかたない。こんなにヘトヘトでも避けたくなるほど私が我慢できないなら、嫌われてるなら、私は隅っこでなるべくこっそりしてるから。

 だから――


「やっぱり、やだ」

「ハル」

「やだ、そばにいたいよ」

 ボロボロボロボロ、我慢できずに、両手で顔を覆った。こんな、泣けばどうにかなるみたいなのは嫌だ。何も変わってない。成長してない。呆れられる。もっと嫌われる。

「どこにも行きたくない。離れたくない」


 でも。


「嫌われ、たく、ない」


 ちがう、ちがう。


 好きになってほしいんだ。


 空気の動きを感じる。カラ、またどこかいっちゃうんだろうか。止めなきゃ。でも、なんだかもう、体の力が抜けそうなんだ。

 でもなんとかしなくちゃ、とはなをすすった時だった。


 ふっと生ぬるい風を、腕に感じる。なに?と手をおろして、私は腰を抜かしそうになった。

 カラが、私の傷に鼻を近づけている。


「ごめんな。いたかったな」

「い、っ痛くない! 全然痛くいたっ!」


 な、舐められた。ぺろんって、舐められた。


「おれ、こわくて、にげた。ごめんな」

「怖い?」

「……おまえのこと、くってしまうとおもった」

それならそれでもいいよ、って言いかけた私を、カラはじとっとした目で睨んだ。

「だめだ」

「えっと」

「だめだ」

 こくりとうなずかされる。カラは不機嫌そうに尻尾をバタバタ動かした。怪我してるんだから、って止めようとしたら、顔をツーンとよそへ向けられる。

「ハルは、ばかだ」

「よく、言われる…」

「おれ、ハルをまもってやれない」

「カラ」


 何が言いたいの?


 カラは私の目をじっと見て、何かに怯えるように耳を小さく震わせた。

「おれから、おまえをまもれない」

「……カラが、私を食べちゃうの?」

 カラは黙り込む。さっきの言葉、心からそういう心配をしてるってこと?


 私はごくりと唾をのむ。カラに異変があったのは確かだ。でも、なにがあったって。


 獣の額の柔らかな毛並みを撫でる。一緒にその心もなでくりなでくり、ほぐしてあげられたらいいのにね。

「私ね、大丈夫なんだ。あのね、人じゃなくて、蛇っていう、人形なの。だから、そんなに脆くないんだよ」

 カラの視線が揺れて、そうか、とぽつり。そうだよ、と私。

「私のこと、やっぱり嫌い?」

「好きだ」

 間髪入れず返る言葉に、私は腰を抜かした。獣はぎょっとして、砂利の上にしゃがみこむ私をのぞきこむ。涙にまみれた私の顔を、おずおず舐める生ぬるい舌。血なまぐさかった。口の中を怪我したのか、それとも人を襲ったのか、どっちでもいい。どうでもいい。 今こうしてそばで、私を慰めようとする存在が嬉しい。


 私はしばらくそのまま、柔らかい舌に撫でられていた。涙が治まって、ぼおっとする頭で、こちらを気遣うように、それに少し怯えるように見つめる、しゅっとのびた鼻の付け根にあるまん丸の瞳を見つめた。


 ああ、そうだ。


「食べられちゃってもいいんだ」


 獣の眼が見開いた。


「あなたにだったら、いい」


 ううん、どうせなら、私を。

 私だけを。


 目の前の顔が、硬直している。


 おかしなことを言っている自覚はあるのだ。

 口は爛れ、舐められれば生臭くて、腐った何かを体中張りつけて、爪は裂けて。

 そんな姿を、いくら月下とはいえ、こんなに美しく思う。

 彼に食べられる何かを、それが地の草でも木の実でも、兎でも、鳥でも、羨ましく思う。

 人であれば、ああ、もう、絶対に妬ましい。


「カラ、大好き」


 ほんとうにばかだ、と獣。

 それがこんなに嬉しいのだから、全くもう。

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